北の森から眺めてみれば

北海道に移り住んで十数年。ここから眺めた身近な世界、遠い世界の出来事をつづる日々雑感。

裁判員制度について

2008-04-29 | ニュース斜め読み
 裁判員制度の実施を一年後に控えて、テレビ各局が街角の声として紹介するのを見ていると、一様に「専門的知識もないのに人を裁くのは難しい」と戸惑っているという声が支配的に見える。私は大体テレビのリポートなんか全然信じない、それどころかバカにしている人間であるが、確かにそのような「皮相」な感想を持っている人間が確かに多いであろう事は容易に想像できる。テレビ報道がそのような一般市民を育てていからである。

 この問題に対する市民の反応として最も妥当なのは、
「今日の法曹界においては民意とかけ離れた判断が時々なされている」
「市民感覚を司法界に知らせる意味はあると思う」
「機会があれば是非裁判委員をやってみたいと思います」
であると思う。

 市民が裁判のことをもっと身近に考える必要があると思う。本来裁判というのは他人事ではないのだ。誰もが世の中で日々起こっている様々な事件の被害者、加害者に成りうると言う自覚を持たなければならないと思う。それだけでなく、加害者を産み育てて社会に送り出してしまう可能性も誰にでもあるのである。山口・光市の母子殺害事件被害者、本村さんが死刑判決の後「こういう犯罪が起こらない社会を作るにはどうしたらよいのか、考えて欲しい」と語っていたのもそう言うことだと思う。

北京五輪の聖火リレー

2008-04-29 | スポーツあれこれ
 私は一党独裁政権の中国を理解できる。というか、中国共産党の言い分が理解できる。
つまり「アメリカをはじめとした帝国主義勢力に、国内で自由なスパイ活動を許せばクーデターや動乱をおこし、それに介入する口実を与えることになる。」その先には傀儡政権樹立、実質支配があるのは世界中の「後進国」の歴史が物語っている。

 だから中国は民主化を進めようとしながらも、それを「教えてやろう」という態度の欧米先進国に対しては強い警戒心を持っているのだと思う。欧米諸国は中国のチベットや内陸の少数民族自治区に対する自治権抑圧を声高に指摘するが、本来そう言う抑圧を続けてきた自分たちの過去には反省がない。そもそも欧米諸国にそんなことを言う資格などないのである。

 しかし、今回のオリンピックの聖火リレーは、「オリンピックを開催できるまでに民主主義的な政治が行われ、経済発展の成果によって自力で世界中の賓客を迎えることの出来る力を付けた」と誇示したい中国(共産党)の思惑とはかけ離れた印象をもたらしたと思う。国境なき記者団の「手錠五輪旗」がその印象となり、実体を良く表しているように見える。

 元はといえばチベット自治区に於ける暴動に端を発しているが、これが自然発生的なものなのか中国側の「やらせ」によるものか、情報の開示がないために不明であるが、昔から亡命政府ダライ・ラマにより主張されてきたように宗教弾圧、経済統制が著しくチベット人達の自尊心を傷つけてきた現実が背景にあるのは確かであり、世界中がもう知っていることなのである。

 それなのに一方的にダライ・ラマ側を非難し、何が何でも自分たちの主張を押し通そうとする中国(共産党)の姿勢はやっぱりマイナスなのである。こんな聖火リレーならやらない方がましなのだ。もつと早くにダライ・ラマと話し合い、チベットの要求を聞くのが本来の共産主義のあり方である。本来共産主義思想には弾圧・抑圧などあり得ないはずである。