[画像]答弁する松下忠洋・復興副大臣、野田第2次改造内閣で金融担当大臣、2012年通常国会、衆議院第1委員室。
第45期衆議院では、民主党・国民新党がまさに現代の清洲同盟として、3年3ヶ月間、手を携えて連立政権を担いました。一度裏切る人間は二度裏切りとはよく言ったもので新進党を内から壊した小沢一郎・元民主党代表と外から壊した亀井静香・元国民新党代表は二大政党を去り、日本未来の党を結党しました。いくらテレビでおなじみでも、このような人間は絶対に信用してはいけません。
さて、野田佳彦総理が「あさって解散する」と明言した2012年11月14日(水)の翌日の衆議院本会議で、松下忠洋・元衆議院内閣委員長の追悼演説がありました。野田第2次改造内閣で、金融担当大臣をつとめましたが、まだ暑かった2012年9月10日、突然自殺してしまいました。
国会中がシッチャカメッチャカの大騒ぎでしたので、報道されなかったようです。あまり知名度は高くなかった松下先生のひっそりとしたお別れでした。
なかなかうまく政権運営できなかった民主党政権ですが、第45期衆議院で与党・民主党は衆参410人以上の議員集団で構成されながら、75歳未満の議員が亡くなったり、異性に抱きついたりする犯罪などがないのは、かえっておかしい、命懸けで政権を担っているのなら、そういうことが1、2件あるはずだと指摘してきました。
75歳を超えた、大石尚子・参議院議員(元衆議院議員)と西岡武夫参議院議長が亡くなりました。そして、75歳未満で亡くなったのは、民主党ではない、連立パートナーの国民新党の松下忠洋・金融担当大臣だけでした。享年73。
追悼演説では慣例にもとづき、反対党(野党第1党)から小渕優子さんが立ちました。
[画像]追悼演説をする自民党の小渕優子さん、2012年11月15日の衆議院本会議、衆議院インターネット審議中継。
「平成二十一年から二年半にわたり経済産業副大臣を務められ、その後、平成二十三年三月に発生した東日本大震災では、原子力災害現地対策本部長として、さらに本年二月は復興副大臣として、福島第一原子力発電所事故による災害の復興に取り組まれました」とし、「福島の原発事故直後から現地に入り、大部屋の真ん中に席を構え、職員とともに汗を流しながら、昼夜を分かたず指揮をとり続け、福島県内をくまなく歩き、常に、『一人の苦しんでいる人を助けられずして、一億三千万人を助けられない』という政治信条をもとに、全身全霊で事に当たり、強いリーダーシップを発揮されました」と演説しました。
そして、その人柄として、「未曽有の災害にともするとくじけそうになる職員を叱咤激励し、ともに泣き、ともに笑おうと、チーム一人一人への声かけや気遣いを忘れませんでした」と振り返りました。
そこまで政治にかけた情熱の根幹として「先生の熱意、識見はもちろんですが、先生御自身が、薩摩の人間である自分が、戊辰戦争で苦しんだ福島県の復興に身命を賭すと心中かたく御決意されていたことを、私は後に知りました。このように、純粋な情熱と大いなる優しさを内に秘めた松下忠洋先生こそ、薩摩武士の気質を備えた、まさに薩摩隼人であったと私は思うのであります。(拍手)」
本会議場には、奥さんと思われる方をはじめ、ご遺族の姿がありました。
[画像]松下忠洋さんのご遺族と思われるみなさん、2012年11月15日、衆議院本会議、衆議院インターネット審議中継から。
小渕さんは「いつも優しくほほ笑む奥様、章子夫人の姿がありました。二人でいつも二人三脚、どんな困難も乗り越えてきたお二人は、特別な信頼で結ばれていました。家族のすばらしさ、大切さを教えてくださったのも、松下忠洋先生でありました」と演説しました。
これを見て、週刊新潮の記事は絶対に嘘八百だと確信しました。松下先生は週刊新潮に殺されたんですよ。
ともに泣き、ともに笑おうと、チーム一人一人への声かけや気遣いができる政治家がいたことを、激戦のさなかですが忘れないでほしいし、さすがは自民党出身の大臣だとの思いがします。引退した羽田孜先生、渡部恒三先生、藤井裕久先生さらに滝実法相のみならず、自民党出身の民主党議員はだいぶ減りそうな気配ですが、松下先生の志が、選挙後に生まれるシャープでオープンな新しい民主党に引き継がれていってほしいものです。
[国会会議録データベースから引用はじめ]
181臨時国会
衆議院本会議 第5号 平成24年11月15日(木)
(前略)
○議長(横路孝弘君) 御報告することがあります。
議員松下忠洋君は、去る九月十日逝去されました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
つきましては、松下忠洋君に対し、弔詞を贈呈いたしたいと存じます。
弔詞は議長に一任されたいと存じます。これに御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(横路孝弘君) 御異議なしと認めます。よって、そのとおり決まりました。
弔詞を朗読いたします。
〔総員起立〕
衆議院は 多年憲政のために尽力し さきに内閣委員長の要職にあたられた国務大臣議員松下忠洋君の長逝を哀悼し つつしんで弔詞をささげます
この弔詞の贈呈方は議長において取り計らいます。
―――――――――――――
故議員松下忠洋君に対する追悼演説
○議長(横路孝弘君) この際、弔意を表するため、小渕優子さんから発言を求められております。これを許します。小渕優子さん。
〔小渕優子君登壇〕
○小渕優子君 ただいま議長から御報告のありましたとおり、本院議員松下忠洋先生は、去る九月十日、御逝去されました。
郵政民営化担当・内閣府特命金融担当大臣の重責を担っておられた中での余りにも突然の訃報に、私は、言い尽くせぬ驚きで言葉もなく、いまだこの現実を受け入れることができずにおります。
まして、奥様、章子夫人を初め御家族の悲しみを思うとき、万感胸に迫り、お慰めの言葉も見つかりません。
私は、ここに、皆様の御同意を得て、議員一同を代表し、謹んで哀悼の言葉を申し述べさせていただきます。
松下忠洋先生は、昭和十四年二月九日、現在の薩摩川内市に、農家の六人兄弟の次男としてお生まれになりました。
薩摩川内市は、川内平野のもと、東西に九州第二の流域面積を持つ川内川が流れ、山麓部には地盤の弱いシラス台地が分布しております。戦中戦後の日本が最も苦しかった時代にこの地で幼少期を過ごされ、先生の御実家も幾度となく台風や土砂災害に見舞われました。
豊かな自然の恵みと相反する自然の脅威の中で、多感な少年期を育んでくれたのは、そこに暮らす人々の人情味あふれる深い郷土愛でありました。
先生は、子供ながらに、地域の無残な光景を目の当たりにしながらも、嘆くことなく、安全な国土をつくることが自分の一生の仕事だと心に深く刻んでおられました。
先生は、鹿児島県立川内高等学校を経て、京都大学農学部に御進学されました。京都大学では、持ち前のよく通る大きな声で応援団長として体育会を縁の下から支える一方で、幼き日に夢見た初志を貫徹すべく、崖崩れや土砂崩れを防ぐための専門知識を熱心に勉強されました。
昭和三十七年、京都大学を卒業後、建設省に入省され、関東地方建設局を皮切りに、本省砂防課長等を歴任され、さらにこの間、外務省経済協力局に出向、その才量を国内外で遺憾なく発揮されました。
昭和四十八年、インドネシア公共事業省に派遣された先生は、「海外協力とは、ただ援助の手を差し伸べることではない。ともに働き、ともに汗を流して実行するのが私のやり方」という現場を第一に優先する御信念のもと、JICAの最優秀プロジェクトにも選ばれた火山砂防技術センターの創設や、後のネパールでの治水砂防技術センターの創設などに取り組まれました。
昭和五十一年、これらの事業が高く評価され、砂防界のノーベル賞とも呼ばれる赤木賞を受賞されたのです。弱冠三十八歳という異例の若さで砂防界最高の栄誉に浴したのであります。(拍手)
そんな松下先生にとって大きな転機となったのが、平成三年に起こった雲仙・普賢岳の災害です。
先生は、砂防部長就任早々にもかかわらず、すぐに現場に足を運び、不眠不休で各種調整に奔走し、指導力と決断力を発揮されました。
しかし、法的制約により十分な対策を講じることができない状況に直面し、災害のない安全な国をつくるためには国政の場で働かなければならないということを痛感し、それが政界進出の契機となりました。
平成四年、先生は、官僚生活に別れを告げられ、翌年七月、第四十回衆議院議員総選挙に立候補、見事初当選の栄冠を獲得されたのであります。(拍手)
本院に議席を獲得されてからの先生は、主に農林水産委員会、災害対策特別委員会理事として御活躍になり、平成十六年から翌年にかけては、内閣委員長として立派にその職責を果たされました。
また、政府においては、平成十年に農林水産政務次官、十三年には、新たに設置された内閣府の副大臣に御就任されました。
殊に、発足間もない内閣府にあって、経済財政政策、男女共同参画、防災など多岐にわたる重要政策を御担当された先生は、今日の内閣府の礎をお築きになったと言っても過言ではありません。
平成十七年、先生にとって大きな節目となる第四十四回総選挙がありました。郵政民営化に伴うこの総選挙では、無所属で臨んだものの落選を余儀なくされ、潔く後進に道を譲ろうと、一時政界からの引退を御決断されました。
しかし、大きな志の実現を目指す気持ちの高ぶりを抑えがたく、四年の空白の後、平成二十一年、第四十五回総選挙において、見事再選を果たされたのであります。
その後の松下先生の御活躍は目覚ましく、平成二十一年から二年半にわたり経済産業副大臣を務められ、その後、平成二十三年三月に発生した東日本大震災では、原子力災害現地対策本部長として、さらに本年二月は復興副大臣として、福島第一原子力発電所事故による災害の復興に取り組まれました。
松下先生は、このときも現場第一主義を貫かれ、誠心誠意、全力で対応に当たられました。
福島の原発事故直後から現地に入り、大部屋の真ん中に席を構え、職員とともに汗を流しながら、昼夜を分かたず指揮をとり続け、福島県内をくまなく歩き、常に、「一人の苦しんでいる人を助けられずして、一億三千万人を助けられない」という政治信条をもとに、全身全霊で事に当たり、強いリーダーシップを発揮されました。(拍手)
また、被災地への職員派遣に際しては、未曽有の災害にともするとくじけそうになる職員を叱咤激励し、ともに泣き、ともに笑おうと、チーム一人一人への声かけや気遣いを忘れませんでした。
困難な状況の中、政府と地元との連携を何とか保つことができたのは、ひとえに松下先生個人に対する各方面からの揺るぎない信頼があったからこそであります。(拍手)
これをなし得たのは、先生の熱意、識見はもちろんですが、先生御自身が、薩摩の人間である自分が、戊辰戦争で苦しんだ福島県の復興に身命を賭すと心中かたく御決意されていたことを、私は後に知りました。
このように、純粋な情熱と大いなる優しさを内に秘めた松下忠洋先生こそ、薩摩武士の気質を備えた、まさに薩摩隼人であったと私は思うのであります。(拍手)
そして、本年六月、郵政民営化担当・金融担当大臣として初入閣を果たされました。まさに先生が政治生命をかけた課題「郵政」を担当する行政のトップとしてその手腕を期待されたそのやさき、先生は忽然といなくなってしまわれたのです。
松下先生の座右の銘に「動くろくろに動かぬ心」という言葉があります。これは、ろくろの中に潜んでいる陶工の哲学から学ばれたもので、ろくろは絶えず同じ方向にぐるぐる回るけれども、心棒は動かない。不動の一点に心を置き、適切な逆の力を加えてこそ土は延び、壺はできる。人間も同じ。流れに抵抗する力を持って生きよという薩摩焼宗家第十四代沈寿官先生の言葉であります。
沈寿官先生は、平成元年に日本人初の大韓民国名誉総領事を承認された陶芸家であり、作家司馬遼太郎さんの「故郷忘じがたく候」の主人公になった方でもあります。
松下先生は、日ごろから人生の師と仰ぐ沈寿官先生の哲学や御偉業を通じて日韓関係にも心を砕いており、両国が互いに真の理解者となることで、近くて遠い国から、近くて近い国にならなければならないと御主張され、善隣友好の構築に力を注がれておられました。
同じく第十四代沈寿官先生と親交のあった、当時内閣総理大臣である小渕恵三は、松下先生の日韓を思うこの熱意に打たれ、それが、平成十年十一月、鹿児島県で開催された初の日韓閣僚懇談会につながったのです。
当時鹿児島では、同時に、遠い昔朝鮮半島から連れてこられ、高度な焼き物技術を持った陶工たちによる薩摩焼四百年祭も開かれており、その中心となったのが沈寿官先生でありました。
閣僚懇談会終了後、小渕首相と金鍾泌首相は、薩摩焼発祥の地を訪問、見知らぬ薩摩の地で祖国をしのびながら、その技術を生きる糧としてしか生きてこられなかったかつての陶工たちに思いをはせ、親睦を深められました。
この年は、十月に日韓両首脳によって、歴史認識問題に区切りをつけ、二十一世紀に向けて新たな日韓パートナーシップを構築しようと日韓共同宣言がなされ、韓国における日本の文化の開放や、二〇〇二年日韓共催のサッカーワールドカップの成功を誓い合った年でもありました。(拍手)
その後、平成十三年、松下先生の呼びかけで、日本と韓国の市民が二千人集う、韓日職能文化交流会が市民レベルで実現しました。
当時まだ初当選から間もなかった私もその交流会に参加をし、新たな日韓パートナーシップを築こうとした亡き父の思いを胸に、万感の思いを込めて、日韓新時代への期待を述べたのを覚えております。
松下先生は、日韓関係ばかりでなく、建設省から外務省経済協力局へ出向したことをきっかけに、長年ODAを見続けてこられました。途上国での技術協力はもちろんのこと、人材育成や国境を越えた交流にも心を砕いておられました。
特に、現地の第一線で働く若い青年海外協力隊員たちの努力と御苦労に共感し、彼らを支援するとともに、現場に行こうと、東南アジアや遠くアフリカの地にみずから足を運ばれました。
そうした数々の出張に、私は、縁あって、松下先生と御一緒する幸運をいただきました。
松下先生は、決して派手ではない、朴訥とした風貌の中に、控え目な語りの中に、日本人の信を伝えておられました。信頼が、言葉を超え、国境を越えてつながり合う、それこそが松下外交の真骨頂でありました。(拍手)
そのような旅の傍らには、いつも優しくほほ笑む奥様、章子夫人の姿がありました。二人でいつも二人三脚、どんな困難も乗り越えてきたお二人は、特別な信頼で結ばれていました。家族のすばらしさ、大切さを教えてくださったのも、松下忠洋先生でありました。
温容で愛情深く、誰に対しても優しかった松下先生のそのお姿を、もはやこの議場で目にすることはできません。
松下先生、願わくば、あなたがこよなく愛した御家族をどうぞ温かく励まし、天国からお見守りください。そして、いつも日本の輝かしい未来を信じて突き進んだあなたのその不屈の精神が、いつまでも私たちの心に残りますように。
我々議員一同は、松下先生の御遺志を継ぎ、震災からの復興、地域経済の安定と発展、諸外国との相互理解、そしてこの国の未来を担う子供たちのために全力を尽くしてまいりますことをお誓い申し上げます。
ここに、ありし日の松下先生の面影をしのぶとともに、その御功績をたたえ、心からの御冥福をお祈りし、松下忠洋先生を愛し、支えてくださった多くの皆様に心からの感謝を申し上げ、追悼の言葉といたします。(拍手)
(後略)
[引用終わり]