Konemyのベル

『毎日を特別なものにする為』
その日の総括、思う事、省察……
ここは「のべる」場です。

何億も掛けて紡ぎ、百円で奪えるもの

2020年01月29日 23時07分08秒 | 日記
おはよございます。

つい最近。

朝起きたらまず何をするか、尋ねられました。

あくびですかね、伸びですかね、軽い咆哮ですかね。

人によっては

「今日も健康に目覚められたことを感謝する」

なんて答える人もいるのでしょう。

いま現在、そんな事を言う人は浮いてしまうのではないでしょうか。

それはまるで「生きる事が当たり前」であるかのような

生存当然説神話が存在しているからだと感じる次第。

戦時下において

「ここで最も安いのが命だ。」

なんて言葉を聞いた事があるでしょうか。

日本人にとって「戦時下」と言うのは

はるか昔の生前。

約75年前の事を指しますね。

今を「平時」だと考えていられるなんて

なんておめでたい人々なんでしょうね。

大規模ではないにせよ、世界では未だ戦争は行われている。

遠い地の事、島国だから、自らが起こしていないから関係ない。

そんな言い訳の通用する世の中ではもうなくなってきている。

昨今話題の感染症が教えてくれている。

空は繋がっている。

国と国とは既に離れたものではなくなっているのです。

目を瞑るのは簡単な事。

目を背けるならいくらでも出来る。

だから

瞑った。

背けた。

結果が未だ。

生存当然説神話語られる平和ボケした世界。

一遍死なないと分からないだろうね、死んだら分からんけど。

微かに語られる事であり、聞いた事がある人は幸いにも何人かいるでしょう。

いま持っている命は当たり前のものではない。

どれほどのものか、私を例に説明してみましょう。

数値化するのがわかりやすいかと思いますので。

私はいま現在まで生きる過程で

少なく見積もっても2,000万円は掛っています。

更にこの先も……なんていったら億の単位ですよ。

さてこの命、消すのにいくら掛かるか。

いくらでも少なく見積もれますが、簡単な例を。

百円ショップでカッターナイフを買ってきて、頸動脈を切り裂けば

はい、終わりました。

ぐったりとして、血の海に溺れる屍は

何千万と掛けて、連綿と紡いできたもの。

百円で壊せても、百円じゃ直せません。

「ここで最も安いのが命だ。」

戦時下で、と先ほど言いましたが

平時でも命が安い事は変わりませんね。

別に命を大切にしろ、などといった啓蒙じみた事を言うつもりはありません。

ただ、持っている「命」に対するイメージは崩壊させて欲しく思います。

カーテンから差し込んできた久方ぶりの日差しを目に受け

眩しいと思うと同時にふと思った事。

              それでは bye! Konemy

「軽蔑」と「劣等感」

2020年01月17日 12時45分00秒 | 日記

おはようございます。

さて、遂に明日はセンター入試試験。

私もかつて受けた事がありますが

二度と受けたくはないですね。

毎年何かしらの事件が起こるセンター入試。

今年は一体、何が起こるだろうか。

そんな事を楽しめる様になりましたが

当事者からしてみれば

大人に遊ばれている感覚でしょうね。

終わりじゃない。

そんなのは綺麗事です。

センターで転べば終わりなんです。

一般入試は富裕層の戯れ

本来、贅沢品であった教育が日常品に変わっても

未だ高級品である事実は変わらない。

そうです

人生が終わったと感じても仕方ないんです。

実際違うのは百も承知ですが

それはセンターを終え

絶望を超え

生き残ってやっと気づく事です。

受験生は常に闇の中にいる様なものです。

闇の中で一瞬でも光を見失えば歩みを止めてしまう。

そんな危うい存在相手に遊ぶなんて如何なものか。

受験はなんて残酷なんでしょうね。

今この場で受験について批判も肯定もしません。

残酷でも合理的かもしれない。

残酷だから廃止すべきかもしれない。

当事者ではない私が言うべき台詞ではありません。

なので、私は話せる事を語りましょう。

私もかつて二度

受験というものを体験した事があります。

人生を左右する、当時はメルクマールだと思っていましたよ。

訳あって高校入試は緊張感のない

十中八九合格する状況で受けましたので

ここでは

中学入試と大学入試を。

思い返してみると

努力したと言ったら嘘になりますね。

関係者各所に申し訳ありませんが

「流れに身を任せた」

こんな言葉が適当かもしれません。

二度の経験の先で私が得たもの。

それは

「他者の軽蔑」と「自己への劣等感」

私は何もやっていないという自負が他人を見下すことに繋がり

私は何も出来なかった

何もしなければこんなにも不出来

と、自らに失望するのです。

これらの思いは結果として

充実とはかけ離れた学校生活を形成します。

自分の場所はここではないと思いながら

自分の場所がここである事を強く実感する日々。

異様です。

吐き気がするほどの気持ち悪さ。

当たり障りなく生活していく術は

開き直る事

悟る事

そして、諦める事。

酷い道を歩んできたとは思いません。

私は後悔なんて一センチもしていないのだから。

それでは bye! Konemy

また、昨昼を夢で過ごしていた

2020年01月17日 07時38分00秒 | 日記
おはようございます。

私が現実と違えるような夢を見る事は

私の中では知られた話なのですが

現実と区別がつかないほどの

世界構築をしてくるので

大変困ることがあります。

五感はもちろん、現実世界を事細かに再現してきます。

夢の中では、それが「夢」だと気づく事が不可能です。

今日は金曜日。

何度も色々なものです確かめたので確実なはずです。

と、いうことは

木曜の午後、正確にいつからだか分かりませんが

確実に言えるのは16時以降

私は1月16日木曜日の16時以降を二度過ごしています。

どちらも同じ場所にいた記憶です。

しかし、登場人物は違います。

私は昨昼、三人の人物に会いました。

一人は先輩。一つ年上です。

一人は同輩。いまは同い年です。

一人は後輩。一つ年下です。

これが真実の昨昼に会った人物です。

しかし、確かに昨昼に同じ場所で

全く違う別の三人と会っているのです。

一人は後輩。同じ事を学ぶ、いわば直属の後輩です。

一人は後輩。今年初めて会いました。

一人は後輩。年明け後も数回会っていますが、昨日ほど長話したのは今年初めてです。

会話の内容

纏っていた服装

そして、何より彼女たち(記憶の鮮明を強調の為、敢えて)の一人が持っていた本のタイトルまで

克明に覚えているのです。

因みに、以前に昨日交わした会話はした事がなく

その本を持っていた記憶もありません。

全くの新しい記憶なんです。

恐ろしいですよね、私の妄想力。

夢から醒めた後の倦怠感で

私は現実へと帰ってきた事に気が付きます。

そして、記憶の整理を始めるのです。

参考にするのは主にSNS。

頻繁に投稿してますから

意外と簡単に整理出来ます。

「何故そんな夢を見たのか」

そんな事まで推測出来てしまいます。

それでも、無意識に夢での話を現実に持ってきてしまい

時に他人を困惑させる事もありますね。

現実と違える夢は決して悪夢ではないと思いながら。

それでは bye! Konemy

虹を見たきゃ眼鏡を曇らせ闇夜に灯る光を見つめよ

2020年01月16日 23時05分35秒 | 日記
おはようございます。

年を越して孟春・春だというのに

気温は未だ冬の気配。

明日なんて雪が降るなんて言うじゃないですか。

眼鏡ユーザーとしては望まない季節です。

人生の半分ほど眼鏡と共に生活してきた

自称「生粋の眼鏡」ですが

大好きな眼鏡も全てが好きなわけではありません。

好きになれないところも含めて好きなんです。

意味が分からないですかね。

えっと、眼鏡の何が好きになれないか。

一番は曇る事ですかね。

曇り止めである程度防げますが

曇ることは曇ります。

視界を良くするための道具が

却って視界を妨げる皮肉。

最高にカワイイと思いませんか?眼鏡って!

……いや、失礼。

そんな眼鏡が曇る特性を活かして

素晴らしい景色を見る方法があります。

みなさん、一度は見た事がありませんか。

大空に掛かる虹を。

または、太陽を包む円形の虹を。

七色なんて言われますけど

気のせいですよね、そんなにありません。

しかし、何色だろうがなかなか見れるものではありません。

それが、眼鏡ユーザーは任意で見る事が出来るのです。

自然現象(?)の虹を。

いくつか条件はあります。

まずは辺りが暗い事。

出来れば周囲が寒い事。

そして、灯りがある事。

どれも簡単な条件でしょう。

方法も簡単。

まずは眼鏡を曇らせる。

掛ける。

そして、明かりを見る。

虹の完成です。

マスクをつけて、眼鏡が曇る夜闇。

灯る街灯は虹です。

              それでは bye! Konemy

まさか牛が自らの肉を美味しいと言うのか。

2020年01月10日 12時00分00秒 | 日記

おはようございます。

本日を持ちまして

本ブログ開設1,200日

こちらも含め、計128本記事を投稿させて頂きました。

感謝、感謝。

これからも駄文にお付き合いください。

さて、記念すべき!

という事で少々近況を含んで語りましょう。

長丁場ですよ。

私事になりますが

ここ最近、「食」について軽く勉強しまして。

前置きとして「軽く勉強し」てモノを語るほど危険な事はありません。

そんな危険な事を今からします。

悪しからず。

食学といえども、栄養学の方ではなく

どちらかというと食文化の方ですが。

記憶に新しい話で言うと

クリスマスケーキの完全予約制

おせち料理の完全予約制

みたいな事を小売店が行いましたよね。

これからの話ならば

恵方巻の完全予約制

的な。

どれも物が変わっただけで同じ事を言っていますね。

時代は「豊食」の時代。

時は流れて、現代人は「飽食」状態に陥り

このまま行けば「崩食」を迎える事になる。

みたいな

端的に言えば、「食品廃棄物を減らそう」運動です。

まぁ、そんな事を勉強してます。

専門じゃないといえば専門じゃないんですけど

日本って先進国なんて言われてますから

一応、専門の範疇です。

減らそう運動を考える上で重要なのが

「何故、食品廃棄物はいけないのか」です。

そんなのは常識で分かっていることです。

ただ

全ての常識を疑う。

全ての真実を疑う。

それが我々に課せられたものなので考えてみます。

と言っても、平和に生きようと思えば

常識ほど疑うべきではないものはありません。

修羅の道なんですねぇ……。

話を戻しまして。

「何故、食品廃棄物はいけないのか」

分かりやすく言い換えれば

「何故、食べ物を粗末にしてはいけないのか」

難しい話です。

答えなんてないかもしれませんね。

それでも着地点は模索します、話し始めてしまったので。

「他国では今この瞬間にも餓死している人がいます……」

なんて語られたところで困ります。

関係のない話なんです。

食べ物を大切に頂いても

はたまた

粗末にしたとしても

餓死寸前の人々を助けるには至らない。

結局は綺麗事なんですね。

まぁ、餓死寸前の人々の事を思うならば

充分に食を与えられている事を感謝し

無駄にすることないように。

そう解くなら理解は出来ます。

でも、満足出来ません。

それは「人が頂点たる存在」という前提の下での考えですから。

他人の為に食べ物を粗末にするな。

なんて認めるわけにはいきません。

食べられる側の目線が必要なんです。

生物は他の生物の「生命」を戴いて生きています。

人間とて例外じゃありません。

「死人に口無し」

人ですら死者に語らせぬのに、畜生に語らせようと?

えぇ、語らせるのです。

でも、この話を世の中は肯定するわけにはいかないんですよね。

畜生に語らせる事を認めれば、カニバリズムの肯定に繋がります。

飛躍しましたね、説明します。

まずは我々、日本人の主たる肉についての話です。

面倒なのでジビエを除く為の「主たる」です。

私が浮かぶもので挙げると

牛・豚・鶏・魚くらいですかね。

猪・鹿・馬は私にとってはジビエです。

猪くらいならお隣辺りでは当たり前のように食べられてますが。

話を戻します。

日本人は何故これらの肉を食べるのでしょう。

スーパーに並んでいるから?親が食べていたから?なんとなく?

皆さん、自分の行動には責任持ちましょうね。

全てとは言いませんが、日々食べている肉は確かに生きていたものなんですから。

説教されても困りますね。私も自分の言葉が痛いですよ。

心の奥で皆さん思っていませんか?

文化的生物じゃないから食べて良い、と。

分かりやすく言いましょう。

バカだから食べて良い。

細かいところは違いますが、大体言っていることは同じです。

真面目な話、主流とされている肉は人為的に生み出されたものでしょう。

もちろん、人工肉というわけではなく

人工的に繁殖させて、育てたという意味です。

そういった肉に野生のものどもと同等の

いってみれば「権利」を認めるべきか。

『約束のネバーランド』なんて読むと考えさせられますよね。

まぁ、あれは鬼vs人間ですからね

話が違いますが。

だんだんと本筋から離れたように思い

また、ここで戻す機会ありとみて一気に戻します。

そろそろ長すぎますし。

先日、人肉(遺体)を食べた動物を殺処分したという報道がありました。

肉食動物です。

自らの主食たる肉を食べただけなのにかわいそうな話です

なんて話ではありません。

こんな話を聞いた事がありませんか?

「人の肉を一度食べるとその味を覚えてしまい、また人の肉を求めて人を襲う」

皆さん、人の肉を食べた事はありませんよね?

あぁ、もちろん故意的にという話です。

今の時代、日本人で自分の食するものを一から自分で用意する人は

限りなくゼロに近いでしょうから。

伝聞ですが

人肉は豚肉なような食感で

少し酸味があるそうですよ。

豚肉を食べたことのある方……

思い当たる事はありませんか?

またまた逸れてしまった。

「……その味を覚えてしまい……人を襲う」

のならば、そもそも何故、人を食べたのでしょう。

科学的根拠に基づいた間違えではない定説なのでしょう。

しかし、定説・常識は疑うもの!

味を覚えなくとも肉食生物は人を襲うものです。

なんせ、人は肉ですから。

ならば人類は肉食生物を駆逐せねばなりません。

しかし、そうはならんやろ?

「人の肉を一度食べるとその味を覚えてしまい、また人の肉を求めて人を襲う」

これは我々、人間の感覚で訳すと

牛が自らの肉を美味しいといっているようなものです。

間違った事を言ってますね、比喩ですけど。

えぇ、牛はモノを語りません。

それにしても、年始に食べたすき焼きは美味しかったものです。

今後ともよろしくお願いしますという事で

開設1,200日記念の挨拶とさせていただきます。

それでは bye! Konemy

朧に食われた月夜にまた彼に逢える気がした

2020年01月09日 20時31分34秒 | 日記
おはようございます。

新春、睦月・孟春は一年の中で

最も乾燥している時期とされます。

その分、火災も多いです。

しかし、雨が降らないわけでもないです。

先日は「春の嵐」などと騒がれたものです。

そんな春の私の楽しみ。

朧月です。

霧や靄で滲んで見える月です。

朧月夜は思うものです。

また彼に逢えるのではないか、と。

2016年5月20日。

旧知の仲であった音楽家が

脳腫瘍でその短い生涯を終えた。

彼との一番の思い出は

当時初等教育高学年

あるクリスマスの日

友人たち三人で約三十キロの道のりを

九時間かけて歩いたことである。

何か目的があったわけではない。

ただ歩いたのだ。

雑談を交わしながら、ただ歩いたのだ。

今ではとても交わした内容を思い出せないほど下らない

そんな雑談を交わしながら、ただ歩いたのだ。

彼は私が今まで出逢ってきた人達の中で

最も尊敬する人物であった。

惜しい。本当に惜しい。

彼の作曲した曲を聴くと

未だ涙が浮かぶ。

自然が大好きだった彼の曲には

自然が数多く登場する様に思う。

「雲」や「空」を名前に冠する曲もいくつか。

そして、ふと思ったのだ。

『雨霽月朦朧之夜』

陰陽重なる大禍時と似た状況なら

もしくは……

久しぶりに友と会う機会を目の前にして

何か思う事があったのでしょう。

彼と迎えられなかった事、非常に悔やまれます。

              それでは bye! Konemy

言語という名の呼吸

2020年01月06日 22時15分12秒 | 日記
おはようございます。

私は毎回、このブログの始まりが同じですね。

「おはようございます」

漢字を含めて表すと少し意味が分かりやすくなりますかね。

「御早う御座います」

前座は挨拶の話でも。

まずは常識の確認から。

朝の挨拶「おはよう」

昼の挨拶「こんにちは」

夜の挨拶「こんばんは」

よろしいですよね。

私は投稿するのが夜である事が多いので

「こんばんは」で始めるのが適当ですね。

しかし、投稿後有り難いことに昼夜問わず読んで頂けているので

始めの挨拶として「‎おはようございます」としています。

私のこだわりです。

話を戻しまして。

以下、諸説ありますが

「おはよう」とは「お早くから、ご苦労様」の略とされ

朝から働いている人に対してのねぎらいの言葉です。

「こんにちは」とは「今日は、ご機嫌いかがでしょうか」の略

「こんばんは」とは「今晩は、とても良い晩です」の略とされます。

覚えたところで何もありませんが

毎日使っている言葉の意味くらいは知っていて損はないでしょう。

毎日使っている言葉。

多くの方が「日本語」ですかね。

では「日本語」とは何でしょうか。

まぁ、日本で用いられている言語なわけですが

ならば海外で「おはよう」と言えばこれは「日本語」ではないのでしょうか。

逆に、日本で"Hello"と言えばこれは「日本語」なのでしょうか。

そんな訳がありません。

定義付けは困難ですが

取り敢えず

「日本国内と日本人間で主に用いられる、日本国の公用語」

としておきましょう。

正しいとは言っていませんが、異議は聞くだけです。

言語学の範疇に入ってくると専門外な訳ですが

ある方にこんな話をされた事を覚えています。

「”日本語”は”二本語”である!」

ただのダジャレではありません。

至って真面目です。

「日本語」は二本の柱によって支えられて形を成しているというのです。

一柱は和文。

一柱は漢文。

待て、待て。

漢文は中国語だろう。

ご尤も。正しいです。

しかし、文科省の掌の上ですね。

日本最古の歴史書とされる『古事記』

そして、本年記念すべき編纂1,300年を迎えたとされる『日本書紀』

通称『記紀』

原文を皆さんは読んだ事がないでしょう。

私も写本しか見た事がありませんが、日本語で書かれているんですよ。

漢文で。

日本人の知る上代文学は何者かの手が加えられ、現代日本語化された物です。

話し言葉たる和文と書き言葉たる漢文の

和漢混淆文。

これが現代日本語の正体です。

当たり前にある物は気にしようなどと思わない。

無意識の中、呼吸をする様に

私たちは日本語という言語を口にしてしまっているのです。

複雑な気分です。

              それでは bye! Konemy


何が「おめで」たいのか考え始めたら負けだと思う。

2020年01月02日 18時42分00秒 | 日記
謹んで新年のご挨拶を申し上げます。

おはようございます。

令和元年

明けてしまいました。

2020ですよ。

10年代すら過去のものとなったわけです。

年を越すこと、歳を取ること

それらがおめでたく、嬉しく思っていた時代もありました。

と、いう事は

今は厭うものになったという事です。

言葉には望まずとも「裏」が生まれてしまいます。

裏読みというものですね。

時に倍の情報を与えてくれる読み方ですが

時に知りたくない事すら伝えてきます。

暗さが見える話は程々に。

新年です。

ただの月越え

孟冬から仲冬へ変わるように

神無月から霜月に変わるように

10月から11月に変わるように

年も変わらず

年度も変わらず

季節も変わらず

ただ月が変わるのと何が違うのか。

そう考えるのは別に悪い事とは言いません。

同感です。

年を越すことの何が「おめで」たいのか。

そんな事は分かりません。

しかし

古来より、元旦・元日には

年を取り、季節が移り、新年を迎えていました。

前までの穢も落とされるとの考えもありました。

「一陽来福」ですね。

素敵な考え方です。

現実味を追い求め、合理的に生きるのも良い事です。

ただ

時には非現実的・非合理的な信仰の様なものを信じてみるのも良いと思います。

決して人生の中で損になる事ではないと思いますよ

知りませんが。

以て新年の挨拶とさせて頂きます。

              それでは bye! Konemy