Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

さよなら、呪われた月。

2019年08月31日 23時46分36秒 | 日記
おはようございます。

8(八)といえば

なかなか縁起の良い数字だと思われる。

数記号は左右対称

美しさの塊。

漢字は末広がり。

演技が良い。

しかし、日本において

葉月はあまり幸せな月では無いように感じる。

「小さな男の子」と「太った男」の襲来。

鷹の巣に招かれた飛行機。

響き渡った"神"の声。

歓喜する隣国。

私の誕生も悲劇に加えようか。

それは冗談として……。

八月の日本は追悼と謝罪を繰り返す。

縁起の良さは欠片もない。

ある創作作品の中で

「オーガスト」の名を冠する者は

忌み子とされ

呪われているとされた。

その創作作品は日本で誕生したものである。

知らず知らずの内に

日本人の心に刻み込まれていたのだろう。

そんな月が終わります。

ツクヨミ様との出会いを楽しみにしながら。

それでは bye! Konemy

城への進入は壁を通って。

2019年08月29日 19時30分00秒 | 日記
おはようございます。

昨日は雨だったという事で

大変涼しげな1日ではありましたが

本日は太陽が出ていないくせに暑い。

私の過ごす環境は

北側・北と西に窓

という、夏場は悪くない立地なんですが。

ただ、夕方西日が差すと部屋の気温が上がるかな

といった感じです。

故に空調設備(?)は最新型タワー扇風機のみ。

クーラーなんてものは知りません。

我が城にとってエアコンとはタワー扇風機である。

近年、異常気象の関係で

クーラーは贅沢品などではない!

などと訳の分からん事をほざく

謎の集団がありますが

クーラーは贅沢品以外の何物でもありませんよ?

だって自然風と扇風機の風で充分生きていけますもん。

クーラーを「必要最低限の生活」に必要なものだと言われてしまうと

私の生活は「必要最低限の生活」以下になりますね(笑)

さて、話を戻して。

先ほども述べましたが

本日曇天。

太陽は残念ながら差し込みませんでしたね。

そんな本日の夜の七時半現在

気温34度。湿度51%。

快適で過ごしやすいですね(棒)

まぁ……熱帯夜なんて言葉で表すのが失礼なくらいの気温ですが

充分快適に過ごせております。

そんな話とは関係なく

何故か部屋よりも廊下が涼しい。

風通しなどによる構造的問題でしょうか。

我が城の扉に築かれる熱の壁。

それほど明確な気温差。

私は毎度この壁を越えなければ

中に入れない。

不可視の壁に遮られる気分はいかに。

ええ、最悪ですよ。

              それでは bye! Konemy



相対と調和の美しさ

2019年08月26日 22時33分28秒 | 日記
おはようございます。

ちょうど一年前くらい。

私は身近な人の多くに言われました。

「笑うようになったね。」

これは現在の友人はもちろんの事

以前からの友人や

感情が芽生える前の私を知る人たちからも

言われた言葉である。

現在の友人からしてみれば

一年前の私はATフィールド全開の

近寄りがたい存在だったものが

長時間の付き合いにより認識が改まった。

そう考えれば不思議ない。

だが、私の幼少期を知る人が

今の私に対して

「笑うようになったね。」

と言うのは一体どういう事だ。

アルバムを見返してみてみれば

笑わないどころか笑顔しかなかった。

まぁ、小5くらいから笑わなくなっていたが。

それはあくまでもアルバム上の話では。

そう思っていた私が馬鹿なのだ。

アルバム上、笑顔がなかった時代。

普段全く笑わない訳ではなかっただろうが

笑顔の少なかった時代。

この頃の私が述べた言葉。

「笑顔は醜い。」

ただの厨ニ発言だと思っていたが

今現在、私自身の笑顔が増えた事でようやく分かった。

不思議と昔から鏡を避ける癖がある。

実のところ、自分の顔はよく覚えていない。

久方ぶりに直近の写真を見た。

笑顔溢れる写真だ。

普遍的な考えは

笑顔の写真=幸せの象徴

なのだろう。

しかし、その写真を見て私が思った事。

あぁ、笑顔は醜い。

かつての私は他の誰でもなく自分に言っていたのだ。

本物の笑顔というものは

左右対称なんです。

心からの笑いは

半分でも美しいのです。

今の私の笑顔が作り笑顔だとは認めたくありませんが

偽心に満ちた笑顔を繰り返した私に

もう心からの笑顔は出来ないのであろう。

最期のシンメトリースマイルは

小学校低学年の頃だった。

さよなら、かわいかった笑顔。

それで最近何故そんなにも

他人付き合いが出来るようになったのか

なんとなく分かる気がする。

私の周りの笑顔は

左右対称。美しいのです。

是非笑ってください。

それでは bye! Konemy

それは無駄な事。

2019年08月25日 20時09分24秒 | 日記
おはようございます。

何もやる気が出ない。

何も抱えていない時に思う分には

無駄な事をせずに済む為、悪くないかもしれない。

ただ、そんな事は稀なのではないか。

「人生の夏休み」を満喫していると雖も

日々は忙しい。

その「人生の夏休み」の夏休みとて

何も抱えていないなんて口が裂けても言えない。

どうせバイトに明け暮れ、推し事に忙しく、本分なんて二の次だと思われているのでしょう。

お言葉ですが

私は無職です。

主な収入源は生きる事と本分。

抱える推し事は特になく

主な出費は収入源を支える為に行う食事代。

改めて見ると

堂々と言えるようなことではありませんね。

まぁ、世間様に思われているような者ではないと理解して頂ければ。

話を戻して

やらなければならない事がある時に

やらなければならない事を片付けるのは当たり前ですね。

しかし、抱えるものを処理していると思うのです。

何を生き急いでいるのか、と。

実際問題、そんな理屈は通りません。

それでも思ってしまうのです。

生まれた時が人としての「入口」でしょう。

ならば死ぬ時が「出口」だ。

誰もが出口に向かって日々進む。

これが進んでいるのか、向こうが寄ってくるのか。

見方が違うだけで

現在地と出口の距離が近づいている事実は変わらんので

ここでは議論しないこととする。

人は出口の場所を知らない。

もしかしたら目の前にあるかもしれない。

既に足元かもしれない。

私の持論にこう告げたものがいる。

「出口まで近道がしたいならすぐそこにあるじゃないか。一歩踏み出せば。」

徒歩で帰宅する途中だった。

目の前は県道。

車は切れ間なく。

友人が本当に言いたい事はなんとなく伝わったか。

もう昔の話だが

黄色い線の誘惑と戦っていた時期を私は否定しない。

否定したくない。

何故ならあの頃の過去が今を作っているから。

また話が逸れた。

語るとどんどん行方不明になる。

そろそろ結論へ向かいたい。

やらなければならない事を片付ける時

何故か生き急いでいると感じてしまうという事は

やらなければならない事を片付ける時に

全く違う無駄な事を始めれば

生き急いでいる感覚はなくなるのでは。

無駄は決して悪い事じゃない。

それでは bye! Konemy


「こども」とは。

2019年08月24日 18時22分34秒 | 日記
おはようございます。

私事ですが、先日無事に成人いたしまして

何かやらかすと実名報道されるようになってしまいました。

お祝いの言葉と同時にそんな忠告を受けた話はさておき

「もう子供じゃないんだから。」

なんて言葉を両親や近所の人、学校の先生などの

身近な大人に言われた事はありませんか?

一度もないという方。

立派です。

一度でも経験のある方。

一般的だと思います、気にせずに。

それでも親に

「もう子供じゃないんだから。」

なんて言われてしまうと何だか悲しくありませんか?

だいぶ前。

祖母を亡くした際に憔悴した親を見て思った覚えがあります。

幾つになっても子供なんだ、と。

そう言えば日本語で子供と書くとき

三通りの書き方が主流として存在しますね。

「子供」・「子ども」・「こども」

文字の”義”の観点から「子供」を考えると

「子供」とは複数であるように感じます。

現在、単数だろうが複数だろうが「子供」とされますが

言われ当時は違ったのではないだろうか。

そんな文字の”義”の観点で考えた結果

「子ども」表記が増えた。

これで大勢を指す”義”が消えた。

しかし、ここで語るのは「こども」である。

果たして「こども」とは。

”義”を有する「子供」・「子ども」は実子のニュアンスが強く感じる。

対して。

”音”と”形”のみ有する「こども」は決して実子のみを指す言葉ではないように思う。

年下や幼稚な人物が「こども」とされるように感じる。

実際はそんな事ないのだろう。

何故なら

「子供」・「子ども」・「こども」は

全て同じ”音”を持つものだから。

いや。

そう考えるのも早計か。

簡単な実験をしよう。

「あめ」だ。「はし」を使って「こうしょう」しよう。

あなたにはどんな風景が浮かんでいますか?

「雨だ。橋を使って交渉しよう。」
「飴だ。箸を使って高笑しよう。」
「天だ。端を使って高昇しよう。」

無茶な感じだろうか。

その点は数秒で考えた故に許して欲しい。

言いたかったのは同音異義語の存在である。

口語では意味の違いが分からないこともある。

という事だ。

いつの間にか「子供」の話から外れてしまったが

こちらもそろそろ時間切れ。

タイトル放棄の禁忌を犯そう。

いずれまた。

              それでは bye! Konemy





他人付き合い

2019年08月23日 18時46分38秒 | 日記
おはようございます。

突然ですが

悩みはありますか?

「ない!」と堂々と答えられたらどれだけ良いでしょうか。

大なり小なり悩みとは存在するものかと。

諸説ありますが、人間の死因は多くが突き詰めればストレスです。

生物的には150年ほど生きられるのが人間という生物らしい。

ソースは我が記憶。

つまり根拠はないに等しいが話は続ける。

『人間のストレスは人間によって発生する』

ならば他人と全く付き合わなければ長生き出来ると言うことか。

否。

これもソースは我が記憶だが(以下略)

生まれてから全く他人と関わらない人間は一年生きられないという。

仮に生存可能な栄養供給がされていたとて。

人は他人なしに生きられないのだ。

孤独を好む者はいるが孤独に耐えられる者はいない。

私も孤独を好むそんな一人。

私にとって、人間関係は損得勘定で行なわれているものなのだ。

ここ数日間、他人二十数人と24×α時間生活していた。

私は他人が苦手だ。

どちらかといえば

強いて言えば年上の方が得意だ。

つまり、年下は苦手の極みであった。

だが、これからの付き合いが長いのは年下なのだ。

どちらと付き合えば得か。

状況次第だが

今の状況下では年下なのだろう。

苦手は克服する為のもの。

そんな励ましの声をもらったことがある。

小・中・高に後悔した人間関係に関しては

努力すると私は決めた。

「努力は必ず報われる」

あまり好きな言葉ではないが、分からんこともない。

必ずではない。

努力すればどうにかなるものではないが

しなければ起こることが起こる。

それが努力の意味であるのではないだろうか。

結果どうなのだろうか。

元の性格は治るものじゃない。

それでも「人付き合いが苦手」と信じてもられなくなる程度にはなれたのかも知れない。

別れ際、涙しそうになり、もっと話したいなどと思うくらいまでになった事だし。

嬉しいですね。

それでは bye! Konemy

迷走する元先駆者

2019年08月22日 20時01分27秒 | 日記
おはようございます。

最近、日本の報道をを騒がせている某国。

『みんな頭おかしいんじゃない』

などと一部ではイメージ付けされてしまっている訳だが

そんな事は思ってはならない。

現在、我々の暮らすこの国があるのは

その某国人たちのおかげどもいえるからだ。

根本として

彼らと我らに「人間」としての違いはあまりないのではないか。

まあ、そんな事は無意味でしかないだろうが。

私はここ数日、世間から乖離していた。

スマートフォンでニュースを眺める努力をしたとて

世間から乖離していたと感じてしまうのだから

普段の生活はいかに。

おそらく大して変わらな

そんな中で飛び込んできたニュース。

まさかするとは。

頭がついていけません。

果たして損するのはどなたなのか。

答えは極東から見て更に東に位置する

世界の憲兵たちなのだろう。

北と南は融和するのか。

もし合わさるとしたら

それは南の滅亡に同等と化し

北の、社会主義側の勝利なのだろう。

「社会主義」

この考えは生まれるのが早すぎた。

若しくは遅すぎた。

「すべての人間」が「すべての人間」にとっての「手段」ではない世界において

社会主義は正義だ。

断言出来る。

しかし

今の世は残念ながら

「すべての人間」が「すべての人間」にとっての「手段」ではない世界なんだ。

若しくは

秩序などない世界においても社会主義は正義だ。

断言出来る。

我々の元先駆者は

一体どうしたいというのだ。

凡人たる私には度し難い

高度な次元のやり取りなのだろう。

それでは bye! Konemy

諦めの境地

2019年08月18日 07時16分35秒 | 日記
おはようございます。

葉月も半ば。

未だ暑さ消えず。

ただ、だいぶ酷暑にも慣れてきて

苦しみは軽減したのではないでしょうか?

まだ慣れていない人は

贅沢な人ですね。

あなたみたいな人が一人でも減れば

懸念されている超酷暑の未来が

回避出来るかもしれませんね。

可能性の話です、お気になさらず。

最近の話題で言いますと

隣人問題がありますね。

ただでさえ特にこの時期はピリピリしてるのに。

ついに隣人の人々は

「手を取り、あなたの政権を批判しましょう!あなた方は悪くない。」

などという始末。

もうどうしようもない。

因みに現政権の支持率って幾つだか知ってます?

話題のNHKによると49パーセントですって。

補足で不支持はというと31パーセントです。

無回答が20パーセントですね。

と、なると事実上の支持率は70パーセント近いですね。

無投票・欠席・無回答は委任です。

他の支持が不支持を上回っているのですから

委任の結果は支持です。

そもそも支持率云々以前に

隣人問題において一部の国民は除き

我が国の国民は「生ぬるい」といった意見であり

不満を持っている人は少ないのではないかと思う。

「政治にスーパースターはいない・求めてはならない」

カリスマ性を欠いた凡人どもが

それでも世の中を回すために考えたものが民主主義だ。

その事をこの国の国民は若干ながらも理解して

良い意味で諦めていると感じる。

              それでは bye! Konemy

祈”理”

2019年08月10日 19時09分56秒 | 日記
おはようございます。

私たち人間は何がないと生きていけないんですかね。

他人?

酸素?

水?

唯一これさえあれば生きていけるなんてものはないように感じます。

確かに単純に考えれば他人って邪魔ですが

いなければ生きていけません。

酸素も濃度によっては毒ですが

現状である大気中に20パーセントほどは

なくてはなりません。

水さえあれば七日間生きていけると言われるほど

水は必須ですが、水だけでは生きていけません。

そんな生きる上で必要不可欠なものの一つに

「食事」というものがあるでしょう。

諸説ある三大欲求の中にも

食事を求めることである食欲が

必ずと言って良いほど含まれています。

かつてはこの食事というもの

獲れたそのまま食していたようですが

今ではあまり行われないと思います。

せいぜい、いちご狩りや野山に咲く果実を食す機会ぐらいではないでしょうか。

正確な時期は分かりませんが、人類は農業を始める前から

「調理」というものを行なっていました。

有名どころを挙げれば切る、煮る、焼く、蒸す……etc

当たり前のように行うことですね。

先日、どこかでこんなニュースを耳にしました。

確か某大国での話です。

詳細省いて主だけ伝えると

生きたままのドジョウを食べることを強制した

というものです。

有り得ないとおっしゃいますか?

正直私も野蛮だな、とは思った次第ですが

踊り食いなんてものを日本人は当たり前にやりますから

よっぽど野蛮です。

それを棚に上げて批判するのは間違っている。

私は魚が嫌いなので踊り食いなんて野蛮な行為はしません

なんて言ってみたりします。

話を戻して

なぜドジョウを生きたまま食べることが物議を醸したのか。

一つに、ドジョウであったことが挙げられるでしょう。

これがシラスや桜エビなら話は真逆だったでしょう。

個人的には度し難いですがね。

そしてもう一点の理由に

調理というものがある意味

”祈り”の意味合いを有しているのではないかというものがあります。

ここで極めて極端な例を挙げましょう。

意味が被ってますが、それほどまでに極端な例です。

今、あなたの目の前に

紐で縛られ、よく焼かれた肉塊と

紐で縛られ、微動だにしない遺体と

紐で縛られ、必死に暴れる人間が

あると仮定します。

想像力の乏しい方は是非想像しながら。

より理想的な答えに近づけるかも知れません。

想像力豊かな方は決して想像する事なく。

吐き気を催しますから、是非字面だけで。

書いてるこちらも気分が悪いです……。

さて、話を再び元に。

とってもお腹が空いているあなたは

どれを食べますか?

尚、食べないという選択肢はありません。

食事は生きる上での必須事項の一つですから。

恐らく、「紐で縛られ、よく焼かれた肉塊」を食べるというものが普遍的答えでしょう。

冗談半分で、カニバリズムに興味がある方は他二つを選ぶかもですが

それでも「紐で縛られ、微動だにしない遺体」の方を選び

「紐で縛られ、必死に暴れる人間」を食べようとする猛者はいないと思います。

「は?私は生きた人間食べるしw」

といった言葉だけの下らぬ話はいりません。

割と真面目に話してます。

三つの違いは何か。

調理されているか、いないかです。

場合によっては人間を紐で結ぶ事すら調理だ

とも言えますが、今回は条件を揃えるための項目としてであり

調理には該当しないとします。

最後のものにははっきりと明記しましたが

これは三つとも人肉です。

なぜ人肉でなければならないのか。

踊り食いなんて事をする日本人に説明するには

決して食べないもので考えるしかないからです。

別に動物愛護を主張して、踊り食いの廃止を主張する気は一切ありません。

調理されていれば、命を食べる事に抵抗が薄まり

決して食べないものであっても、知らず知らず気楽に食せるのです。

そして、調理する事によって

命に対して”祈り”を捧げているのです。

もちろん、調理が食事の多彩さを求めて行われた事を否定しませんが

調理が人間のエゴのみで形成されたものだとは思いたくない。

一つの下らないニュースから思った私氏。

              それでは bye! Konemy