2020年4月東亜日報のイ・ユンテ記者はウォールストリートジャーナルへのキッシンジャー氏の寄稿文を取り上げている。曰く「新型コロナウイルスが終息しても、世界は以前と全く違う所になるだろう」と強調したとのことだ。ヘンリー・キッシンジャーといえばニクソン政権で大統領補佐官(国家安全保障担当)兼国務長官を務め1979年の米中国交正常化を引き出した立役者で、米外交の生き証人、とも紹介している。同紙では、ドイツのユダヤ系移民の子で第2次世界大戦に参戦したキッシンジャー氏は「新型コロナウイルスの超現実的な状況は、『バルジの戦い』で感じたことを思い起こさせる」と指摘した・・と続ける。バルジの戦いは1944年12月16日から45年1月25日まで続いた戦闘で、ドイツ軍が連合軍に対抗して行った最後の反撃だった。双方の死傷者は約19万人にのぼった。さらに、新型コロナウイルスで各国が門戸を閉ざし、「各自図生」(各自が生き残る方法を探る)現象も批判したキッシンジャー氏は、「国家は、政府が災難を予見し、影響を食い止め、安定を回復できるという信念上に結集し、繁栄してきた。新型コロナウイルスが終息すれば、多くの国家が失敗したと認識されるだろう」と見通したという。そして、「各国の指導者が国家単位で危機に対処しているが、ウイルスは国境を認識しない」とし、「個別の努力だけでは限界がある。世界的な協力が伴わなければならない」と強調した、ともいう。加えて、キッシンジャー氏は「何より自由主義の世界秩序が脅威を受ける可能性がある」と警告した。さらに、「新型コロナウイルスで世界の貿易と自由な移動に依存する時代に、時代遅れの『障壁の時代』がよみがえる恐れがある。米国は啓蒙主義の価値を守り、維持するうえで先頭に立たなければならない」と呼びかけた、とのことだ。
ユダヤ人といえば私は「ディアスポラ」を想起する。そして、このディアスポラというのはいったい何なのだ、と何度繰り返しても答えが出てこない問いに突き当たってしまう。東亜日報紙の「ウィルスは国境を認識しない」という言葉にはややどきっとするものがある。誤解をおそれずに言えば、それはウィルスの存在理由であり、人類とともに存在するとしか言いようのないウィルスの普遍性でもある。ウィルスの前で国籍は無力というか、無意味であり、いわんや超大国のミサイルや核爆弾でもいかんともしがたいものである。・・・・3000年以上の歴史を続けてきているユダヤ人、今はイスラエルという国家を持つとも言われるが、果たしてそうなのか。そこにディアスポラを重ねるとユダヤとは何を意味しているのか見えなくなってくるのである(㊟)。国境というある意味絶対的な「境界線」をディアスポラは楽々とというか、無意識というか、当然というか、無視するのである。ユダヤはとっくの昔に国境を超えてしまっている普遍的な何かなのである。ヤハウェの神に導かれたモーゼの出エジプトよりもさらに前の時からであろうと思うのである。キッシンジャー氏がそんなユダヤ人であることは事実なのだ。だからこそできたといえるのだろうか、米中国交正常化を。しかし残念ながら、その「正常化」は常に附箋付き、但し書き付き、つまり、若干の「穴」が仕掛けられているのである。この穴から大きな破壊が始まってしまうのかどうか、答えは見えていない。
㊟・・・内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」に面白い記述がある。ユダヤ人とはだれのことか?とのタイトルの中で、「第一に、ユダヤ人というのは国民名ではない。…第二に、ユダヤ人は人種ではない。…第三に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。…」とある。なぜ「消去法」でしか説明しないのか、という点については、「・・・ユダヤ人というのは中立的・指示的な名称ではない。だから当然にも一義的な定義が存在しない。」と指摘している。つまり、「ユダヤ人はユダヤ人である」としか言えないのであるが、この同語反復文のなかにもすでに一種の齟齬というか、誤謬が含まれている。主語の「ユダヤ人」と述語の中の「ユダヤ人」がすでに異なっているからである。主語のユダヤ人は中立的・指示的なユダヤ人という言葉であるが、述語のユダヤ人の中には「異教徒、神殺し、守銭奴、ブルジョワ、権力者、売国奴・・・といった敵対的、侮蔑的な含意がこめられている。」と指摘しいる。実存主義の大御所J.Pサルトルは「ユダヤ人」の中で「ユダヤ人とは、他の人々がユダヤ人と考えている人間である。…反ユダヤ主義者がユダヤ人を作るのである。」(岩波新書版「ユダヤ人」82ページ)と言っている。ここまでくるとまことにユダヤ人とは何を意味しているのか見えなくなってくるのである。(文責:吉田)
ユダヤ人といえば私は「ディアスポラ」を想起する。そして、このディアスポラというのはいったい何なのだ、と何度繰り返しても答えが出てこない問いに突き当たってしまう。東亜日報紙の「ウィルスは国境を認識しない」という言葉にはややどきっとするものがある。誤解をおそれずに言えば、それはウィルスの存在理由であり、人類とともに存在するとしか言いようのないウィルスの普遍性でもある。ウィルスの前で国籍は無力というか、無意味であり、いわんや超大国のミサイルや核爆弾でもいかんともしがたいものである。・・・・3000年以上の歴史を続けてきているユダヤ人、今はイスラエルという国家を持つとも言われるが、果たしてそうなのか。そこにディアスポラを重ねるとユダヤとは何を意味しているのか見えなくなってくるのである(㊟)。国境というある意味絶対的な「境界線」をディアスポラは楽々とというか、無意識というか、当然というか、無視するのである。ユダヤはとっくの昔に国境を超えてしまっている普遍的な何かなのである。ヤハウェの神に導かれたモーゼの出エジプトよりもさらに前の時からであろうと思うのである。キッシンジャー氏がそんなユダヤ人であることは事実なのだ。だからこそできたといえるのだろうか、米中国交正常化を。しかし残念ながら、その「正常化」は常に附箋付き、但し書き付き、つまり、若干の「穴」が仕掛けられているのである。この穴から大きな破壊が始まってしまうのかどうか、答えは見えていない。
㊟・・・内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」に面白い記述がある。ユダヤ人とはだれのことか?とのタイトルの中で、「第一に、ユダヤ人というのは国民名ではない。…第二に、ユダヤ人は人種ではない。…第三に、ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。…」とある。なぜ「消去法」でしか説明しないのか、という点については、「・・・ユダヤ人というのは中立的・指示的な名称ではない。だから当然にも一義的な定義が存在しない。」と指摘している。つまり、「ユダヤ人はユダヤ人である」としか言えないのであるが、この同語反復文のなかにもすでに一種の齟齬というか、誤謬が含まれている。主語の「ユダヤ人」と述語の中の「ユダヤ人」がすでに異なっているからである。主語のユダヤ人は中立的・指示的なユダヤ人という言葉であるが、述語のユダヤ人の中には「異教徒、神殺し、守銭奴、ブルジョワ、権力者、売国奴・・・といった敵対的、侮蔑的な含意がこめられている。」と指摘しいる。実存主義の大御所J.Pサルトルは「ユダヤ人」の中で「ユダヤ人とは、他の人々がユダヤ人と考えている人間である。…反ユダヤ主義者がユダヤ人を作るのである。」(岩波新書版「ユダヤ人」82ページ)と言っている。ここまでくるとまことにユダヤ人とは何を意味しているのか見えなくなってくるのである。(文責:吉田)