小日向白朗学会 HP準備室BLOG

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私は田中武夫氏と一緒に仕事をしていた。あの「満州評論」編集者の田中氏と。

2019-03-20 | 小日向白朗学会 情報
 一冊の書物を読みました。「満鉄~知の集団の誕生と死」・・・吉川弘文館発行、小林英夫著です。満鉄と言えば、私が大学を出て入った会社(新聞社)で満鉄出身の方と一緒に机を並べて校正の仕事をしたことがあることを思い出しました。その方の名前は[田中武夫]です。私はまだ20代前半でしたが、田中さんはおそらく60代、いや70代に入っていたかもしれません。穏やかな方で口数は少なく、でもしっかりした口調でお話しする人でした。その方はこんなようなことを言っておりました。「人は、一生のうちに三つのことをすればよい。一つは一本の木を植えること、一冊の書を書くこと、・・・・」三つ目に何を言っていたのかを残念ながら失念してしまいました。そしてかなりのヘビースモーカーで確かピースを吸っていましたが、たばこのことを言うと「私は煙草に淫している。」といって楽しそうに笑っていたのを思い出します。お酒は若干だったかな。そうでもないか。その方がほどなくなくなってしまい、編集局の仲間と自宅にまで通夜に行ってお酒を一本頂いてきたのを覚えています。田中武夫さんは先ほどの三つのことを実現していかれたのでした。「橘樸と佐藤大四郎」という書物を書きましたが、この書物は専門家の方々などにも引用されるなど満州史の考察に深く貢献したものでもあります。
 そう、田中さんはあの満鉄調査部事件に連座されていたのです。「満鉄調査部事件とは、1941年11月に起きた合作社事件と連なって42年9月と、43年7月と2度にわたり満鉄調査部に所属する調査部員44名が満州国治安維持法違反の容疑で関東憲兵隊に検挙された事件をさす。」(松村高夫氏の批判に応える-満鉄調査部事件の神話と実像-、小林英夫・福井紳一、早稲田大学リポジトリより)というものでした。この著の中でさらに被疑者について、「・・・・経済調査会以外でも『満州評論』を経て合作社運動を指導した佐藤大四郎や、長く『満州評論』の編集に携わった田中武夫らも含めてよい。]という文章が見られます。さらに検挙者リストの中に、『田中武夫-33歳-大連第一中学校卒-職業・満州評論社、前科逮捕歴なし-検挙日時1941年11月4日-手記等の有無として手記のみ』・・・・と記されています。
 生きた歴史を語ることのできた田中さんを目の前にして20代の若僧であった私は、ただばか話を繰り返し、新聞編集の帰途に安い居酒屋の片隅で飲んで騒いでいただけでした。大変悔しい思いがしています。今であれば思う存分に満州評論編集当時のことや合作社運動のことを聞くことができたのに…と。
 今、あなたの目の前にいらっしゃる穏やかそうな顔をしている方、そうその方こそ生きた歴史の証人なのかもしれません。人の出会いは大切にしないと大変に後悔してしまうものです。
 1941年と言ったら、白朗は憲兵に請われて渡った上海で大活躍をしていたころだと思います。蒋介石一派、日本陸軍の息のかかった一派等々を相手に三つ巴、四つ巴の戦いを展開し、青幇として金家坊99の名を馳せていた頃かと・・・・。(文責吉田)
参考書籍

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