Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

それは、ただの日付変更

2022年01月04日 21時06分37秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

まずは。

明けまして。今年も、どうぞよろしくお願い致します。

2022年です。

なんだか、ついこの間まで201X年に生きていたので

"22"の並びに違和感しかありません。

念の為『201X年に生きていたので』を解説しますが

2020年、そして2021年は

確かにその一年を日数的には過ごしましたが

とても17,520時間も過ごした気分じゃないんです。

私の時は2019年末くらい

どれほど譲歩しても2020年2月くらいで止まっている気分なんです。

と、いった意図の発言です。

こちらも念の為に述べますが

私は、タイムスリップをした時空トラベラーなんかではありませんから。

今年も変わらず長い前置きはこれくらいにして。

三ヶ日も終わり、今日から日常が戻りつつある訳ですが

年末年始はいかがお過ごしだったでしょうか。

年末の私は、夢の国へ旅立っていない時には公共放送を観て

民放でイケメン達を眺めながら年を越します。

ケツをシバく某番組は録画勢。

といっても、今年は無くなりましたから

録画予約はCDTVのみ。

今年は現実世界パターン。

異質な紅白を観つつ、年越し待機って感じでした。

そばも食べて、様々な気持ち悪さを抱えつつ音楽を楽しみ

23時45分からはイケメンパラダイス。

あっという間の15分。

今までの人生の中で最も呆気ない年越しでした。

隣にいた人は寝てましたしね。

爆睡ですよ、爆睡。

あ、恋人とかじゃないですよ。知ってるか。

素直ではなくなってしまった私は

いつからか、新年に

「明けましておめでとうございます」と口にする事が無くなりました。

冒頭から察して下さい。

ただ、縁や付き合い、致し方なく、嫌がらせ。

そんな様々な理由で送る年賀状には、印刷でしっかりと

「おめでとうございます」と書いてあります。

そこまでの皮肉れではありません。

別に年を越す事は珍しくないんです。

気付かぬありがたみである事は否定しませんが

果たしてそれが「ありがたい」のか

我が信じる唯一の神のみぞ知るところです。

毎年、口にして

もしくは口にしない事で

その持論を展開してきましたが

今年に関しては、わざわざ言うまでもなく。

それは、ただの日付変更。

31日から1日に変わったに過ぎない話。

そういった感じでした。

そもそも「新年」なんてものは人間が勝手に定義したものに過ぎませんから。

乗るところは乗る、反るところは反る。

それで良い気がします。

改めまして。

明けまして。

2022年も駄文を紡ぐであろう私

そして本ブログ「Konemyのベル」を

どうぞ、よろしくお願い致します。

              それでは bye! Konemy

2021-2022

2021年12月31日 06時27分25秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

本日、大晦日。

と、いうことで

全くもって珍しくない

一年の振り返りとでも言いましょうか

やっていきましょう。

昨年に引き続き

何かと気にしなければならない事の多かった一年だったと思います。

人間の素晴らしいところなのか

マスクをして、手指消毒を行う。

それが当たり前となり

日常によって置換されたように思えます。

情勢は現在も油断出来ません。

これからどうなるかも分かりません。

それでも人は前に進んでいくのでしょう。

社会的な話はここまでとして。

ブログとしては、空白も多い一年だったと思います。

連日投稿した時期もあれば

ひと月以上投稿しなかった期間もあり。

毎月投稿は出来ていませんでしたが

平均投稿数でいえば月一は達成してました。

まぁ、必要最小限といったところでしょうか。

開設からは本日で1,921日。

長くやってきました。

2021年のうちに総閲覧2万PV達成を地味に目標としていましたが

この記事を書いている現在、総閲覧数は20,335PVです。

駄文の数々をたくさん読んでいただき、感謝です。

投稿していない期間にも読んでいただけているみたいなので、嬉しいですね。

今後の投稿頻度は未定ですが、まったりと。

最後に、個人的な話を少し。

今年は今までの人生の中で最も「勝負の年」といえたと思います。

今までの人生を振り返り、そして未来へと進んでいく接続の年。

その中で痛感したのが、自らの人生の中身の無さでした。

形はしっかりした箱で、どの面を見ても立派です。

しかし、開いてみると中身はスッカスカ。

形だけなんです。

まるで、あの笑った顔した流行りの箱みたい。

木が茂っていそうな社名の箱。

それが悪い事だとは思いません。

現実ですから、受け入れるべきです。

しかし、これからもその箱を空虚なものにしておく必要はありません。

口だけかも知れません。

ここにただ書くだけかも知れません。

本音はどうか分かりません。

それでも、それでも。

口にする事が、書く事が、建前が重要なんです。

2022年は、私の空虚な箱にモノを少しでも詰められる一年にしたいです。

一年の最後の日に、この拙い文章を読んでくれた方々の

残り少ない2021年が良い一日となりますように。

そして、新たに迎える2022年が皆様にとって良き一年でありますように。

              それでは bye! Konemy


達成感と喪失感

2021年12月13日 09時58分03秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

先日、開設1,900日記念記事以来の記事な訳で

全編「Konemyのベル」らしい記事は久しぶりな訳ですが

ここ最近の冒頭は、朝投稿という訳でもないのに

「おはようございます」に揃えている気がします。

これは業界的なアレを意識してといった訳ではなく

私が長を務めていた集団の定例挨拶に沿ったものです。

怪しい集団じゃないですよ、健全な組織です。

少なくとも、私が長を務めていた頃までは。

ですが、本日は「お早」くは無いにしろ

充分な時間かと。

改めまして。

おはようございます。

Konemyです。

二年弱。

やる事はあってもやらなければならない事が少ない時期が続きました。

加えて、やった方が良い事もたくさんありました。

性格的に、やらなければならない事はやります。

でも、やる事はあまり

やるべき事は全然やりません。

無気力です。

ですから、私にとってこの二年弱は

まさに「消失」したようなものです。

そんな中、ここ一ヶ月は「約二万字の壁」という名の

「やらなければいけない事」に追われていました。

いつもこのブログの記事たちは何字くらいなのか

知りませんし、知ろうともしませんが

物語を書くとき

手書きならば大体、一時間に700字

ワープロならば大体、一時間に2,000から3,000字。

一日で短編を書き上げると大体、5,000から1万字の作品が出来上がります。

そう考えると

「二万字」は「壁」というほどでもないように感じますが

そんな事はありませんでした。

約一ヶ月、連日PCと睨めっこしていましたね。

日常の枠内の非日常でした。

全て書き終えた時、感じたものは何だったのでしょうか。

何かを終えた時、人は二種類の感情を感じると大別出来るかと。

「達成感」と「喪失感」

辞書曰く

達成感とは

『あることを成し遂げたことによって得られる満足感。』(『デジタル大辞泉』)

喪失感とは

『大切なものを失ったときの、空虚な気持ち。』(『デジタル大辞泉』)

私が感じたのは、前者よりも後者でした。

大切なもの、では無いにしろ

やらなければならない事は私に「生」を与えてくれていた気がして。

「終えた」というより「失った」の方が表現として相応しい。

それは嫌いだった同じ組の生徒とクラス替えで変わってしまう寂しさのような

現状に不満はあるが、失うとそれはそれで辛い。

人って、根本に「マゾ」的な要素

ストレスが必要なんだって。

              それでは bye! Konemy









悠久と記された。

2021年12月10日 20時12分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

久方ぶりの投稿になるかと。

ここ最近、若干忙しくて。

ブログを書いている場合ではなかった訳でもないですが

わざわざ書く必要がないほど文章を書いていたというか。

書くこと自体は溜まってますが

溜まってる事は書くようなことではないので

わざわざ今は書きません。

今日、なぜ久しぶりに書こうかと思い立ったのかと言いますと

本ブログの節目なんです。

開設から1,900日。

およそ5.2年。

長いです。

幾度となく語ってきている事ではありますが

最近のように全然投稿しない日々が続いていた事もあれば

毎週、もしくは毎日投稿している期間もありました。

マイペースで、大した意味もなく運営されている本ブログですが

結構、長く続いていますね。

さて、少し話は変わり

最近、中国人の方が書いた日本語を読む機会がありました。

非常に良く出来た文章で読みにくさはあまりありませんでした。

ただ、やはり若干の違和感はありました。

そんな中に「悠久」という言葉がありました。

悠久は「果てしなく続いていること」を指す訳ですが

その方は100年を「悠久」と表現していました。

一般的ではないにしろ、100年だったら人間が生きられる年数です。

果てしないとは言えないでしょう。

でも「長さ」って感覚であり、主観です。

人によって変わってくるもの。

1,900日。

5.2年。

数字だけで見れば大した長さではありません。

悠久の時の中では一瞬の瞬き。

しかしながら

本ブログを始めた頃はこんなにも長く続けるとは思っていませんでした。

そう考えれば、1,900日ですら「悠久」なんて表現しても良いのかもしれません。

              それでは bye! Konemy



夜の際

2021年10月28日 18時48分13秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

今日、17時過ぎに外へ出る用がありまして。

いつの間にか昼が短くなっており

外は街灯が灯る暗さでした。

そんな中。

ふと、西を見ると。

そこには霊峰が佇んでいるのですが

今日は雲に包まれておりました。

私が目を引かれたのはその霊峰ではありません。

霊峰を包む雲の周りの輝き。

赤と言いましょうか。

いや、白と言いましょうか。

そこにあったのは昼と夜の狭間。

夜の際(きわ)でした。

私は昔から「白む空」が大好きでした。

日の出直前から日の出直後。

山に囲まれた場所では

空だけが明るくなり、太陽の光はまだ見えない。

高校時代の冬。

学校に行くのに日が顔を出す前に家を出ていました。

駅へ向かう道中。

目の前に広がる空は綺麗でした。

あの際まで駆けてゆきたい。

「夜に駆ける」ならぬ

「昼夜に駆ける」ですなぁ。

まぁ、前提がめちゃくちゃですから

意味が分かりませんけど。

ふと抱いた感情。

              それでは bye! Konemy

『ってか』その通りなんですよ

2021年10月27日 09時10分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

本日は10月27日。

天気は曇り。

この後、晴れてくるらしいですが定かではありません。

いつもとだいぶ違った雰囲気の書き出しですが

特にこれといった理由はありません。

本題へ。

私って恋愛経験が無いんです。

厳密に言うと

小学生の時に告白された事があって

「なに?ませちゃって」的な感覚で

何も返事をしなかったら、好きでも無い人と勝手に付き合っていることになり

メールや手紙での文通を何度かした後

付き合っても無いのにフラれた経験はあります。

当時は小学生が携帯電話を持っている事が当たり前ではなかったので

持っている同士は放課後に結構メールでやりとりしていた印象です。

「一友人」としての距離感なら仲良くできる程度の人でしたので

私としては友人と文通していた感覚だったのですが

あの人は何で私の事が好きになったんでしょうね。

今じゃ全く連絡が取れないので分かりません。

人を好きになる要素って何でしょう。

評判?性格?仕草?

私の場合、ルックスだと思います。

「見た目が9割」なんて言葉を聞いた事がありますが

初対面で得られる情報は多くが視覚的情報です。

後ろから声をかけられて好きになったパターンなど

例外がある事は認めます。

見た目の印象があって、そして次のステップに進みます。

次のステップで先ほど述べたような

評判・性格・仕草によって好きになっていくのではないでしょうか。

こんな私でも恋愛ソングを聴きます。

ってか

音楽を数多聴こうとして恋愛ソングを聴かないなんて難しい。

ってか

私が好きな「アイドル」というものは恋愛ソングばかり歌っている気がします。

ってか

恋愛・恋って文学(和歌)の基本ですから。

と、まぁ匂わせはこの程度にして。

私はルックスから好きになるタイプですから

他の誰かでも良いんでしょうね。

もちろん

同じものを見て感動出来るような同じ価値観ある人なら嬉しいですよ。

でも、他の誰かには絶対無い魅力なんてなかなかありませんよ。

魅力って抽象的なものですから、抽象的な言葉で表されがちですし。

ってか

はっきり持論を言いましょうか。

「運命の人」なんて幻想です。

是非、可愛いから好きになったと言われても喜んで欲しいものです。

あなたを否定するものではなく肯定するものだから。

そして、もっと知りたいというサインだから。

              それでは bye! Konemy

No One

2021年10月22日 18時16分39秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

最近はどうだか分かりませんが

私が高校生だった頃

ひと昔まではいかないくらい前の話です。

国語の現代文

「哲学」に分類される評論文における流行りが

「自分とは何か」でした。

そもそも流行りなんてあるのか。

受験生当時

立場上、というのか

進路の関係で、と言いましょうか

現代文は結構な数こなしていました。

その過程の中で思った事です。

どこかのお偉いさんだったり

名物塾講師が

「いつ哲学の〇〇が流行るか。今でしょ!」

なんて言っていた訳ではありません。

あくまで私の経験則。

高校生に「自分とは何か」なんて問うなんて

大人はなかなかなことしてくれますよね。

ただでさえ思春期。

それも今後を大きく左右する試験において。

まぁ、そこに関して批判する気は更々ありませんが。

アイデンティティーは難しい問題です。

私はAIと人間の違いを聞かれた時

「唯一性」と答えますが

実際問題、自分と全く違う人しか世界にはいないのか

と、問われた時

私は「いない」と答えられない。

実際、私と全く同じ人はいませんが

隣人と私

何が違うのか。

何が優れていて、何が劣っているのか。

性別、年齢、性格。

違うものはたくさんあります。

でも、それが違うからどう優れているのか。

優しいから優れている。

もっと優しい人はいる。

文章が書けるから優れている。

所詮、素人の駄文です。

単に唯一性の議論だけするならば簡単ですが

「唯一性」が孕むオクの意味を考えてしまうと

私は黙らざるを得なくなります。

「自分って一体何なんだろう」

そんな事を考えている時に

私はふと、学芸会が好きだった事を思い出しました。

最後にやったのは小学六年生。

演技は上手い方でした。

幼稚園の頃から主役を堂々張ったり

名脇役、名悪役を務めるなど

結構活躍していたと思います。

中学生になって

都合により周りに全く知り合いがいない状況下で

私は自分を殺しました。

日常を演技しながら過ごしたのです。

大層な事を言っていますが

恐らく、大人の皆さんがいつもやっている事です。

本音を押し殺し、建前を並べ、表面上で過ごす。

12歳にして私はそれを覚えたのです。

6年後。

自分と演技の境目が分からなくなりました。

多くの大人がなっている現象だと思いますが。

現在。

何かを演じて過ごさなきゃいけない日常を送っていません。

そして、ふと思ったんです。

あぁ、他人を演じるのって楽しいことなんだなぁ。

勢いのまま書き進め

全くもってまとまりに欠ける文章

まさに駄文だったと思います。

普段から読み返すことはあまりしないですが

たまに読み返したりもします。

今回は読み返してしまうと投稿を止めそうなので

絶対に読み返さないよう。

勢いのままお届けします。

              それでは bye! Konemy

天井からの雨、襲来

2021年10月19日 22時07分53秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

寒い。

ここ数日を一言で表してみました。

基本、毎日自室で過ごしている私ですが

部屋には気温を測る温度計付き置き時計が二つあります。

一つは普段座っている机に。

一つは眠るベットの枕元。

二週間ほど前。

十月が始まった頃

表示されていた気温は30℃を超えていました。

酷い日には32℃を記録した日もあります。

十月で、です。

異常です。

季節が一気に変わったのは先週辺りからでしょうか。

今週に入ると感覚的には冬の始まり。

季節的にはとっくに冬でしたが。

私の自室の気温だけ見れば

8月が続いて、9月・10月を忘れて11月がやって来た様な感じです。

寒さと乾燥の厳しい季節がやって来ましたね。

そんな今日。

お風呂に入ると頭に冷たさを感じました。

原因は想像出来ましたが、一応直接確認する事に。

予想通り。

見上げた先には

雫。

私が浴室に出入りする扉が閉まる衝撃で天井が揺れ

そして私の頭に天井からの雨が襲来した訳です。

この季節もやって来ましか。

まだ始まったばかりですが

総合的に考えてみると好きな季節ではないですね。

唯一、服装の面は好きですかね。

まだ始まったばかりですから

この季節の服装の話は気が向いた時にいずれ。

              それでは bye! Konemy



二月の通過者-合格の後日談-

2021年10月17日 17時50分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

今回は心を削って述べさせて戴きます。

先日から日本テレビ2021年10月期土曜ドラマで

『二月の勝者-絶対合格の教室-』が始まりました。

原作は2021年10月時点で累計発行部数は200万部を突破している

『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて

2018年1号から連載されている高瀬志帆さんによる漫画。

東京・吉祥寺の中学受験塾、桜花ゼミナール吉祥寺校を舞台にした

中学受験の実態をリアルに描く物語。

述べる前に私自身の話を挟みます。

この前提がないと目線が明確になりませんので。

知られている話か分かりませんが

私自身、中学受験経験者です。

出身は首都圏にある私学の中高一貫校。

この記事を書く為に母校の偏差値を調べ直しましたが

私の卒業後に驚くべき降下をしていました。

笑えません。

私が受験した当時、中学入試大手の一つ

四谷大塚が公開している偏差値的には

80%合格偏差値が50前半でした。

受験生の中でド平均という

可もなく不可もなくといったところ。

一応、入学した生徒の多くは一流校の滑り止め入学といった

扱い的には二流中学でした。

超一流中学に通う多くの人同様に小学4年生から超高額の塾費用をかけた子供から

独学勉強で入ってきた猛者までいました。

まぁ、その辺の経歴はお互い詮索しない

暗黙のルールが存在していたように思います。

私はどちらでもない

中学入試を扱ってはいるが大手ではない個別塾に通ってました。

周りは小・中・高校の落ちこぼれ。

授業についていけず、わざわざ追加で金を払って勉強している人達が多かった。

記憶にある限り

塾内に同じ中学受験をするライバル・仲間は一人もいませんでした。

まぁ、同じ小学校に開成中学・栄光学園等々に行った人がいましたが。

なので、『二月の勝者-絶対合格の教室-』で扱っている

レベル別クラス分け・講義形式の塾は良く分かりません。

ようやく本題です。

今回は中学受験のお話を。

多少、私の経験上の持論を混ぜながら

中学受験経験者が語る「中学受験」を読んでもらえれば、と。

本題に本格的に入る前に余談を。

私は受験勉強中に小説を書いていました。

軽くです、軽く。

それを中学生当時、形にしました。

主人公は中学入試に挑戦し、落ちて、堕ちて。

描いたのは『堕落した少年』

ネットに投稿してあります。

是非、お探し下さいませ。

さて、本格的に本題入りです。

中学受験の合格に必要なものとして

劇中にこんな言葉があります。

『父親の経済力と母親の狂気』

ここで経験者は語ります。

正に!

と。

思い出して下さい、小学生の自分を。

「自分」なんてありましたか。

サッカー選手になりたい。
ケーキ屋さんになりたい。

自分の将来についてそんな事を語るのが小学生というものです。

一部の例外を除いて中学受験は親のエゴだと私は思っています。

もっと言えば、母親のエゴですかね。

これはイメージ、あくまでも個人的感想です。

そのエゴの為に子どもをどうやって操るか。

どうやって合格出来るだけの勉強をさせるか。

「狂気」です。

親という立場を最大限に利用した精神攻撃。

中学受験の勉強を「生きる為の唯一の手段」とさせる。

良い成績を取る事を「生き続ける免罪符」とさせる。

いずれ合格する事を「自己の存在価値」とさせる。

「狂気」です。

そして、この狂気を現実にするのが「金」

勉強には金が掛かるんです。

小学4年生からなら塾代だけで約300万円。

小学6年生からでも約100万円。

子どもの勉学に投資する事になります。

こんな金を掛けずとも

中学校は義務教育ですから、はした金で通えます。

更には子どものケアの為に

オプションとして節目節目で

豪華な食事。

息抜きの旅行。

高めのご褒美。

日々の生活がやっとの家庭にはなかなか実現不可能な話。

ここで「経済力」が必要になってきます。

学校行事を最高学年として楽しみつつ

日常では周りの遊びの勧誘を断り

毎日、朝早くから夜遅くまで勉強。

それも学校で勉強している内容とは全く違う内容。

学校も家もストレスの対象。

子どもが耐えられればそれで良し。

しかし、耐えられなければ投資資金が水の泡。

家庭崩壊。将来暗転。堕落人生。

ここまで、中学入試の負の面ばかり述べて参りましたが

それは私が「二月の勝者」などではなく

「二月の通過者」だからです。

先に述べた通り、私の出身は首都圏にある偏差値50程度の

私学の中高一貫校。

高校の偏差値は外部入学者が57程度ですから

内部進学者は60超えてましたかね。

たったその程度です。

地元の中学に通い、地元一番の高校に合格出来れば

偏差値60以上の高校に入学出来ます。

高校入試は団体戦です。

同級生が仲間であり、ライバル。

学校の先生も制度も味方。

親も友も学校も

まるで敵だらけの中学入試とは違います。

高校入試は経験がないのでなんとも言えませんが

大学入試を基準にして考えれば

中学入試なんかよりもずっと負担が少なく受かりやすい。

「二月の勝者」とはそれすなわち。

一流・超一流の入試を制した者。

偏差値70代の超一流中学

とまでは言わないものの

少なくとも偏差値60を超える一流中学に行かなければ

正直、学力面での中学入試のメリットはないと私は考えます。

ただ、ここまで負の面をダラダラ述べておいてアレですが

私は中学受験した事を後悔していませんし

むしろ受験させてくれた両親に感謝しています。

まぁ、受験生当時の感情は置いておいて。

最近、「親ガチャ」なんて言葉が流行していますが

私が当てたのは星6・HRの親だと思います。

そんな言葉をもじって。

私の両親が回した「子ガチャ」

課金したにも関わらず、残念ながら星4・HNが出てしまったようです。

申し訳ない。

最後に。

果たして、これを読むかどうか分かりませんが

中学受験生を抱えている親。

そして、子どもに中学受験させようと考えている親の方へ。

味方でいてあげて下さい。

あなた方の愛は正直伝わらないかも知れません。

私も当時は両親が敵に思えていました。

「あなたの為だから」

「受験」という戦争の地に立つ子どもは

親からのその言葉は脅しの様にしか思えなくなってしまいます。

ですから、是非とも子どもに少しだけ責任を投げて欲しい。

「あなたの人生だから」と。

『正直、学力面での中学入試のメリットはない』と先ほど述べましたが

小学生の頃から模試で、入試で戦う経験。

合格の果てに味わう地元以外の学校での経験。

不合格の後に味わう挫折の経験。

その経験が良く働くか、悪く働くか分かりません。

でも、決断に多少でも自己の判断があれば

少なからずその決断による経験は良い方向に働くと信じています。

子どもに少し責任を投げて

「あなたの人生だから」と。

いつも以上に長くなりました。

最後までお付き合いくださりありがとうございました。

              それでは bye! Konemy

好きの狂気

2021年10月17日 07時30分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

珍しく適切な挨拶かと。

休日の朝から長々と前書き書くのも面倒なので本題入ります。

「好き」の恐ろしさを感じまして。

私は井の中の蛙ですが

「バカ」のレッテルを貼られた事はありません。

それはあらゆる環境の中で「中の上」程度の立ち位置にはいたからです。

自らの偏差値を答えろと問われれば

50と

自信を持ってお答えします。

もちろん、苦手な事も得意な事もありますから

自分の全てが平均的だとは思いませんが

総合的に見れば平均的という判断です。

平均的な「中」という階層にいると

上もいれば下もいます。

私ごときが上下つけるのは傲慢ですが

学校という組織が便利に数値化してくれてますから

それを参考にしましょう。

私よりも低い数値をつけられていた人がSNSで

まるで私が分からない言語を載せている。

造語ではありません。若者言葉でもありません。

海を渡れば恐らくしっかりと伝わる「한글」を。

敢えて「文化」という

高位な言葉を使って全体を指し示します。

某国の文化が恐らく好きなのでしょう。

彼・彼女は決して大学の第二言語としてその言語を学んだわけではないでしょう。

そもそも彼・彼女は大卒どころか高卒でもない、中卒ですから。

もちろん、中学の授業にもありませんでしたよ、多分。

独学でしょう。

好きなものを理解する為に自ら学んだのです。

振り返ってみると

私にとって「好き」とは日常の中で平凡に安全に生き抜く為の

手段だったように思います。

周りが好きなものを好きになって話に加わる。

勉強にしても趣味にしても。

そんな「仮初めの好き」の塊が本物の「好き」に勝てるはずがない。

世の中の「学がない」「バカ」などと

不名誉なレッテルを貼られる人の多くは

広く浅い知識のようなものを求められる世の中のあらゆる事象に対しては

好意・興味を持てなかった人たちなのではないでしょうか。

形だけ繕って、中途半端に出来てしまう私のような者の方が

よっぽど愚か者なのでしょう。

「好き」というものは恐ろしい。

狂気すら感じる。

              それでは bye! Konemy

ログインボーナス

2021年10月16日 17時34分50秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

先週の話になります。

ここ五年の中で最も体調を崩しました。

熱は無く、風邪の症状も無く。

ただただ頭が痛い。

座っている事すら出来ぬほど。

頭痛自体は日常茶飯事。

めまいだってしょっちゅう。

珍しいことでも何でもありませんでした。

幸い、体調を崩した日とその翌日午前中は

用事というほどのものは無かったので

ずっと寝転がっていました。

寝てはいません。

寝られなかったので。

時間にして丸一日。

飲まず食わずでずっと寝転がっていました。

その間に夜を挟みましたので数時間寝たと思います。

万全とは言えずとも日常ほどに戻った体調で用事を済ませ

また寝転がると悪化すると判断した私は

その後は座って安静に過ごしました。

気がついたのは翌朝。

私には数年前から毎日欠かさずログインしている

ソーシャルゲームがいくつかあります。

全てのログインを忘れている。

大した問題ではありません。

たかが一日ログインしなかったくらい。

しかし、ソーシャルゲームは毎日ログインさせる仕掛けがあるんですね。

ログインボーナス。

連続ログインボーナスなんてものも。

私はそのカウントされていく数字に縛られていたのでしょう。

日々の中に時間を増やそうと

これを機に全てのソーシャルゲームのログインをやめました。

一週間以上経ちます。

今までソーシャルゲームに費やしていた時間はというと

他の無駄な時間に置換されたのみ。

無意味だと感じました。

堕落した人間はペンがあっても勉学に向かわぬよう

遊具がなくても時間を浪費するのです。

それが分かっただけでも良しとしましょう。

              それでは bye! Konemy

みんな"と"戦っている

2021年09月28日 19時25分36秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

ここ一年半ほど。

大半の日

早起きするような用事はありませんが

同居人に合わせた生活スタイルでいます。

具体的に言うと

平日は用もないのに朝六時半には起床しています。

朝食もいつも決まった時間に食べています。

すると観るテレビ番組で取り上げているジャンルが同じものになります。

もちろんCMも。

毎朝、こんなCMを目にします。

『私はいつだって みんなと戦っている』

この言葉の正しい意味が理解出来ないほど

日本語理解能力が低い訳ではありません。

一応、物書きの端くれですから。

ただ、この一文のみを提示された時

"with"ではなく"VS"で考えてしまうのが私なんです。

四面楚歌。

私はいつだってみんなと戦っている。

味方なんていない。

別に他人を全く信じていない訳ではありません。

ただ、自分すら信じられないと言うのに

他人を信用するなんて正気の沙汰じゃない。

信じるところは信じて

疑うべくは疑う。

全てを疑った後に

信じるべき事は信じる。

いつだって繰り返すその過程は

紛れもなく「みんなと戦っている」のです。

朝からネガティブすぎるでしょう。

寝起きでまともに頭が働いているとは言えない状況で思う事です。

性根の腐敗具合が感じ取れますね。

              それでは bye! Konemy

湯水

2021年09月24日 23時41分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

私の日常は書こうと思う事で溢れています。

同時に

書けるような物事が存在しない日々です。

太陽すら一瞥しない生活に物語があってたまるものですか。

これはあくまで持論です。

「今日何したか」を語れば

一端の引きこもり生活日記が出来上がります。

今、この場で一部記して見せましょうか。

朝5時半手前。
目が覚めたが二度寝を試みる。

6時35分。
二度寝を諦めて居間へ向かい、朝食を済ませる。

7時ごろから7時ごろまで
タブレット・PC・スマホ・本と睨めっこ。

間に適宜トイレ・昼食を挟む。

睨んでいた内容は大して覚えていない。

夜7時。
金カレー。

そういえばテレビで海自特集をしていた。

見ずに音楽番組に耳を傾けつつ

スマホを見たり。

風呂に入った後は再びPC・スマホと向かい合う。

なんて無駄な一日だったのだろうか。

物語なんかあってたまるか。

でも。

残念な事に物語はあるんです。

私の日常は書こうと思う事で溢れているんです。

しかし、それらは殆ど書かれることなく

時が過ぎていくが如く

記憶の彼方は消えていく。

再び姿を表すことはあるかもしれないが

もはや、それはかつて「書こうと思った事」ではなかろう。

今日は

「私の日々は書こうと思う事で溢れている」と

いう事を書こうと思った訳です。

忘れられているということは

記憶の片隅にも残しておく価値のない事柄という事だろう。

書こうと思う事が溢れていようと

数少ないが質が勝る

書いている途中で記憶が飛んだ。

私は一体、何を書こうとしていたのだろうね。

どうやら思い出せない。

              それでは bye! Konemy

日常が始まる

2021年09月17日 20時17分44秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

九月も半ば。

一年半以上経っても状況が改善するどころか

悪化していく。

「日常」という言葉は

「非日常」という比較する対象があって初めて意識されるもの。

モノによると思いますが

どれほどの長さ続けば、それは「日常」に置換されるのでしょうか。

日本人に分かりやすい例として浮かんだのが地震だったので

適切さは置いておいて、地震を例に話します。

「日常」は揺れなんて感じない。

これが日常。

でも「非日常」である地震発生時は揺れている。

これは非日常。

では、何かしらの理由で常に地震が起こっていて

常に揺れている状況になったとしよう。

人はいつからこれを「地震」と呼ばなくなるのか。

考えて、例えとしたが適当には思えない。

もっと適切そうな例えが思い浮かんだ。

昨日は晴れていた。

雲が少し空に浮かぶ晴天だったらしい。

今日は曇っていた。

太陽の光は拝めなかったようだ。

明日からは雨になる。

少し雨風が強くなるそうだ。

晴天。曇天。雨天。

これは日常だ。

今年の夏は多かった。

十年に一度とも言われる「特別警報」が発令される雨。

たかが雨ごときで死者が出る。

これは非日常だ。

十年に一度の雨が一年に何度起これば

人はこの大雨を「雨」と呼ぶようになるだろうか。

昔の異常は今の通常。

「無常」なんて言葉が千年以上前から現在に伝わっているなんて

恐ろしいと私は思います。

約一年半。

私はかつての「非日常」的な生活をしてきました。

明日から私が所属する小さな社会が再び動き出します。

動き出すからといって私の生活で変わる事はほとんど変わりません。

かつて「非日常」とされていた今までの生活と。

明日から日常が始まります。

              それでは bye! Konemy


最後の恋文

2021年09月10日 22時25分17秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

私は電車に乗ると大抵、本を読んで過ごします。

スマホを眺めている人が多いですが

私の手には活字媒体。

時代が怖いですね。

今日読んだ作品は恋愛小説。

日本で最も美しく恋愛を描くとされる

岩井俊二さんの作品。

近年、映画化されて話題になった一作です。

作家の主人公が一人称視点で語る形。

私は恋愛経験があるとは言えぬほど

子どものママゴト程度のものしか経験がないので

一人称視点で語られる恋愛はどうにも受け入れ難いものがあります。

特に恋文なんてもらった事はありますが

書いた事はないので。

私の話は今回、どうでも良い。

小説を書いていく中で主人公に

元恋敵が言うセリフが心に残っています。

ニュアンス的には

文章で人間の人生全てを描ける訳が無い。

そんな事を言っていました。

私の作家の端くれとして

文章にどこまで出来るかという課題は考えさせられます。

確かに、他人の一生を物語に書き記すなんて不可能です。

自らの人生の総括程度が関の山でしょう。

それすらも難しいでしょうが。

ただ、先立った他人の人生は描けないとしても

残された人たちの一歩となるものは描ける。

物語の本筋からズレた話ですが

そんな事を考えました。

私は主人公が愛した相手に

生前贈った小説は読んでいません。

しかし、彼が届けた最後の恋文はとても素敵なものでした。

そして、先立つ彼女が残された者となる子どもたちに残した

メッセージも。

              それでは bye! Konemy