Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

2021-2022

2021年12月31日 06時27分25秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

本日、大晦日。

と、いうことで

全くもって珍しくない

一年の振り返りとでも言いましょうか

やっていきましょう。

昨年に引き続き

何かと気にしなければならない事の多かった一年だったと思います。

人間の素晴らしいところなのか

マスクをして、手指消毒を行う。

それが当たり前となり

日常によって置換されたように思えます。

情勢は現在も油断出来ません。

これからどうなるかも分かりません。

それでも人は前に進んでいくのでしょう。

社会的な話はここまでとして。

ブログとしては、空白も多い一年だったと思います。

連日投稿した時期もあれば

ひと月以上投稿しなかった期間もあり。

毎月投稿は出来ていませんでしたが

平均投稿数でいえば月一は達成してました。

まぁ、必要最小限といったところでしょうか。

開設からは本日で1,921日。

長くやってきました。

2021年のうちに総閲覧2万PV達成を地味に目標としていましたが

この記事を書いている現在、総閲覧数は20,335PVです。

駄文の数々をたくさん読んでいただき、感謝です。

投稿していない期間にも読んでいただけているみたいなので、嬉しいですね。

今後の投稿頻度は未定ですが、まったりと。

最後に、個人的な話を少し。

今年は今までの人生の中で最も「勝負の年」といえたと思います。

今までの人生を振り返り、そして未来へと進んでいく接続の年。

その中で痛感したのが、自らの人生の中身の無さでした。

形はしっかりした箱で、どの面を見ても立派です。

しかし、開いてみると中身はスッカスカ。

形だけなんです。

まるで、あの笑った顔した流行りの箱みたい。

木が茂っていそうな社名の箱。

それが悪い事だとは思いません。

現実ですから、受け入れるべきです。

しかし、これからもその箱を空虚なものにしておく必要はありません。

口だけかも知れません。

ここにただ書くだけかも知れません。

本音はどうか分かりません。

それでも、それでも。

口にする事が、書く事が、建前が重要なんです。

2022年は、私の空虚な箱にモノを少しでも詰められる一年にしたいです。

一年の最後の日に、この拙い文章を読んでくれた方々の

残り少ない2021年が良い一日となりますように。

そして、新たに迎える2022年が皆様にとって良き一年でありますように。

              それでは bye! Konemy


達成感と喪失感

2021年12月13日 09時58分03秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

先日、開設1,900日記念記事以来の記事な訳で

全編「Konemyのベル」らしい記事は久しぶりな訳ですが

ここ最近の冒頭は、朝投稿という訳でもないのに

「おはようございます」に揃えている気がします。

これは業界的なアレを意識してといった訳ではなく

私が長を務めていた集団の定例挨拶に沿ったものです。

怪しい集団じゃないですよ、健全な組織です。

少なくとも、私が長を務めていた頃までは。

ですが、本日は「お早」くは無いにしろ

充分な時間かと。

改めまして。

おはようございます。

Konemyです。

二年弱。

やる事はあってもやらなければならない事が少ない時期が続きました。

加えて、やった方が良い事もたくさんありました。

性格的に、やらなければならない事はやります。

でも、やる事はあまり

やるべき事は全然やりません。

無気力です。

ですから、私にとってこの二年弱は

まさに「消失」したようなものです。

そんな中、ここ一ヶ月は「約二万字の壁」という名の

「やらなければいけない事」に追われていました。

いつもこのブログの記事たちは何字くらいなのか

知りませんし、知ろうともしませんが

物語を書くとき

手書きならば大体、一時間に700字

ワープロならば大体、一時間に2,000から3,000字。

一日で短編を書き上げると大体、5,000から1万字の作品が出来上がります。

そう考えると

「二万字」は「壁」というほどでもないように感じますが

そんな事はありませんでした。

約一ヶ月、連日PCと睨めっこしていましたね。

日常の枠内の非日常でした。

全て書き終えた時、感じたものは何だったのでしょうか。

何かを終えた時、人は二種類の感情を感じると大別出来るかと。

「達成感」と「喪失感」

辞書曰く

達成感とは

『あることを成し遂げたことによって得られる満足感。』(『デジタル大辞泉』)

喪失感とは

『大切なものを失ったときの、空虚な気持ち。』(『デジタル大辞泉』)

私が感じたのは、前者よりも後者でした。

大切なもの、では無いにしろ

やらなければならない事は私に「生」を与えてくれていた気がして。

「終えた」というより「失った」の方が表現として相応しい。

それは嫌いだった同じ組の生徒とクラス替えで変わってしまう寂しさのような

現状に不満はあるが、失うとそれはそれで辛い。

人って、根本に「マゾ」的な要素

ストレスが必要なんだって。

              それでは bye! Konemy









悠久と記された。

2021年12月10日 20時12分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

久方ぶりの投稿になるかと。

ここ最近、若干忙しくて。

ブログを書いている場合ではなかった訳でもないですが

わざわざ書く必要がないほど文章を書いていたというか。

書くこと自体は溜まってますが

溜まってる事は書くようなことではないので

わざわざ今は書きません。

今日、なぜ久しぶりに書こうかと思い立ったのかと言いますと

本ブログの節目なんです。

開設から1,900日。

およそ5.2年。

長いです。

幾度となく語ってきている事ではありますが

最近のように全然投稿しない日々が続いていた事もあれば

毎週、もしくは毎日投稿している期間もありました。

マイペースで、大した意味もなく運営されている本ブログですが

結構、長く続いていますね。

さて、少し話は変わり

最近、中国人の方が書いた日本語を読む機会がありました。

非常に良く出来た文章で読みにくさはあまりありませんでした。

ただ、やはり若干の違和感はありました。

そんな中に「悠久」という言葉がありました。

悠久は「果てしなく続いていること」を指す訳ですが

その方は100年を「悠久」と表現していました。

一般的ではないにしろ、100年だったら人間が生きられる年数です。

果てしないとは言えないでしょう。

でも「長さ」って感覚であり、主観です。

人によって変わってくるもの。

1,900日。

5.2年。

数字だけで見れば大した長さではありません。

悠久の時の中では一瞬の瞬き。

しかしながら

本ブログを始めた頃はこんなにも長く続けるとは思っていませんでした。

そう考えれば、1,900日ですら「悠久」なんて表現しても良いのかもしれません。

              それでは bye! Konemy