もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

目眩と肩パッド

2024年04月06日 13時48分18秒 | タイ歌謡
 幼い頃はたいへんにぼんやりしたコドモだったので、最初の記憶がどれかすら覚束ない。冬の日、チューインガムを食べようとして、そのガムを燃えさかるストーブに投げ込み、左手に残った包み紙に気付いて呆然とした記憶や、窓から見上げた空いちめんの星がどこか余所の世界みたいに美しかった記憶。木製の蜜柑箱を母から貰って、そこに父の買ってくれた歩行するロボット玩具をしまった記憶。そして祭りの日に迷子になった記憶。
 どれが最初なのかなんて、判然としないし、誰も教えてくれない。
 ただ、その中でも強烈な記憶は迷子になったときだ。
 夕暮れ。街灯が点く瞬間、明るくなって(あ。夜か)と気づく。
 振り向くと、知らない人ばかりで。
 父も母も、見当たらない。
 知った顔がない。
 おれは親と手をつないだ記憶がない。この日だけでなく生涯を通してだ。
 これは迷子だぞ。おれは独りだと気が付いた途端、視界が狭くなり、見える物の全てが、ぐん、と遠くなった。
 目眩にも似た、あの、くらくらする感じ。
 不安しかない。
 憶えてはいないけれど、泣いていたかもしれない。コドモだから。
 ただ、長じて放浪めいた旅に駆り立てられたのは、あのクラクラする目眩を求めてだったという気がする。これは独り旅でしか味わえない感覚で、よく「独り旅をする人の気持ちがわからない」という人がいるが、そういう人は不安を面白いと思わないのだろうか。
 まあ、奥さんと息子と共に過ごす旅行も楽しいから、それはそれでわかる気がする。旅する「連れ」がいる場合には不安要素は要らない。

 もうひとつ、思い出があった。
 修学まえの頃、毎日のように近所の野原をひとりで歩くのが好きだった。
 北海道の田舎だから、野原と言ったら掛け値なしの野原で、視界の方向によっては見渡す限りの草原だ。入り込むと、道なんか、ない。
 夕方になるまえの陽が傾きはじめ、陽光に赤みが混じる頃、いちめんの草が風になびいて風の通り道が見えたとき、景色が遠ざかった。
 ひとりだ。見渡す世界にいるのは自分だけだと気がついた。
 きゅうに怖くなった。どこにも道がない。
 振り向くと、辿った足跡が草の丈を凹ませていた。
 憶えているのは、泣きそうになるのを堪えて走って、走って、家にいた母に抱きついたところまでだ。短編映画みたいに、記憶はそこで途切れる。
 
 夕暮れの記憶はせつない。おれはひとを尊敬などしたことがないダメ人間だが、敬愛した老人がいて、そのひとが言ったことは今でも口調を含めて憶えている。
「夕暮れって、あんだろ。綺麗でなぁ。あれ見てると、あとなん回見られんのか、って泣きたくなるときが、あんだよ」
 そう言った数ヶ月後に、そのひとは自分の雇った殺し屋に殺された。怖くて自殺ができなかったのだ。あの頃の記憶は、めまいと手を繋いで蘇ってくる。
 歳を取ると、そんなものかな、と当時は思った。でも、考えてみたらあのひとは当時、今のおれと同じくらいの歳ではなかったのか。そう思い至り、あの人の父親である初代会長の亡くなった歳から判断するのを、やめた。考えたくない。でも、もう遅かった。だいたい今のおれと、そう変わらない歳だった筈だと計算しなくてもわかる。
 
 そんなことがあって、当時の会社の日本人役員は速攻で日本に逃げ帰っていた。まさか自分で殺し屋を雇っていたなんて思わないから、明日は我が身かと怯えたわけだ。小切手のサイン権を持った人を拉致して小切手にサインさせる危険というのは誰でも思い付くことだったんだろう。会社の小切手はタイ人と日本人のサイン二つがないと無効というレギュレーションだった。気が付いたらサイン権を持つ日本人はおれだけで、周囲の日本人たちは「悪い事は言わないから逃げなさい」と忠告してくれた。でも、以前書いたように、おれはうちの奥さんと婚約をしていて、会社も回さなくちゃいけなかったし、「べつに死んだって良いやぁ」という捨て鉢な気持ちだった。うちの奥さんは妙に盛り上がって「あなたの命は、わたしが守ります」みたいな意味の事を言っていた。タイ人役員が心配して、セキュリティの良い部屋を手配してくれて無理矢理引っ越しもさせられた。
 もう、今から思うと安い漫画みたいな話だった。登場人物が全員ばか。
 でもね、そんな毎日は楽しいぞ。背後に気を配りながら歩くということを、最近はしていないな。うちの夫婦が無駄に迫力があるのは、この日々のせいかもしれない。

 こないだ入院した病因は化膿レンサ球菌だったが、去年だけで罹患数が例年の4-5倍ということだったが、年が明けて今年になると、その勢いをますます増しているんだそうで、気のつけようがわからない病気だけれど、もしかして、と思ったらすぐに病院に行ったほうがいいよ。おれも運ばれるのがもう少し遅かったらいけなかったかもしれない。
 で、こんな病気になるなんて、胃か腸に癌があるかも、ということで胃カメラ・大腸カメラのハッピーセットで検査したら、癌は見つからなかった。ポリープが幾つかあるが、急いで対処する必要もないという。ひと安心だが、「ピロリ菌の治療が必要です」と言われた。「え。ヘリコで、バクターな奴?」と訊いたら、「そうそう! それ!」と嬉しそうだったが、胃カメラでそんなこともわかるんだね。
 あー。そういえばガキの頃、地下水を飲んでいた時期があったからね、それでピロリかな、と言うと医師は「えー、そっちじゃなくて東南アジアに長いこと住んでいたからでしょ」とにべもなく答えていて、「あー!」としか言えなかった。それ、ひとっつも思い浮かばなかった。どうもおれはタイを楽園みたいに思ってるフシがある。
 まあ、そんなわけで処方された「ピロリナクナール」みたいな薬を朝夕の2度、一週間ほど飲んでいたが、ちょっと見たことのない大きさのカプセルや錠剤がとりどりで一回の量が、ちょっとしたおやつみたいに多かった。いち度の摂取量が多い薬は味をつけるといいと思う。薬剤師に「塩? タレ? どっち?」って訊かれたい。チョコ味かイチゴ味でもいいけど。おれは大きな錠剤でも粉薬でも苦もなく飲めるが、おれの奥さんはそういうのが苦手だ。特に粉薬は泣きそうになって飲んでいる。そういう人がいるんだね。だからオブラートなどというものを買って包んで飲ませたら、「コレハ、イイネー」と日本語で驚いていた。どうやらタイにはオブラートがないらしい。ていうかググってみたら、どこの外国にもない。日本で発明された日本だけのもののようだ。粉薬が苦手なタイ人はどうしているのか、と訊いたら、我慢して飲むか、飲むのを諦めると言っていた。いや諦めんなよ。

 子供の頃はボンヤリしていたという話だった。ガキの頃、じぶんで(おれはあんまりアタマが良いほうではないのだな)と思っていた。この記憶は強烈で、小学校に入って間もない頃の理科の授業なんだろうが、「鏡に映る姿は左右反転で、実像は右手を挙げていても鏡像は左手を挙げているように見える」という意味のことを簡単な言葉で説明していて、おれ以外の生徒たちは、ふんふん、と頷いている様子で、おれだけ(え? なんで?)と、その理屈がわからなかった。授業は続いていたが、それどころではなく、(なんで鏡に映ると左右反対なんだ?)と、ずーっとしつこく考えていた。

 どうしよう。みんながわかっていることを、おれはわからない。
 もう考えるしかないわけで、授業中それだけを考えていて、ずいぶん長いこと考えていたように思う。それとも長く感じただけで数分のことだったのか。
 突然わかった。よく漫画なんかでピコーン! と電球が灯ったりする感じ。あれだ。
 あ! わかった! 見えるすがたの正体は光なんだ。暗いと鏡は見えないもんね。で、その光がはね返ってるから、すがたが裏返しみたいになるのだな。やーっとわかった! と、嬉しくなった。みんなに追いついたぞ。ほっとした。
 とはいえ、これが、「自分の頭で考えて、わかると気持ちいい」という体験の初めてだったから、その後も自分の頭で理由を処理しようとしたが、早い段階でわかなくなった。広葉樹が秋になると紅葉するということだったか。それがわからなくて、先生に理由を訊いたら、「理由なんか考えなくて良い。ただ、寒くなると葉の色が変わって、それから落ちるのだと憶えてね」みたいに言われて、全然納得できなかったが(え。理由なんか考えなくても良いの?)と突き放された気がした。それ、わかったことになってないよな。
 わからないことというのは多いもので、6歳の時に理解したつもりになった鏡像のことだって、数年後だったか(あれ? 左右反転はわかったけど、なんで上下は反転しないんだ?)と気付いてしまった。これはわからない。ただ、その頃には(理屈じゃなくて、そういうもの)として処理するという方法を身に付けていたから何とか上下の疑問を押さえ込んだが、またしばらく経ってから(あ。鏡が床か天井に張ってあれば上下反転するじゃん)と気付いてしまった。わからなさが3Dで深くなってる。困ったな。
 もう、この頃になると雪だるま式に、わからないものは増えていたので、わからないものリストに鏡像上下問題も加わっただけだ。今ググってもわからない。定説がないという。プラトンが言い出してから2000年来の問題だというから、おれが解決できるような問題ではなかったのだな。そんなことより、その当時になると関心は宇宙の方が謎だらけで、それについて考えると決まってアタマがクラクラするのが楽しかった。あれは巨大すぎる。地球儀を眺めて遠い国のことを考えてもクラクラしたが、宇宙のクラクラには太刀打ちできなかった。だから宇宙飛行士になりたいという人の気持ちはわかる。
 根拠などないが、あのクラクラが好きな人は旅行も好きなんじゃないか。
Dizzy Gillespie & Arturo Sandoval -"Night in Tunisia"
 めまいといえば、真っ先に思い出すのがディジー・ガレスピーで、ベル(朝顔)を極端に上に向けて曲げた楽器や、おどけた仕草でゲテモノだと思われる向きもあるが、じつはビバップ黎明期の功労者であって演奏も凄い。名曲を量産した人でもあり、今でもスタンダードナンバーとなっている遺産が多い。オバマに先駆け黒人の合衆国大統領を本気で目指した時期もあったが、そんなことになってたらジャズ界の損失だったね。若い頃に大スターのキャブ・キャロウェイの足を口論の末にナイフで刺したりもして、派手に誤解されやすい人だったと思う。このMVの曲目もガレスピー作曲で、このステージでは老いたせいかソロは取ってない。でも凄い演奏なので、これを選んでみた。若い頃の(40年まえだぜ)アルトゥーロ・サンドヴァル(トランペット)が素晴らしい。楽器をガレスピーみたいに改造してるのもおかしいが、ふざけてるようにしか見えないのに演奏が凄い。あとバリトン・サックスがチョー凄い。バリトンでハイトーンを吹きまくるというキチガイじみたことを堂々と、しかもとんでもなく良い演奏で、こんなの聴いたことなかったから、ちょっと放心しちゃった。
 そういえばガレスピーには「ソルト・ピーナツ」って曲もあって、あれはカネがなくて量り売りのソルト・ピーナツしか買えなくて、それ食って演奏してんだぜ、みたいな曲なのに、これもムチャクチャ明るい曲で、舞台でも突拍子もない服装でふざけてばかりで、それでDizzy(めまい)って綽名になったと言われてる。補足みたいに「その演奏が目まぐるしかったからという理由もある」ってついでに言われてるのもおかしい。ふざけてる方がメインなのか。
 ぜんぜん、そうは見えないがグレイトな人なんだよ。まあカネがなくてピーナツってのも、清貧に甘んじていた訳じゃなくて、カネがあるとドラッグを買ってしまうからで、そういうことに関してジャズ野郎はグレイトでない者が多いね。相棒のチャーリー・パーカーなんかもドラッグのせいでカネに困って楽器を売り払い、安くてオモチャみたいなプラスティック製のサックスでレコーディングしたこともあって、そんなしょうもない楽器だったのに演奏は素晴らしく、でも音色がオモチャというね。さすがに(これはダメだな)と思ったらしく、プラ楽器はそれっきりになっていた。
เวียนหัว - เวียนหัว【OFFICIAL MV】
 เวียนหัว(めまい)という曲だ。歌っているのはแหวน ฐิติมา(ウェン・ティティマー)さんで、この人については2度書いた筈なので解説は不要かと。再生回数が15万回程度と少ないのも、80年代終盤のクリップの再掲だからだろう。MVが古くさい。肩パッドが入ったジャケットだ。映像も、当時の流行だったモータウン系を真似た感じ。モノクロの多用と、ハンディカメラで無駄に躍動感ていうかドキュメンタリータッチになってて画質も荒くしてる。ポーラ・アブドゥルなんかのMVを参考にしたものか。ただサウンドは、ぜんぜんモータウンじゃなくて、いちおうエイトビートなのにタイ歌謡の神髄の縦ノリで、これはこれで珍しい。フレーズの終わりに1回だけ「アゥ!」という合いの手っぽいシャウトが恥ずかしそうに入ってて、聴く者の羞恥心を誘う。マイケル・ジャクソンやマドンナのシャウトを真似て、当時のタイの精一杯ってところか。そのシャウトのすぐあとの映像で、コドモの顔を撫でるシーンがあるが、これはヤードム(気付け薬)を塗る手つきだ。タイ人はめまいを覚えたとき、こんなふうにヤードムを塗る。
 日本がバブル景気だった頃のMVで、タイも浮かれていた時期だったのか。
 歌詞の和訳だ。

見ない 気にしない 気にしていない 使えない
何も見ず 聞かず 何も認めない
他人など 見ている暇はない
誰を助けるつもり? 私はまだ無傷なのよ

めまいがする
家族が家にいて 仕事はやるべき
私は一年中めまいがあり いつも午前4時に寝ている
頭痛 発熱
家はまだ ローンが残っているので 働かなきゃ
他のことはわからない 他人なんて気にしない

まだ自分を 大事になんてできない
幸運なことに 悲惨な事故など めったに起きない
今日もまだ食事は取れず 睡眠も十分ではない
立っていられない 座っていられない 立っていられない でも毎日を生きる

頭痛 頭痛 めまい めまい
毎日頭痛 痛み
頭痛 頭痛 めまい めまい
一年中頭痛 痛み

 歌詞だけ読むとブルーズの歌詞のようではあるが切実というより、ただの愚痴じゃねぇか、という内容だ。付いてる旋律が明るいので救われている。
 参考までに、先ほど書いたポーラ・アブドゥルのMVも貼っておこう。こっちは曲がカッコいい。今聴いても古くない。ダンサー出身の歌手だから、踊りが上手い。初期のジャネット・ジャクソンのバックダンサーだったからね。
 このMVは1989年のMTV Video Music Awardsでは4冠を獲得しているから、タイでもこの映像を参考にしたことは想像に難くない。
 しかし。それにしても服装がダサい。肩パッドはもちろんダサいが、全身ダサい。当時の流行というわけでもなく、この人が有名になってすぐに全米のいろんな「服装がダサいと思う有名人ランキング」で、どのアンケートでも3位以内に選ばれていたから、当時でもダサかったんだろう。プロのスタイリストが付いててこれだから、これをカッコいいと思う層がターゲットだったんだろうね。アンケート結果が報じられたあとでもダサいのを直さなかったし。その辺のチグハグさが今見ても楽しい。
Paula Abdul - Straight Up (Official Music Video)
 もう36年もまえのMVなんだね。つい最近のことのように思い出せるのに。36年! と思うとクラクラしちゃう。36年って長いよ。当時29歳だもん。
 あ。思い出した。このMVを初めて観たのは、改修されるまえのニュー山王ホテルのレストランかバーだった。米軍関係者と一緒だと日本人でも入館できたんだよね。気に入ったなら、いつでも駐車場の検問の所で俺の名前を言えば入れるよ、とか言ってて、今思うとセキュリティーがガバガバじゃん。まあ普通は米軍の施設に行きたいとは思わないよね。日本円も使えなかったし。ちょうど良い音量で大きなミニターを眺めながら(ちょっと偉い米兵が好きそうな曲って、こういうのか)と思った記憶がある。バブル景気の真っ最中だったな。そんな年頃で、毎日が楽しかったけれど恐るべき事に、あの頃は今よりももっとばかだった。ばかだった上に浮かれていた。
 それって、相当だぞ。
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