小日向白朗学会 HP準備室BLOG

小日向白朗氏の功績が、未だ歴史上隠されている”真の事実”を広く知ってもらう為の小日向白朗学会公式HP開設準備室 情報など

アジアの平和と進歩のために。。。1970年7月5日小日向白朗

2022-01-28 | 小日向白朗学会 情報
1970年7月白朗が米国へ招聘されたことは何度も書いてきた。実際にはキッシンジャー側近のホルトリッジから亀田候治あての書簡となっているもので、そのコピーも公開した。文書にしてほしいとも頼まれた経緯があり、白朗はアジアの平和と進歩のために、とのタイトルで短い手紙というか、直言の文書をしたためている。その文書は富士ジャーナル誌にも公開されているものだが、改めて下記に示したい。52年前の7月の時点での、いわば「日本」からの「アメリカ」への直言であり、同時にこの文書は中国にも提示されたものである。なお、5枚目には6枚目に記したマジックでの手書き文章(白朗書)が映りこんでしまい、見にくくなってしまっていることを付記する。ここには「アメリカの要請で書いたもの…」とはっきり書かれている。この52年間、世界はより平和になったのか…しばし考えてみたいものである。(文責:吉田)
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アジアのために米国に直言・・・富士ジャーナル7.'71の22Pから

2022-01-27 | 白朗と私 会員思うままに・・・
やれ台湾だ!、やれウクライナだ!・・・・北朝鮮だ!・・・そういえば、インド軍事大国化も言われている、どこぞの大統領も何かやりたくてうずうずしている雰囲気というか感じが見え見えですし、どこの国の人でも人はきな臭いにおいがお好きなのかもしれない。
ところで、1971年7月号の富士ジャーナル誌が手元にある。今は残念ながら出ていない雑誌だ。この20~21ぺー氏に大きな見出しが出ている。「台湾解決でアメリカに招かれた元馬賊王」とある。そして、その22ページには小見出しで「アジアのために米国に直言」とあり、本文にこんなくだりがある。「・・・何のために僕を呼ぼうとしているのか・・・・例のニクソンドクトリンに関連して僕の意見を聞きたいんだ・・・」とあり、白朗はなぜ招聘されたのかを了解している。ニクソンの思惑を実現するためには一番難しいのは「台湾」という訳だ。本誌(富士ジャーナル編集者)は、「ニクソンが、それを実行するにしても、反対する勢力、例えば台湾政府などがありますが…」と語りかけている。白朗は「・・・・日本のなかにも相当有力な団体が、それを喜ばないだろうはっきり言うと反対するだろう、といったわけだが、それは誰ですか。というので、あなた方も御存知の台湾ロビーと称する、岸、賀屋、佐藤といった自民党の主流派だ、というと、向こうもさるもので、その反対の理由は何ですか。という。・・・」と続けている。そして、台湾ロビーについて具体的に説明に入っている。同誌の編集者は次の小見出しに「台湾ロビーは亡国奴だ」と。これは尖閣につながる話であるわけだが、詳しくは本誌を見ていただきたいものである。(文責:吉田)
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アジアの平和一考

2022-01-21 | 白朗と私 会員思うままに・・・
米国は、台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は、この立場に異論をとなえない。米国政府は、中国人自らによる台湾問題の平和的解決についての米国政府の関心を再確認する。かかる展望を念頭におき、米国政府は、台湾から全ての米国軍隊と軍事施設を撤退ないし撤去するという最終目標を確認する。当面、米国政府は、この地域の緊張が緩和するにしたがい、台湾の米国軍隊と軍事施設を漸進的に減少させるであろう。(1972.2.28上海コミュニケから抜粋)
今から50年前だが、その前年7月と10月にはキッシンジャーと周恩来は何度も会談を積み重ねて平和への試行錯誤を、というか、平和のために米中が共同で何を言うべきかを熟考してきたといわれている。そして、平和、特にアジアの平和について心を砕いた形跡がある。アジアの平和とは、台湾だけではない、朝鮮半島の問題や、当時はアメリカをして泥沼に陥らせてもいたインドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)の問題、そしてインド・パキスタン等々である。そうそうソ連(当時)、そして日本の再軍備の動き等もあったようだ。なぜ、中国とアメリカの巨頭二人が片寄せあうというか、共に並んで平和を模索するようなことができたのか、なぜそんな場面を実現することができたのか。・・・・1970年7月白朗のもとにアメリカから招聘のオファーが入ったことは白朗ファンの方であれば熟知のこと(エアメールコピー参照)。白朗は疑い深いところがあって一応は断っている。けれども執拗なオファーであったことと各種便宜(渡米手段など)を図ってのこともあったようで9月にはアメリカへわたっている。そして、翌年にキッシンジャー・周恩来会談が実現したのである。これでは「なぜ」の答えにはなってはいないが、今のところそれ以上は言わないほうが良いだろう。
 前述の上海コミュニケからあと1か月で50年の時間が過ぎようとしている。そんな時に我が国の前、いや、元首相が「台湾有事は日本の有事」などとあるフォーラムで発言されていたようだ。そういえば、秘密裏に事を運んではいたもののアメリカ内部などではキッシンジャー・周恩来会談自体をつぶしにかかろうとする圧力は相当なものであったらしい。50年経過してもアジアの平和は担保されていないのは残念な限りであるが、世の中そんなものなのだろう。白朗は「まだ、いまだにそんなこと言っているのかね…」とでも言われるだろうか。
しかし、キッシンジャーの真意はどこにあったのか。安易に結論付けると危険だ。98歳で今もなお元気なキッシンジャーについてこんな文書も公開されている。「When Kissinger learned that Tanaka was to travel to China to establish diplomatic ties, he lividly reacted, "Of all the treacherous sons of bitches, the Japs take the cake."」外交とはやはり一筋縄ではいかない、奇っ怪なものなのだろう。(文責:吉田)
【キッシンジャー補佐官の訪米要請書簡】
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閔妃暗殺などおもいつつ

2022-01-06 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 堀口大學というと、フランス文学に親しんだことのある諸氏はその名訳を記憶にとどめているかもしれない。そんな文学界の雄の父親は堀口九万一という。どんな方なのかウィキペディアから借用すると・・・・・・1894年、日本初の外交官及領事官試験に合格。外務省領事官補として朝鮮の仁川に赴任中、1895年、閔妃暗殺事件に際して、朝鮮の大院君に日本側から決起を促した廉で停職処分を受ける。2021年11月、郷里新潟県中通村(現長岡市)の親友で漢学者の武石貞松に送った1894年11月17日付から事件直後の95年10月18日付の8通の書簡が見つかった。95年10月9日付の6通目には現地でとった行動が細かく書かれており、王宮に侵入したもののうち、「進入は予の担任たり。塀を越え(中略)、漸(ようや)く奥御殿に達し、王妃を弑(しい)し申候(もうしそうろう)」(原文はひらがなとカタカナ交じりの旧字体。以下同)と王宮の奥に入り王妃を殺したことや、「存外容易にして、却(かえっ)てあっけに取られ申候」という感想まで述べている・・・・・・と細かく記されている。閔妃に直接手をくだして殺害した人物としてニュースになったのもつい最近のこと。まあ、たいして大きなニュースという訳ではなかったけれど。いずれにしても、優秀な若き外交官がどうして「暗殺」の直接の犯人となりえたのか。その殺害に関して、「なんでこんなに簡単に殺せちゃったの?」と感想まで記している。これは普通の感覚ではないのではないだろうか。外交官といえば官僚の花形である。ところがどっこい、その国の外交を直接担当する高級官僚が「暗殺を教唆」したのだ…というのである。イザベラ・バードの朝鮮紀行の一文にこんなくだりがある。「三浦の教唆により、王妃殺害を決意し、そのために仲間を集め(中略)他の十余名に対して王妃殺害の指揮をとった」ということが広島第一審裁判所において被告のうち2名から聴取されているのである。三浦とは三浦梧楼、三浦子爵、朝鮮公使のことであり、れっきとした高級外交官である。結果としてはご存知のように証拠不十分で全員無罪であった。公使はこれをきっかけに確か小村寿太郎に交代している。その後に日本国天皇の弔辞が朝鮮国王に届くのである。・・・・堀口九万一はただ単に上司の命令に従っただけのことであったかもしれない。私は日本という国家が閔妃を殺害したとは言わない。ただ、形だけの裁判を開いて無罪放免にしたのは国家である。後追いで国家は「暗殺」を追認していく。なんか、こんなシーンいろいろなところで見られた気はしないであろうか。張作霖爆殺犯の河本がどうなったか、国内テロの515も226もそういえば一応禁固刑や銃殺の刑に処せられたりはしているものの深く真犯人までは追求されてはいない。などなどちょっと調べたらいろいろと出てきそうなお話の一つでしかないのかもしれない。誕生までには数年はやいが、後の白朗だったらどう思うだろうか。こんなやり方を、つまり、関東軍のやり方を、日本軍人のやり方を、そして日本政府のやり方をいやというほど知り尽くした白朗だったらどんな行動に出るだろうか。そんな妄想に駆られてくる。(文責:吉田)
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白朗の季節

2022-01-05 | 白朗と私 会員思うままに・・・
 令和の御世になって時がたつのも速いことこの上なしの感です。西暦で言った方が時代感覚もわかりやすくなっているというべきでしょうか。しかし、昭和はやはり「昭和」という感じが否めない。特に昭和3年張作霖爆殺ころから一気に時が乱調になだれ込み、226で大きな弾みをつけて昭和20年8月15日まで。この時間の流れは1928~1945という数字の羅列以上の重みを感じてしまいます。そういえば今年令和4年は昭和97年かな。ということは太平洋戦争が終結、というか日本が負けてから77年ですか。このくらいの時間では、別次元の世界への飛躍は到底無理なようで、相も変わらず戦争の時代を継続しようという力学というか、戦争サステナビリティという言う錬金術メソッド幻想の虜というか、そんな輩による世界のあちらこちらでの火種検索には余念がないようです。アフガニスタン、ウクライナ、ミャンマー、台湾、相も変わらずの北朝鮮、世界地図を十字に区切るど真ん中に位置するアフガニスタンはあたかも恒久火種の元でもあるかのような存在感を秘めているのはまあ仕方ないにしても、半島やら、国境、水辺附近の地政学に“恵まれた”金のなる土地・地域では、きな臭さが漂っているようです。やはり、白朗の出番ですね。アジアの平和を現実に希求する力学が求められているのではないでしょうか。戦争は最大の公共事業などという寝言を許してはならないのではないでしょうか。やっぱ・・・・白朗の出番です。40年の眠りからちょっとだけでも醒めてみていただきたいものです。(文責:吉田)
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