Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

平和ボケ

2019年10月31日 21時49分20秒 | 日記
おはようございます。

世間的には本日はハロウィン。

あんまり詳しくないですが

元々宗教行事だったそうで。

無宗教などと言われる日本人が大いに楽しむなんて

面白い話だと思いませんか。

言い方に問題がありますけど

睦月に寺(仏教)やら神社(神道)やら

如月に節分(仏教)

弥生飛ばして

卯月はイースター (キリスト教)

皐月、水無月再び飛ばし

文月眺める天の川(仏教・神道)

もう疲れた。

神無月はハロウィン

師走にクリスマス。

飛ばしまくってやって参りましたが

入り混じっているのはお分かりいただけだろう。

重要なハロウィンを適当に紹介したのは勘弁。

何故なら、日本のハロウィンは宗教的要素がほぼ無いからである。

まぁ、今日はそんなことを語りたいのではなく

ハロウィンを通してこの国が如何に平和に溺れているか説こうかと。

実際のところ平和なのか分かりませんが

まぁ死ねない程度には平和でしょう。

ハロウィン直前の週末。

某都市が心配したのは人件費であった。

尋常じゃない化粧を施した集団が群れているというのに。

これは一種のテロ行為ともいえる。

これがテロと認識されない程なのである。

とんだ能天気な者たちだ。

悲しいかな、私にとってのハロウィンは

『日本人留学生射殺事件』なのです。

簡単に説明すると

仮装してハロウィンパーティーに向かっていた日本人留学生が

会場を間違えてしまい

全くの別宅に侵入してしまい射殺された事件。

巷では「言語と文化の差異による事件」なんて言われている。

大げさな例だが、仮装とは危険なのである。

するのもされている場に行くのも。

まぁ、平和ボケしたままいるのも幸せだから否定はしないよ。

              それでは bye! Konemy



狂え、奇書ぞ。

2019年10月28日 15時48分00秒 | 日記
おはようございます。

月に5冊は本を読む私ですが

今月はなんと一冊と二冊目途中で終わりそうです。

読んでいない訳ではないんです。

むしろ

普段より読書時間は長いです。

集中していない訳ではないんです。

むしろ

時が過ぎるのを忘れてしまうほど

周りが見えなくなるほど

集中して読んでいるのです。

以上の現象の理由なんて

考えても分からないので

普段の読書スピードが異常であり

流し読み・速読しているとして。

一体、神無き月に私は何を読んでいたのか。

知っている人は知っているだろうが

同時期の作家としてはあまり有名ではないのかも知れない。

夢野久作が命をかけて書いた作品。

『ドグラ・マグラ』

彼はこの作品を発表した翌年

その生を終えている。

あらすじを……

と言っても、難解すぎて私如きにはあらすじなんて出来る気がしないが

努力することとしよう。

別にググってもらえれば

私なんかよりずっと分かりやすくあらすじを書いている人がいるだろうよ。

一人の青年と一人の天才精神科医の話である。

記憶喪失者である一人の青年が、精神病棟で

自分は一体何者なのか探求する中、『ドグラ・マグラ』という原稿に出合い

読み進めていくうちに、自らが母親・許嫁を殺した狂人であることを知り

狂った原因が天才精神科医にあると知る。

読んだのはこの辺までで、結論は分かりません。

夢野久作は探偵小説家であり

『ドグラ・マグラ』は日本探偵小説三大奇書と言われ

読んだ者は精神に異常を来たすという。

ただ、上巻を読んだ印象としては

現実と虚構の間に彷徨う気分を得られる

「ヘビーライトノベル」といった感じだ。

矛盾しているだろう。

だが、そうとしか言えないのだ。

今月中に読破を目指します。

              それでは bye! Konemy

「本」を語ってみよう。

2019年10月20日 15時35分00秒 | 日記

おはようございます。

日常を普段述べている私ですが

たまにはモノについて語ろうかと。

普段と何が違うのか。

それはモノについて書こうとしてるか

自然と語ってしまうか。

ふと浮かんだのが「本」でした。

「本」

とても好きなものの一つ

毎日持ち歩いているものの一つです。

「好きな本は何ですか?」

そんな質問を何度も頂く肩書を

幸いなのか持っている私。

答えは毎回同じです。

湊かなえ著『告白』

初めて読んだのが中学一年生の頃でした。

同時の担任に

「決して読んではならない。」

と、言われていたにも関わらず

私は手を出してしまいました。

映像化すると

この作品はR15+。

15歳というと中学三年生。

子供の年齢は一歳の価値が違います。

一年、一年がとても重たいのです。

当時は実感がなかったが

振り返ってみると

あの頃の一年は重たかった。

14歳と15歳にどれほどの違いがあるのか。

過ぎてしまった人々には

とても理解出来ない違いがその一年にはある。

私が映画『告白』を”合法的”に見られるようになった頃には

衛星放送で流れるようになっていた。

私が思い描いた世界とはかけ離れた世界が描かれていたが

その世界観にも私は引き込まれた。

と、まぁ『告白』の話を続けても良いが

今回は本を語るために筆を進めている。

もとい。

キーボードを叩いている。

電子化が進む社会。

本の定義が揺らいでいる。

そんなことを感じる人もちらほら。

私もそんな一人。

そもそも「本」とは

辞書・辞典に聞いてみても

「書物」「書籍」だぁ

「書籍」「書物」だぁ

何じゃそれはといった回答しかない。

それでは「書物」とは

「本」「書籍」「図書」

「本」「書籍」「図書」「典籍」

おいおいオイ……

次は「書籍」とは。

「本」「書物」「図書」

「書物」「本」「図書」

うん。

ここまでで新しい言葉が出てきたからさらに聞こう。

「図書」とは。

「書籍」「書物」「本」

次は「典籍」

「書物」「書籍」

定義というものは辞書・辞典を参考にするのは結構ですが

定めるのは辞書辞典でないと感じる次第ですね。

これはまるで「蝶」と「蛾」の議論。

「蝶」でないものが「蛾」で

「蛾」でないものが「蝶」である。

結局、本とは何でしょうね。

現代人、電子書籍を日常的に持ち歩き

紙媒体書籍を日常的には持ち歩かなくなった人々も

「本」と言われて浮かぶのは

いわゆる”紙の”「本」であろう。

そう信じたい。

それが変遷していき

本=電子書籍となる時代まで

本=紙の書籍でも良いのではないだろうか

そんな無責任な結論で終えよう。

是非とも他人の意見も聞いてみたいところだが

こんなどうでも良い(と思われている)ことを考え始めるのは

我々のような肩書きを有する存在のみなのだろう。

常識の定義なんて考えるものでない。

それでは bye! Konemy

落とし物が作り出す

2019年10月15日 21時30分00秒 | 日記

おはようございます。

道を歩いていると様々なものが目に入ります。

足元に落ちているゴミに目が行くということは

前を向かずに

俯いて

真下に気があるということだ。

見ようとしなければ見えない。

人間って都合の良い存在ですから。

先程ゴミとしましたが

ゴミとて物語を持っています。

主人公たり得るのです。

大なり小なり

物語があるのです。

壮大なる主観物語を抱える人間に

認識してもらえない物語。

知人の作家が愉快な話を書いていました。

作家本人自筆ものもを読んだことがありまして。

前置きとして。

画面は割れて、辛うじて映し出されるものが見える。

しかし、すっかりバッテリーがダメになってしまい

充電する事すらまともに出来ない。

そんなスマートフォンはゴミですか?

貴重な金属の塊ですが

一般的にはゴミでしょう。

手放さず、持ち続けようと思うほうが珍しい。

そう思わなくてもそう思ってほしい。

話を戻して。

知人が書いた話のあらすじである。

ある日、自宅に帰ると

玄関にボロボロのスマートフォンが落ちていた。

画面は割れて、辛うじて映し出されるものが見えると思われる。

しかし、すっかりバッテリーがダメになってしまい

充電する事すらまともに出来ない。

拾った主人公はゴミと認識しながら

捨てることは無かった。

画面に謎の暗号が記されていたから。

(残念ながら何が記されていたかは不明である。)

今後、このゴミに振り回される主人公を描いた物語である。

簡潔に言おう。

落とし物が作り出す物語は幻想である。

この話は自宅で拾ったから当てはまらないが

落とし物を自分のものにしてしまったら

遺失物横領罪

なんてものに当てはまる。

現実はつまらないものだ。

これが法治国家だ、仕方ない。

別に法治国家を批判したいわけじゃない。

現実は厳しい。

現実はつまらない。

現実は辛い。

でも

現実は夢がない

わけではない。

夢・幻想・空想は

厳しい・つまらない・辛い現実に

確かに存在する。

二面性。

だから面白い。

それでは bye! Konemy

氣吹

2019年10月09日 21時10分42秒 | 日記
おはようございます。

この頃は涼しくなり始めて

少しずつ秋を感じるようになって参りました。

しかし、南には夏を象徴するようなものが。

なお、今年最強の模様。

湿った空気がやってきます。

吸い込む空気が程よい刃を持つのは

果たしていつ頃のことになるやら。

皆さんは「氣道」というものをご存知でしょうか?

日本において「道」という名を冠する者は数多くありますね。

運動でいえば、柔道・剣道・合気道など。

三代屋内芸能などと言われる

茶道・華道・香道なども「道」ですね。

一部の方向けに、乙女の嗜み「戦車道」

なんて話も添えておきます。

話を戻して「氣道」です。

『「氣道」とは文字通り、「氣の道」

自然(=生命、氣)に沿って生きることを指しています。

「氣」とは、古来中国では、天の理(ことわり)に通じる言葉であり

大宇宙と小宇宙(人体)を結ぶ架け橋である、呼吸にも関係し

そして、心に宿る思い、場の気配を伝える、奥深い言葉でもあります。

「道」と名がつくもの、武道、茶道、華道などは 日本において伝統的な体系ですが

これは、お稽古場の中で行うことだけでなく

本来、暮らしのあらゆる側面に、その思いや鍛錬の結果が現れるよう

日々歩んでいく「道」といえましょう。

氣道とは、一生を通じ、健やかな身心を育んでいく道です。』
(氣道協会HPより)

まぁ、ここまで長々語ってきましたが

今からする話は「氣道」から外れます。

氣道ですが、「氣道」ではありません。

「呼吸」というものは不思議なものです。

人間、呼吸をしなければ

生命活動維持のために必要な酸素の取り込みが出来ません。

植物だって呼吸をしています。

そんな日々の中で無意識に当たり前に行われている行為

仕方って分かりますか?

逆に考えてみましょうか。

呼吸の仕方が分からなくなった事がありますか?

これはとても怖い現象です。

意識がある状態。

自分が呼吸をしていない事を認識する。

しなくては。

そう思った刹那、呼吸の仕方が分からないのです。

息が出来ない。

今はまだ苦しくない。

でもいずれ苦しくなるだろう。

息が出来ない、空気が吸い込めない。

こんな恐怖です。

端的に分かりやすく説明するなら

見知らぬ誰かに首を絞められているが

絞めている人物の気配はない状態に似ていますかね。

全然分かりやすくないですね。

呼吸の仕方を考えてしまうと呼吸ができなくなってしまう人もいるので

あまり深く考えないように。

最近放送されていたアニメの中で

呼吸によって身体機能を向上させる描写があるものがありました。

まぁ、創作物ですから非人間的面があっても構わないですし

もしかしたら、大正時代の日本人は

呼吸次第で瞬間移動じみた事が出来たのかも知れませんね。

冗談はさておき。

呼吸で身体機能の即時強化はなかなか厳しいものがありますが

間違いなく集中力を向上させる事は可能です。

それが「道」に内在する氣道です。

経験で語るのが一番しやすいので。

剣道。

今でこそ竹の棒を使った叩き合いですが

もとは真剣。

人を殺す為のもの。

剣の道とはそういうもの。

一瞬の隙が死に繋がる。

形は違えど、現在の剣道も似たようなもの。

その為には集中する必要がある。

ある意味、格闘技的要素もある剣道で

呼吸で集中を高めるのは難しいと思われるか。

確かに難しいだろう。

だが、出来る者は剣の道を見るに至ったのだと勝手に思っている。

茶道。

茶を点て、客に提供する。

その過程で点前は無駄だと合理主義者は思うだろう。

同感だ。

ただ

見事な点前を経た茶はやはり

うまさが違う。

一連の点前は

たった一服の茶を出す為の儀式なのだ。

ここに邪念が入るか入らないかは大きな問題となる。

点てる直前

呼吸で集中力を高め、点てられた茶は

経験の差を埋めかねない。

もちろん流派の免許皆伝者たちには遠く及ばないだろう。

だが、微々たる経験者が点てる

邪念混ざりの泥水なんかよりもずっと見事な茶だろう。

今ここで挙げた例は

「道」の中のものだが

そもそも「道」とは日常生活の延長線上に存在するものだろう。

今日を境に、何気ない「呼吸」という行為を意識してみるのも一興ではないだろうか。

それでは bye! Konemy

死人に口なし

2019年10月03日 08時40分17秒 | 日記
おはようございます。

十月に入り

若干涼しくなったと思えば

または暑くなるようです。

朝は20度を下回る

過ごしやすい気温ですが

未だ熱帯夜です。

秋は愁いの季節。

「秋心」なんて書くんですからね。

何かと現世に絶望するのでしょう。

電車が生活の中に存在している人にとって

人身事故は敵です。

テレビの向こう側に映し出される犠牲者には祈るというのに

目の前を走るべき電車を止めた自殺者には舌打ちする人々。

まぁ、逝くのは勝手ですが

無関係な自分に迷惑を掛けないでくれ

そんな心理でしょうかね。

いくら責めても

死人は何も答えちゃくれない。

そしていずれ忘れられて「殺される」

「人は二度死ぬ」なんて言われますね。

一度は生物的に。

一度は社会的に。

仕方のない事です。

社会的に生かしてくれていた人達も

いずれは生物的に死すのですから。

歴史に名を残し

後世に語られる一部を除きますがね。

多くの人は何故か

生物的死には抵抗があるというのに

社会的死にはあまり抵抗がない。

なんて言ったって

社会的死は実感できないでしょうからね。

それは生物的死も同様でしょうか。

死んだことがないので分かりません。

さて

最近、死人が語れぬ事を利用して

保身に走る老人をテレビで見かけます。

醜いと思いますが

あれが「大人になる」ということなのでしょうね。

決してネバーランド症候群ではないと思いますが

"大人"にはなりたくないものですね。

「死ぬ」って何?

最大の疑問です。

生きている人は定義付けするしか答えを導き出せませんから。

まぁ、被造物の溢れかえった前世では

「一つの物語の終わり」

なんて定義付けをしても良いのでは。

人は誰もが自らが主人公の物語を演じています。

主観の物語を見ている、なんて言い方でも構いません。

その物語の終わり

それが「死」だと定義します。

ならば「死ぬ」前には確かに存在していた物語。

仮に自害ならば

物語の中に「自害に至った原因・理由」が

あるはずなんです。

自殺した方の

年齢・所在地・肩書

その程度の情報なら一般人でも手に入れられます。

ある程度の情報があると、どうも想像してしまいます。

物語を。

不謹慎だと思われますか?

えぇ、確かに。

当事者にとってはそうでしょう。

ただ、私は赤の他人。

名も知らぬ他人の事を思う事はいけないことでしょうか。

逆に赤の他人に「社会的に生かしてもらえる」なら

亡くした命も本望でしょう。

これは決して電車を止められた恨みなどではありません。

日々空想に浸る、一人の青年の話。

それでは bye! Konemy

孤独を愛せない。

2019年10月02日 10時37分52秒 | 日記
おはようございます。

突然の話ですけど

あなたは"1"を愛せますか?

そもそも数字を愛せない

文系諸君。

「一」を愛せますか?

"1"、"Ⅰ"、「一」、「壱」

「いち」、「ひと」、「ひとつ」

最小を表したり

頂点を表したり

根源を表したり。

そして、孤独を表したり。

記号としては虚しいものだ。

線一本で書かれ

乱れに乱れる時もある。

何かと間違えられることも多々。

私個人は

"1"

あまり好きではありません。

理由は……

何故なんでしょう。

好きでない理由を言語化出来ない理由は

無関心か無知か。

前者でしょうね。

数字・単調な記号なんて

愛するに値しない

そんな価値観を持つ薄情者なのでしょう。

でも

"11"は好きですよ。

素数。素敵な数字です。

さてと。

何故にこんな話を始めたか。

今日は本ブログ

『Konemyのベル』

開設1,100日記念日。

比較的に飽き性な私が長く続けたものだ。

適当な記念日の度に述べてる気もするが

新参も信じて。

このブログの名称は

『NEKOのベル』

から来ております。

こちら、かつてNEKOというものが

日記と称して物語を載せてまして。

"NEKO novel"と「NEKO述べる」と「ネコのベル」

三つを掛けた名称だそうで。

で、まぁ

一応、同一人物が書いているが

「裏の顔ではない」という意味合いで

私の(自称)あだ名を使ってつけました。

残ってる陰の意味合いが

「Konemy述べる」

くらいになってしまいましたけど。

鈴なんて持ち歩いてませんし。

嫌いではないですが。

和みますよね、鈴って。

本ブログは投稿すると約ニ、三十名の方に

閲覧して頂いています。

嬉しい限りです、ありがとうございます!

多いときには何故か百名近くが閲覧しているようで。

割と怖かったりします。

一方通行・勝手語りですし。

返答が別媒体か何かでもあれば少しは気楽なんですけどね。

下らん駄文に感想を抱くほど暇人は

ご覧になっていないでしょうから。

今後も稚拙で未熟で下らない

駄文をどんどん提供していく所存です。

ご覧になっている方々

よろしくお願いしますね。

因みに好きな数字は"8"です。

一秒で忘れて構わないのでお見知りおきを。

それでは bye! Konemy