もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

イーペンの黒豹

2024年07月13日 14時06分01秒 | タイ歌謡

 昔の話だが「セポイの反乱」というのがあって、簡単に要約するとセポイが反乱した。うむ。なんも間違ってねぇ。あのときは大変だったよね、と言ってみたいが記憶にない。おれが生まれる100年もまえのことだからね。歴史を学ぶというのは、そういうことで、過去にあった事象を将来の判断材料にできる場合と全然参考にならない場合がある。そりゃそうだ。じゃあ歴史なんて学んだってしょうがないじゃないですか、と言われたら反論できないが、そういうことじゃない。
 オトナになればわかることだが、きゅうに(あー! セポイの反乱について考えてぇ!)という衝動に駆られるときがある。きっとある。たぶんある。おそらくある。ない奴は、セポイの反乱に興味のない奴だ。おれはどっちかというと興味のない派かな。
 とはいえ今からでも遅くはない。これから興味を持つこともできる。セポイだぞ。「こんにちはセポイです。これから反乱します」って感じか。何なんだセポイ。誰だおまえ、とググってみたらWikipediaの説明が詳しくてわかりやすいが、セポイについては言及がない。「いいじゃないですか、そんなこと」と記者会見の場で薬瓶を手に訴えていたのは日景忠男さんだが、日景さんも鬼籍に入ってしまってセポイとは何なのか永遠の謎である。というのはウソで、セポイってのは「ペルシア語起源の ウルドゥー語 で〈軍隊〉〈兵士〉を意味する」んだそうで、要は兵士の反乱だった。詳しく知りたい方は、ここをクリックして各自ググるように。

 歴史は言うに及ばず勉学に励むということは有用ではあるが、事程左様に必ずしも人生に役立つというものでもない。昔から「二次方程式なんか憶えても社会に出たら役に立たない」と言う高校生はいて、それはそれで見識というものだ。必要ないね、と斬り捨てても二次方程式と無縁な将来が待っているだけで、たぶんそれで困らないだろう。「な。二次方程式も解の公式も人生に必要ないんだよ」ってことでいいのかもしれない。だが、大人になっても二次方程式を使う人生ってのもあるのだ。だから学校で教わって良かったぜ、というひともいるだろう。
 まあそうだよね。おれも中学と高校で英語教えてくれて助かったもん。人によりけりではあるが、人生何の勉強が役に立つかわからんのだ。ずいぶんまえに友人が「古文漢文なんて何のためにあるんだ」とボヤきながら酒を飲んでいて、そんなときに「いや。華人と筆談するときに漢文は役に立ったぞ」というのも自慢しているように聞こえても嫌味だから「はぁ……」と述べるにとどまったが、古文漢文は好きだったから(こういう人とはわかり合えないな)と溜息をついた。ていうか手当たり次第に本を読んでいれば古文漢文はイヤでも身につくだろう。あ。でもおれはフランス語とかドイツ語の本などは避けてたから、読書傾向によって知識の偏向は生じるのか。博覧強記ってのは、おれにはムリだな。
 古文だって年寄りとの会話で役に立つぞ、というくらい長生きしてる老人てのも見たことがないが、いつだったかタイムスリップで平安時代に飛ばされたときは古文が現代文として通じたから、あの時ばかりは(手習ひこそあらまほしきものなり)と思ったよね。
 平安時代といえば清少納言の枕草子が、現代語訳で女子高生やギャルっぽく訳されることがあって、その嚆矢は橋本治だと思う。「春って曙よ! だんだん白くなってく山の上の空が少し明るくなって、紫っぽい雲が細くたなびいてんの! 夏は夜よね。月の夜はモチロン! 闇夜もねェ……。蛍が一杯飛びかってるの。(橋本治『桃尻語訳枕草子』より)」というのを読んで、当時は「だよな!」と膝を打ったが膝蓋腱反射は起こらなかった。ただ、今になって浮上するのは、あれは当時の女子高生やギャルではないという疑念だ。どっちかというとユーミンのほうが近い。というのも枕草子の45段冒頭でいきなり笑っちゃったんだが「にげなきもの 下衆の家に雪の降りたる また 月のさし入りたるもくちをし……」というものだが、要するに「ビンボー人の家の屋根に雪が降り積もるのって、似合わないじゃん。まして月の光まで射し込んでんのよ」と憤懣やるかたない様子だが、もう言いがかりだよね。ずっとまえの段で雪景色は綺麗だから好きだと言ったあとの、この発言。枕草子って、けっこう悪口雑言をまき散らしていて、硯に髪の毛が入っててキシキシいうのって何かイヤ、みたいのは中学でも教わるが、男の首の太いのって憎たらしいよね、とか、高貴な人は昼寝しててもいいけど、えせ容貌(原文ママ)は昼寝すると脂ぎってて、顔は腫れるし、歪んじゃうし、端で見ていて生きてる意味すらないよね、とまで言う。心延へなるもの いと悪(わろ)し。紫式部もイヤな女っぽいけど、種類が違う。どっちも知り合いたくない。もう死んでてくれてるけど。

 ところで「イーペンの黒豹(เสือดำที่ยี่เป็ง)」というタイ語の諺があって、陰暦12月の満月の夜に催されるチェンマイのイーペン祭りに暗躍する黒豹、つまり煌びやかな世界で闇に紛れる裏仕事師・殺し屋・破壊工作員などを指すもので、イーペンといえば青森のねぶた顔負けの電飾山車やコムロイという無数のランタンが熱気球のように打ち上げられ、幻想的な光の祭りだ。それだけのイルミネーションが鏤められた夜に、黒豹が暗躍するというのは、なかなかに想像力をかき立てられる諺で、セレブリティーのパーティーに呼ばれて行ったものの、自分だけ見窄らしい身分で身の置き所がないときなどに言っても良い。誰でも知ってる諺というわけでもなく、一般のタイ人には殆ど知られていない。おれが作った諺だからだ。うちの奥さんには、しみじみと受けた。じつは最近これを言われて、その意味を測りかねて「なにそれ」と訊いたら、おれの過去の発言が気に入ったのを憶えていて、それを引用してみたと明かされた。なるほど。おれだったのか。上手いことを言うものだと感心した。時差自画自賛。夏の頭韻まつり。
 テキトーなことばかり言っているから、こういうことはよくあって、数年まえも妹と話していて「福島は地震で原子力の畑も流されてダメになったのでしょう?」と訊かれたので、なにそれと訊き返すと、「原発で使う原子力の原料を隣の畑で栽培してたんだよね」とマジメな顔で言うから「なんだよそれは」と笑ったら、一瞬の沈黙ののち、「あ! 騙した! ウソついた!」と少し怒っていて、若い頃のおれの説明をずーっと信じていたと憤っていた。それは悪かった。でも面白かった。原子力の原料ってのは芋みたいなものだと想像していたらしい。うははは。ホントは石だよ。石を掘るんだ、ウランの、と言っても「いや。いくら何でも石とか……」と信用せずにスマフォでググって「え……。ウラン鉱石……」と呟いて画面を睨んで思案していた。「これ、ほんとなの?」

 他にウケの良かったオリジナル諺としては「便座よりも冷血(เลือดเย็นกว่าฝารองนั่งชักโครก)」があった。冷血ってのはタイ語でもちゃんと悪口で、この辺はわかりやすいんだが、寒暖系の言葉は日本語と違うものが多い。例えば「ใจร้อน(チャイローン)」は直訳だと「熱い心」で熱血だと思うかもしれないが、タイでは「短気な人、怒りっぽい人」の意味になってしまい、そういう人は嫌われるし、これは悪口にしかならない。逆に「ใจเย็น(チャイイェン)」は直訳が「冷たい心」なのに、意味は「冷静・落ち着いてる」って感じで、褒め言葉だし、タイではそういう人が好まれる。タイは暑いからね。意味が逆転しちゃうよね、と、タイ語のできる先人は言うのだった。なお、タイの便座に電気で暖める機能はない。暑い国だからね。
 タイ語を憶え初めの頃は「なるほど。冷たい関係は褒め言葉なのだな」と納得するのだが、その後に前述の通り「เลือดเย็น(ルアットイェン)」は直訳だと「冷血」で、意味も「冷血」だと知って、「あ。そっちはそれで良いのかよ」と肩すかしを食らった。
 あと、初めて聞いたときに「ん? どっちだ?」って思うのが「น้ําใจ(ナムチャイ)」って言葉で、直訳すると「心が水」。褒めてんの? 貶してんの? 
 褒めてる。心が水で、「思いやり」とか「親切」みたいな意味で遣う。流れる水のイメージなんだろうか。インド人もそうだけど、タイ人も「上から流れてくる水は綺麗」という間違った考えを持っている。最近は川に飛び込んで身体を洗うタイ人は、とんと見かけないが、30年くらいまえまではふつうにいたよね。

 それから、うちの奥さんの受けは悪かったけど、横で聞いていた息子がばか笑いした諺があって「มีภูเขาและหุบเขานั่นคือชีวิตและนม (山あり谷あり、それが人生とおっぱいだ)」ってのは、奥さんにちょっと睨まれた。でもめげずに「เพราะฉะนั้นชีวิตคือนม(つまり人生とはおっぱいだ)」と続けたら溜息吐かれちゃった。息子は手ェ叩いて喜んでたから、平均するとまあまあかな。
 また、「ความหัวไม่ดีไม่ใช่อาชญากรรมหรือความอับอาย(頭が悪いことは罪でも恥でない)」と言ったときはうん、そうね、と頷いたが「แต่มันก็ค่อนข้างคล้ายกัน(でも、だいたい似たようなものだよね)」と続けたら笑って笑って背中をぽかすか叩かれた。グーで。
 理不尽に怒ることもないし、暴力なんて嫌っているのだが、こういった不謹慎みたいな冗談に受けたときにソフトな暴力が発動することがある。そういったことに笑ってしまった自分を罰するべきと思うのだが、その原因への懲罰へと転嫁したものか。まあ本気で体重を乗せたグーパンチとかではないからいいんだけどね。
IMAGE - ใจเย็น | Still [Official MV]
 IMAGEってのは、この歌手のあだ名というか愛称だ。たぶん事務所が名付けたんだと思うけど、地味顔なのに優秀で、誰がどう見てもタイ人の娘が「เชอร์รี่(cherry)と呼んでください」とニコニコしてたりすることもあるから、わからない。本名はสุธิตา ชนะชัยสุวรรณ(スティター・チャナチャイスワン)という。タマサート大学の経済学部出だから優秀なのに、幼稚園児の頃から歌のコンテストに出続け、高校生時代にはいろんな大会で優勝を勝ち取り、大学在学中にテレビのオーディション番組で準優勝。そこからプロに。これまでも紹介したことがあったようにオーディション番組で優勝してもスターの地位が約束されるわけでもなく、4位だったけどスターになりましたなんてのはゴロゴロいる。けっこう歌唱の技術的な審査に忠実だから、審査員も「巧さでは3位だけど、いち番感動させたのは、この人です」みたいなことも普通に言う。かと思えば文句なく優勝して大人気だったけど調子に乗った発言で急に嫌われてパッとしないなんてのもいる。タイ人だから、「いやべつに有名になりかった訳じゃないし」と引き籠もる者もいる。
 この人は美人というわけでもなく、わりと普通の容姿のタイ人なんだが、愛嬌と地頭の良さでソツがないのか、女優としての活動もある。ただ、鍵盤楽器やギターもそれなりに上手いのに楽曲を自分で作ることはないようで、いろいろとガツガツしてないのが受けているのか。育ちが良さそうだもんね。

 この歌のタイトルใจเย็น(チャイ・イェン)は冷静に・落ち着け、ってくらいの意味か。イェンて書くより「ュェン」て書いた方が近い。日本語の表記法としてはダメだが。Yenだね。日本円のほうの英語じゃなくて純粋なアルファベット表記で。よく聞く言葉でใจเย็นเย็น(チャイイェンイェン)ってのは「落ち着け」って促す言葉。肩に手を置いたり、羽交い締めにしたりしながら言う。
 タイは微笑みの国だけど、ムエタイの国でもあるから簡単に逆上する奴もいる。そういうのをใจร้อน(チャイローン)って言うんだってのは、さっき言ったね。直訳の「熱い心」熱血漢みたいな意味はまったくない。優しく言うと「せっかち」だけど、普通の日本語だと「おこりんぼ」が近い。北海道弁だと「たんぱら」って奴。あれ「短腹」って書くのかな。むかし同級生の女の子が「うちのおとうさん、たんぱらなんだー」って言ってて、そりゃ大変だなって思った。
 そういうおこりんぼをใจร้อน(チャイローン)と言うのは遠慮がないからか、ประทัดตรุษจีน(プラタットトゥルチン)という言い方もあって、直訳は「中国正月の爆竹」で、上手いことを言うなとおれが笑ったら、タイ人は笑わない。すっかり定着した慣用句だからだそうで、「こんなのが面白いのですか?」と言われてしまった。そりゃ初めて聞いたら笑うよ。確かに日本語で「あの人、瞬間湯沸かし器なのよ」って言われても古くさい喩えだから笑えないのと同じか。

 歌詞だ。浮気男が忘れられないみたいな、タイでは珍しくない話だ。日本でも珍しくないかもしれんが、こういう題材の歌詞となると日本には少ないのではないか。タイにこのパターンが多いのは、移ろうあなたの心に対して、変わることのない私の想い、という対比に幽玄を見いだしているのか。そう言うと高尚な印象だけど、身も蓋もない言い方だと「未練」って言うんだよね。

一人で自分を 落ち着かせる
誰にも吐き出せない 私たちが感じていること
彼女にもう一度会う方法
理解できる良い人になりたいとは思う
でも 時にはそれは難しすぎる
わかっている そうすべきでないことは 私にはその権利がない
でも、いつ彼女に会ったというの?

昔の場所に戻ったような気分
昔と同じ 昔の思い出の写真
その出来事は今も 私の心に刻まれて
あらゆる努力で すべてを忘れなくては
終わったこと 結局はそれしかできなかった

落ち着け そう自分に言い聞かせる
心をできるだけ 深く静かに保つ
もしあなたが 私に会いに来ても
それを感じてはいけない 心の中に隠しておかなくては
私はまだ いつも恋しい

落ち着け そう自分に言い聞かせる
心をできるだけ 深く静かに保つ
もしあなたが 私に会いに来ても
感じてはいけない 恋心は秘めておかなくては

 なんていうか、狡くない。人として真っ当であろうとする人が普通にいる。
 まえにも書いたけど、熱帯にテラワーダ仏教(昨今は小乗仏教と言ってはポリコレ的にアウトなのね)の国が多いのは、農作物なんかが豊穣で、食うに困ってない国だよね。食うに困ると出家なんかできない。生きていくことのハードルが、そう高くないから他人を騙して出し抜いたりしなくていい。
 だって雪の降るような土地で「ああああ寒い寒い寒い腹減ったちくしょう。あの生き物捕まえて食ったら旨いかな。それともあそこの家族の食い物を奪っちゃおうかな。ちくしょう寒いな腹減ったな」って国と、「まーたコメがいっぱい獲れたなー。田植えから収穫まで3ヶ月サイクルだから頑張れば1年で4回獲れるけど、大変だから3回でいいよね。それにしても毎日コメだと飽きるな。今日は裏のバナナ獲って食おうか。そういやマンゴスチンも、もう季節だな」って国では、食い物に困らず寒さも厳しくないほうが生きるのが断然ラクだ。そりゃ毎日ノホホンと暮らせるんだったら、そのほうが善良になるに決まってる。

 こないだ奥さんと喋ってて、おれが結構タイ人を好きなのは「良心(มโนธรรม)」だな、と言ったら「ทำไมน่ารักจัง(タマイナーラックチャン)」と言ってモジモジ照れていた。なんで照れる。このセリフは日本語にするのが難しくて、直訳だと「なぜ、とても可愛いのか」だけど、まあそういうことだ。悪意がない、とは言わないが悪意の質が違うし、総量も違う。べつにタイだけじゃないんだけどね。悪意のあり方は国によって違ってて、おれには日本の悪意よりタイの悪意のほうが、しっくりくる。
 おれが好きな悪意のあり方を持つ国と言えばタイ以外ではメキシコとトルコがあるんだが、そういうことを言うと、どっちも物騒だし残忍じゃねえかって言われそうで、黙ってるんだけど、わかってもらえなくていい。あー、そうだね、と言う人には説明なんか要らないし、これが平均的な日本人の選択ではないってことぐらいはわかる。でもだいじょうぶ。他人に「タイはいいぞ。タイに住め」なんて押しつけたりしない。公平とかそういうことじゃなくて、他人なんてどうでもいいからだ。ていうか、おれが言うまでもなく、みんな自分の好きなようにやってりゃいい。

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