Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

ふみの日〜八意思兼命巫子を想う〜

2019年07月23日 20時59分06秒 | 日記
おはようございます。

本日7月23日(火)

文月の「ふみの日」だそうです。

一応、私も物書きの端くれなので

ふみの日には何か書き残しておこうなんて思いながら

カタカタと雑音を響かせている訳ですが。

最近思う事は怪しいことばかりなので

話題に困りますね。

そうだな。

今、世間を騒がせている、ある映画の話でもしようかな。

凡人には理解し難いだろう

そして

理解の必要などないかもしれないあの話を。

「この世界自体が狂ってきた」

映画原作者の言葉である。

それは”異常・逸脱を描く物語”なのだ。

凡人が見ればそんな事は微塵も感じないのであろう。

何故なら

愛にできる事は少女を救う事だから。

ただし、世界は救えない。

少女と世界

少年が悩み苦しみながら狂いを選択する物語でもある。

だがそれは恋愛感情なんかではない。

分かりやすくする為に恋愛に置き換えているように見えるが

人と他人の究極の形は決して”愛”やら”恋”ではない。

また違った、”互いを求め合う心”なのだ。

それは恋愛ではないのか。

違うのである。

恋愛なんて繁殖欲の道具・過程でしかない。

倫理観を備えてしまった

生物の劣等種たる人類が

繁殖欲に究極の形を求めるとは

笑い事以外の何物でもない。

そんなものに人は何故振り回されるのか

理解に苦しむ。

対して

”互いを求め合う心”

それは誰かが為に行動できる人間にある

他者との究極の形である。

うーん。

いまいち分からないかい?

説明が下手で申し訳ないね。

つまりは互いを思う気持ちからの行動でも

相手を愛しているが故の行動ではない。

ということを言いたい訳だ。

分からないなら仕方ない。

全て私の説明下手なせいだ。

少し戻ろう。

この世は確かに異常だ。

いつか誰かが言っていた。

「この世界は間違っている」と。

だが、その根源たる原因は何だ。

そう、人類の選択だ。

我々よりも遥か昔に生を持った人類が選んだ道だ。

決して我々の選んだ道ではない。

だが、選択された道を歩むのは誰か。

我々だ。

そして我々も狂いを選択しながら

後世へと繋げていこうとするのだろう。

そんな壮大な話、無縁を主張したくなるだろうか。

それは無理な話だ。

いくらちっぽけな存在といえども

何億分の一であることには変わりない。

あなたは”ゼロ”じゃないんだ。

話が若干逸れたかな。

素晴らしい作品ほど

切り口は多いものだ。

そんな数多な切り口を持つものを

一言で語るのなら

最も注目してほしい部分を

または

バカでも理解出来る易しい部分を

利用して一言で語るのだろう。

商業的要請のせいで

後者が爆発的増加を遂げる中

ちゃんと前者で見てくれる人もいる。

だから創造者は作るのだろうよ。

風呂敷を広げすぎたかな。

今作もヒロインは一応、神の使い=巫女。

バイトしてるし貧乏だけどね。

そこも物語の主題、「逸脱」のひとつな訳だ。

観終わった直後

前作と比較し始める人が多々いて

とても残念な気分になった。

同じ日本語で聞いて

同じ映像を見ていたのに

彼乃至は彼女には届かなかったんだ

堕ちたな、日本人。

とか思ってる私は一体何者なのだろうかね。

私とて凡人

いや

それ以下な存在だというのに。

(これこのままレポートで出せる文字数だぞ、おい……)

正直なところ

まだまだ語り足りませんが

流石に長すぎますし、前記した通り

そんなに偉そうに語れるほど私に権威はありません。

「ふみの日」故に長々しい文章悪しからず。

              それでは bye! Konemy


究極の愛

2019年07月07日 23時59分12秒 | 日記
おはようございます。

今日は7月7日。

小暑・浴衣の日・ポニーテールの日……etc

色々とありますが

何と言っても

今日は「七夕」。

「笹の節供」、「織女祭」、「星祭り」などとも言われますが

本来は”旧暦の”7月7日の事なんです。

意外と知られてませんが。

まぁ、現在は陽暦で祝うのが慣例なので

批判する気は一切ありません。

歴史を辿ってみると

中国伝来の行事+日本古来の伝承+盆行事の一環としての行事

などなど、様々な要素が入り混じって出来上がった今日の七夕故に

詳細を事細かに知っている方なんて専門家くらいじゃないでしょうか。

私も一応文化を専攻している身ですから

事細かに研究しようと思えばしても良いのですが

ここで語るのは何かと面倒なほどこの行事は複雑に様々な要素が組み合わさっています。

何はともあれ

皆さんも民衆に伝わる大まかな話はご存知でしょう。

天の川の両岸にある「ひこぼし」(アルタイル)と「おりひめ」(ベガ)が

年に一度相会する話です。

地上で愛し合いすぎて、仕事を疎かにした二人の仲を

快く思わぬ神が二人を引き裂き

年に一度しか逢えぬようにしてしまった的な下りだった気がします。

こんな結ばれぬ二人の関係から連想した作品があります。

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

原作は七月隆文。

2016年に福士蒼汰、小松菜奈主演で実写映画化されました。

作者の苗字からも連想させてくれますね。

個人的には名前自体に縁を感じる次第ですが

それはどうでも良い事。

ざっとあらすじを述べると

生きる時の流れが相反していて、5年に一度、30日しか会えぬ

20歳の男女の恋愛模様を描いた話です。

ざっと過ぎて分からない人・気になる人は原作読むか映画観てください。

(以下分かりやすい映画版を基に綴ります。)

重要なのは『5年に一度、30日しか会えぬ』ところです。

二人はそれぞれ5歳の時に35歳の互いに命を助けられ

彼は10歳で30歳の彼女に再会し

彼女は15歳で25歳の彼に再会しています。

二人は誰の目から見ても相思相愛な訳ですが

35と5だったり、10と30は、これもう犯罪です。

だから(なのか)手は出していません。

節度を守った付き合いをしている二人です。

15と25はギリな所ありますが

作中ではしっかりと正しい距離感で描かれています。

つまり!

相思相愛の二人が再会しても

恋愛出来るのは互いが20歳の頃だけ。

しかもたった30日のみ。

絶対に家族になれぬ二人。

互いに愛し合っているのに。

私はかつてある作家に『究極の愛』を問われた事がある。

当時、中学生だった私。

恋愛経験はゼロだった。

誰かを愛したこともなかったし

誰からの愛も感じていなかった。

(反抗期故悪しからず。両親ゴメンよぉ!)

そんな私はこの問いの答えが分からなかった。

知らぬ概念を人は認識すら出来ない。

私は『究極の愛』を「きゅうきょくのあい」としか考えられなかった。

それから数年の月日が過ぎた。

年ばかり取って経験は皆無だが

一つの答えを得ることが出来た。

全ての出来事が帰結する答えを。

『究極の愛』とは「叶わぬもの」なのだ。

叶った愛はそれにどれほどの価値があろうと

決して究極には成り得ない。

故に『究極の愛』とは死よりも残酷なものなのである。

私には『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』以外に好きな恋愛小説がある。

『君の膵臓をたべたい』

原作は住野よる。

あらすじは述べるまでもないだろう。

Eureka.

我思う。

七夕の伝説と

『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』

そして

『君の膵臓をたべたい』

これらに『究極の愛』を見た。

見えているのに届かない。

触れることは決して出来ない。

現実世界に生きながら

次元をひとつ欠如してしまった私の

この虚しさはどこへぶつければ良い。

生きて形ある限り、この苦しみからは逃れられないのであろう。

苦しみからの逃避の思いを込めた短冊。

曇天を突き抜け、果たして届いたのだろうか。

七夕の夜はもうすぐ終わります。

              それでは bye! Konemy

陰る星に願いをかけて。

2019年07月01日 13時59分32秒 | 日記
おはようございます。

梅雨入りしてからしばらく。

「梅雨の中休み」などといった

適当な言葉で晴れの日々が続いていた事を

当たり前かのように伝えられていた。

梅雨の間は雨が降り続く印象がある。

だが、それは果たして正しいのか。

本年のここまでの梅雨を思い返してみると

印象を疑わざるを得ない。

だから定義し直す。

梅雨。

『六月前後の、雨やくもりの日が多く現われる時期をいう。

また、その時期の気象状況。

北海道を除く日本および中国の揚子江流域、朝鮮南部に特有のもの。

ばいう。五月雨。』(日本国語大辞典)

『初夏と盛夏の間で雨天や曇天が多い現象、

またはその期間。』(現代用語の基礎知識2019)

印象は間違えていないように思う。

そもそも何故「梅(うめ)雨(あめ)」なのか。

6月から7月の花と言って浮かぶのは紫陽花だろう。

露滴る紫陽花は見事。

いっそ「紫陽花雨(あじさめ)」などと呼んで良いのでは?

だから「梅雨」の語源も軽く。

別に研究レポートでもないからホントに軽く。

① 露けき時節の義。つゆ(露)の義。

② 物がしめりくさるところから、ツイユ(潰)の義。

③梅がつはり熟すところから、ツハルの約。梅の熟する意で、ツヒユ(潰)の義。ツヘル(潰)の義。ツユ(熟)の義。

うーん。

よく分からん。

「梅雨」と表記されている以上、③説が有力なのか。

でも何故に梅?

当て字とも考えにくいし。

分からないや。

言語なんて人と他人の間で特定のモノを共有する為の象徴

謂わば道具に過ぎない。

深く考えるだけ虚しいのかもしれないや。

それでは bye! Konemy