もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

とりあえず揚げてみる

2024年06月15日 14時45分25秒 | タイ歌謡
 どうしていいのか思いつかないとき、タイ人は油で揚げてみる。
 もちろん食材の話だ。愛も勇気も絶望も油で揚げてしまえば幸福になれるというなら世の中なんて簡単だろうが、形のないものを揚げることはできない。かといって姿形があるという理由で、麻生太郎や小鳩くるみを揚げてもいけない。麻生太郎は180℃の油でカラリと素揚げにすると、死ぬ。バッター液に潜らせてパン粉の衣をつけて揚げても、たぶん死ぬ。麻生太郎を揚げてはいけない。
 いっぽう小鳩くるみは芸能界を去って大学教授やイギリス文学者などの肩書きもあって、なんていうか「ひととして間違ってない」感じだから、絶対に揚げてはならない。ものすごく綺麗なお声で「熱いわぁ……」というセリフを言わせてはいけない人ランキング1位で良いと思う。
 食材の話だ。とりあえず揚げちゃっただろ、という食い物がタイには溢れかえっている。食パンに海老のすり身を塗って、そこまではわかるが、仕上げに揚げるというのがわからない。パンが油を吸っていて、目方の半分は油じゃないかという疑惑に駆られ、給油口に押し込んだらディーゼルのエンジンだったらクルマが走るぞと予想する。

 見るからに油ギットギトで、「えー……」と躊躇するが、箸で掴んだ感触が固く、軽い。油が滴り落ちるということはないにせよ(なんで揚げちゃうかなー)と思いながら噛むと、油臭さはなく見た目に反して上品な味がして、(なんだばかやろう旨いじゃねぇか)と思う。塩味またはナンプラー味の下味が付いていて、そのままで美味しいけれど、普通は甘いジャムみたいなソースを添えて持ってくる。これに限らず、タイでは揚げ物に甘いソースという組み合わせは珍しくなく、最初は(アタマ悪いのかな……)と無視していたが、タイでなん年か暮らすうち、もしかして美味しかったらどうしよう、と誘惑に負けて甘いソースで食べてみた。
 背筋が、ぴん、と伸びた。
 甘いのである。
 眉間に、ずーん、とくる甘さ。
 揚げ物に甘いソース。
 アタマはイヤがってる。こんなアタマの悪い食い方が白昼堂々と人目も憚らず罷り出てきていいのか。なんか恥ずかしい。揚げ物に甘いソースって、なんか破廉恥だ。
 アタマは拒否してるのに、身体が喜んで背筋を伸ばしている。これ、暑い所での生活が続くと、こういうものを身体が喜ぶのだな、という本能的な納得が上からストーン、と降りて着地する。
 寒い国の人は揚げ物に甘いソースなど合わせない。必要ない。恥ずかしいし。憚られるのだ。ロス・インディオス・ハバカラス。
LOS INDIOS TABAJARAS-VALS EN DO SOSTENIDO-OPUS 64''2CHOPIN-WALTZ
 ただ、暑い国に数年暮らすと、揚げ物と甘いソースの組み合わせは理屈抜きに肉体の腑に落ちる。長江流域から西に逃れておよそ500km。雲南省で落ち着くかと思いきや、そこからさらに1,000kmほど南下した道程の出した答えが、揚げ物に甘いソース。
 食べないのは勝手だが、否定してはいけない。暑い国で暮らすとわかるようになっちゃうんだから。

 とはいえ、揚げ物なら何が何でも甘いソースとタッグを組むかというと、もちろんそんなことはない。หมูกรอบ(ムークロップ)ってのは、ふつう甘くしない。หมู(ムー)が豚。กรอบ(クロップ)ってのはパリパリって感じで、英語で言うクリスピー。簡潔に説明すると豚の三枚肉のブロックを数時間乃至半日ほど塩漬けにしたのち素揚げしたものだ。
 そのまま食べてもいいが、料理の素材に使われることも多い。

 とりあえず揚げてみるものはだいたい食材だと言ったが、そうでないものもあるといえば、ある。ハッキリしない言い方で申し訳ないが、グダグダ書くのもアレなんで簡潔に書く。古くなったチェロの弦を揚げたことがある。
 都市伝説に近いものだと思うが、古くなって伸びきって音の悪くなったギターの弦を「死んだ」といって、弦の張り替えをしなくてはいけない。この死んだ弦を油で揚げると、音が復活してよみがえるという話を聞いたことがあった。
 弦が伸びきってしまうと音も悪くなるが倍音も出難くなるし、均一に伸びる訳じゃないから音程も狂う。初心者っていうか、あんまり構わない人だと「弦の張り替え? したことないな。買ったときのまんまだわ」という人もいて、ギターを買ったもののすぐに挫折して置物になっちゃってる、という人のギター弦は間違いなくこれだ。どのくらいの頻度で張り替えるのが良いのかというと、月イチだ。アマチュアが趣味で弾くんなら、そんな程度でいい。
 これがチェロだと弦が太いせいか、季節ごと、年に4回くらいか。
 ところが。
 おれが若かったころ、チェロの弦が高かった。ギターだったら6本セットで1,000円くらい(今の方が安い)からだったが、チェロの弦はいち番安っすいのでも4本セットで5,000円では買えなかった。7,000円とか13,000円とか、そういうのが安物で、ちょっと良いのは3万円超えがザラだった。ドイツ製だのイタリア製だの、そういうのだ。こういうのは金属製だが、昔ながらのガット(羊腸)弦だと音は良いんだが寿命が更に短いくせに馬鹿高い。楽器屋で「ちくしょう……」と暗い眼で怨念を滾らせていた。学生の頃は想像を絶してカネがないときがあって、弦の張り替えは痛かった。カネに困ってないチェロ弾きは弦をセットで買うなんてことはしない。高音(D・A線)はラーセンとかヤーガーとか、弦によって製造メーカーを選ぶ。バラで買うと割高なんだが、そんなビンボ臭いことを言ってはいけない雰囲気だった。そんなシャラ臭い奴に限っておれより下手くそだったら溜飲も下がるというものだが、因果と巧い。まあ、あと弓の毛(馬の尻尾の毛)の張り替えもしなければならず、こっちは年にいち度と決めていた。ホントなら半年ごとに換えたいところではあったが、これも安くても1万しないくらいだったか。

 今は中国製の安物が4本セットで1,000円足らずからあるようだ。いち度買ったら「金属!」という音でガッカリした。もうなん年もまえのことで、今では良くなってる筈だから、また買ってみよう。
 チェリスト全員の憧れパブロ・カザルス先生は「私は伸びてしまった弦が好きで、それを演奏している」と言っていて、貧乏な野良チェロ弾きは、その言葉に縋ったが、さすがに半年も張りっぱなしの弦なんか使ってなかったと思う。
 あ。そうそう。弦を油で揚げたのはいち度だけだ。揚げると確かに音が少しよみがえった気がした。(おっ! これ、いいじゃん!)と思ったが、半日も経つと音質が揚げるまえと同様に戻ってしまう。なんか黒ずんで不気味な色になったのと、油は良く拭いた筈なのに弓の松ヤニの引っかかりが悪くなった。良いこともあって、弦の滑りが良くなったので、左指の先が引っかからなかったことだけだ。新しい弦を買ってきたから試してみたが、(二度とやらないな)と思って捨てて、それっきりだ。そうだよな。結果が良かったら皆やってるよね。
 それとも油の温度が不足していたのか。圧力鍋で高温にした油で5時間とか。ものすごく危険な予感がする。生半可な火事などではなく爆発しそうだ。限界に挑戦したら油温は何度まで騰がるのか。
 ケンタッキーフライドチキンの旨さの秘訣は、圧力鍋で揚げていたからだと聞いたことがあって、ググったら今でも圧力調理だそうで、「最高温度185℃で約15分」だって。185℃って、圧力鍋じゃなくても普通に届く温度だけれど、家庭で加圧せずに185℃で1気圧の条件下で15分も揚げたら水分が飛んで固くなったうえに真っ黒焦げになりそうだ。
 水温ということなら超高圧タイプの圧力鍋だと125℃くらいで沸騰するというね。もっと圧力をかけて200℃の湯を作ったら、カップ麺の待ち時間が1分半で済んじゃうね(熱量の損失がないものと仮定する)。300℃のお湯だと調理時間が1分だ。
 あと、弦の滑りが良くなって弓への摩擦係数が減ってしまったのは、今思うと拭き取るだけでなく洗剤か何かの界面活性剤で脱脂すれば良かったのか。それにしても短時間で再度伸びきってしまうんじゃないかという予感はある。やっぱ、やんないな。

 ところで【インドゾウが、死んだ5体の子ゾウたちを埋葬。初の証拠。すべて上下逆さの姿勢で。インド北東部の茶畑に特有の事例なのか、そもそも埋葬と呼べるのかに異論も】というニュースで、象が仲間の象の葬式をするということは知られてはいたが、あるいは伝説の類いかとも思われていたわけだが、(やっぱり)と、すとんと腑に落ちた。そのくらいやる。象たちは、それくらいやる。昔野良象使いが野良象を連れてバンコクの街を歩いていたころ、出くわすと必ずバナナや胡瓜を象使いから買って与えて、ついでに額を撫でさせてもらっていた。とはいえ、せいぜい数十回だ。百回にはほど遠い。そんな程度の接触で象の何がわかる、と詰め寄られても困るが、そのくらいの関わりでも(このひとは象だけれどもアタマも良いし気立ても良いぞ)というのはわかった。タイの象と違ってインドの象はニンゲンに憎悪を向けがちなのも知っているが、それはそれとして、仲間が死んだら埋葬ってのは(だよな!)としか思えなかった。タイの象使いが無人の山奥なんかで野垂れ死にしたら、一緒に居る象は埋葬してくれそうだ。それは象使いとして良い死に様なのかどうかわからないが、象使いってのは職業というより、そういう生き方なのかな、とは思う。
 かつて初対面でいきなり猥談をしかけてきたパンチパーマの猿回しのおじさんと風呂場で話をしたことがあることは以前に書いた。猿回しは半分くらいは職業という印象があるけれど、象使いは職業っぽさが薄い。ぜんぜん違うけどオカマという生活を生業にしているひとたちがいて、オカマのひとたちも職業っぽくないという一点に於いては似ている。生き方を選ぶのが先で、副次的にその生き方に報償が付加される感じ。
 象は足で大地を踏み蹴って伝わる音か振動で意思疎通を図るともいわれていて、モールス信号みたいな仕組みかと思ったら、あれは2進法で情報処理していて、その原理を応用したのがノイマン型コンピューターだ。うそだよ。
รถบ่มีน้ำมัน : จ๊อบ เสกสันต์【OFFICIAL MV】
 รถบ่มีน้ำมัน(ロットボーミーナムマン – クルマに燃料がない)っていう歌なんだけど、タイ標準語ならรถไม่มีน้ำมัน(ロットマイミーナムマン)と書くところだ。過去になん度かイサーン語の否定は「マイ」ではなく「ボー」を遣うと書いたことがあったんだけど、その「ボー」のスペルが「บ่」だってのは今回初めて知った。ここでガソリンのことをน้ำมัน(ナムマン)と言っているけど、直訳だと「油の液体」ってことで、タイ語では食用油も潤滑油もガソリンも軽油も灯油も全部ナムマンというね。青森のガソリンスタンドで「ガソリン満タンね」と言うところを津軽弁だと「あんぶら(油)まんたんさへでけ」と言うんだけど、同じようなものだ。あと、รถ(ロット)はクルマと訳したが、MVのようにバイクのことかもしれない。歌詞のニュアンスもビンボ臭いからバイクの方が合ってる。ちなみにタイ語でバイクを指して言うときは「モーターサイ(มอเตอร์ไซต์)」と言うことが多い。モーターサイクルのクルが黙字記号付きで消滅したもの。ロット(รถ)は車輪で動くもの全般だ。
 歌手のจ๊อบ เสกสันต์(ジョッ・セクサン)については不明なことが多い。この曲が大ヒットしたあと、自作の曲を歌ったりしてるが、ヒットはしていない。この曲のヒットのあとでレコードレーベルとは契約を切られていて、何かはわからないが、やらかしたのだろうか。
 歌はコテコテのイサーン歌謡で、縦ノリの2ビートにダウンビートで刻むリズムギターが軽快で、妙な中毒性がある。演奏も歌も巧いんだが、ここまでヒットした理由はわからない。
 歌詞はどうということもないうえにビンボ臭い。

おれたちが会う予定だった車には ガソリンが入ってない
そんなこと言わないでくれ 何度でも謝るから
車にガソリンが無い カネがない
ここから引っ越そうって 母さんにも頼んでる

おれには愛なんてないってことか 美しい人たちよ
おれが欲しいものが何かは理解してるけど そんなことは起こり得ない
おれが学校に通うために 母さんがくれたカネ
画用紙10枚くらいも買えば十分なのに
インターネットでは グループでファイルを共有することもできる
おれたちは理解し合ってる
今週の土曜日は延期だ お互いを理解することはできない

おれたちが会う予定だった車には ガソリンが入ってない
そんなこと言わないでくれ 何度でも謝るから 
車にガソリンが無い カネがない
ここから引っ越そうって 母さんにも頼んでる
車にはガソリンが入っていないから どうにもならない
いろいろ考えてみた でも どうにもならない
国家問題だ 燃料は非常に高価なんだ
ああ 小銭と 高額紙幣が欲しい
行けねぇよ そう なあ 車に戻ってみてもガソリンは ないままだ

 歌詞中จังซี่จังซั่น(ジョンシー・ジョンソン)ていうのが人名かと思ったらイサーン語で「そんなこと言うな」って意味だと知って溜息が出た。ぜんぜんわからない発想だ。なんでその音の並びで、その意味になる。
 ノーム・チョムスキーのポリティカルな考えはあんまり好きじゃないんだけど、この人の言語に対する意見は好きで、構造主義的な歩み寄りじゃなくて普遍文法みたいなアプローチの方がおれにはしっくりくる。英語とかペルシャ語とか日本語とか、ぜんぶ世界の言語の方言みたいな。そうは言ってないけど、そんなようなことは言ってる。と、おれは理解した。特定の言語の習得の途中で、知らない言い回しなのに(こうかな?)と試しに言ってみたら通じたってことはよくあって、それはどう考えても構造主義的なアプローチじゃないのよ。
 まあ、どこの言葉を喋るにせよ、言語学的な捉え方を念頭に喋るってことはないのだから、大した問題ではないのかもしれない。
 むかし個人経営の弁当屋でシャケ弁を頼んだら厨房が見える造りの店で、作っているところを眺めていたら、店のひとは冷凍のシャケの切り身を揚げ油の鍋に放り込んで、パチパチという音と共に加熱されたシャケの切り身が脂ののった逸品になってて(へえー!)と感心して食った憶えがある。なるほど、カッチンコチンに凍ってるから焼いていたんじゃ時間がかかってしょうがないもんね。油で揚げることが構造主義だ、ということではないが、そういうことだ。そういうことなのか?

 そういや食い物でないものを油で揚げるという話だったら、そんなニュースを去年読んでいた。被覆電線を低温の油で揚げると、ダイオキシンも出さずに簡単に電線から銅を回収できるという話だ。除去したPVCは燃料ペレットにするということで、処理費用も従来に比べて安くて設備も簡便だという。

 また、食い物を別の用途に使うということなら、むかしの赤テントこと状況劇場の唐十郎が油揚をビッシリいち面に縫い付けた服を着ていたことがあって、「あれ、いいんだけど、くっさいんだよね」って言ってたのがおかしかった。作ってすぐでも油臭いのに、日数が経つにつれて油が酸化して饐えたような匂いになるっていうの。「面白けりゃいいってもんじゃねぇぞ」っていうのは笑っちゃったんだ。油揚の服を着てる人にそんなこと言われても。
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