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大英博物館が空っぽになる!?(最終回) -「馬蹄銀事件」と「幸徳秋水」―

2023-09-01 | 小日向白朗学会 情報
 前回、「大英博物館が空っぽになる!?」(クリックで遷移)で、イギリスは中国から文化遺産の返却を求められていることを書いた。また「英博物館が空っぽになる!?(第三回) -世界最大のダイヤモンド「偉大なるアフリカの星」はどうなる?-」(クリックで遷移)で本年開催されたヨハネスブルグ首脳会議議長国南アフリカからは、ボーア人入植以前から始まっていたアフリカ人から略奪した文化遺産の返却が求められるはずであるが、中でも最も象徴的な「偉大なるアフリカの星」ではないかという云ことを書いた。その理由としてイギリスは、南アフリカで発見された金とダイヤモンドに目がくらみ莫大な戦費と多くの戦傷者を出しながら、ようやく南アフリカの支配権を手に入れたという略奪の経緯があったからである。
 ところでイギリスの欲望で始めたボーア戦争であったが、この戦争によりイギリスの世界戦略に大きな弱点があることが判明した。それは、イギリスの兵備は海軍力が中心であって海岸線から遠く離れて内陸部に侵攻する陸軍力は脆弱であった。この弱点があらわになったのは、ボーア戦争の最中に義和団事件が起きた時のことである。関係国は連合軍を編成し事件の中心地北京に向けて進軍することになった。当然、中国に多くの利権をもつイギリスも派兵することになるが、結成され連合軍ではイギリスの仮想敵国ロシアが派遣した兵力の半分にも満たない兵数で、その存在感を示すことができないだけではなく、既にアフガン方面からインドを伺うまで南下の歩を進めていたロシアを、今度は、よりによって、義和団事件を口実に満州に招き入れる事態を生じさせてしまった。これでイギリスは、ロシアの南下政策からインドを防衛することが難しいことを悟った。同事件後、かかる事態を重く受け止めたイギリスは、戦略を抜本的に見直すことにした。そこでイギリスが採用した戦略は、日本の陸海軍をイギリス仕様の装備や戦術で固めた傭兵に仕立て上げ、満州方面からロシアを牽制させてアフガニスタン方面からの圧力を軽減させることにしたのだ。イギリスは、この方針を徹底するため日英同盟を締結し、シベリア鉄道が全通する前に、日本単独でロシアに戦端を開かせることに決めた。
 そして、日本が、イギリスの真意を知らないままに開戦してしまったというのが日露戦争だったのである。日本がイギリスの捨て駒であることに気が付いたのは、日露戦争後に、戦争時中に締結した攻守防衛を謳った新日英同盟の運用を協議するなかであった。イギリスが日本に求めたのは、日本陸軍をアフガン方面やペルシャ方面に派兵することだったのである。
 現在、日本で論議となっている「インド太平洋(FOIP、Free and Open Indo-Pacific)」と明治時代に締結した日英同盟の類似性は驚くばかりである。

 ところで、本題のBRICSが旧宗主国に求める文化遺産返還が日本にも及ぶということに話を移す。結論から言うと「日本は、義和団事件の折に紫禁城にあった文化遺産や銀貨(馬蹄銀)を略奪していた」ということが正しい。この事件を「馬蹄銀事件」という。
 日本の一般的常識としては、義和団事件に関して日本兵は他の連合国が激しい略奪を行う中で、何ら略奪に加わらなかったとされている。その代表的な見解が「日英同盟締結:世界を驚かせたサムライ・ジェントルマン|「新・日英同盟」の行方(3)」[1]がネットに記載されている。
『……
英タイムズ紙は社説で「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。(中略)日本人ほど男らしく奮闘し、その任務を全うした国民はいない。(中略)日本は欧米の伴侶たるにふさわしい国である」と絶賛したのだった。
義和団が鎮圧されると、北京城内では、各国軍兵士たちが財物の略奪や婦女への強姦といった蛮行に及んだが、規律の厳しい日本軍は節度と礼儀ある態度を貫いた。この姿勢に西洋列強各国公使館関係者の婦人たちは、柴五郎中佐の「騎士道的ジェントルマン」ぶりを称賛した。「サムライ・ジェントルマン」として世界で認められた第一号となったのだ。
 柴五郎中佐はその後、英国をはじめ各国から勲章を授与され、「ルテナント・コロネル・シバ」(柴中佐)として広く知られるようになり、日本軍および日本に対する評価も高まった。
「日本武士道は西洋騎士道である」
総指揮官だった英国のマクドナルド公使は、「サムライ魂」を持つ柴五郎中佐と日本兵の礼節と勇気に感動し、「日本武士道は西洋騎士道である」と称賛した。そして「日本人以外に信頼し得る人々は他になし」との信念から、「東洋で組むのは日本」と確信し、これが日英同盟締結につながった。英国には、義和団事件以降も満州から撤退しないロシアを牽制する必要性もあった。日英はロシアの南下を防ぐ共通利害があったのだ
……』
 この話は、イギリスが義和団事件に充分な派兵ができないことに対する照れ隠しであり虚栄であるだけではなく、日本を対ロシアに導くために準備した作話だったのだ。正確な史実を調べもせずに勝手な妄想で作られた「耳障りの良いプロパガンダ」といってよい。この種の作話の裏には「現代の日英同盟」締結を目指す、イギリスの意向があることを見逃してはいけない。事実、サー・ジョン・スカーレット元英国秘密情報局(MI6)長官が議長を務める国王立防衛安全保障研究所(RUSI)日本特別代表部はそのために活動をしているのだ。そして、自由民主党政権がRUSIのアドバイスにより作成したのが「防衛三文書」なのである。
またまた、脱線してしまった。
 では、誰が日本兵の略奪を明らかにしたのかというと「大逆事件」で死刑となった幸徳秋水なのである。幸徳秋水は、明治三四(一九〇一)年一二月一日から翌明治三五(一九〇二)年一月一九日まで五〇回に亘って『万朝報(よろずちょうほう)』に掲載した「北清分取の怪聞」という連載記事のなかで略奪の事実を克明に記事にしていた。
『……
第二回 三四年一二月二日
陸軍中将乃木希典は三四年春に開かれた師団長会読の席上、部下の不法分捕を公表して厳罰に処す旨明言し、他の師団でもこのような不法軍人あれ厳重処分を行い軍紀の厳正を保持するよう提言し、他の師団長の同意を得た。のち乃木は部下の「歩兵少佐功五級杉浦幸治、三等軍吏米倉恭一郎等の本官を免じ。勲位一切を褫奪して只の素人と為したり」。杉浦少佐は、「明治二十七八年の役に戦功あり、之が為め功五級金鵄勲章を受けた」人物であった。杉浦は天津城陥落の際に、「清国官金の所在地を探りたる結果、二千円入の馬蹄銀六八箱、総計一三万六千両を発見した」。杉浦は部下の軍吏米倉と共に、この馬蹄銀を大倉組の広島支店長式村茂に売りさばいてもらった。大村はこれを先ず芝罘に、次いで上海に運んで売却して代金を日本に持ち帰り、五万円を丸亀支店に預け入れ、八万五〇〇〇円を帰国した杉浦に渡した。この事実が憲兵に探知され乃木第一一師団長に伝わり四月の処分となった。
……
第三回 三四年一二月三日
第五師団の「不法分捕の系統は師団長より旅団長、旅団長より聯隊長、聊隊長より大隊長と、当然金鵄の章を受く可き人々に存するを以て、当局者は殊の外に喫驚し、遂に当初師団長会議に於ける約束に背きて曖味の間に之を煙滅せんとするに至れり。此間の消息を聞きたる乃木希典はいかでか大いに憤激せざらん。彼等と共に軍人の腐敗を一掃することは到底為し能わざるの事なりと信じて、自ら請うて休職となりたり。其意気また多とすべきに非ずや。
翻って凱旋後の第五師団を看よ。師団長山口素臣、旅団長真鍋斌の室は、我国にて見るを得べからざる珍宝珠玉にて辺り眩きまでに装飾されつつあり。其以下帰来の将校富の度、出征以前に陪蓰して贅沢の生活を為しつつあり。吾人はこれより進んで其の然る所以の原因を説く可し。 
明治三三年八月一五日、我軍先進隊の北京に入るや。将校以下下士卒に至るまで殆んど掠奪を為さざるは無く。一六、一七の両日最も甚だしきものありき。安南より来れる仏国兵を笑う勿れ。西伯利亜より来れる魯国兵を嘲る勿れ。印度兵を卑しむ勿れ。日英組人夫を憤る勿れ。此掠奪を為したる者は、軍紀厳粛秋毫犯さずと自称したる山口素臣が軍隊なりと知れ。世人も尚記憶する如く、(八月)一六、一七の両日は清国官兵皇城に拠りて発砲を継続し居り、聯合軍また余威に乗じて北京城内を騒がしたる結果、多数の人民既に難を近村の塋地に避けたる後なるを以て、思う存分に掠奪し得たりしなり。之に加うるに北京籠城者中北京の事情を熟知せる者先導となりで、王府大官邸を荒せしが故に、其間に於ける掠奪品は之を通貨に換算する時は夥しき金額に達せしなる可し
……』
上述のような記事が50回も掲載され日本国民は日本陸軍の略奪を知ることになった。日本国民が略奪を知らなかったのは、義和団事件の最高司令官であった臨時派遣隊司令官福島安正が、陸軍中央に「……旗下の日本軍は略奪を一切行わず、その態度は規律厳正、秋毫も犯すことなき軍隊……」と虚偽報告を行っていたからであった。
 幸徳に名指しで批判された派遣軍首脳は、第五師団長山口素臣、第九旅団長真鍋斌、第一一連隊粟屋幹等であった。中でも真鍋斌は、長州閥に属し山縣有朋、桂太郎、寺内正毅等の後継者として最高権力者に就任することを嘱望されていた人物であった。しかし、幸徳が書いた新聞記事のために明治三五(一九〇二)年六年に休職となってしまった。陸軍中央の幸徳の対する憎しみは相当のものであったと考えられる。
 そのため大逆罪容疑で幸徳が逮捕された事件当初から、陸軍中枢を占める長州閥による馬蹄銀事件に対する復讐ではないかと勘繰られていた。つまり、幸徳秋水は「大逆事件」という濡れ衣を着せられ永遠に口とペンを封じられたのだ。
 「大逆事件」であるが、戦後になって、事件がでっち上げ捜査による冤罪であったことが「昭和三八(一九六三)年六月六日開催、第四三回国会衆議院法務委員会」[i]で明らかになっている。その中で、当時の主任検事を務めた平沼騏一郎ですら冤罪を認めていたことや、事件の直接の原因は、日本のラスプーチンこと飯野吉三郎が賞金稼ぎで行ったことなども明らかとなっている。しかし、同委員会では、冤罪事件をでっち上げてまでして隠さなければならない原因を追及するまでには至っていない。更に言えば、判決翌日、明治天皇が特赦を出されていることなどから、よほど政府中枢を恐怖に陥れる重大案件があったと考えられる。今回は「大逆事件」のことについては、これ以上は詳細を述べない。

 イギリスが1856年10月8日に起こした第二阿片事件(アロー号事件)で「円明園の略奪と破壊」を行ったことが返還請求に含まれているならば、日本軍が義和団事件でおこなった紫禁城内での略奪に関しても当然のこととして返還請求が行われても不思議ではないのである。その結果、近代日本史の見直しとなり「大逆事件」が冤罪であることが公知となって幸徳秋水の名誉回復が必ず行われることになるであろう。
 BRICS諸国による文化遺産返還運動は、略奪者が正当化し、もしくは、隠蔽してきた歴史とは異なった側面を見せることになる。それは、イギリス、フランス、オランダ、スペイン等に留まるだけではなく、日本の足もとにも確実に及んでくる。
以上(寄稿:近藤雄三)
 

[1] https://www.nippon.com/ja/in-depth/d00706/


[i] https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=104305206X02019630606&current=1

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