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>ドラマ水戸黄門が今年で終了?

2011-07-22 16:25:00 | ドラマ、時代劇、歴史
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komasaram

今の里見浩太朗の水戸黄門は、「TBS水戸黄門」の基本パターンを踏まえていて、それは佐野浅夫の時も石坂浩二の時も同じです。石坂浩二の時も全国行脚の設定は変わらず、八兵衛と飛猿と弥七が抜けたといってもお娟を初めとする忍者集団が参加している路線は弥七やお銀の設定を継承したものでしょう。

今の里見浩太朗の水戸黄門の場合、7月18日の第3話「平塚」を見ると、あれはまず、日本の伝統文化である流鏑馬(やぶさめ)の紹介と、それから綱吉の生類憐みの令が必ずしも天下の悪法ではなく、命を大切にすることを人々に勧めた法であるという解釈でした。奇しくも国の命令により、被災地の家畜が殺処分を命じられているご時世で、それも関係あるかも知れません。

しかしそういう製作側の意図を理解する視聴者は極少数になったのかもしれません。

多くの人は夜8時45分(または夕方4時40分~50分手前)の印籠だけが目当てだったり、殺陣が少ないと文句を言ったり、里見浩太朗が助さんのイメージだと不満を言ったり、由美かおるが出ないだけで不満になってしまうとか、女優がお風呂に入らないだけで不満とか、石坂浩二の水戸黄門はイメージに合わないとか、低レベルで表面的な所にこだわっている傾向にあります。

東野英治郎時代から見ている側としては、由美かおるさんは東野英治郎時代のゲストの後に西村黄門時代からレギュラー化した新参者で、雛形さんや2代目三平と変わりありません。

女優のお風呂シーンなんて「最近」水戸黄門でレギュラー化して、これまた「最近」なくなったサービスで、別にどうでもいいものです。

また、今でも見ている熱心な水戸黄門ファンは、水戸老公が全国行脚して毎回印籠という基本設定が同じなら光圀役が東野英治郎だろうが里見浩太朗だろうが熱心に見ているわけで、番組HPに「やめないで」と書きこんでいるのはそういう「忠義」の熱い人たちでしょう。

一方、全く外部の人たちは逆の意味で昔も今も差別なく厳しい見方をしているでしょう。
「水戸黄門」そのものを全く(または余り)見ない人は光圀役が誰であろうが関係なく、本来ほとんど関東地方にとどまっていたはずの光圀が「全国行脚」をするという講談で作られたドラマの設定そのものを一貫して批判しているでしょう。また、TBSのナショナル劇場版で毎回印籠が出るのは前近代的で非民主的であるという意見も知恵袋やニュースコメント等にあります。また地方の問題を中央の権力者が一時的に解決して回る水戸黄門のスタイルは、地方の構造的な改革になっておらず、真の解決ではないという否定的な意見を持っている人もいるようです。

結果、今の里見浩太朗の水戸黄門は、東野英治郎・西村晃時代からのファンからは「あれは水戸黄門じゃない」と言われ、「外部」の人からは「相変わらず昔のままの水戸黄門」という風に映ってしまうわけです。

ドラマや時代劇全体の問題としては里見浩太朗が週刊文春7月28日号で語っていますのでご覧ください。
ただTBSも、第43部のシリーズが始まってから打ち切り決定は出演者に対して失礼でしょう。里見浩太朗も、終わりにするなら第43部が始まる前に「これを最終シリーズとする」と決めてスタートさせてほしかったと言っています。
里見浩太朗は、第43部製作発表の時は時代劇が少なくなっているので頑張って水戸黄門を続けたいというようなコメントをしていたと思います。
今でも里見浩太朗は雑誌の取材で「他局でもスペシャルでもどんな形でもいいから水戸黄門を続けてほしい」と語っています。

本放送はパナソニック提供ですが、アリコとか日立とか茨城県庁などが資金を提供しそうなものですがね。

「水戸黄門」というタイトルであれば主人公は必ずしも光圀である必要はなく、例えば綱條でもいいし斉昭が主人公でもいいわけですし、また光圀が主人公なら少年時代の光圀を主人公にして舞台は水戸と江戸だけでもいいのです。もし大河ドラマで徳川光圀伝をやったら前半はそうなるでしょう。これに対し、頭の固い旧水戸黄門ファンは「そんなの水戸黄門じゃない」と騷ぐでしょうが、その考え自体が作品とともに時代に合わなくなっているのかも知れませんね。

回答日時:2011/7/22 14:48:34
編集日時:2011/7/22 15:02:51

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