Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

長い一日と短い一月

2020年08月31日 21時19分20秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

最近、書くたびに言っていますが

お久しぶりです。

何度も繰り返しになりますが

書く事が無いからではなく

書く必要がないから最近は書いていませんでした。

もっと言えば

今まで220本記事を書いてきた私ですが

「書くほどの事」と言えるものは

おそらく20にも満たないでしょう。

10パーセント以下です。

なので、書くものを深く考えなくても良いと私は思っています。

読んで何を思うかは受けて次第だと思いますが。

そんな事を言う割にはなかなか過激な事を書いたりしますけど

今は小さい声です。

これがいかに言葉を大きくするツールだとしても

今は。

前置きはこれくらいに

本日は8月最終日。

今年の8月は梅雨を伴って始まりました。

すぐに終わりを迎えて訳ですが。

以降、夏だと言うのに雨の少ない日々が続いたように思います。

相変わらず屋内に引きこもっていたので定かではありませんが。

そんな8月はあっという間でした。

振り返ってみると

やるべき事が何も終わっていないという事実が見えてきました。

一体、私は8月に何をしていたのでしょうね。

「やる事」がないと嘆いていた記憶だけは仄かにあります。

えぇ、「やる事」がなかったのです。

「やるべき事」
「やらなければならなかった事」
「やった方が良かった事」

それならたくさん

それこそ山のようにあった訳です。

「やる事」がない一日は非常に長く感じていました。

「やるべき事」が溜まりに溜まった一月は大変短く感じました。

長い一日と短い一月。

数年しか生きていない訳でもないのに。

幾度となく実感しているというのに。

何年生きても変わらない。

変われない。

人間は本当に学習する生き物なのかと疑問に思ってしまいます。

度し難い。

こんな自分が度し難い。

反省しても無駄でしょう。

ここで「9月は……」なんて模範小学生みたいなことを言うのは止めます。

だって、どうせ変わらない。

私は諦めという尸の上に立つ人生を生きているんです。

              それでは bye! Konemy

頻度の低下は良い事

2020年08月24日 22時59分36秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

梅雨が明け

夏が終わり

秋が立ち

お盆が明けて。

変わらず自宅で過ごす毎日です。

以前から幾度となくお話しさせていただいているんですが

私にとって執筆(なんてかっこいい言葉を使ってみます)は

生きる糧です。

何かイライラした時は

やけ食いもやけ酒もしませんが

やけ書きはします。

この比較から分かるように

常人にとっての食事と執筆が同義と考えてもらっても差し支えアリまくりな気がしますが

同義以下の存在であります。

一時期。

何も無いのに毎日のように投稿している期間がありました。

皆まで言いません、察して下さい。

頻度の低下は良い事なんです。

……多分。

ここ最近、書いて無いですね。

直近の話題が「ぴえん」かよ。

そう思って、今日は「何も」ありませんが書いてみました。

一度呼吸をすれば私は駄文を生み出します。

質ではなく数。

ただ綴る。

ただ吐き出す。

故に良い。

軽い、重たい、くだらない、面白い文章なんです。

かつての人は辺りが暗くなると眠りについたといいます。

永久と思われる時間を照らす術を得た人間は

辺りを覆う暗闇に左右されなくなったのか。

否。

いくら物理的に照らそうが

光が届かぬ場所がある。

私と親しい人物は

「夜の君は怖い」と言った。

つまり、そういう事なのかも知れない。

次に気が向いた時、「光と闇」「陰」について述べようかな。

ここは私氏"Konemy"が"のベル"場ですから。

くだらん記事に適度に良い言葉を使ってしまった。

              それでは bye! Konemy








保安からのペインで不運だからぴえんこえてぱおん

2020年08月19日 22時58分39秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

何だか久しぶりなような気もしますが

実際のところそうでもなかったりします。

一年以上投稿してなかった期間がある人間が

「久しぶり」と口にする為には

同様に一年ほど黙らなければならないような気もしますが

その辺は感覚なんで。

流石にその日のうちや翌日だと思わないかもしれませんが

二日空くと久々な感じもするんです。

さぁ、そんな自称久々に書く題は現代語です。

私、『現代用語の基礎知識』って本が好きなんです。

今年度版は買ってないんですが、2019年は買いました。

過去8年分くらいは目を通しています。

だから内容を覚えているとか

現代用語にめちゃくちゃ詳しい訳ではありません。

ただ、興味があるというだけの事。

「下手の横好き」ですよ。

「好きこそ物の上手なれ」なんて天才の話です。

ド凡人の私には当てはまりません。

最近流行している言葉に「ぴえん」というものがあります。

簡単に説明すると、悲しみを表す絵文字のことです。

ただ、どうやら「ヤバイ」同様

ポジティブニュアンスでも

ネガティブニュアンスでも

使えるようです、詳しくありませんが。

この「ぴえん」って一体何なのか、少し真面目に考えてみました。

どうやら「ぴえん」には強調する語があるらしい。

それが「ぱおん」

「ぴえんこえてぱおん」と使うらしい。

全くもって意味不明である。

だが、この二つを比較して検証すれば、少しは何か分かるかもしれない。

分析してみた。

ぴ え ん → pi e n・・・い え ん
ぱ お ん → pa o n・・・あ お ん

こう考えると、「ぴえん」の前段階は

う う ん・・・pu u n → ぷうん

なんか違和感がある。

濁点・半濁点は都合良く。

という事で、私はこの場で「ぴえん」の前段階を「ふうん(不運)」と定義します。

……ん?何だか良くないか。

「不運だからぴえんこえてぱおん」

通じる気がする。

この変換・活用方法を「ぴえん活用法」とし、他の言葉と繋げると。

「保安からのペイン(pain=痛み)で不運だからぴえんこえてぱおん」

「ぴえん」と「ぱおん」が言葉として成り立っているのならば

結構、通じるのではないかと思いました。

不毛な事も時には。

              それでは bye! Konemy

たった一つは多くの一つ

2020年08月12日 04時55分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

挨拶と衝突させる為に

大抵私は夜に述べるのですが。

別にそういう意図はない事もない程度です。

朝に記事を書くことはあっても

本当の意味でお早う記事は初めてかも知れません。

過去記事を遡った上での発言ではないですが。

八月と言いますと再三述べております

「末広がりの不幸月」

先週は色々報道され

今日もあれから〇〇年なんて報道を耳にする事が出来るでしょう。

そして今週末にはこの国を大きく変えた日がやってきます。

昨日、一国の首相に対しての苦情を耳にしました。

挨拶の言葉が酷似している。

そんな暇つぶしに付き合う官房長官も真面目な人だ。

指摘にちゃんと返答していましたね。

当事者じゃない私はこの件に関して良し悪し語ることはしません。

はっきり言ってどちらの立場にも立てますから。

私ってどんな悪人でも愛してしまうタイプなんです。

そんなことはどうでも良くて。

思ったのは

誰かのたった一つの大切な日だとしても

それは誰かの多くあるうちの一つに過ぎない

という事です。

実は、本日は個人的な記念日なので

普段、連絡が来ないような人からも連絡が来て嬉しかったりします。

私にとってたった一つの大切な日。

ですが、その一言の連絡を私含め、年に何回もしています。

それは連絡をくれた人の多くあるうちの一つに過ぎない。

内容が問題ではない。

結局はやる事自体に意味があるのでしょう。

やってくれるからこそ内容が生まれるのですから。

当たり前じゃないことを当たり前と思い込んでしまい

内容批判をするなんて傲慢なのでしょうね。

              それでは bye! Konemy

幕があがる

2020年08月09日 05時25分08秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

今朝。

私は過去へ飛んでいた感覚に陥った。

全く、何を言っているんだとお思いか。

あくまでもそんな感覚がしただけだと思っている。

だけど

意識は時をかける。

身体は横たわったまま、確かに過去へ飛んで行ったのかも知れない。

夢のある話は好きだ。

夢だけに。

今日がどういった日かはご存知だろう。

私が幼い頃から抱く「今日」の印象は

音葉を選ばずに言ってしまえば

「地味キャラ」である。

可哀想な可哀想な「地味キャラ」

いま話題のアイドルグループの二期は「不遇の二期」と呼ばれている。

その他の期と比べてみると、確かに不遇としか言いようがないと感じる。

「二番煎じ」はパイオニアに劣る。

これ、一般的。

でも、絶対的ではない。

学問として扱う時

三日前と今日。

どちらが学びがいのある日だったか。

間違いなく今日だ。

あまりにも闇が深すぎる今日だ。

一応、日本文化を専門としているが

近現代史の専門家ではない私が深く語るべきではない。

気になる方は「浦上」の地について、ご自分で調べて欲しい。

決して二番煎じが故の「地味キャラ」でないことが分かる事だろう。

まぁ、潜在意識下でいろいろあって私はあの地に立っていたのだろう。

不思議な感覚だった。

両手で黒く輝く物は重く

そこらじゅう刺され撃たれて痛く

身体は濡れた衣を羽織っているが如く。

現実と違えるほどの感覚の再現度であるにも関わらず

熱さだけはなかった。

辺りは砂埃の幕が上がっていた。

何か挙げるものは何も見えない。

あるのは舞う幕である。

息苦しさはあった。でも、呼吸は自然出来ていた。

時が止まったかのようなそこは

実際は溶けて無くなってしまうほどの温度だっただろう。

だが、感じていたのは私の身体が寝転がっていた部屋の温度ほどの熱。

あぁ、知らないからだ。

知らないから感じないんだ。

私は無知の恐ろしさを感じているんだ。

75年。

いつの日か全く知らない世代が紡ぐ時代の幕が上がる。

その一員として私に何が出来るのだろうか。

私は嘆く事以外、何もしないだろうが。

              それでは bye! Konemy

躊躇った日

2020年08月08日 09時00分55秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

今日は何だか縁起が良い日な気がしますね。

一昨日然り、明日然り。

はたまた一週間後然り。

ただでさえ嫌なニュースが続く中

毎年恒例の嫌な話題が流れてきます。

世の中、良い事ばかりじゃありませんからね。

嫌な事も多々あります。

しかし、嫌だ嫌だを繰り返した結果

あるのは「存在価値の消失」です。

皆さん、自らの存在価値って考えたことがあるものなんでしょうか。

正直

「存在しているから」

なんて一言で私は片付けたいところですね。

望んで存在している訳でもありませんし。

芥川龍之介が描く『河童』の中に出てくる河童曰く

両親の都合で子を生むのは可笑しいそうなんです。

理解はしますが、現実問題として不可能な話ですからね。

河童は生まれる前に既にその選択が出来るらしいのですが。

この謂わば「生まれる事の拒絶」を人間界で例えるならば

予定日遅れですかね。

医学の発達によるものか

出産には予定日なるものがあります。

詳しくありませんが、精度は割と良いんですかね。

遙か昔の今日。

私が初めて躊躇った日なんです。

別にそんなのはわざわざ記録でも記憶でも残しておくものではありません。

でも、覚えているんです。

それほどまでに深いものなんですかね。

今日という日がより良い一日でありますように。

良悪あるならば

何も起こらぬ事こそ平穏かも知れませんから。

              それでは bye! Konemy

花形を排除したもの

2020年08月06日 09時03分40秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

今朝の朝刊を軽く斜め読みしてみて

風化ってこういう事なのかも知れないと

僅かながらに感じた次第。

別に当時を知らないし、当事者でもありませんから。

そもそも風化させない事を訴える気もありませんし。

流れに身を任せる次第です。

行き先が落差激しい滝であると感じるまでは。

私にとって8月は夏休みであったり

誰もが一年に一日は持っている特別な日があったり

何かと前向きな月だと幼い頃は感じていました。

ここ最近の8月マイブームが戦争映画・映像や事件のドキュメンタリーを観る事になりつつあります。

末広がりで縁起が良いとされる「八」を冠する月はこの国にとって決して良い月とは言えません。

個人的に最も好きな戦争映画は『硫黄島からの手紙』です。

単に嵐の二宮くんと加瀬亮さんが好きで。

もちろん、内容も好きですよ。

戦争映画と言いますと、やはり戦闘シーンが見どころでしょうね。

銃撃戦、爆破シーン、桜の花びらのように無残にも散っていく命。

今日は戦争モノの花形ともいえる戦闘シーンを極力排除した物語についてお話ししようかと。

ちょうど、今日ですし。

『この世界の片隅に』

漫画・アニメ・ドラマ

いろいろなコンテンツで提供されていますから、名前くらいはご存知でしょう。

因みに、私は三つともに触れました。

舞台は広島県呉市。

戦時下の中で必死に生きていく少女を描いています。

戦争モノではありますが、日常系です。

全くないわけではありませんが、基本的に戦闘は起こりません。

軍に属する男はもちろん出てきますが

録事だったり、技術者だったり。

銃を持って敵国人を葬るなんて事はありません。

戦闘シーンを有するものを軽視する気はありませんが

本来、我々が知るべきはこういったことではないのか。

そう考えさせられる作品でした。

今の生活が幸せか。

そう問われて「幸せ」だと答えられない人も多くいます。

そんな人にこのような作品を観せて

「昔の人はこんな苦労をしていたんだ、贅沢言うな!」

などという人。

私はそんな人が大嫌いだ。

『この世界の片隅に』で描かれているのは

「幸せ」なのだろう。

戦時下という、我々から考えればとても幸せとはいえないだろう中でも

登場人物たちは生き生きとしている。

どうか彼らの事を今、生きる人々が強引に生きる為の説得材料にはしないでもらいたい。

何だか、最後に話が飛びましたね。

              それでは bye! Konemy

パピプペパピコゲーム世代

2020年08月05日 22時24分20秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

本日、8月5日。

語呂合わせから「ハコの日」だったり「ハンコの日」だったりしますが

今回は「パピコの日」についてお話ししようかと。

CMで吉岡里帆さんがしきりに宣伝していたので

ご存知の方もいるかも知れませんが。

甘党とは言えない私ですが

アイスは週5で食べるくらいには好きです。

中でも、パピコは結構な頻度で食べます。

残念ながら、パピコの醍醐味の一つたる「シェアパピコ」はやった事がありませんが

パピコの”非”公式食べ方を独自に開発するくらいには好きです。

基本のチョココーヒーはもちろん

期間限定系統が発売されればチェックし、気になれば実食します。

パピコと言いますと思い出されるものがあります。

それは「パピプペパピコゲーム」

ちょうど5年前に流行しました。

覚えている方はいらっしゃいますかね。

検索すれば詳しく出てきますが

簡単に説明すると滑舌ゲームです。

それも「炙りカルビゲーム」より頭を使う楽しいゲームです。

本日、パピコの日という事もあり

夕食後に備蓄していたパピコ(白桃)を頂きました。

その際、近くにいた方に久々に仕掛けてみました。

パピプペパピコゲームは突然始まるのです。

「パピコ!」

見事にスルーされましたね。

致し方がない。

少し世代が違ったようです。

ジェネレーションギャップです。

結局、頭の上にハテナが浮かぶその方に「パピプペパピコゲーム」を説明して

その場は終わりました。

私も5年ぶりの「パピプペパピコゲーム」でしたから、滑舌が壊滅的でしたね。

ただでさえ自粛続きで他人と全く話さない日々が続いているんですから。

若者文化というモノにだいぶ前に置いていかれてしまった私ですが

未だ、バリバリ現役の若者です。

やはり大人世代にはなれませんね。

一年程度の流行で「世代」を語るのは適当ではないのかも知れませんが

一年でも流行れば「流行の世代」は出来上がりますから。

「パピプペパピコゲーム世代」は今の10・20代なんですかね。

              それでは bye! Konemy

現夢逆転

2020年08月02日 22時09分11秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

今朝、遂に恐ろしい事が起こりました。

などと始めてみますが、大した話ではありません。

前々から述べてはいるのですが

私は睡眠中に現実と違うほど精巧な夢を見ます。

それは現実世界と一日差が生まれてしまうほどに。

ある時、昨日の話を一昨日の事として話していて

周囲に奇妙なものを見る目を向けられたのを覚えています。

現実と夢の区別なんて簡単だろう

ほっぺたをつねれば良いんだから。

などと言う方の夢はさぞ非現実的なのでしょうね。

私の夢は痛みのみならず、五感全てを再現しますよ。

感触があるんだから面白い。

確かに空を触っているというのに。

それでも今までは”現実>夢”の構図でした。

やはり、夢は夢。

現実に多少の影響は及ぼせど、それほど大きな存在ではありませんでした。

しかし、今朝。

私は夢の世界にいる為に現実で起こった問題を解決しようとしたのです。

世俗的にいうならば

「二度寝する為に目覚まし時計を止める」

そんな行為と似ていますが、事の重さが違います。

あの時、確かに私は夢を自らが常駐する場だと錯覚していたのです。

なんとも恐ろしい。

今回はすぐにその錯覚に気がつき

どうにか帰還出来ましたが

今後、完全に現夢逆転してしまったら

なんて考えると怖いです。

それでも私は夢を見続ける事を望みますけどね。

どちらの世界が幸せかなんて愚問ですから。

              それでは bye! Konemy

八朔

2020年08月01日 23時32分00秒 | 日記
おはようございます。

Konemy述べる時間です。

節目に書いて忘れるタイプ。

今日から8月です。

いつの間にか梅雨が明けて

晴れたと思ったら突然の雨に見舞われたり。

7月に台風が来なかったり。

何かと異常です。

ただ嘆くだけ。

だって、何も出来ませんから。

これを記す部屋の温度は29.4℃

少し涼しめですね。

今日のカレンダーを見てみると

ものによっては「八朔」と書かれています。

ナニソレオイシイノ?

美味しいですよね、八朔。

旬はひと月くらい先ですが。

今はまだ酸っぱいです。

そんな話で止まる人は私と気が合いませんでしたね。

残念!

「朔」ってどういう意味だかご存知ですか。

「ついたち」と読みます。

もちろん、先に述べたよう「サク」とも。

意味は「月の初めの日」という意味です。

ご安心下さい。

小学5年生では分かりません。

先日、カレンダーをめくったある人に聞かれました。

「ねぇ『八朔』ってどういう意味?」

私も知りません。

しかし、私と同様の肩書きを持つ者は

決して「分からない」と口にしてはなりません。

それは思考の放棄ですから。

人間、全知ではありません。

どんなに頭が良い人でも何でも知っているなんてあり得ません。

なんでもは知らない。知っている事だけ。

かつて「歩く辞書」などと呼ばれたこともある私ですが

もちろん、この世の事の0.001パーセンも知らないでしょう。

それが普通です。

だから私はこう答えます。

「知らない」

無知は嘘偽りなく明かします。

ただ今回は断片的な知識がありましたので

「8月1日の事だよ」

間違いではありません。

正しい回答の一つでしょう。

部分点・及第点はもらえます。

模範解答につきましては

気になる方のみグーグル先生にお尋ね下さい。

丁寧に教えて下さります。

あと半時間でそんな八朔も終わります。

何だか寂しいですね

ただ日を超えるというだけなのに。

「日を超える」価値についてはまた後日。

              それでは bye! Konemy