小日向白朗学会 HP準備室BLOG

小日向白朗氏の功績が、未だ歴史上隠されている”真の事実”を広く知ってもらう為の小日向白朗学会公式HP開設準備室 情報など

昭和時代の陥穽

2019-09-20 | 白朗と私 会員思うままに・・・

2019年9月

① はじめに
 時代を語りたい。なぜなのかは大体わかっている。それは今を確認したいからである。今を確認することで、私は生存を許される気がしている。今を語れないということは、今を生きていないに等しいと思う。ところが、「語れない今」が実はひしひしとその存在感を強めてきている、と思うのである。その正体はいったい何なのか。それを追い詰め、誰でもが自由闊達に時代を語ることができるようになる、「今」であろうが、「過去」であろうが「時代」について全く分け隔てなく語ることができる、それが目的なのだ。つまりは、自由闊達に生きるためであるということだ。「過去」も「今」も実は同じである。ただ、単に「時間の流れ」の表象である。私はその意味で過去と今を自由に飛び歩く手法をとりたいと思っている。

 昭和天皇が即位した、その時に昭和の時代は始まった。でも、舞台の幕が開くように新しい時代が始まるわけではない。当然だが地続きで時間は流れているからだ。たとえば、大日本帝国陸海軍が突然テロ集団になったわけではない。テロ集団に変貌していくプロセスというものがある。いや、正確にいうと、テロ集団にはなってはいない。けれども、限りなくテロ集団に近い統制のとれていない恣意的な無綱紀の武装集団、稚拙で空想的な精神主義という戯画に集約された極端な共同幻想のみを一筋の錦として存在し続ける武装集団に化してきていた。昭和11年の226を見るまでもなく軍人の精神劣化には目を見張るものがある。その途中でというべきだろうか、破綻に滑り落ちていくプロセスでというべきだろうか、大日本帝国陸海軍は終焉に至った。ポツダム宣言の受諾という方法で。もし、というのは歴史にはありえないけれど、もし同宣言の受諾がなかったら「日本」という国自体がこの地球上から消失していたかもしれない。極めて少数の極小マイノリティーとして標本のような「日本人」が残っただけかもしれない。310万人の日本人が消失しただけでなく5,000万、6,000万という単位で日本人が消失していったかもしれない。当時の大日本帝国陸海軍は「消失の美学」を信奉してさえいたのだから。「天皇陛下のために死んでこーい。」などという支離滅裂な雑言を発していた輩が闊歩していたのだから。無知蒙昧の大日本帝国陸海軍は、無知無能を積極的に推進したうえでの極度の精神主義を「宗教」にまで高めることができずに、つまり、老人子供に至るまで一人一人に爆弾を配給して自爆テロを推奨するまでの徹底さを欠いたまま、妥協に至った。最悪の妥協であろう。最悪の妥協の結果、戦争が終結した。多少の知性が残っていたなら、原爆が落とされる前に、沖縄戦が展開する前に、東京大空襲の前に、ヤルタ会談でのソ連参戦をつかんだ小野寺電を握りつぶす前に、・・・何度でも「終わり」を達成することができるタイミングがあった。遡ればきりがなくなる。伊藤博文暗殺がなかったら…そう第一次大戦さえ起きなかったであろう。第一次がなければ当然第二次もない。戦争の世紀は始まらなかった・・・といえるかもしれない。しかし、いつの時代でも、この地球上のどこのエリアでも、いるのである。「せっかくのこのぼろ儲けのチャンス、絶対に逃さない」あるいは「このままでは我が国は三流国に落ち込んでしまう。帝国存亡をかけても戦争を惹起しなければならない」といったような使命感を持って戦争に突入していく輩が。いずれにしても同じような稚拙な知的レベルのお話である。伊藤博文がココツエフ(ロシア)と話をつけちまったら全くうまみがないじゃないか、などというイギリス辺りのエリートが、あの手この手で暗殺を実行させてしまうのである。そして、うまーく、導いていかれていくのがどこぞの国民である。「国難」という捏造されたあだ花をほんものの優曇華と信じ込んでしまい、死のロジックを組み立てていく。まさに、神の復讐としか言いようがない。神は人間をして破綻への道筋を作ったのだ。人が人を殺す、それも正義の名のもとに、あるいは、お国のために、という題目のもとに。これを常識では「狂気」という。私は常識人でありたい。人を殺す正義に身を寄せたくはない。いわんや、大量殺戮をや…である。戦争とは、大量殺戮の謂いである。単純なアサッシネーションではない。「マサカ」である。
 昭和の時代は戦争の時代であった。それは昭和20年を過ぎても同じことであった。世界中で戦争は継続していた。早い話が、戦後すぐに始まってしまった朝鮮戦争はまだ終結を宣言されていないのだ。わかりやすく言えば、日本は朝鮮連合軍地位協定や日米地位協定などに見られるようにずーっと朝鮮戦争にコミットし続けてきている。これでよく「平和です」などといえたものである。「バカコケ!」という話である。日本人の意識上に顕在化するにしろしないにしろ、日本は戦争を続けてきていた。いや、正確にいえば戦争に協力し続けてきていた。いや、現在でも協力し続けている。そして、それをさらに拡大していこう、というのが現政権の姿勢である。きわめてわかりやすい。安保関連諸法をいじくり回してさらに戦争にのめりこんでいこう、というのだ。どこにでもネタは存在している。戦争ネタを拾ってくるのはマスコミだったり、どこぞの死の商人(商社・メーカー・エージェント)だったり、広告代理店だったり、まっいろいろいる訳である。現ナマを掴まされればよほどの根性がない限り協力、というか戦争にコミットしていくのが政治家たちである。つまりは「戦争宣言」である。これで当分の間はぼろもうけが続けられる、というのが現在「経済界」のトップに君臨している死の商人たちである。人呼んで「経団連」だ。もちろん経団連の全機能を表しているわけではない。ほんの一部が「死の商人」であるのだが、それこそが本質であることに慄然とするのである。「死の商人もほんの少しだけやってるよ」というわけではないのである。泰平組合(三井物産、大倉組、高田商会)の歴史を、昭和通商(高田商会が消えて三菱が入る)の歴史をきちんと知っていなければならないだろう。昭和18年東條首相と岸信介商工大臣の肝いりで成立させた「商工経済会設置法」で法的な枠組を構築したうえ、商工省を軍需省に改めるなど、きわめてわかりやすい軍事経済一致体制を築き上げている。戦前では陸海軍と癒着し戦後ははてどこと癒着していたのか…というところである。そんな背景の上で、大日本帝国陸海軍の亡霊は生息し続けてきている。
 でもなぜだ、とは思わないだろうか。昭和20年8月15日以降は「平和」が続いているのではないか。この終戦の日、これを境に戦争の時代と平和の時代がきちんと区分けされたのだ、と。しかし、反省など全くしなかった日本人は戦前の毒入り饅頭というか毒入りシロップをたっぷりと吸い込んでいるままに戦後の時代へと突入してきたのである。ここにドイツなどとは全く異なった悲劇が始まったのである。つまり、戦後昭和の始まりである。戦後昭和の初めのころ吉田茂が航空権・国防権・電波権を売り渡して復興資金30億ドルをアメリカ保証でサッスーンから引っ張り出し、「経済特区新日本」とばかりに走り出してしまった。これが現在、今の今までも戦中を継続させている元凶である。つまり、今、心ならずも「戦中」なのだ。ただ、国防権を担保に抑えられちまったという事情で処々再軍備などというたわごとは無理難題だったわけだ。そんなこんなを意識しないと昭和は語れない。再軍備してこなかった、あるいは再軍備できなかったのは、平和を志向してゆえの人智努力の結果でもなければ日本国憲法9条のおかげでもない。日本はもともと国防権などもつてはいなかっただけである。その代わりに高利の金をつかんだではないか。戦中軍部で幅を利かした大紳士がそのまま戦後大商社で大活躍するとか、戦中一兵卒を当然のように死地に赴かせていた大将が戦後政界人脈をベースに巨万の富を作り上げてきたとか。そもそも日本そのものを売り渡して占領者の手先となって政界の大ボスにのさばってきたとか。本来ならあり得ない話である。だーれも反省などしなかったのである。沖縄報道を見てみよ。あれが主権国家日本の姿か、平和国家日本の姿か、と疑わせる事件が頻発していたではないか。日本国内であるにもかかわらず墜落米軍機に触ることさえできない。強姦されたことがわかっているにもかかわらず刑事訴追することさえできない。ちゃんちゃら・・・・・である。つまり、継続しているのである。辺野古の今にもつながっているのである。昭和を突き抜け、平成を貫き、そして令和になっても、大日本帝国陸海軍の亡霊は生息し続けている。これを絶滅させる、させたいというのが私の願いである。確かに、私の父も徴集されて昭和13年徐州会戦に参陣した。つまりは大日本帝国陸軍の一兵卒であった。殺さなければ殺されるという状況で人を殺してきたことくらいは聞いている。死と隣り合わせの時間を強制されたことも多少は聞いている。これを反省しないで何を反省するというのだろうか。そろそろ昭和という時代に引導を渡そうではないか。 

② 愚行の系譜
さらっと並べてみよう。
   張作霖爆殺 昭和3年
   奉天城襲撃(失敗-白朗自首) 昭和4年
   柳条湖事件-満州事変   昭和6年
   第一次上海事変 昭和7年1月
   血盟団事件 昭和7年2~3月(非軍人のテロ)
   5.15事件  昭和7年5月
   陸軍士官学校事件 昭和9年
   2.26事件  昭和11年
   盧溝橋事件 昭和12年7月
   第二次上海事変 昭和12年8月
   南京虐殺事件 昭和12年12月
   ~日中戦争の時代~
・・・・・・・父が徐州会戦に参加したのは昭和13年2月~8月であった。この直後であったのだ。 
   ノモンハン事件 昭和14年5月 
   真珠湾攻撃 昭和16年12月(太平洋戦争) 
   蘭印降伏 昭和17年3月
   ミッドウェー海戦 昭和17年6月
   ガダルカナル島の戦い 昭和17年8月(昭和18年2月撤退)
   インパール作戦 昭和19年3月(7月には作戦中止)
   神風特別攻撃隊レイテ沖発出陣 昭和19年10月
・・・・・そして、昭和20年2月にはヤルタ会談ですでに連合国サイドでの日本占領策が相談される。以降は、いわゆる「空襲の時代」である。3月の東京大空襲で無辜の都民が大虐殺された。6月には米軍の沖縄上陸により日本大地で一般庶民を大きく巻き込んだ戦闘が始まってしまった。8月には原爆2発。嘘か本当か知らないが、それでも戦争継続を主張する愚劣な軍人がいたというではないか。生命に対しての畏敬の念をはなから欠落している欠陥人間といってもよいだろう。それが、大日本帝国陸海軍が大きくかかわっている愚行の系譜を構築してしまったのである。ちなみに、小日向白朗学会の一会員の叔父がインパールで戦死していると聞いた。牟田口廉也なる愚昧な軍人のなせる結果の一つであった。そんな例が、何万、何十万、何百万とあるという訳であろう。
 ところで、最近NHKが、直接田島宮内庁長官(当時)が聞き取り書き記したものをベースとして昭和天皇拝謁記という番組をオンエアしている。その中で昭和天皇が言っている印象的な言葉がある。記憶によるので正確ではないかもしれないが、張作霖爆殺犯の処罰が間違っていた、ということである。背後に大物がいたとはいえ、とまでは言ってなかったが、厳罰に処すべきであったということである。軍人をクビになったくらいで以降も意気揚々と大物面をして国内・大陸を闊歩していたことはいろいろな書物に書き記されている。私見であるが、河本、東宮あたりは銃殺刑にするべきではなかったか(注記)。当時の軍部全体を敵に回すことになったかもしれないが統帥権は天皇にあるのである。張学良の易幟もなかったのではないか。それくらいのことをしなければだーれもビビりはしないのである。「立派なことをしてくれた」という評価が残るのみである。それこそが大日本帝国陸海軍の綱紀の乱れの嚆矢ではなかったか。それが一連の昭和愚行の始まりであったという認識を、確かに昭和天皇は持っていたと思うのである。大日本帝国陸海軍の本質的な無責任体制のはしりであったともいえる。この「無責任体制」は組織が大きくなればなるほど強固な体制維持指針と化していく。わかりやすく言えば、「だーれも責任を取らない」という張作霖爆殺事件の精神は、昭和、平成、令和と続いてる。福島原発の大事故の責任をだれがとったか。誰がとろうとしたか。政権のトップから経済界のトップまで含めてみーんな我関せずであり、つい最近は東電首脳3名の無罪判決という司法の凋落までもたらしているのである。・・・張作霖の命が消えてから8年、国内で226が起きてしまった。この真意を多くの方が誤解しているらしいが、拝謁記ではっきりと言っている。「下剋上であったから。。。。」と。そのとき、東京湾に長門を配備し大阪湾に愛宕を配備した伏見宮はどういう行動をとっていたかチェックしていただきたい。陸戦隊はなぜ動いたか。また、肝心な陸軍トップの閑院宮はどういう行動とっていたかもチェックが大切ですね。さらに、安藤輝三が信奉してやまない秩父宮はなにをしていたのか。下剋上の意味するところは…つまり、その時昭和天皇は自らの生命の危機を感じ取っていたと思うのである。それから、転がり落ちるように愚行愚行の積み重ねが始まり、昭和20年8月15日を迎えるのである。幾多の生命が消失したのか数えていただきたい。そして前述したように、だーれも反省しないままに戦後昭和を迎えることとなってしまった。
【注記】張作霖爆殺
 河本大作の場合・・・ウィキペディアによれば、除隊後に南満州鉄道理事、満州炭鉱理事長、山西産業株式会社社長と記されている。田中=蒋会談を仕組んだ松井石根をして「厳罰に処すべき」と言わしめたものの、このような言ってみれば華々しいキャリアを積んでいるのである。大日本帝国陸軍最先端技術による爆薬を使用した“華々しい殺人行為”を首謀したのち、4年ほどして昭和7年には満鉄理事である。関東軍時代のつながりによって得た職であることは明白であろう。つまり、張本人どころか周辺軍人の大勢はまったく「反省」はしていない。だからこそ、私は「銃殺」に処すべきであったと考える。それから2年したら満州炭鉱の理事長になった。そんなに“出世”するなら私だって「殺人」くらいの犯罪は犯すかもしれない、という輩がいてもおかしくはない。つまり、すでに軍部全体が大きなアモラル状態に陥っていたというべきだろう。こうした河本メソッドは悪しき先例と化していく。昭和17年には花谷正参謀長のあっせんで日支経済連携を目的とする山西産業の社長になった。戦争が終わった後には同社は中華民国政府に接収された。河本は西北実業建設公司と名称を変えた同社の最高顧問に就任、継続して会社経営に携わっていたという。しかし、昭和24年には中国共産党軍の捕虜となり、太原収容所に収監され、昭和30年に同収容所で病没したとされている。遺骨は興安丸で帰国し故郷に戻っている。故郷の兵庫県三日月町史には「報国の至誠とその果断決行は長く記録されよう」と書かれているといわれる。(ウィキペディアより) もちろん歴史に「もし」はないが、東宮ともども張作霖爆殺の罪で銃殺に処されていたとしたら、軍部の総反発はあったかもしれないが、満州事変は起きなかったであろう。なぜならば、石原、板垣らも「銃殺」を恐れたであろうからである。とうぜんのことながら、国内で5.15や2.26など若手将校たちの殺人行為(テロ)も起きなかったであろう。つまり、軍の規律は保たれて、中国のとの関係は大きく変貌を遂げていたに違いない。それこそ松井石根が夢見ていた「大亜細亜主義」が実現されていたかもしれない。
 大日本帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を故意に読み間違えて政府から独立してしまった陸海軍は、天皇直属であるとして政府をないがしろにしつくしてしまい、また、政府も軍部を追認していくという悪循環サイクルを構築してしまった。こうして、「愚」の系譜がいくつも折り重なるように積み上げられていくのである。その目立った事件、先例となったのが張作霖爆殺事件であったと思う。(ご批判無用~つづく・・・文責吉田)
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白朗、馬賊を捨てたその時

2019-08-21 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 朽木寒三先生の馬賊戦記の最後の部分ですが、死刑を目前にして生きながらえることに腐心していたころ・・・・・
(馬賊戦記から)  こうして、12月17日、もう夕方6時過ぎである。廊下の一番出口のところで、看守の大声がきこえた。「シャン シュイ トン」と呼ぶ。「イヨーッ」というのが、こっちの答え方だ。すると相手は、何とかかんとか-っと叫び返してきた。白朗は片方の耳が悪い。左の方角からくる声をよく聞きとることができない。それでも言葉の調子で、「開廷-ッ」と言われたような気がしたがそれには少し時刻がおかしい。
・・・・・・・・といったいきさつが書かれている。つまり、これが、釈放の日だったのだ。最後の質問は「あなたの国籍は、ほんとうはどこですか」であった。「日本です」と答えた白朗、死刑を免れた瞬間であった。と同時に、私には馬賊を捨てた瞬間であったとも思える。取り調べには徹底してその過去をしゃべらず、材木屋をやっていたということで通してたという。その時すでに馬賊を捨てていたのかもしれないが、その記念日が12月17日であろうと思う。すでに戦争は終わり3年余りが過ぎていた。
 昭和23年12月17日のことだった。その後自力でというか、仲間の手を借りて大陸を脱出帰国して、白朗の戦後が始まる。その釈放の日12月17日の6日前、12月11日に私は日本の片隅のド田舎で産まれた。昭和13年には徐州会戦を戦った父とその直後に結婚した母との間に。別に何の関係もない話であるが、白朗の戦後こそが大きく評価されなければならないと考えている私には、ちょっとしたこじつけの感慨もわくのである。(文責吉田)
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朽木寒三先生の葬儀 「馬賊戦記」の朽木先生が安らかに永眠されました。

2019-05-29 | ーお知らせー
               小日向白朗学会永久名誉顧問 朽木寒三先生の葬儀
               お通夜 5/28日18時から
               告別式 5/29日10時から  船橋 馬込斎場にて滞りなく行われました。
               なお、小日向白朗学会としては、樒を供えさせて頂きました。

               29日の告別式では、しめやかに日蓮正宗に法り葬儀が行われ、僧侶と参列者との題目唱和、御焼香。
               そして弔電が読み上げられ、題目三唱をさらに唱和しました。
               最後に、喪主 妻の水口マス子様より涙深いお言葉がありました。

             
               最後のお別れでは、樒(しきみ)を参列者とご家族、親戚で、
               安らかな永眠につかれた先生に供えさせて頂きました。

             


             

             

  式と式との間には、奥様とご家族から直接、肺炎で闘病中のお話をお伺いしました。
  また小日向白朗学会の研究報告を会員としてお墓に報告しに参らさせて頂くことも話させて頂きました。

  なお、日蓮正宗に法り、ご本尊の写っている葬儀の様子は撮ってはいけないということですのでありません。


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訃報

2019-05-24 | 小日向白朗学会 情報
 令和元年5月23日、昨年来肺炎のため入院されていました朽木寒三先生がお亡くなりました。「馬賊戦記」の作者であり、小日向白朗学会の永久名誉会員でもあります。
 会員一同心よりお悔やみを申し上げると共にご冥福をお祈りいたします。
 なお、お通夜28日18時船橋北口馬込斎場。告別式29日10時となっております。
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小日向白朗 1982年(昭和57年)1月5日 死去の記事

2019-05-04 | 小日向白朗とは エピソード 功績など
小日向白朗 1982年(昭和57年)1月5日 午前一時四十分 死去の記事 出典新聞名不明

白朗氏と同郷 諸橋喜八氏から提供

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