北の森から眺めてみれば

北海道に移り住んで十数年。ここから眺めた身近な世界、遠い世界の出来事をつづる日々雑感。

由紀さおりと言えば…

2012-02-04 | 生活・文化
 由紀さおりがアメリカのジャズバンド「ピンク・マルティーニ」とコラボした昭和のヒット曲コンサートがアメリカ、カナダで人気を呼び、世界20ヵ国でCD発売されるという。なんで?と思って色々情報を聞いていると、すべて日本語で歌っていて、彼女の声とその言葉の響きが「意味は分からないけれど、感動する」という反応になっているらしい。その紹介記事によると「夜明けのスキャット」に代表される評価らしい。
 私が2歳年上の由紀さおりの夜明けのスキャットを聞いたのは、高校生時代。「寂寥の向こうに何があるのだろう--」というナレーションで始まるラジオ番組のテーマとしてだった。初めて聞いた時、サイモンとガーファンクルの「サウンド・オヴ・サイレンス」と出だしのメロディー4小節がそっくりだったので「マネしてる」と思った。通して聞くと別の歌なのだが、出だしのインスピレーションは「いただいたな」と思っていた。

 由紀さおりと姉の安田章子の童謡を歌ったアルバム「あの時、この歌」は1986年発売当時評判が良くて私もこのLPは買ってテープに落とし、良く聴いていた。日本人の心のふるさとみたいな安らぎのアルバムである。デーブ・スペクターが、言っていることが当たっているかも知れない。「最近のポップス界はアメリカでも日本でもリズムとかビートが重視されてきたが、じっくり聴いて意味を考える歌がやっと受け入れられるようになったんじないか」というようなことを言っていた。
 確かに経済優先で何があってもガンガン前へ進もうぜ的なものに満ちている社会が行き詰まり、閉塞感漂う中で自分を見つめ直し、じっくり感傷に浸ることに飢えている時代の空気にピタリとフィットしたのかも知れない。由紀さおり自身は「日本語が本来持っている美しさを大切に歌うことを心がけてきた」と言っている。

 ところで、由紀さおりと言えば私に忘れられないのは1973年の「ルームライト」。私と2歳違いの兄が東京で生活していたのだが、東京で学生生活の最後に2人で相模湖にブラッと出かけたことがある。秋だったと思うが、その時湖畔の遊覧船乗り場に何度も繰り返してかかっていた曲が「ルームライト」だった。私はその頃油絵に熱中していて画材を持って行き小高い湖を見下ろす丘の上でカンバスを立てて写生した。
 兄は湖畔を長い時間をかけてゆっくりと散策していた。1968年に上京し、70年安保など「学園紛争」まっただ中に学生生活を送った兄が郷里に就職を決め、東京に別れを告げる日が迫っていた。当時兄が何を考えていたか胸の内を聞くこともなかったが、きっと東京で就職したかったに違いない。長男の彼は次男の私、三男の弟も上京するという選択の結果、両親のことを考えたに違いないと思う。その時の兄の表情が「ルームライト」のメロディーと共に私の記憶中によみがえる。


コメントを投稿