Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

みんな"と"戦っている

2021年09月28日 19時25分36秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

ここ一年半ほど。

大半の日

早起きするような用事はありませんが

同居人に合わせた生活スタイルでいます。

具体的に言うと

平日は用もないのに朝六時半には起床しています。

朝食もいつも決まった時間に食べています。

すると観るテレビ番組で取り上げているジャンルが同じものになります。

もちろんCMも。

毎朝、こんなCMを目にします。

『私はいつだって みんなと戦っている』

この言葉の正しい意味が理解出来ないほど

日本語理解能力が低い訳ではありません。

一応、物書きの端くれですから。

ただ、この一文のみを提示された時

"with"ではなく"VS"で考えてしまうのが私なんです。

四面楚歌。

私はいつだってみんなと戦っている。

味方なんていない。

別に他人を全く信じていない訳ではありません。

ただ、自分すら信じられないと言うのに

他人を信用するなんて正気の沙汰じゃない。

信じるところは信じて

疑うべくは疑う。

全てを疑った後に

信じるべき事は信じる。

いつだって繰り返すその過程は

紛れもなく「みんなと戦っている」のです。

朝からネガティブすぎるでしょう。

寝起きでまともに頭が働いているとは言えない状況で思う事です。

性根の腐敗具合が感じ取れますね。

              それでは bye! Konemy

湯水

2021年09月24日 23時41分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

私の日常は書こうと思う事で溢れています。

同時に

書けるような物事が存在しない日々です。

太陽すら一瞥しない生活に物語があってたまるものですか。

これはあくまで持論です。

「今日何したか」を語れば

一端の引きこもり生活日記が出来上がります。

今、この場で一部記して見せましょうか。

朝5時半手前。
目が覚めたが二度寝を試みる。

6時35分。
二度寝を諦めて居間へ向かい、朝食を済ませる。

7時ごろから7時ごろまで
タブレット・PC・スマホ・本と睨めっこ。

間に適宜トイレ・昼食を挟む。

睨んでいた内容は大して覚えていない。

夜7時。
金カレー。

そういえばテレビで海自特集をしていた。

見ずに音楽番組に耳を傾けつつ

スマホを見たり。

風呂に入った後は再びPC・スマホと向かい合う。

なんて無駄な一日だったのだろうか。

物語なんかあってたまるか。

でも。

残念な事に物語はあるんです。

私の日常は書こうと思う事で溢れているんです。

しかし、それらは殆ど書かれることなく

時が過ぎていくが如く

記憶の彼方は消えていく。

再び姿を表すことはあるかもしれないが

もはや、それはかつて「書こうと思った事」ではなかろう。

今日は

「私の日々は書こうと思う事で溢れている」と

いう事を書こうと思った訳です。

忘れられているということは

記憶の片隅にも残しておく価値のない事柄という事だろう。

書こうと思う事が溢れていようと

数少ないが質が勝る

書いている途中で記憶が飛んだ。

私は一体、何を書こうとしていたのだろうね。

どうやら思い出せない。

              それでは bye! Konemy

日常が始まる

2021年09月17日 20時17分44秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

九月も半ば。

一年半以上経っても状況が改善するどころか

悪化していく。

「日常」という言葉は

「非日常」という比較する対象があって初めて意識されるもの。

モノによると思いますが

どれほどの長さ続けば、それは「日常」に置換されるのでしょうか。

日本人に分かりやすい例として浮かんだのが地震だったので

適切さは置いておいて、地震を例に話します。

「日常」は揺れなんて感じない。

これが日常。

でも「非日常」である地震発生時は揺れている。

これは非日常。

では、何かしらの理由で常に地震が起こっていて

常に揺れている状況になったとしよう。

人はいつからこれを「地震」と呼ばなくなるのか。

考えて、例えとしたが適当には思えない。

もっと適切そうな例えが思い浮かんだ。

昨日は晴れていた。

雲が少し空に浮かぶ晴天だったらしい。

今日は曇っていた。

太陽の光は拝めなかったようだ。

明日からは雨になる。

少し雨風が強くなるそうだ。

晴天。曇天。雨天。

これは日常だ。

今年の夏は多かった。

十年に一度とも言われる「特別警報」が発令される雨。

たかが雨ごときで死者が出る。

これは非日常だ。

十年に一度の雨が一年に何度起これば

人はこの大雨を「雨」と呼ぶようになるだろうか。

昔の異常は今の通常。

「無常」なんて言葉が千年以上前から現在に伝わっているなんて

恐ろしいと私は思います。

約一年半。

私はかつての「非日常」的な生活をしてきました。

明日から私が所属する小さな社会が再び動き出します。

動き出すからといって私の生活で変わる事はほとんど変わりません。

かつて「非日常」とされていた今までの生活と。

明日から日常が始まります。

              それでは bye! Konemy


最後の恋文

2021年09月10日 22時25分17秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

私は電車に乗ると大抵、本を読んで過ごします。

スマホを眺めている人が多いですが

私の手には活字媒体。

時代が怖いですね。

今日読んだ作品は恋愛小説。

日本で最も美しく恋愛を描くとされる

岩井俊二さんの作品。

近年、映画化されて話題になった一作です。

作家の主人公が一人称視点で語る形。

私は恋愛経験があるとは言えぬほど

子どものママゴト程度のものしか経験がないので

一人称視点で語られる恋愛はどうにも受け入れ難いものがあります。

特に恋文なんてもらった事はありますが

書いた事はないので。

私の話は今回、どうでも良い。

小説を書いていく中で主人公に

元恋敵が言うセリフが心に残っています。

ニュアンス的には

文章で人間の人生全てを描ける訳が無い。

そんな事を言っていました。

私の作家の端くれとして

文章にどこまで出来るかという課題は考えさせられます。

確かに、他人の一生を物語に書き記すなんて不可能です。

自らの人生の総括程度が関の山でしょう。

それすらも難しいでしょうが。

ただ、先立った他人の人生は描けないとしても

残された人たちの一歩となるものは描ける。

物語の本筋からズレた話ですが

そんな事を考えました。

私は主人公が愛した相手に

生前贈った小説は読んでいません。

しかし、彼が届けた最後の恋文はとても素敵なものでした。

そして、先立つ彼女が残された者となる子どもたちに残した

メッセージも。

              それでは bye! Konemy

半蔵門線のG

2021年09月09日 12時21分04秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

先日、とある用事で永田町を訪れました。

久々の東京です。

こんなご時世ですから越境自体が久しぶりです。

そんな私

月平均の歩数が一日1,400歩程度なんです。

これは近郊外出や散歩した日含めた平均なので

週のうち少なくとも五日くらいは

一日数百歩といった生活をしています。

因みに、出かけたこの日の歩数は5,000弱でした。

話を戻しまして。

永田町駅まで私は半蔵門線を利用しました。

半蔵門線というとどの様なイメージを持たれているでしょうか。

都内の人は何かしらのイメージを持たれているかも知れませんが

東京を除く首都圏の人は存在程度

地方の方は存在の認知自体危うい様な線かも知れません。

いずれにしても半蔵門線は地下鉄ですから

「深い」という共通認識は持って頂けるかと。

その前提でお話しします。

電車を降りて、改札に向かいます。

その途中。

驚くほど長いエスカレーターが二本。

これ、私主観ですので悪しからず。

後で調べて分かったのですが

半蔵門線永田町駅は都内有数の深さを誇る駅だそうで。

そりゃ、長いエスカレーターになりましょうぞ。

階段で上がる気力の出ないほどの高低差ですから

当然、エスカレーター左側に乗ります。

すると、どうでしょう。

段々と身体が重たくなってくるのです。

実感すると段々その重さは増していく。

脚に重みが増し、膝を着きそうになりながらどうにか堪え

無事、地上に辿り着く事が出来ました。

辿り着いたは良いのですが

なかなかの絶望ですよ。

私が感じた重み。

単純に考えれば上昇によるGです。

私にとっては舞浜にある海に隣接するホテル「ハイタワー」のエレベーターが

強烈なGを感じる身近な存在ですが

そこら辺の建物にあるエレベーターでも微弱ながら同様のものが感じられます。

私は物理を得意としていないので

エスカレーターでこの現象がわずかでも起こりうるのか不明ですが

もし仮に起こりうるのならば

私は低速かつ斜め上昇する際に発生するGに負けそうになったのかと。

そこまで私は堕ちたのか、と。

その日はそれ以上考えずに一日を終えました。

そして今日。

それも今さっき。

少し気合を入れて作った昼食を食し

片付け終わって

一階にあるダイニングから二階の自室へ向かう途中の階段。

一段登った刹那。

感じたのです、重力を。

予期していなかった突然の攻撃に

私は膝を着き、手すりを掴みました。

物理的には大事に至らなかったものの、これは思わぬ精神攻撃。

手すりを頼りに階段を登って自室の席まで辿り着きました。

そう。

これは自らの衰えを嘆く日記の様なものです。

              それでは bye! Konemy

薄暗

2021年09月08日 18時29分29秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

昨年だったと思う。

十年ほど使っている自室の明かりと

卓上の明かりを新しくした。

家にいる時間が増えたからというのが主な理由ではない。

きっかけは卓上の明かりが壊れたから。

小学校に進学すると同時に与えられた部屋と学習机。

その机に備え付けてあった明かり。

現在でも家具屋やショッピングセンター等に行けば

学習机自体は売っている。

しかし、それらとは似て非なるもの。

備え付けであるから蛍光管自体はもちろん変えられるが

明かり本体は完全に机に固定されている。

その本体が壊れた。

最近の学習机の明かりは基本的に移動可能なスタンド型。

便利なものだ。

だが、そこそこ大きな学習机を無影で照らすだけの力があった

かつての卓上明かりが私は好きだ。

そんな好きだった卓上明かりを破壊して机から取り払い

スタンド型の卓上明かりを買った。

その際、驚くほど低価格で部屋の明かりも変えられるという事で

部屋の明かりも変えた。

十年という年月は明かりに進化をもたらしていた。

以前までの部屋の明かりは

円形蛍光管を二つ使用し

常夜灯とで三段階の明るさ調整しか出来ず

卓上の明かりに関しては一切の明るさ調整は出来なかった。

それがどうした事でしょう。

両者ともボタン一つで何段階にも明るさ調整が出来るのです。

だから何だ。

といった話ではあるのですが。

それを今から語ります。

部屋の明るさ調整が可能になってから

常夜灯より一段階明るい

全灯では最も暗い明るさで過ごすことが多くなった。

これは目を覚ました時、目潰しで受けるダメージを軽減する為に

就寝直前にその明るさにして明かりを消し

起きてから変えないからだ。

これは最近気がついた事だ。

私は夜になると気分が沈みがちになる事が多い。

これは時間の経過に依存するものかと思いきや

そうでは無いようだ。

どうやら生活環境の「明るさ」に大きく依存しているようだ。

今年の晩夏は雨が続いた。

太陽が差さない日が続くなか

薄暗い部屋で何日も過ごしていたら

驚くほどの不調を自覚した。

私は暗い中で生きていてはならない。

これは身に危険を及ぼす。

短くない年月を生きてきて気付かされた。

これは

明るさを調整出来るという大して便利とまでは言えない

新たな室内照明の功罪だろう。

              それでは bye! Konemy



推しが立つポジション0(ゼロ)

2021年09月06日 18時24分28秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

先週の話になります。

と、その前に。

私自身の基本情報を。

これから話を展開していく上で必要な情報なので。

結構な年数・数

記事を投稿している私ですが

あんまり私自身のことは書いていない

気が……しているので。

今の時点で前置きが長くなりつつあるので

簡潔に。

15年くらい前からですかね。

アイドルが好きで。

総合Pを先生と呼ぶくらい。

本題に入ります。

いや、戻ります。

先週の話です。

そのアイドルグループは出すシングルごとに

メンバーのポジションだけが変わることで有名なのですが

推しがセンターになりました。

15年もヲタをやっているとそんな事は珍しいことでもありません。

過去に何回もありました。

ここで過去の記事についての話を差し込みます。

約一年前の記事。

『エースとエリート』(2020年9月28日 Konemyのベル)

簡単にこの記事の説明をしようと

いざ読み返してみると、一体何を言っているのか。

我が文ながら分からなかったので

分からないなりに説明させて頂きます。

その内容は

大勢を有する女性アイドルの中で活躍する人の中には

「エース」と「エリート」がいて

『私は今まで一推しとして「エース」を挙げた事がない。』から

「エリート」が好きって話です。

まぁ、宜しければご自分でご覧になって下さい。

直接的な例や言葉を挙げていなかったから過去記事は分かりにくいと思い

今回ははっきりと分かる言葉を使います。

私の推しは人気メンバーだけど

一番人気にはならないメンバーだから

推しがセンターをやると

嬉しいけど寂しい。

素直に喜べない。

そんな話です。

ひとまず、推しのセンター就任を祝いながら発売を楽しみにしたいです。

そういえば、去年の今頃といえば

別グループのセンターが決まった時期だった気がする。

はぁ。

二年連続で私は思ったという事か。

変わらぬ自らの軸と喜ぶべきか。

変えられぬ頑固さと呆れるべきか。

              それでは bye! Konemy




無欲の勝利の瞬間

2021年09月02日 20時48分53秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

今日。

久しぶりに好きなバラエティ番組を観た。

諸事情で距離を置かざるを得なかったというか

距離を置いていた番組だったが

吹っ切れてもいないが観る気になったので観た。

内容はトークバラエティ。

事前アンケートが無い事で有名で

MCの話を聞く技術がハンパない。

他の番組や他媒体で見ることが出来ない

ゲストの一面をスムーズに引き出す。

全く違う世界で生きる人間たち同士の会話だが

烏滸がましい事にそれでも同じ「人間」であると思わされる。

ゲストの一人に対してMCがこんな事を言っていた。

『無欲の勝利の多い』

言葉が刺さって、私の身体を完全に貫いた。

一滴の血を流す事なく、抜けず、刺さり続けた。

そして、私はこの言葉を握るためにこれを書いているのだと思う。

常々。

私は自らの事を「凡人の天才」と称してきた。

今までの人生で努力した覚えもないし

大した苦労をした覚えもない。

人並みのやりたい事は全て実現し

やってきた事は大抵成功した。

道半ばの転倒はあれど、挫折は知らない。

私は何かを成すときに

大した動機もなく

大した努力もなく

ほとんど欲もなく

成功してきてしまった。

のちに振り返り

行為の動機や成功の要因を考えても

「なんとなくやりたかったから」

「やったら出来ちゃったから」

私の人生で積み上げてきたこれらは正に

『無欲の勝利の瞬間』

努力や熱意の結晶ではない。

番組内でゲストを救う結論には至らなかったが

それでも私はこの言葉を考えていきたい。

とりあえず

刺さった言葉を握る事は出来ただろうか。

              それでは bye! Konemy

防災の日

2021年09月01日 06時59分15秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

八月も終わりを告げ

今日から九月。

今朝、目を覚ましたら室温が30度を下回っていて

薄ら寒さを感じました。

そして、私事ですが本ブログが開設から1,800日となりました。

毎度大した事は書いていませんが

私自身にとっては割と大切な存在であり

自己満足の部分が多いですが

今後ともお楽しみ頂ければと思います。

などと言いながらいつ振りの投稿か。

書く事が無かった。

これは言い訳ですね。

実際、書くような事はありませんでしたが

書く事は沢山ありました。

例えば。

以前の投稿から今日までの間にひとつ年を取りました。

実感のかけらもありませんが。

だから、書く事は沢山あったんです。

書くに至らなかった。

変わらず長い前置きはこのくらいにして本題に。

100年近く前の今日。

日本の中心とも言える地を大きな揺れが襲いました。

私が説明するまでもないでしょう。

この地震をきっかけに

そして、台風シーズンを迎える時期でもあることから

防災への心構えを準備するという意味で「防災の日」が創設されたそうです。

また、「防災の日」を含む一週間は防災週間と定められ

各関係機関が緊密な協力関係のもとに

防災思想普及の為の行事や訓練などを行うようです。

元々、この国は自然災害の多い国でしたので

元来から自然災害に対する意識は高い方なのでしょう。

しかし、近年は一言で言って異常です。

100年級の自然災害が毎年のように起こっている事実。

加えて、近代化の波によって失われた伝統。

失われし危機感。

進化したといえども人間の力は自然災害に対してあまりにも無力です。

常時に無駄だと思われるものほど有事の際に必要とされているのかも知れません。

特に私なんかは

これほど異常な状況においても一切の被害を受けていない地に暮らしているので

災害が多い、災害は命を危険にする、災害の対策をしなければならない。

そんな、災害に対する意識は高くないと自己判断します。

沖縄に来る台風がある程度激しくとも問題なく

北海道に来る台風が他に比べてそよ風程度の嵐でも問題がある

のと同様に

本来なら、災害が少ないところほど対策は意識的に充分にしなければならないんです。

理解はしています。

ただ、行動には移せないものですね。

何故なら

災害が多い、災害は命を危険にする、災害の対策をしなければならない。

そんな、災害に対する意識は高くないから。

愚かな人間は知らない事には気づけない。

実感して初めて気づかされるのです。

自らの愚かさに。

そして、私個人の話をすれば

意識的に植え付けた「対策せねば」といった心よりも深く

諦めが存在しているからこそ行動に移さないところがあるのでしょう。

人間の力は自然災害に対してあまりにも無力です。

無宗教ですが、神と呼称される存在の否定はしませんので

神の怒り・思し召しなら致し方がない。

潔くあれ

ってな訳です。

最後に。

今後、せめて私が生きている間に他人の命が多く失われるような

自然災害が起こらぬ事を願って。

              それでは bye! Konemy