連合の初代会長、山岸章氏死去…病名伏せ手術も
連合の初代会長を務めた山岸章(やまぎし・あきら)氏が10日、死去した。
86歳だった。告別式は家族で済ませ、後日、連合などの主催で「お別れの会」を行う予定。
大阪市出身。海軍の特攻隊要員として敗戦を迎え、戦後は郵便局で働きながら労働運動に参加。1982年7月には全電通(現NTT労組)の委員長に就任した。
思想の違いや官民の枠を超えた労働組合の大同団結を唱え、89年11月の連合結成に尽力。約800万人(当時)の組合員のトップに立った。就任直後の90年には胃がんの診断を受けたが、発足直後の連合を軌道にのせるため、病名を伏して手術を受け、会長職を務めた。
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gooニュース・読売新聞によると、日本の労働戦線統一に成功した連合初代会長で、有権者が政権交代を選択した、歴史的な1993年細川護熙内閣(羽田孜副総理)を裏で支えた最大の歴史的功労者である、山岸章さんが、今週、平成28年2016年4月10日に亡くなっていたそうです。享年86。伝統的に労働運動に関する報道があつい、読売新聞が報じました。
山岸さんは、公務員である、電電公社の労働組合「全電通」の出身。現在の「情報労連」で、この間、もっとも公務員から民間へ変化した働く仲間の代表でした。
今で言う電機連合が先鞭をつけた、労働戦線統一に成功し、連合、日本労働組合総連合会会長に就任。
[画像]1989年の連合統一大会と、あいさつする山岸章・初代会長、「友愛会から連合へ 日本労働運動の100年」からスクリーンショット。
細川内閣では、事実上、民間人の最大の立役者として、7党1会派の馬車をきづきあげ、民主政治の一つの到達点を示しました。
ただ、山岸会長の後、連合会長には、公務員系労組出身者は一人もついていません。第2代芦田甚之助会長は、UAゼンセン出身で、橋本龍太郎内閣の行政改革会議委員として、「郵政省廃止」を含む法案のとりまとめにあたりました。
芦田会長の退任で発足した、鷲尾悦也会長(基幹労連)・笹森清事務局長(電力総連)は、たまたま永田町の身勝手な一人の政治家(小沢一郎氏)の行動がきっかけで、誕生した「民主党」の対応を検討。3つの支持政党がある「連合股裂き」の解消策として、連合は政党を支持しない方向性も検討。しかし、鷲尾さん笹森さんは、民主党支援を決め、1998年参院選で民主党が大勝し、橋本内閣は退陣しました。その後、芦田さんは行革会議委員の実績で旭日大綬章を受けました。鷲尾さん、笹森さんは、連合会長として旭日大綬章をもらいました。なので、山岸初代会長のみ大綬章は受けていません。
[写真]山岸章初代連合会長、友愛労働歴史館展示写真から、筆者(宮崎信行)撮影。
私は連合の歴代会長で、山岸さんだけは直にお目にかかったことはないと思います。ただ、そのエピソードで尊敬するのは、党員として最大野党・日本社会党の大会に出席したときのことです。
公務員系労組中心の社会党では、民間労組との統一をすすめる山岸党員に対して、仲間が背広をビリビリに破るという嫌がらせをしましたが、山岸さんはそのまま毅然と出席したそうです。
その後、山岸さんは最大野党を離党し、その政党は二大政党から転落しました。
私は思うのですが、旧民主党が連合の支援を受けられたのは、偶然にも、芦田会長から鷲尾会長(および笹森事務局長)にバトンタッチしていたという奇跡がもたらしたものだと考えます。今、連合の会長は鷲尾さんの後輩、事務局長は芦田さんの後輩になります。組織というものは、しょせんは、すべては人だと感じます。
重ねますが、山岸さんは旭日大綬章にふさわしい方だと信じます。
山岸章さんの心よりのご冥福をお祈りいたします。
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