小日向白朗学会 HP準備室BLOG

小日向白朗氏の功績が、未だ歴史上隠されている”真の事実”を広く知ってもらう為の小日向白朗学会公式HP開設準備室 情報など

金家坊99号にちなんで

2019-03-29 | 小日向白朗学会 情報
 昭和14年の暮れ近く関東憲兵隊司令官も務めた三浦三郎はこういった。「小日向君、上海で一仕事してくれんか」。これが金家坊99の活躍の始まりであった。因みに三浦少将は1893年生まれであり、白朗より七つほど年上になる。小日向の活躍を評価していた人物である。条件付きでこれを受けた白朗は魔都「上海」の謀略戦、諜報線の真っただ中に飛び込んでいったわけである。当時、青幇三大行として名をはせていたのが「杜月笙」を筆頭に黄金栄張嘯林であり、彼らが大活躍していたというか、好き放題の所業を展開して一般庶民を苦しめていた。藍衣社、特務政治委員会、憲兵第三団など蒋介石一派のテロ集団やもともと日本軍隊によって承認されていた中国国民党特務委員会特工総部、いわゆるジェスフィールド76号などなどが、三つ巴、四つ巴のやりたい放題でほぼ無政府状態のようであったらしい。こんなところに乗り込んでいったわけである。
 中でも、杜月笙とのやり取りが馬賊戦記には詳しく記されている。杜の矜持を傷つけることなく上海を出ていかせたのである。この辺の説得の仕方はやはり素晴らしいというほかない。表面的には友達として、しかし実際には生き死にをかけてのやり取りである。また、蒋介石一派の藍衣社の総帥、戴笠とは宿敵というべき存在であったにもかかわらず、馬賊戦記によれば「敵味方を超えた友情のようなものが生まれた」らしいのである。
 難しいことはともかくとして、私はつくづく思う。「敵対する人間とは殺しあう」、これが戦争のロジックであろう。しかし、白朗は違う。敵対する人間を心酔させてしまうのである。殺さないで目的を達するのである。本来彼は「アジア人同士が殺しあってどうするんだ!?」、という気持ちがあったはずで、これこそが俗にいうアジア主義である。アジアだけが良ければよい、というものではない。民族主義も同じであると思うが、わが民族のかけがえのない価値は、異なる民族にとっても全く同じものがある、ということである。お互いが異なるものに敬意を表する、これが「アジア主義」の理念ではないだろうか。これを単なる「理想」としてではなく、死を賭して実行していたのが白朗であったと思う。
 白朗でも日本の敗戦の時を知っていたわけではないであろう。まだまだ当地では羽振りを利かしていた大陸の日本軍であった。しかし、昭和19年1月、金家坊99での莫大な収入を惜しげもなく捨てて日本軍に対して引退を表明、上海を去ったのである。馬賊戦記ではこう記している。「もし彼が敗戦を金家坊で迎えたら、有無を言わさず銃殺されてしまったに違いない」。白朗の命強さ、勝負強さはいったいどこからきているか、私には計り知れない。(文責吉田)
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満州、見果てぬ故郷

2019-03-27 | その他
 昨晩テレビを見ていたら「我が国の生命線」などという言葉が聞こえてきました。そう満州のことです。戦後生まれの私にとって、生まれた時にはすでに満州国は存在しなかったにもかかわらず、満州という言葉を聞くと、なぜか「故郷の香り」がするのです。なぜなのでしょうか。私は3人兄弟の末っ子。長男は日本で生まれ、おそらくですが、昭和16年に両親と3人で満州に渡ったのです。その地で長女が生まれました。戦後、おそらくですが昭和21年5月ころ、白龍丸に乗って引き揚げてきたのです。死ぬような過酷な環境の中で、おそらくですが、ソ連兵だけでなく一部の中国の人たちからも逃れるようにして帰ってきたのでしょう。日本の港(舞鶴)についてからも、長女が海に落ちそうになったり、はぐれてしまいそうになったり・・・・等々いろいろあったようです。
 つまり、私の姉は満州国の生まれなのです。満州での生活は大変にゆったりとしていたというか、余裕があったというか、恵まれていたような話を耳にしています。すでにどこかへ行ってしまいましたが、兄が自宅の中でくつろぐ写真を見たことがありますが、裕福な雰囲気の部屋を連想させるものでした。しっかり聞いてはいないのですが、そのころの父は炭鉱会社(「満州炭抗」らしいです)の管理職の仕事をしていたようなのです。当時満州は「異国」ではなく、「我が国の生命線」などという言葉で象徴されるように、「準・日本」といった感じだったのでしょう。
 国の政策としては俗にいうところの「棄民」、つまり、できれば満州にとどまるように…というものだったようなのですが、死に物狂いで帰ってきました。その時は家族が増えて4人になっていたのです。帰国後、両親は生活の再建にものすごい苦労をしたのです。それははっきりと耳にしています。どうにか息がつけるか、といった頃なのでしょうか、私は生まれました。いわゆるベビーブーマーであります。私の両親と兄、姉は満州とははっきりとしたゆかりがあるのですが、私は全く実感はないはずであります。にもかかわらず、「満州」という言葉を耳にすると「ふるさと」に似た甘ったるい感情がわいてくるのを禁じえません。私の姉の戸籍にははっきりと書かれています。生誕地は「満州国錦州省吐黙特中旗北票街南山区〇〇〇〇」なのです。どなたかこの地をご存知の方がいらっしゃったらぜひ聞いてみたいものと思っております。「どんなところでしょうか?」と。なぜなら、私のファミリーの見果てぬふるさとだからです。私と家族とのつながりが私の満州という一個の『幻想体』に対して醸し出す感情、それが原因なのでしょうか。
 残念ながら、生前の父からは具体的な話を聞いたことはないのです。父は昭和13年の2月から8月までの従軍日記を残していましたので、満州を家族(妻と長男)と渡る前に「徐州会戦」に従軍していたことは十分に伺われています。退役し帰国してから結婚し、長男を得てから昭和16年に満州へ渡ったのです。父は、おそらくですが、満州の地で家族とともに幸せな生活を営むことが出来るのではないか、という気持ちで満州に行き、しばらくはそう思っていたのではないかと。それこそが大いなる誤解といいますか、仕組まれた幻想(国家幻想)であることにまで想いを馳せることなく。白朗が憲兵隊に請われて渡った上海・金家坊99を拠点として活躍していた頃のお話です。(文責吉田)
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私は田中武夫氏と一緒に仕事をしていた。あの「満州評論」編集者の田中氏と。

2019-03-20 | 小日向白朗学会 情報
 一冊の書物を読みました。「満鉄~知の集団の誕生と死」・・・吉川弘文館発行、小林英夫著です。満鉄と言えば、私が大学を出て入った会社(新聞社)で満鉄出身の方と一緒に机を並べて校正の仕事をしたことがあることを思い出しました。その方の名前は[田中武夫]です。私はまだ20代前半でしたが、田中さんはおそらく60代、いや70代に入っていたかもしれません。穏やかな方で口数は少なく、でもしっかりした口調でお話しする人でした。その方はこんなようなことを言っておりました。「人は、一生のうちに三つのことをすればよい。一つは一本の木を植えること、一冊の書を書くこと、・・・・」三つ目に何を言っていたのかを残念ながら失念してしまいました。そしてかなりのヘビースモーカーで確かピースを吸っていましたが、たばこのことを言うと「私は煙草に淫している。」といって楽しそうに笑っていたのを思い出します。お酒は若干だったかな。そうでもないか。その方がほどなくなくなってしまい、編集局の仲間と自宅にまで通夜に行ってお酒を一本頂いてきたのを覚えています。田中武夫さんは先ほどの三つのことを実現していかれたのでした。「橘樸と佐藤大四郎」という書物を書きましたが、この書物は専門家の方々などにも引用されるなど満州史の考察に深く貢献したものでもあります。
 そう、田中さんはあの満鉄調査部事件に連座されていたのです。「満鉄調査部事件とは、1941年11月に起きた合作社事件と連なって42年9月と、43年7月と2度にわたり満鉄調査部に所属する調査部員44名が満州国治安維持法違反の容疑で関東憲兵隊に検挙された事件をさす。」(松村高夫氏の批判に応える-満鉄調査部事件の神話と実像-、小林英夫・福井紳一、早稲田大学リポジトリより)というものでした。この著の中でさらに被疑者について、「・・・・経済調査会以外でも『満州評論』を経て合作社運動を指導した佐藤大四郎や、長く『満州評論』の編集に携わった田中武夫らも含めてよい。]という文章が見られます。さらに検挙者リストの中に、『田中武夫-33歳-大連第一中学校卒-職業・満州評論社、前科逮捕歴なし-検挙日時1941年11月4日-手記等の有無として手記のみ』・・・・と記されています。
 生きた歴史を語ることのできた田中さんを目の前にして20代の若僧であった私は、ただばか話を繰り返し、新聞編集の帰途に安い居酒屋の片隅で飲んで騒いでいただけでした。大変悔しい思いがしています。今であれば思う存分に満州評論編集当時のことや合作社運動のことを聞くことができたのに…と。
 今、あなたの目の前にいらっしゃる穏やかそうな顔をしている方、そうその方こそ生きた歴史の証人なのかもしれません。人の出会いは大切にしないと大変に後悔してしまうものです。
 1941年と言ったら、白朗は憲兵に請われて渡った上海で大活躍をしていたころだと思います。蒋介石一派、日本陸軍の息のかかった一派等々を相手に三つ巴、四つ巴の戦いを展開し、青幇として金家坊99の名を馳せていた頃かと・・・・。(文責吉田)
参考書籍
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港健二郎会員が白朗ドキュメントに挑む

2019-03-13 | 小日向白朗 参考文献 書籍 WEB情報など
 小日向白朗学会スタートメンバーの一人、映像作家の港健二郎会員が小日向白朗ドキュメントの制作に挑むこととなりました。まだまだ本格的な撮影はこれからのようですが、予告映像が届いたので、皆さんに見て頂ければ幸いと思います。(学会事務局吉田)
緑林の人」 

緑林の人予告2



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アジアの平和雑感

2019-03-06 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 先月末のベトナムでの米朝首脳会談のお話は、いやっというほどテレビなどでコメントされているようです、あまり見ませんが。でも、あのお二人がお話をするっていうことが、日本に住んでいる私たちの生活にどう関係するのかって、どのくらいのリアル感があるのでしょうか。数十年まえならば「アジアの平和」というくくりで語られる話題であると思いますが、今や「アジアの問題は」「世界全体の問題」でもあるでしょうから、世界の平和、にかかわることでしょうね。
 ところで、昭和46年2月小日向白朗とのクレジット付きで、富士ジャーナルという雑誌に「米国への提言 アジアの平和と進歩のために』が公表されています。今となってはあまりご存知の方もいらっしゃらないかもしれません。この文章は前年の昭和45年7月にはアメリカ国家安全保障会議に出されていたものそのものでした。小見出しは4つあります。
  ●ベトナム和平
  ●ポスト・ベトナム
  ●中国問題
  ●アジアの建設

・・・の4つです。
 当時はベトナム戦争のころでした。思い出す方も多いかと。新聞に連日報道されていたものです。撤退ノウハウを持たないままに拡大してしまった戦争を「こんなふうにしたら、名誉ある撤退ができるし、ポストベトナムの復興にも貢献できるでしょう」とアメリカに提言されているのです。そしてほぼその提言通りに進み戦争は終結したのだったと記憶しています。
 そして、最後の「アジアの建設」の中で白朗は「・・・・それはベトナム和平はもとより、すべての民族の自主独立を保証し、一切の干渉と介入を排除することを要求するものであると同時に、中国に対しても不合理な貿易制限を撤廃し、中国自身の経済建設と海外交流を助長し、相携えてアジアの平和的建設に協力する場をつくるべきであることを主張するものである」、続けて「現情勢はアメリカの一大決断の時であるということができる]と結んでいます。昭和45年に書かれた文章というと49年前ということですね。わたしは、すでにアメリカは、というよりトランプさんは決断していると考えています。
 まっ、今回は朝鮮戦争の終結と半島からの核撤廃といったテーマだったと思いますので、違いはあるでしょう。しかしながら、流れとして「戦争の終結」であり、「戦争を継続するものは排除していく」という流れであることは似通ってはいないでしょうか。私はこの中で「戦争の排除」が最大テーマと思っています。それはなぜかと言いますと…戦争状態の継続、緊張の不断の創出などの方法でできるだけ戦争を継続していきたい、継続していくことの中で得られるフルーツの味を手放したくない、という方々がいらっしゃるからです。こういう方々は日本だけでなく、韓国にもアメリカにもいらっしゃると思いますよ。物事をわかりやすく判断する方法の一つとして、「いったい誰が北の核廃絶が実現してしまうことを嫌がっているのか」ということに思いを巡らせれば簡単だと思いますね。そんなことをあれやこれややっていましたら、平成21年のころに鈴木宗男先生が核資材輸出疑惑に関する質問をしていた、といった記事が出てきました。日本企業の名前まではっきりと。迂回戦術でひょっとしたら、ね、「北の核のおおもとはどこか」が見えてくるのかもしれません。怖いお話です。西部邁先生の核武装論の宣伝文句【「唯一の被爆国」という自己欺瞞をただす!「非核三原則」には嗤いを、「核の傘」には疑いを。日本の核武装に現実味を感じていないのは日本人だけだ。偽善的な平和主義に老師ニシベは「核」新論を展開する】・・・などをまたぞろ持ち出す方も出てくるのかな。時は大きなうねりを見せて変わってきていることを理解されないというか、意識的に、あるいは意図的に理解しようとしない方々がいらっしゃるのも仕方がないかもしれませんが。ちなみに私は西部先生大好きですが、時折わからないこともおっしゃっていたかななどと思いだします。
 そんなわけで、この辺で改めて白朗に学びたいものだと思う今日この頃であります。(文責吉田)


追伸・・・北の核については上記に記したような懸念がありますが、今回我が国トップがイランに行くのはなぜでしょうか。トランプに行け、と言われたからとするのも至当でしょう。ではなぜトランプは我が国トップにそう言ったのでしょうか。その辺を考えていただきたいなあ、などと思います。鈴木宗男先生のご懸念されるところ、それは核拡散だとしたら、果たして、パキスタンのカーン博士の核はどこへ流れていたのか。そこでイランのことを考える必要が出てくるというのは当然のロジックでしょうね。(令和元年6月3日追記、文責吉田)
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小日向白朗氏 帰国後の功績(2) 日中国交回復まで ー概略ー 

2019-03-01 | 小日向白朗とは エピソード 功績など
1971年の米国家安全保障問題担当大統領補佐官キッシンジャー氏の秘密裏での中国訪問で
米中国交回復の筋道が出来、1972年2月のニクソン米大統領の訪中で米中共同声明が発表され
米中国交回復が成立した。
その同年1972年9月には田中角栄首相政権下で、やはりにニクソン政権と同じく、田中角栄首相と同郷(新潟県旧西山町(現長岡市と三条市 旧中間選挙で新潟三区で同じ選挙区))である
小日向白朗氏を介して中国と接近し日中国交回復をなした。
しかし田中角栄首相は、岸・加賀・佐藤自民党主流派ラインの台湾ロビールートに切り捨て、
先2月に中国との国交回復に成功したアメリカ側の意向も聞かず日中国交回復を断行した。

後日談だが、キッシンジャー米国家安全保障問題担当大統領補佐官はアメリカ側の意向も聞かず
田中角栄首相が一方的な日中国交回復を断行したことに対し激怒し、後の「ロッキード事件」へと発展し田中角栄首相は失脚したそうだ。「ピーナッツ情報」を米政府関係筋が小日向白朗氏に手渡したからだとうい話も流れているー。
この事件も学会での研究の一つですー。
                           (文責 ゆざわ)


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