Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

わたぬき

2024年04月01日 23時10分13秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

新年度。

まず初めに、諸々に対して

「おめでとうございます」と

祝辞を述べておきます。

私にとっては特にいつもと変わらない何気ない一日の予定だったので

いつものように街を歩いていると

わんさか居ました

初々しいスーツ姿の若者。

駅やカフェ、街道など至る所に居りました。

親御さんといる方が多かったように見受けられましたが

今の時代は親御さん"も"参加されるのかしら。

何だか、成人してまで恥ずかしいと感じてしまうのですが

幾つになっても子どもは子どもなのでしょうか。

それでも、まぁ恥ずかしい、恥ずかしい。

時代の流れ?

あら、そうですか。

アップデート、くそ食らえです。

ここで表明してしまっている時点で微妙ですが

内面の自由でも主張しておきましょうか。

ついでに表現の自由も。

する場所、間違えていますが。

そんなどうでも良い事はさておき。

今の子達とは違えど、私にも同じような時代がありました。

「時代」などとカッコ良い言葉を使いましたが

その言葉から感じられるほど昔じゃありません。

そもそも、事この事柄の物差しで測るのならば

「昔」なんかじゃない。

「つい最近」の話です。

それでも年単位で過去ならば、充分懐かしむものなんです。

今日は、そんな当時によく聴いていた曲の話をしたいと存じます。

この曲は今でもよく聴き、たまに当時を思い出す訳ですが

やはり4月に聴くと顕著です。

当時の精神状態すら心の中に再現します。

一般的に、聴いて過去を思い出す

いわゆる「懐メロ」なんて呼べるものからは

酸いも甘いも「良き思い出」が連想されます。

さて。

私の心に再現される「当時の精神状態」とは一体どうなのでしょうね。

実際に、聴くなり歌詞を見るなりして推測してほしいものです。

ようやく本題です。

4年ほど前の曲になります。

シンガーソングライター・作詞家・作曲家のRIRIKOさん作詞作曲の一曲

『愛してたフリ、愛されてたフリ』

タイトル通り、恋愛ソングである。

歌詞も全面的に恋愛要素満載である。

だが、初めて聴いたあの当時から私は

一度たりとも「恋愛ソング」としてこの曲を聴いた事がない。

私にとって

「作品は作者の手を離れた瞬間、受け取り手のものになる」

そんな真骨頂の曲。

恋愛曲としてのこの曲は、誤用じゃない「蛙化現象」を歌っている。

「好き」だったのに「好き」になられたら「好き」でいられない

だから「愛してたフリ」をして

そして「愛されてたフリ」をする。

苦しい、苦しい恋愛ソングである。

果たして、この苦しみの恋愛ソングから思い出される精神状態とは如何に。

一番のサビ冒頭、四行。

刺さりまくりましたね。

恋愛ソングなのに、ね。

すごく良い曲なので、この曲をはじめ

これを読んだ人には、RIRIKOさんの作詞・作曲の曲や歌唱の曲を

ぜひ聴いていただきたいところです。

防寒着の綿を抜くこの時期。

それよりも前に夏日が来てしまって

なかなかの異常を感じている訳ですが

もう嫌になってしまいますね。

気候や環境

周りの異常さに心乱されて思い悩まぬよう

精神的にも、肉体的にも

痛む"わた"を労りましょう。

決して、抜かず抜かれぬように……

今回のタイトル回収は我ながら下手くそだな。

まぁ、いつも上手い訳じゃないが。

              それでは bye! Konemy

二0二0三年度

2024年03月31日 00時10分42秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

ふと、こちらの存在を思い出しまして。

と、いう言い方は不適切ですね。

私のスマートフォンには"gooblog"のアプリが入っていますから

こちらの存在は一日たりとも忘れていません。

などと、また適当でないテキトーな事を言っております。

お久しぶりです、一年以上振りになります。

端的にいえば、書かなくなったから書いていなかっただけ。

何があった訳でもなく、何もなかった訳でもない。

ただ。

私が2,000日以上も前に定めた指針

掲げている方針通りにするならば

それを目指すのならば

そのありふれた、つまらない

「何か」を駄文でも何でも書かねばならなかったのでしょう。

書き続けなければならなかったのでしょう。

でも、まぁ。

人間、そう合理的というのかちゃんとしてないものですよね。

私、真面目ってよくいわれるんですけどね。

あらあら、一体何の話だか。

さて。

一年以上振りになりますので

ここ一年を軽く振り返ろうかと。

先にも述べましたが

2023年度

私個人としては

「何があった訳でもなく、何もなかった訳でもない」そんな一年でした。

振り返ってみれば

年度始めは経験のない事だらけで

緊張と緊張で気が休まらなかった日々ではありましたし

年度半ばは慣れない土地で

ワクワク・ドキドキで山と谷のような日々ではありましたし

年度の後半は周りの環境が月一で変わる

安定とはとても言えぬ日々ではありましたし

でも。

ままある事です。

起きて、食べて、働いて、寝て

幸せとは呼ばない幸せな日々でした。

あぁ、色々あったな。

もう、全て失われてしまった日々ですが。

二度と手に入れることの出来ない日々ですが。

毎日同じような事を繰り返しているように感じていたのに

何故、それは二度と手に入れることの出来ない日々になってしまうのでしょうか。

ちょっと訳が分からない方向に話を飛ばしてしまっていますかね、私。

そうですね、学生時代を思い返してみてください。

大人にとって、良くも悪くも

普遍的に懐かしいものでしょ、学生時代って。

これ、偏見ですかね。

まぁ、前提なので理解・同意は不要です。

そういうものとして説明します。

毎日、同じところに登校して

同じメンバー、クラスメイトや学生たちと顔を合わせ

毎日、勉強する。

何だか、毎日おんなじような事してるなぁ……

なんて思っていませんでした?

ちゃんと考えれば違うんですよ。

毎日、ちゃんと違うんです。

当事者たちは同じことを繰り返ししているように感じられても

ちゃんと毎日が新しい、毎日違うんです。

これ、大人だとどうですかね。

大人になって働くってなると二分されるんですかね。

毎日が発見、新鮮。

毎日が作業、こなすだけ。

私、自分の日々を後者のように感じていたのかも知れません。

でも。

多分、いや恐らく

もとい。

絶対に「ちゃんと毎日が新しい、毎日違う」日々だったのです。

よく分からない事を書きながら、ちゃんと一つの正解を導き出していたんですね。

さてさて。

一年振りで駄文が更に酷いもの、いわば「愚文」になっていた事でしょう。

でも、読み直すことも推敲する事もしませんよ。

2,000日以上前から

その時々の思いを、考えを、日々を書いてきました。

ここは、そういうところ。

投稿がないのに見に来てくれていた人なのか

たまたま辿り着いた人たちだったのか

分かりませんが。

一方的に言わせて戴きましょう。

お待たせしました。

ここに確かに生きていますよ。

これ以上記される事のない

私の2023年度の一年へ

せめてもの餞として

崩して記させて戴きましょう、タイトルは

              それでは bye! Konemy

弥生を目の前に

2023年02月27日 21時33分10秒 | 日記
おはようございます。

謝罪から入ります。

長らくの沈黙
申し訳ありません。

別に忘れていた訳ではありません。

ただ、気が向かなかっただけで。
気を向けられなかっただけで。

溜めたものを解消する事すら出来なくなってしまっていて。

気がつけば2月が終わろうとしています。

まだ、一日ありますがね。

と、前置きすれば充分かな。

明けましておめでとうございます。

2023年もよろしくお願いいたします。

久々に書いてみると
元々駄文だったものが更にひどくなっている。

そもそも書ける事がない。

そんな時は気候の話。

最近もまだ寒いですね。

暦の上では春だというのに。
ただ、明日からは多少暖かくなるみたいで。

良い……んですかね。

春。
あると良いですね。

最近は
初夏→夏→晩夏→初冬→冬→晩冬→初夏……

って感じで。
四季をあまり感じられなくなって来ましたからね。

残念な事です。

              それでは bye! Konemy

あべのしんぞうをたべたい

2022年09月08日 11時31分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

衝撃的な事件から早二ヶ月。

俗にいう「安倍晋三銃撃事件」

最初に述べておきますと

これは

彼を敬うものでも

彼を蔑むものでも

そのどちらでもない事をご理解ください。

突然の事でした。

私が事件のことを知ったのは

テレビ番組でも

ネット記事でもありません。

人伝てに聞いたのです。

「安倍元首相が銃撃された」と。

事件の話を聞いてから

長いようで短かったような気がします。

ネット記事で訃報を目にしました。

一度たりともあった事はありません。

言ってみれば、私にとって全く関係のない方の訃報。

毎日のようにある事です。

特に心に留める必要も無いことかも知れません。

しかしながら、なんとも複雑な心境になったのです。

恐らく、それは「安倍氏が亡くなった」事に対するものではなく

「安倍氏の亡くなり方」に対するものだったのでは無いかと思います。

世の中には天寿を全うするであろうと思える人が何人かいます。

私にとって、安倍氏はその一人でした。

潰瘍性大腸炎を患っていたのは有名な話です。

この病のリスクの一つとして大腸癌がある。

大腸癌といえば日本人の死因上位として挙げられるだろう。

病と向き合いながら、日々を懸命に戦い

そして、患う病に関連したもの

もしくは全く違う病

または老衰か何かでその生を終えるのであろう。

などと勝手に思い込んでいたのだ。

私はここで「人の"命"の価値は一緒」なんて綺麗事をいうつもりはない。

むしろ、人の”命”の価値は異なっている。

当然だ。

人の"命"は他人が定めるところで価値に差がある。

だが、しかし。

誰しもの「1日の価値は一緒」なのだ。

この事件を通じて、何故か思い出した。

欠片として通ずるところを勝手に感じたのか。

飛躍している……と私だって思う。

だが、「話の飛ばし屋」たる私である。

住野よる 著作『君の膵臓をたべたい』

心に刻んだはずの言葉から、私は目を背けていたのかも知れない。

              それでは bye! Konemy


「多様性」が孕む矛盾

2022年08月27日 20時09分59秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

そういえば、もう8月も末。

学生時代、ある番組が始まると

夏休みの終わりを感じざるを得ませんでした。

そんなもの、今や関係ありませんが。

某番組についてですが

放送が近づいてくると

『偽善』だとか『感動ポルノ』だとか

毎年のように批判されています。

ただ、なんて的外れな事を……

などと思ってしまう私です。

恐らく、批判する人は

あの番組を「慈善事業」か何かと勘違いしている。

そんな訳あるはずがないのに。

何、綺麗さを求めているんですか。

あれは完全なる「ビジネス」です。

そこにちょこっとだけ

世の為、人の為になる要素を盛り込んでいるに過ぎない。

なんだか、どこかに怒られそうな事を書いている気もしますが

そんな前提で考えてみましょう。

ね。良い番組だと思いませんか。

思わないなら観なきゃ良い。

それだけの話です。なんて簡単な問題だ。

まぁ、そう単純に簡単に考えられないから問題って起こるんだと思いますけど。

そこはもう、論じません。

私は物事の善悪の判断の一つに

「続いている事」という判断基準を設けています。

善ならば、それは肯定され続いていく。

逆に悪ならば、それは否定され終わりを迎える。

もちろん、今の世の中にある、続いている全てが

「善」などというつもりはありません。

「悪」はこの世に溢れていますから。

でもまぁ、その「悪」だって誰かにとっての「善」であり

その誰かが続けている訳ですから。

"45"

私にとっては途方もない数字です。

それだけ続いているのですから、私個人は「善」と判断しますよ。

実は、ここまで前置きです。

明日の話になりますが

今年の番組内で作曲家のすぎやまこういち さんが扱われるそうです。

私が好きなゲーム『ドラゴンクエスト』シリーズの世界観の一翼を担う人。

どうやら、その人を番組内で扱う事が適当でない

そんな批判があるらしい。

詳しい事は批判記事を読んでもらいたいところだが

番組の根幹たる「多様性の尊重」に全く合わないという。

なるほど。

ここに、この国で語られる「多様性」の矛盾が感じられる。

「多様性」の厳密な意味は置いておいて

この国においての「多様性」は

「自らと違う考えを持つ人に対して理解する努力をして、その人を受け入れる」

と捉えられているように感じる。

だから「多様性を認めない人」なんて括りが出来上がる。

そして「多様性を認めない人」だって「多様性」だ

なんて矛盾。

違う。

私は、「多様性」とは「共存」であると考える。

すぎやま氏の生前の思想には問題があったのかも知れない。

だが、遺したものは確かに偉大であろう。

思想に問題があったから、と排斥しては

それこそ番組の趣旨に合わない。

某番組内で扱うだけの価値がある人は扱う。

それこそが「多様性の尊重」になるのではないか。

なんか、珍しく重たく

そして真面目で

なのにいい加減な感じで書いてしまった。

一人の戯言です、悪しからず。

              それでは bye! Konemy

勇者になれる世界

2022年08月27日 16時17分55秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

最近のマイブームはゲームです。

スマホでやってます。

ただ、いわゆるソシャゲではなく

移植のゲームです。

具体的にはドラクエ。

一応、Xを除く全てのナンバリングをプレーしましたが

ナンバーによって知識差があります。

クリアを一回しかした事がないものもあれば

何十回としたものまで。

終いには裏ボスをノー装備もしくは素手で倒す領域までいったものも。

詳しい人は上記だけでどの番号か分かるらしいです。

皆さんはどうですかね。

で、まぁ。

今やっているのはⅣ・Ⅴ・Ⅷです。

ほぼ同時に始めて同時に進行。

全て裏ボスまで行きましたが、全作でレベル上げの途中って感じです。

ちょっとⅣは最近やってない気がする……。

やっぱり、レベル上げがね。

さて。

今回お話しするのはⅤについて。

シリーズ屈指の名ストーリーで有名かと思いますが

詳しく知りたい方が自分で調べて下さい。

ストーリー既知前提で語ります。

私はこのⅤの世界を「勇者になれる世界」と称しています。

おい、ちょっと待て。

ドラクエシリーズは基本的に主人公が「勇者」

ならば、世界でも救世の「勇者」になれるではないか。

むしろ、Ⅴは主人公が「勇者」ではなく「勇者の父親」だから

勇者にはなれないではないか。

確かに。

その指摘はごもっとも。

しかしながら、私とドラクエⅤの出会いは幼少期。

プレイヤーとしての出会ったのではなく

プレーしているところを横から眺める形で出会った。

この話題を語ると思い出す事がある。

某「剣で世界を描く」世界を描いた物語の中で

黒幕に黒い主人公がこう告げる。

『他人のやってるRPGを傍から眺めるほどつまらないことはない』

最近では実況YouTuberなる存在の台頭で

共感を得られる事が減った考えだが

私は過去の経験からこの考えを全肯定する。

もちろん、実況YouTuberの動画は一度たりとも観たことがない。

私の場合は父がやっているドラクエⅤを傍から眺めていた。

自分はプレー出来ない。つまらない。

そんな中、作中で誕生する勇者「男の子」

父は彼に私の名前をつけてプレーしていたのだ。

ドラクエシリーズは基本的に主人公が「勇者」である。

だが、「勇者」になる為には

主人公に自らの名前をつけるという

少々イタいことをしなければならない。

もちろん、そのプレースタイルを否定しない。

素敵な楽しみ方だと思う。

誰に見せるものでなければどんな名前をつけても良いと思う。

『トンヌラ』とかでも(笑)

話を戻しまして。

つまり、他人の承認によって「勇者」になれる世界。

私にとって、それがドラゴンクエストⅤだった。

例え、その他人が父親だとしても。

私がRPGをプレーする時

大体、主人公名はニックネームに設定する。

だが、ドラクエⅤだけは父のプレースタイルを継承している。

残念ながら、私は子持ちじゃないのでね。

『父のプレースタイルを継承している』

私が世界を救う勇者なのです。

              それでは bye! Konemy

選択と運命、そして事実。

2022年08月21日 15時46分19秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

仮の話をしましょう。

ありふれた仮定の話です。

もし仮に、人の運命を見ることが出来たら。

そして、その運命を変えることが出来たら。

そもそも

「運命」を信じるか、信じないか

そこから話を始める必要があるかも知れません。

以前、このブログの中で書いていそうな事ですが

私は「運命論者」です。

ただし、厳密な意味でいうところの「運命論者」ではないと考えます。

「運命」とは「人の意志を超越した力」であり

人の幸、不幸を定める力であります。

人の意志を超越したものですから、人間の意志は介在する事が叶わない。

しかしながら、私が信ずる「運命」は違います。

「人の意志を超越した力」でありながら

それは「人間の選択」の上に成り立っている。

選択する意志、ここに運命があるのです。

何だか、書いているうちに私が「運命論者」なのか

怪しくなってきましたが。

ならば、なんと称するのが適切なのだろうか。

それほど考えてはいませんが

私のこれは

「事実信奉」とでもいいましょうか。

「選択」と「運命」

本来、相反するはずの二つによる結果、生じたもの。

「事実」です。

私はこの「事実」を信じているのでしょう。

訳のわからん話になってきましたが

あれ、前提がおかしくないか。

「運命」=「人の意志を超越した力」

これ、見ることも変えることも人間には不可能なのではないか。

仮の話をしているのだから、不可能なことだって仮定できる訳ですが。

さて。

ここまで読んだ人の中で

冒頭の仮定に違和感を覚えた人はどれほどいたでしょうか。

言葉とは難しいものです。

皆さん、「運命」はどういった用法をされていますでしょうか。

              それでは bye! Konemy

法律と法律違反

2022年08月07日 18時20分09秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

最近、街中を歩く機会が多いのですが

結構な頻度で出会うのが横断歩道。

しかも、信号付き。

以前まで生活していたところでは

それほど信号付きの横断歩道がなかったので

少し新鮮に感じるのですかね。

本題の為にわざと話を逸らしますが

この国は歩行者優先であり

公道において「歩行者」対「車両」の場合

前者の過失になる事はほとんどないように思います。

おかげで安全に街を歩く事ができるので、それはそれで良いのですが。

車を多く利用する人にとっては大問題。

私も不得手のくせに車で都内を走る機会が結構ありまして。

正直、歩行者が怖いです。

まぁ、運転している時間は僅かですから

恩恵の方が大きい訳ですが。

そんな頃ごろ。

昔、知人に問われた事を思い出しまして。

「なんで車が来てないのに渡らないの?」

そこは信号付き横断歩道。

交通量は多くない道でした。

確かに、車が走っていないなら安全に横断できます。

ただ、その問いに対する私の回答は以下。

「それは、法律違反だから」

急いでいるなどの何かしらの理由があれば

安全を確認して赤信号を渡るのはあり得る事だと思います。

だが、何も理由がないのにわざわざ法律を犯さなくても良いではありませんか。

これをいうと私の倫理観を恐れられそうですが

私にとって

「なぜ赤信号を渡らないのか」という問いは

「なぜ人を殺めないんか」という問いと同じようなものです。

愚問なんです。

書いたままなのでこれ以上、深くは語りません。

まぁ、安全を自ら確認したとしても

もしも、仮に迫る車を見逃していたら

死者と殺人者をつくる行為ですからね、信号無視って。

都内を歩く為には、是非とも私の為に信号は守ってほしいです(苦笑)

              それでは bye! Konemy

不協和音

2022年07月24日 18時58分20秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

7月も半ば過ぎ。

真夏顔負けの6月末を終えてから

少々涼しい日々が続いていたように思いますが

近頃は暑さを取り戻し

夏らしくなってきた感じでしょうか。

天候不順が続いて

梅雨以上に梅雨らしい週もありましたし。

実際の季節、気候は関係なく

夏クールのドラマが続々と始まっています。

そんな中、ドラマの予告でたまに耳にする言葉

「不協和音」

個人的には

始まってまだ二、三話とかで穏やかじゃないなぁ。

などと思いますが

その感想は私が「不協和音」を正しく認識した上でのものなのか。

予告で使われている「不協和音」は正しいものなのか。

そもそも「不協和音」とは何なのか。

色々と考えてしまう訳です。

Googleで「不協和音」と検索すると

かつて熱狂的なファンに”崇拝”されていたアイドルグループの一曲が

一番上に出てきます。

こちらも語れますが、今回は別件です。

YouTubeで「不協和音 音」と検索すると

正真正銘の「不協和音」が聴けます。

実際に聴いてみると、イメージとだいぶ違ったものなのではないかと思います。

「不協和音」とは。

音楽用語であり、その音は不調和で不安定な印象を与える。

しかし、巷の音楽に多用されており決して不快な音だけではない。

不調和で不安定な印象を与えることから

不調和な関係の例えとしても使われる。

予告で言っていた「不協和音」は後者のこと。

しかし、実際の不協和音は音の数が増えれば

不快度というのか不調和感は緩和されるように思います。

個人の感想です。

ならば、大人数における「不協和音」は

厳密な意味で捉えれば

むしろ良い事なのではないか

なんて考えた夜。

かつて存在したアイドルグループの曲の印象が強いと

そのグループの末路と

辿り着くまでの道のりに存在した曲を重ねてしまい

『アイドルグループに生じた「不協和音」』なんて言いたくなるのかも知れませんが

厳密な意味で捉えた「不協和音」が

もし生じていたなら、違った結末だったのかも知れない。

いずれにしても。

ドラマの前半話は平和に行きましょうぜ。

こんな世の中でドラマまで闇に走られたら

溜まったものじゃないでしょうに。

              それでは bye! Konemy

白濁色の液体

2022年07月17日 19時39分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

7月半ばにして

梅雨よりも梅雨らしい天気が続いている日々ですが

今日は色とりどりの天気であったように思います。

雨が雨戸を強く打つ音で目覚め

朝食後に歯を磨きながら青空を望み

郵便物片手に曇天の下、ポストまで歩く。

これが朝の三時間の出来事である。

日中は晴れたり曇ったりといった感じだったかと。

そんな事を

誰もが一度は

目にした事

口にした事がある液体を片手に書いている。

白濁色の液体。

一体、何を想像するだろうか。

知識豊富というか人生経験豊富だと

"良からぬ事"を考えてしまいそうな

含みのある言い方をしている私ですが

あらぬ方向に思考を向けている方は立ち止まりましょう。

ただの牛乳です。

電子レンジで温めましたが。

学生時代に人生一生分飲んだ気がするので

普段は飲まないのですが

料理で使う為に小さなパックで購入しました。

350mlくらいですかね。

しかし、料理に使ったのは

大匙1×2回

結構、余りました。

なので、人形カステラにかけたりして減らしたのですが

それでも残ってしまった。

開封が1週間前くらい。

そろそろ使い切らねば

その結果が、これ。

一応。念の為。

電子レンジで温めてみましたけど

大いに不安です。

口にするものって怖いですよね。

少し前のドラマで

「名前のない毒」の恐怖を語っていましたが

口にするもの全般に通ずるものがあるかと。

”分からない”まま口にする恐怖。

少し大袈裟ですかね。

この恐怖の結果は明日以降に分かるでしょう。

それと、『学生時代に人生一生分飲んだ』ってのも

少し大袈裟ですね。

小学生生活の六年間の給食だけですから。

中学からは弁当でしたので。

              それでは bye! Konemy

ながら。

2022年07月13日 21時37分38秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

22年度が始まって三ヶ月。

この7月から少し環境の変化がありまして。

その一つが日常的に車を運転するようになりました。

車の免許自体は5年以上前に取得していたので

青免許です。

まぁ、運転する事はずっと前から可能でした。

ただ、そもそも車を持っていないですし

車を必要としない場所で生活していたので

免許取得から数回運転したきり

随分とドライブから距離を置いていました。

最後の運転から3、4年。

今や、都内の狭い路地や

大都会の駅前を疾走するように。

先月までの自分では考えられない事です。

新宿駅前を車で通過した時には

どうかしてしまったのではないか、なんて思ったものです。

車から見たバスタ新宿は

思いの外小さかった。

横を時速6キロほどでしか通過した事がなかったというのに

時速40キロほどで通過したなら不思議な事じゃない。

そんな運転に不慣れな私にはあまり関係のない話ですが

「ながら運転」なるものが存在しているらしい。

主にスマホを使用しながらの運転の事で

ながら運転による事故件数が多いことから

近年、厳罰化されたという。

今は大丈夫かも知れないが

私も気をつけたいところである。

そんな私にとっての「ながら」は

どちらかというと「ながら歩き」である。

主にスマホを見ながらの歩行の事で

街中のあちらこちらで見かけられる。

「ながら運転」同様、大変危険な行為だが

マナー違反の域を出ず、ついついやってしまいがちな事である。

そういえば。

日本一有名な「ながら歩き」の名手

二宮金次郎氏も

学校の校庭の隅に座って本を読んでいるらしい。

何だか、本末転倒のような気もするが

時代に合わせた配慮なのだろう、仕方ない。

そんな働きながらなのか、働く合間なのかに

本を読んで勉強していた金次郎氏もビックリするであろう人物を

ついこの間、見かけた。

それは、用を足しながらの読書。

便所の壁と向かい合って、下半身の一部を露出しながらの読書。

これは、驚いた。

たまに便器の上などにスマホを置いて

用を足すときもスマホを眺めている人は見かける。

そんなに依存しているなんて、愚かだと鼻で笑いつつ

驚きはしない。

だが。だが。

ペーパーレス。電子書籍化。SNSの普及。

以前と比べ

紙の本を読む機会が減ってきている今の時代である。

そんな時代にそんな人を見かけるとは。

驚きである。

と同時に、感じたのは気持ち悪さである。

言葉を少し丸くした。

実際のところ

全くオブラートに包まず述べるならば

「キモっ」

何はともあれ

「ながら」は良くない。

おいおい。行き着く結論はそれかよ。

              それでは bye! Konemy

投じるマツリ

2022年07月09日 19時09分11秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

随分と長い間、投稿していなかったくせに

ここにきて連続投稿ですね。

私の性格は、熱しやすく冷めやすいのかも知れません。

「書く」という名の熱が上がっているうちは続くのかも。

今日は少し時事ネタを。

昨日。凄惨な事件があったばかりだというのに

街はマイクとスピーカーの音で騒がしかったように思います。

良いんだか、悪いんだか。

ここは、古来からの日本人的感覚でいましょうか。

よろし。

わろし。

今日が最終日な訳で、明日が本番なのですから。

そんな中、ある報道番組のSNSに投稿された

『選挙権を持たないU-17が考える政治家になったら何をしたい?』

といった動画を目にした。

端的な感想は

「愚かな」

というものでした。

もちろん、動画内の全員が全員って訳ではありませんが。

私自身、17歳当時

と、いうか高校生時代に自らに選挙権が無くて

耄碌した爺婆に選挙権がある事に怒りを感じていました。

恐らく、当時の自分を今の私が見れば同じ感想を抱くのかも知れない。

だが、その程度はマシだと断言出来る。

かつての私はそこまで愚かではなかった。

編集で選抜された意見なのだから、もっとマシな意見はなかったのだろうか。

それとも、今の若者の愚かさを知らしめる意図なのか。

やはり気になったのは「性別問題」だろうか。

動画の冒頭と最後に登場している。

男女の問題を語るときに多いのが

「男女平等」と「女性優遇」をごっちゃにして考えてしまう事である。

今の世の中に男尊女卑がある事は否定しない。

と同時に、男卑女尊が存在する事も肯定したい。

暗黙の男性優位もあれば

行き過ぎた女性優遇もある。

論点を絞って。

今回は選挙の話なので、女性議員の数で話をしましょうか。

男性議員の数が多いのは言わずもがな。

しかし

女性が議員になる事を禁止している訳でもなく。

女性が議員になれる数を制限している訳でもなく。

女性が選挙権を持っていない訳でもなく。

もちろん、現状に全く問題がないなんていう気はありませんが

「一票の格差」なんかよりよほど「平等」に思います。

それこそ

女性議員を何人・何パーセントにしなければいけないなんて制度を作ったら

ある意味、男性が議員になれる数を制限される訳ですから。

女性議員を増やす方法は単純明快。

女性が立候補して、女性が当選すれば良いんです。

まぁ、それが出来ないから難しいんですがね。

出来ない理由を探る必要はあるのかも知れません。

なんて考えているうちに、ちょっと面白い事を思いつきまして。

ずばり。選挙シュミレーション

実際の選挙候補者の政策・マニュフェストを参考にしながら

架空の候補者たちを用意。

うち二人を同姓同名、同政策など条件を整えて

唯一、性別だけ変える。

そして、大人数に投票アンケートをとる。

結果どうなるのかしら。

どこかの大学でやってくれないかしら。

もしくは、既にやっているのでしょうか。

まぁ、私如きに思いつくような事ですから

既にやっているか、やっても無意味か。

さて。

明日は祭り本番。

政に直結しますから真剣に。

              それでは bye! Konemy



偶然。偶然、偶然。

2022年07月08日 23時33分40秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

久方振りになります。

書く事、書ける事

そんな事はたくさんあったように思いますが

どうも筆が……というのか、指が進まなかった。

しかし、唐突に書きたくなる夜もあります。

只今、明かりを消した部屋でPCと向かい合っています。

なんだか、明るいところにいてはならない気がして。

ただ、そんな気がして。

そんな本日は

2022年7月8日。

または

令和4年7月8日。

もう慣れてきたでしょうか。

「何に慣れてきた」か、明言は避けましょう。

私の記述力とみなさんの読解力に賭けて。

色々ありました。

「日々を戦う人」にとっても決して小さくない様々が。

これは「こじつけ」でしょうか。

ただ関連性を持たせてまとめたいだけなのでしょうか。

少し私の話をしたいかと。

ここはそういう場ですので、悪しからず。

私は昔から「呪われている」と、ある意味自負しております。

私が所属する集団や団体、組織は壊滅や衰退を始めとしたの「負の被害」に遭う。

具体例を挙げましょう。

小学校。

私が入学した年以降、入学者の減少。

中学校・高等学校。

私が入学した年が過去最高入学者数。その後、大幅減少。

そして、偏差値の劇的な落下。

更には、同級生二人の死去。

うち一人は突然死。齢十五。

加えて、友人家族の早死。

習い事や部活動、趣味組織(学生活動の組織)。

会員や部員の大幅減少。

部活動と趣味組織に関しては組織の存続危機になる程の人員減少。

入社した会社でも劇的な「負」の減少の数々。

もっと細かい話をするならば

好みの商品、好きになったもの

例えば、ドレッシングや料理の素などが

スーパーの棚から消える。

さらにいえば製造中止になる。

一つひとつは下らない

ありふれた、何の不思議も無い出来事なのかも知れない。

「偶然」であろう。

だが、しかし。

一人の人生の中で起こっていると考えれば

それは

「偶然」。「偶然」、「偶然」。

いや、否。

これは果たして「偶然」と片づけて良いものか。

人間は未だ自らに降り掛かる災難などの要因を完全に把握出来る訳ではない。

今後も変わらないだろう。

言わば「神のみぞ知る」事柄を、勝手に「偶然」やら「必然」と定義している。

勝手に。

「変わってからロクな事がない」

そう感じてしまうのはいけない事なのか。

重なり過ぎている「偶然」の見えない要因はそこにないのか。

「神のみぞ知る」から私には解りかねるが

間違いなく「変わってからロクな事がない」のは事実であり

「変わったからロクな事がない」のは紛れもない一つの真実である。

真っ暗な部屋でPCに向かい合って数時間経った。

未だに明るい部屋に戻る気にはなれない。

いつの間にか日が変わっている。

今日は

2022年7月9日。

または

令和4年7月9日。

今、少し調べてみたら今日は「鴎外忌」らしい。

『高瀬舟』は好きだ。

いや、ダメだ。

この何とも言えぬ感情は、やはり何とも言えぬ。

感情の言語化を私は出来ないと何度痛感すれば良いのだろうか。

ただ、私は

「天」なり

「神」なり

「仏」なり

人を超越する「何か」が引き起こすのか把握しているのか

人間が「偶然」と定義するものの数多な重なりを「呪い」と呼んで

「こじつけて」良いのかと

「天」なり

「神」なり

「仏」なり

人外、領域外に問いたかったのだろう。

ダメだ。眠れる気がしない。

これは数時間前に飲んだ

「缶コーヒー」という名のコーヒー牛乳のせいではないだろう。

悪夢と暑さに襲われながら眠った先にある今日の朝以降

この記事を読み返したときに

一体、何を感じるのだろうか。

久しぶりに書く文章は駄文に駄文を重ね

一夜の暖にもならぬ駄文になった事だろう。

ここまで呼んだ猛者がどれほどいるか分からぬが、ありがとう。

              それでは bye! Konemy

新しき。

2022年04月06日 11時11分11秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

しばらく書いていないなぁ

などと思っていたら

なんと

二ヶ月近く放置とは。

まぁ、一年以上放置した「前科」がありますから

ままある事と思って頂きたい。

さて

そんなこんなで4月です。

「新生活」なんて言葉で表されますが

ご多分に漏れず、私も新生活です。

ただ、最近思う事がありまして。

多くの人にとって3月から4月はただの月替わりなのでは。

それは、私にとっての年越しのように。

4月から「新生活」が始まる事を都合が良いとしたい人による

「大きな声」だと。

まぁ、そんなことは

「新生活」を始める身としてはどうでも良いことだったりするのですが。

そんな、どうでも良いことを「述べる」

ここを、そんな場所のままにしていきたいですね。

気持ちを新たにしつつ

2022年度もよろしくお願いします。

「無知の余裕」と「未知の恐怖」

2022年01月19日 22時03分37秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

年が明けて1月も中頃。

先日、共通テストとやらが実施されたようで。

両日とも大きな事件が無く……

的な定型を言おうと思いましたが

「大きな事件が」無かっただなんて言えません。

両日とも騒ぎが起きましたから。

まぁ、私は共通テストで何が起こっても

基本、関係ないんですが。

受験生を応援する声を聞くと

年度末を感じてきました。

私も数年前に受けた経験があります。

当時は「センター試験」という名前でしたが。

まだまだ若いつもりではいますが

すでに「昔の人」な訳です。

試験というものは人生の分岐点になり得るものです。

上に挙げた「共通テスト」や「センター試験」は典型的なものでしょう。

志望校を受験出来るか、出来ないか。

個別試験前に保険校を確保出来るか、出来ないか。

大きな分岐です。

約18年の人生の中で有数の大きな分岐でしょう。

しかし、多くの場合

「0か1」の話ではなく

「0から100」の話なのではないでしょうか。

ちょっと詳しく。

共通テストで失敗しても、大学進学の道を断たれる訳ではない。

もちろん、一部例外は認めますが

一般的に、です。

志望校を変えて足切りに遭わない大学を受ける

個別試験で合格すれば大学には行けます。

大学進学不可が"0"だとして

第一志望校進学が"100"

妥協校進学が"1〜99"といったところでしょうか。

まだ、大して生きていないので

これは若輩の持論に過ぎませんが

人生の中で「0か1」といった事態は数少ないと思います。

そんな中、私は先日

「0か1」を経験しました。

たった15分。

成功するか、失敗するか。

0か1で人生が非常に大きく変わる経験を。

初めての事です。

人生が掛かっているというのに、緊張は適度なものでした。

恐らく、二つの感情がぶつかり合っての緊張でしょう。

「無知の余裕」と「未知の恐怖」

知らないから恐れる事はない。

知らないから恐れる。

前者は、幽霊とかですかね。

見えなければいないも同じ。

そこにいると「知らない」から恐れもしない、出来ない。

後者は、他界が挙げられますかね。

人類は何百年も前から

天国だ、地獄だ、黄泉だ、冥土だ

などと「知らない」ものに形を与えて一喜一憂。

命を失うことを恐れてきた。

随分と壮大な話をしてしまった気がしますが

私の心での衝突は

「多くの人が乗り越えられたものなのだから私も大丈夫」

といった感情と

「私が乗り越えられるとは限らない」

といった感情のものであり

大したものではありませんでした。

結果、無事乗り越えられたのか

未だ分かりませんが、一息ついてこの記事を書いている次第なのです。

長くなりました。

              それでは bye! Konemy