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「この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与えることに決心した」(昭和天皇独白録から)

2024-06-06 | 小日向白朗学会 情報
 昭和天皇独白録(編著:寺崎英成、文芸春秋発行)からの引用である。これは昭和3年6月4日未明、張作霖を爆殺した事件のことである。今からちょうど96年前のころだ。天皇の独白録から引用する。
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 「この事件の首謀者は河本大作大佐である。田中(義一)総理は最初私に対し、この事件は甚だ遺憾な事件で、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云う事であった。そして田中は牧野(伸顕)内大臣、西園寺(公望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考だと云ったそうである。
 然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉の主張だそうだか、日本の立場上、処罰は不得策だと云う議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなって終った。
 そこで田中は再び私の処にやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云う事であった。それでは前言と甚だ違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。
 こんな云い方をしたのは、私の若気の至りであると今は考へてゐるが、とにかくそういう云い方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取止めと云うことになったというのである。
 田中内閣は右の様な事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原久之助などが、重臣「ブロック」と云う言葉を作り出し、内閣の倒けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った。
 かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とか云う、いやな言葉や、これを間(真)に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出された点尠なくないのである。
 この事件あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与へる事に決心した。」
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 昭和天皇は、生涯このことを悔いていたといわれている。つまり、河本大作を厳重に処罰しなかったことをである。なぜなら、以降の昭和史を見れば一目瞭然のことである。翌4年にはあの小日向白朗でさえ奉天城襲撃計画を立てている。これは結果的には事前に情報が洩れて失敗した。私に言わせれば、幸いにも失敗した、といえよう。白朗唯一の判断ミスであったと思っている。しかし、時の流れは天皇の懊悩とは裏腹に昭和6年の満州事変へと進み、国内では血盟団、515,226とテロの風が吹き荒れ、軍人の矜持は地に落ち、まさに天皇の思いとは裏腹に戦争へと突き進み、昭和20年8月15日へと、そしてさらに、以降もその体制は温存され、昭和99年を迎える現在もなおゾンビのごとく生き続けているのである。
 読者諸氏は、今の自民党公明党、それにつらなるあらゆる利権政党の、いってみれば、不死身を誇ったゾンビたちの断末魔の情景を見ながら何を思われるであろうか。わたしは、カタストロフィーの季節であると感じている。(文責:吉田)
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