【元日経新聞記者】宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

【岡田克也】岡田克也さんの祖父は「青天を衝け」渋沢栄一に2分間会ったことがある「この感動をいかに伝えん」16歳5人組の10泊11日の「スタンド・バイ・ミー」

2021年03月07日 17時11分13秒 | 岡田克也、旅の途中
[写真]左は岡田惣右衛門さん(岡田卓也著「小売業の繁栄は平和の象徴」)、中央は岡田克也さん(宮崎信行撮影)、右は渋沢栄一立像(10年前、宮崎信行撮影)。

 大河ドラマ「青天を衝け」は出だしから好調のようで、これまであまり知られていなかった渋沢栄一さんの人となりや思想が話題を呼んでいるようです。

 立憲民主党常任顧問の岡田克也さんの祖父(父の父)が渋沢栄一さんを2分間会ったことをご存知でしょうか。

 第6世岡田惣右衛門は、第5世の「孫」であり、16・17歳の頃は「岡田惣一郎」。四日市商業学校(三重県立四日市商業高等学校)の名物行事「行商研修」で、友達5人と相談し、東海道を東へ。四日市や桑名の産物を売りながら日銭を稼ぎ、旅費に充て、10泊11日目に東京商業会議所(東京商工会議所へ)。ときは、明治35年(1902年)で、日露戦争で日本が坂の上の雲にのぼる、日本の歴史でも最も幸せな時代でした。多忙な渋沢栄一会頭と会ったのは2分余りで、一人一人と握手をしただけだったようです。しかし16歳の岡田少年は「この感想をいかに伝えん」と日記に書き残しています。

 岡田惣一郎改め第6世岡田惣右衛門は、1926年「株式会社岡田屋呉服店」を創設。複式簿記を導入。三越、大丸以外の小売業が株式会社になったのはおそらく初めてではないかとされています。

 それ以前の行商時代は、売り手と買い手の駆け引きで売値を決めていたのを改めて、一物一価に。これは、6世岡田惣右衛門は「平等」というものを良いことだとする考え方があり、一見さんでも同じ値段で買えるようにしたかったから。

 この日記を、岡田克也さんの父親である岡田卓也さんが太平洋戦争敗戦で茫然自失とした1945年9月、鹿島灘の学徒動員から帰ってたまたま発見して、初めて読み、「小売業の繁栄は平和の象徴」だと奮起したようです。

 岡田卓也著「小売業の繁栄は平和の象徴 私の履歴書」(日本経済新聞社、2005年)から引用しました。

 ですから「株式会社」と「平等」は、渋沢が説く、論語と算盤そのものであり、「岡田屋」改め「イオン」には、論語と算盤の精神が受け継がれているようです。一年前の今ごろ、コロナ禍の不安な集団心理でトイレットペーパー買い占め騒動のさい、イオンがトイレットペーパーを大量に積んで「お1人10個まで」とユーモアも交えて販売した様は、SNSでも好意的に受け止められました。

 議会政治100年目の1990年に、30万商都四日市市出身者で初めて衆議院議員に当選した岡田克也さんですが、もともと竹下登さんが「中選挙区の三重1区で、四日市出身の、早大商学部の後輩の岡田卓也さんには、通産省勤務の息子がいる」ということでスカウトしているため、この出来事がなくても、岡田克也衆議院議員は存在したでしょう。

 しかし、岡田さんの祖父と渋沢栄一さんとの2分間の面会がなければ、「イオン」はなかったことになります。


[写真]六世岡田惣右衛門(岡田惣一郎)「小売業の繁栄は平和の象徴」(岡田卓也、2005年、日本経済新聞社)から。


[写真]渋沢栄一立像、10年前に宮崎信行撮影、「常盤橋公園」は現在は三菱地所が390メートルのビルを建設中の為、現存しない。

 16歳の少年5人の10泊11日の「スタンド・バイ・ミー」。1902年当時、渋沢栄一頭取率いる第一銀行がしかけた「東洋紡績」合併劇の舞台である四日市。その代表的呉服商「岡田屋」の名前は、渋沢さんも知っていたようですから、その旨は、付言しておきたいと思います。

 以上です。 


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