小日向白朗学会 HP準備室BLOG

小日向白朗氏の功績が、未だ歴史上隠されている”真の事実”を広く知ってもらう為の小日向白朗学会公式HP開設準備室 情報など

小日向白朗 1982年(昭和57年)1月5日 死去の記事

2019-05-04 | 小日向白朗とは エピソード 功績など
小日向白朗 1982年(昭和57年)1月5日 午前一時四十分 死去の記事 出典新聞名不明

白朗氏と同郷 諸橋喜八氏から提供

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小日向白朗氏 帰国後の功績(2) 日中国交回復まで ー概略ー 

2019-03-01 | 小日向白朗とは エピソード 功績など
1971年の米国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャー氏の秘密裏での中国訪問で
米中国交回復の筋道が出来、1972年2月のニクソン米大統領の訪中で米中共同声明が発表され
米中国交回復が成立した。
その同年1972年9月には田中角栄首相政権下で、やはりにニクソン政権と同じく、田中角栄首相と同郷(新潟県旧西山町(現長岡市と三条市 旧中間選挙で新潟三区で同じ選挙区))である
小日向白朗氏を介して中国と接近し日中国交回復をなした。
しかし田中角栄首相は、岸・加賀・佐藤自民党主流派ラインの台湾ロビールートに切り捨て、
先2月に中国との国交回復に成功したアメリカ側の意向も聞かず日中国交回復を断行した。

後日談だが、キッシンジャー米国家安全保障問題担当大統領補佐官はアメリカ側の意向も聞かず
田中角栄首相が一方的な日中国交回復を断行したことに対し激怒し、後の「ロッキード事件」へと発展し田中角栄首相は失脚したそうだ。「ピーナッツ情報」を米政府関係筋が小日向白朗氏に手渡したからだとうい話も流れているー。
この事件も学会での研究の一つですー。
                           (文責 ゆざわ)


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小日向白朗氏 帰国後の功績(1) 米中国交回復まで ー概略ー 

2019-02-14 | 小日向白朗とは エピソード 功績など
小日向白朗氏 帰国後の功績(1)
米中国交回復まで ー概略ー 近代史の裏で白朗氏が動き!

小日向白朗氏は終戦後の中国で、国民党軍に捕らえられたが、再度九死に一生を得て強制帰国となり日本に帰った。
帰国後の白朗氏は、中国大陸での馬賊での出来事を綴った「日本人馬賊王」を発表し、日本で馬賊の活躍を紹介し一大ブームを起こした。
それから白朗氏のその馬賊体験を元にした小説「馬賊戦記」 (1966年)朽木寒三著なども出版された。
また檀一雄も、白朗氏との対談から小説「おれは馬賊だ」(1956年) なども生まれた。
それから1971年7月には、当時ベトナム戦争で苦しんでいた米国。そのニクソン米大統領の国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャー氏から極秘に声が掛かり渡米することになる。
白朗氏は、六本木の米軍基地(現赤坂プレスセンター)から米軍ヘリに乗り、さらに厚木米軍基地えで乗り換えパスポートを持たずに渡米した人物でもある。
キッシンジャー氏は、中国大陸馬賊で培った現中国共産党の要人に厚い信頼がある白朗氏の仲介で、極秘に米中国交回復へ向けての第一歩が始まった。
同年10月にはキッシンジャー氏は、直接周恩来首相と会談をして米中和解への糸口をつける。またベトナム戦争の終結への道筋をも作った。
翌72年2月にニクソン大統領も中国を訪問し、第一次米中共同声明(上海コミュニケ)を発表し念願の米中国交回復を実現した。
その後、米中国交正常化へと向かった。
このような世界近代史の裏で活躍したのが小日向白朗氏なのであるが、「義」を持って見返り謝礼を求めない馬賊時代と同じ志しを持って米中国交回復を実現した人物としての功績を知ってもらいたい。
白朗氏は身近な知り合いに、満州時代に若き周恩来首相と毛沢東主席、将介石共に相見えたと話しる。
なお70年秋には、前米駐日大使(1961年(昭和36年)4月~1966年(昭和41年)7月)ライシャワー氏に招待されて、ボストン郊外氏の自宅に招待されている。
日米の「現状と将来」を二人で議論したそうだ。ライシャワー氏は白朗氏の意見を聞き、「沖縄返還問題」「首都圏航空管制権問題」など今日にも問題となっている事柄を論議したそうだ。
                                         (文責 湯澤)


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小日向白朗 戦前・戦中までの活動功績 ー概略ー

2019-02-02 | 小日向白朗とは エピソード 功績など

 小日向白朗は、17歳(1917年)で新潟県三条から単身でシベリア単騎横断で有名な福島安正中佐に憧れ、中国、チベットを調査しながら、ドイツを目指そうと朝鮮を経由し中国に渡る。当時の中国では清朝の衰退によって治安が悪化し、盗賊、流族や悪徳官僚などがはびこり、それを守るために民衆は土匪・匪賊と呼ばれる地域自衛集団(日本では馬賊)が生まれていた。
そんな治安悪化の中国では、帝国陸軍に依頼され諜報活動の一環としてモンゴルへ向かうが、現地の馬賊に囚われ、命と引き換えに楊青山の部下雑役夫となり九死一生をえた。
 白朗は、馬番雑役夫ままでは自分の大陸に渡った初心を貫けないと思い、馬賊決死隊に志願した。
ます敵の城壁を単身飛び越え、生死の瀬戸際で門を開け戦勝の突破口をつくり大手柄をなした。それから中国人の馬賊の仲間から信頼され、各地にある馬賊の「包頭」という一班長になり、後には中語人として中国全土馬賊の総頭目となった。
中国人としての白朗はさながら”七人の侍”が如し、庶民のために当時中国各地に出没する山賊、流族や悪徳官僚などと悪と戦った。また満州での日本帝国軍に対しても抗日運動に関わった。
今まで馬賊王 日本人小日向白朗と言われているが、実際は「賊」という言葉は誤りで、日本人が持っている「義」で中国民を助けた「馬義」か「馬援」と言ったほうがいいですかー。
元々中国では「自衛組織」遊撃隊のような集団で土匪・匪賊と呼ばれていた。
「馬賊」という名称は、満州国建国において、帝国軍日本人側からみた呼び名であり、中国側からは抗日する悪いイメージをうえさしたからそのなが一般的に成ったからです。
故に小日向白朗学会としては、この「賊」のイマージ汚名を返上し、小日向白朗氏の中米日への偉大な功績を研究し皆さんに知って頂きたいと思う所存であります。
 なお、小日向白朗氏の戦前・戦中 中国満州での生き様の様子は下記の書籍で読むことが出来ます。

              
小日向白朗「日本人 馬賊王 昭和32年発刊
朽木寒三 「馬賊戦記」上下(昭和41年(1966)年発刊
朽木寒三 「馬賊戦記 - 小日向白朗蘇るヒーロー」'66年版新装改訂版2005年発刊関浩三協力 上・下、ストーク
2005年徳間文庫でも刊行
   (文責 湯澤)





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