まえの同居人と暮らし始めたばかりだった頃の話。自宅に一人でいたら電話がかかってきて、おれの姓を受話器に名乗ると「もしもし」と、聞き覚えしかない綺麗な声がした。
同居人の声だ。
あ。ねえ、なん時に帰ってくる? というようなことでも訊いたんだろう。
「あ。いや……」同居人の声が答えた。「そうじゃなくて」
えー。そうじゃないのか……。あー! なにが食べたいのかを訊くべきだった? みたいなことをお . . . 本文を読む
そう言われたら、これは大体まず怒られる前兆だ。考えてみたら、おれは言われたことがない。とはいえそれはおれが品行方正だったからではなく、出し抜けに予告なく怒るような、ばかで下品な人しか周りにいなかったってことだ。 ただ息子が幼かった頃に、うちの奥さんが「อธิบายหน่อยจะได้ไม่โกรธ(怒らないから説明しなさい)」と言ったのを聞いて、(これ、怒るのかな)と息子の横で身構えた。もし怒ら . . . 本文を読む
そういう名曲がある。アメリカンのアン・ロネルという御婦人が作曲したもので、原題は「Willow Weep for Me」という。Willow Weep with Whiskey(ウィスキーと共に泣く柳)だったら頭韻の踏み方が素晴らしいんだが、残念ながら意味がわからない。でも初期のトム・ウェイツあたりに歌わせたいタイトルではある。そんなことより、この作曲者はディズニー映画の最初の大ヒット曲「狼なん . . . 本文を読む
ただ近くに居たいだけなんだ。ずっと一緒に居たいだけなんだ。そう言って同じ部屋に泊まって、べつべつのベッドに寝ていると、好きな娘が恥じらいながら「ほら」って言いながら掛け布団を持ち上げながら手招きしてて、イヤそんなつもりじゃ、と小声で自分に言い訳しながら、すんげぇ速さで布団に飛び込むというね。この歳になると、そういうことは、もうないな。ない。裸で勝手に布団に潜り込んでくるのは猫ぐらいか。 おれ、猫 . . . 本文を読む
耳慣れない言葉かもしれない。初めて聞いたのは8・9年まえの札幌の地下鉄の車内で、大通りだったかどこかの駅に到着のまえに車掌が、ガサツで大ざっぱな道民とは思えぬ甘い囁きでアナウンスしたのだった。 ダー ヒエキエス。 ロシア語かぁ。さすが札幌だな、と思った。距離が近いからね。 2年くらいまえに泳いで亡命してきたロシア人(北方領土からだから近かったと言うけれど、あの辺の海ってデタラメに荒れる印象しかな . . . 本文を読む