もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

湯をわかす

2023年04月29日 19時13分33秒 | タイ歌謡
 初対面に近い人に、趣味はなんですか、と訊かれたことがあって、とっさに「お湯を沸かすことですね」と自然にウソが出た。
 こんなとき、読書とか音楽鑑賞、または映画鑑賞なんて答えるのがスタンダードなんだろうが、そういうのって、あたりまえのことなので、わざわざ言うことじゃないと思う。普通に生活していれば誰だって本を読むし、音楽を聴き、映画を観る。年間に800冊以上とか、CD400枚とか映画300本以上(うち映画館での観覧は最低60本以上)なんてのなら、歴とした趣味と言っていいとは思うが、そんなことを言うと、「うっわ。淫しちゃってんのか、このひと。大丈夫かな」と思われるので、ふつうは隠して言わない。せいぜい年間100冊くらいなら「嗜み」だから、趣味ではない。
 かといって、ヴァイオリンを少し、なんていうと「けっ!」とか思われそうだし、「ボウガンで鴨を撃ちます」と言って、「え! おれもですよ! 今度一緒に! 次の日曜に! 是非!」などと畳みかけられるとメンド臭い。そもそもボウガンなんてウソで、触ったこともないし。
 考えてみたら、湯を沸かすというのは趣味として良いかもしれない。あんまり誘われそうもないし、誘われても「拙者、群れて湯を沸かす手合いでは御座らぬ」と静かに言えばいい。
 だから湯道だ。南部鉄瓶なんて邪道ですよ。信楽も悪くないが、わたしは萬古焼きの本体に蓋は特注のガラス製です。沸き具合が目でわかる。これがいちばん。なんて言ってみたい。
「お湯です」おれは静かに答えた。「お湯を沸かすことですね」
 え……。と、おれを見てフリーズしていた。ウソですよね、と訊いていいものかどうか迷っていたのだろうか。
「お湯、おいしいでしょ。お湯が嫌いな奴なんて、いないもんね」
 え……、まあ……。
 相手はぜんぜん納得してない顔だ。だよな。おれだって別にお湯が好きって訳じゃない。
「お湯はねぇ」もう、スラスラ出てくる。ウソが。「電気ポットで湧かすのがいちばん旨いんです。ガスの方が旨いような印象があるんですけどね。そうでもない。ガスは燃えると水分が出て、でもそれは関係ないと思うんだけど、なのに、なんかイマイチ旨くないんですよ。七輪も使ってみたけどね、あれはダメです。遠赤外線か何かで良いと思ったんですけどね、一酸化炭素が出ちゃうのがダメなのかな。まだガスの方が良い。あれね、ガスもそうなんだけど火加減を変えても、あんまり変わんないのね。沸いた湯の味って。始めは強火とか。いろいろやってみたけど、変わらない。変わりません。最後に藁をひと掴み燃やすと良いとか、やったことないけど、そんなんで旨くなるとは思えないんですよ。あ。そんで、いちばんダメなのが電子レンジで沸かした奴。あれはダメです。ぜんぜん美味しくない。ダメ」
 へえー。と感心して聞いていたが、全部ウソだ。
 お湯は、お湯だよ。
 ていうか、お湯なんか飲まない。白湯(さゆ)を飲むとホッとして、しみじみと旨いと聞いて、いち度試したことがある。
 お湯じゃねぇか。
 こんなの、ただのお湯だぞ。
 旨いとか不味いとか、なーに言ってくれてんだよ。
 いや、味つけろよ。ビンボ臭ぇんだよ。ワビもサビもねぇぞ。
 水を飲むのは好きなのにね。違いは何かを考えたら温度だけしかない。ごっくんごっくん飲めないのがダメなのかな。沸かす手間までかけてんのにダメって、どういうことか。
 まえに、うっすーい昆布茶を飲まされたことがあるが、遠くから来る磯臭さだけしかなくて、これならタダのお湯の方がマシだと思ったことがあったが、たんに比較の問題だ。タダのお湯なんて飲まない。旨くもなんともないのだ。

 お湯といえば、スパゲッティだ。スパゲッティ茹でるのに、お湯が要るでしょ。まあウドンとか素麺でもいいんだけど、あれね、麵を湯に放って沸騰したら、もう火を止めても同じだ、って言う人がいて、そんな論文もあるというような根拠だったはずだが、そんなの信用できない。
 あの茹でるお湯はイタリア人に言わせると「強火だよ。火は強火。もうね、グラッグラ沸いてる湯でないと。麵なんかも湯の中でぐるんぐるん踊ってないと旨くなんないの。強火だぞ強火」って言う。弱火で茹でて旨いわけないだろ、とも言っていた。
 わかる。その心意気。たっぷりのお湯がグラグラ沸いてないとだめな感じ。
 いやいや。ですから、そんなの途中で火を止めても、ちゃんとデンプンはアルファ化するんです。問題ないんです、って言われても、学者の言う事なんて信用できない。
 おれの知ってる製麺所の奥さんも「この蕎麦は3分間。強火で3分間。途中差し水3回」と言い切ってた。イマドキはガスコンロで火加減ができるようになったから差し水は要らないみたいな論調だが、差し水(びっくり水)は吹きこぼれるのを防ぐためじゃない。グラグラ茹だってるときに急速に温度が下がるタイミングが3回欲しいと言っている。たぶん。そういうことだと思う。この奥さんも「強火よ強火」と力説する。沸騰したら火を止めて良いなんて、ぜったいに言わない。心は孤独なハンターなのだった。孤独なハンターは余熱を使うなんてことはしない。孤独で、ハンターだからな。手当たり次第の薪をくべるか、でなきゃ生食だ。
 しかし茹で加減なんてのも科学者に計測させると、「途中で火を止めてもロックウェル硬さ指数は変わらない」とか言うかもしれないが、そういう問題じゃない。
 それから、たまに聞くのが「スパゲッティ類を茹でるのに塩は必要ない」ってやつだ。科学的に根拠がない、塩抜きでも沸点は変わらず、コシの強さも変わらないという。でも、おれは塩抜きで茹でたスパゲッティを食わされたことがあって、「あ。これ茹でるときに塩入れなかったでしょ」って、すぐにわかった。茹で水に塩を使っても使わなくても、料理ぜんたいの塩分量には、それほど違いはないってのは、わかる。でも、真水で茹でて下味のない麵は美味しくないんだよ。科学者に言わせると、「いや同じ同じ。ちょっとマズいかもしれんが、同じだって」ってことなのか。ちょっとマズいなら、それは大違いじゃないか。
 なーにが科学だばかやろう。
 強火だよ。グラッグラだよ。グラッチェだ。バンビーノ。
 根拠なんてないが、ガスなんて強火でも弱火でもコンロの口から出る量は、そう変わらないのではないかと思っている。どっちもガス代がかかる。ていうか、弱火にするだけで随分違うものなのだろうか。中華を作るのに良かろうとハイカロリーバーナー付きのコンロに変えてもガス代が変わった印象がなかったのだ。
 これは人から聞いた話だが、水道代もばかにならないので、小便は水で流さないという生活スタイルがあるんだそうだが、そういう人とはぜったいに友達になりたくない。外に出て、電柱に小便するよりも恥ずかしいだろうが。まあ流さない派の人も、おれなんかとは付き合いたくないだろうから、世の中ってのはうまくできてる。

 お湯は、毎日沸かしている。うちにあるヤカンはコーヒーケトルと呼ばれる注ぎ口の細いやつで、あれの登場でコーヒーを淹れるのが楽になった。昔は琺瑯引きのヤカンくらいしかなかったからね。
 コーヒーを淹れるときのお湯の温度も諸説あって、だいたいは93℃か92℃ってのが有力か。なかには83℃だというひともいて、好きなようにしたらいいのだが、数年まえ新聞に64℃だったか、そのくらいでいいという科学者の記事があって、「あー、はいはい」と思った。なんだ、その中途半端な温度は。水出しコーヒーなんてのもあって、室温でいいというのだが、夏と冬じゃ随分と違うぞ。
 ドリッパーの中の乾いたコーヒーの粉に、初っぱなに湯を含ませて少し待つ。「蒸らし」と言ったりするね。粉に湯を含ませたら粉はたちどころに、むくむくと膨らみ、しばらく焦らした挙げ句に湯をくれてやると、むはー、と泡がたつ。この泡が多いほど豆が新鮮で、あの泡って旨そうだよねと思っていたら、「いや。あの泡は雑味の塊なのです」と聞かされて驚いた。あれはアクだったのか。ガッカリだ。コーヒーメーカーでは、これが不十分なんだが、この蒸らしの待ち時間も45秒だ、いや30秒だ、おれは1分だ。何を言う15秒もあればいいのだと、諸説あって、じつはどれも旨い。けっこうテキトーでもいいのかもしれない。ただ、決まった手順で決まった条件だと、だいたい同じ味になるから、好みの淹れ方を探れば良いようなものだが、コーヒー豆を変えると一から探り直しになる。「もう!」とか言いながら、それが楽しかったりするんだが、面倒な人はコーヒーマシンを使えばいい。

 さっきから「湯道」と書いて、ちょうど最近そういうタイトルの映画が公開されたな、と思ったが、あっちは銭湯とか温泉を極める方の湯道なんだね。おれのほうが道としてメンド臭くてマニアっぽい。もう万難を排してでも近づきたくない。友達になれない。
 道というものは、そういうものだ。
 タイには、こういう道みたいなストイックなものが少ないのではないか。
 少なくとも一つも思い浮かばない。
 ていうか中国もそうだが、「道」なんて言って作法に思想的なものを加えて喜ぶということを、しない。そんなことやってんのって日本くらいじゃないか。柔道とか剣道とか、なんで道なんか求めるのか。こうすれば強くなれるよ、ってメソッドでいいじゃん。高邁な精神も良いけど、なんで格闘を通して精神なんか学ばなくちゃなんねぇんだ。
 どうせお茶なんだ。こうすれば美味しく淹れられて、こうすれば美味しく飲めるよ。静かに格好良く飲もうね、でいいじゃねぇか。「いや。突き詰めれば、死にかた、なのです」じゃねえわ。そんなものを学ばなくても、ひとは誰だって死ねる。学ばなかったとして、それで死に様が悲惨になるってことでもないだろう。

 これまでのエントリーでも、さんざん「麵の道」だの「醤油の道」だのと言ってきたが、読んだ方はおわかりだろうが、道を説いた憶えはない。昔、長江文明あたりから伝わってきたね、という足跡で、だから湯道というものはない。火を使うということを憶えたら、誰でも考えつくものだったから。

 光陰矢のごとしとはほんとうのことで、昔は時が過ぎるのが春のせせらぎみたいにゆったりだったのに、今じゃ滝壺へ向かう急流さながらの勢いで、「歳を取るってのは、そういうことだよ」と、わかったような事を言うのは間違ってる。じつは時間のスピードは加速している。
 相対性理論だ。
 あの理論によると、宇宙のあらゆる物は膨張していて、針ほどの大きさの物も時間の経過で電柱みたいになる。だから往復では時間の経過ぶんだけ復路の方が長いのだ。「おうちがだんだん遠くなる」という歌詞は、これだったのか。で、膨張ってことなんだが、道の長さだけでなく、それを測る定規も足もタイヤも同じ割合で膨張しているから、見かけの大きさは変わらない。さて、そこで時間てのは光だと考えていいんだが、光の速さは1秒間に地球を7周り半だったね。この円周も大きくなってる。それでも7周り半は変わらず、それは光の粒子も大きくなってるとかそういうことなんだろうが、7周り半の大きさが増えてんのに時間は同じってことは、時間の進みが早くなってるってことだよね。見よ、この揺るぎない理論展開。
 そんなわけで、もうゴールデンでウイークだ。さいきんやっと「ええと今年は令和なん年だっけ?」と思わなくなったと思ったらそりゃもう4月も終わりだってんだから、時間が経つのは早い。今年ももう1/3過ぎた計算だ。うっかり寝過ごして、起きたら6月になってて「え。今年も半分終わったのか」と愕然としたりするのが目に浮かぶ。
 もう4月も終わりなんだね、と言うと、それを聞いた知人が「うん。昔から言うでしょ。1月は行く、2月は逃げる、って」
 あー。たしかに。3月は去るだっけ。あれ? でもおれは4月ももう終わりだと言ったよな。「ねえ。3月は去る、だよね。じゃ4月は?」
「あ……」知人は考え込む。「4月、ねえ」腕を組んだ。「んー。し……しげる、かな?」
 4月はしげる。なんだそりゃ。
 そう思ったが、調べてみたら画像の12人は全員4月生まれだった。4月生まれの子に「しげる」と名付けるのは中越地方の風習なんだってね。なんて、もちろんウソだ。中越地方に、そんな風習はないし、みんな4月生まれか中越の出身かどうかも知らない。
 ↑「四月はしげる」座右の銘に如何か
 さて、今日の歌だが、「南部へ彼女を誘っちゃおう」みたいなタイトルか。น้อง(ノーン)を彼女と訳してみたが、この単語は直訳だと「年少の者・目下の者」みたいな感じ。名前の前につけて「~ちゃん」みたいにも遣う。食堂でウエィトレスのお姉さんを呼ぶときにも「น้อง,น้อง(ノーンノーン)」と繰り返して言うこともあるが、ガイジンは言わない方が良い。
 タイの恋人同士あるいは夫婦は男性が年長のことが多く、そういう関係の時、年長の男性をพี่(ピー)と呼び、年少の女性をน้อง(ノーン)と呼ぶのが一般的だ。พี่น้อง(ピーノーン)の関係って言い方もあるくらいで、考えたらうちの夫婦もそうだったが、うちでは言わない。確かに歳は一回り違ってはいても人間としての出来とか能力みたいなのが、うちの奥さんの方がスペックが高いからね。うちではダメだ。
 ただ、この歌の場合はพี่น้อง(ピーノーン)の関係が成立しているようだ。フェミニスト方面の方々がガタガタ言いそうだが、文句ならタイ語を憶えてタイ人に直接言ってくれ。
ชวนน้องล่องใต้ - (ชวนน้องเที่ยวใต้) - ลิลลี่ ได้หมดถ้าสดชื่น【original 】แน๊ท ราเชนทร์ X กล้วย แสตมป์
 なかなかに再生数も多いと思ったら、歌っているのがこのブログに登場するのが3度目のリリーさんだった。田舎くさい。とはいえ、これでも見る度に垢抜けていってて、最初は血中爬虫類濃度がドロドロに濃かったのに、爬虫類っぽさが抜けている。なんか見世物小屋にいそうな感じだったのが、だいぶ普通のお嬢さんに近づいて来ている。これまでの登場ではジェニーさんの抱き合わせ商品っていうか「今なら付いてくる梅皿小鉢」的な扱いだったのが、堂々と単品売りになってきている。紹介文を読むと「姉はジェニー」と出てくるが、法的な姉妹ではない。まったく似てないし、そもそも血縁がない。日本人には理解し難いが「姉妹の契り」みたいなのが近い。アジア的なアレだ。リリーが垢抜けるにつれてジェニーの美少女ぶりが衰えて普通のお姉さんに近くなってきたが、その方が好感度が上がっているようで何よりだ。それにしても幼い感じだな。こてこてのネオテニー娘だな、と思ったら現在18歳だった。まだ子供だった。無駄に芸歴が長いから、もうオトナだとばかり思っていたら18とは。学校に行ってる感じのしない娘で、タイの商店の店番の娘って、こんな感じだよね。
 いつもはリリーさんが作った曲を歌っているが、今回は「ナット・ラッチェン・ウェンペッ」夫妻の曲に便乗してて、夫妻が歌ったものよりもカバーのほうが人気がある。南部の歌手4人がカバーをリリースしていて、その中ではいちばんの売れ行きが良いのが、このリリーのバージョンだ。
 当初ぐんぐん視聴数を伸ばしていたが、曲を作った夫妻のスキャンダル(旦那が妊娠中の妻に暴行をはたらいたというもの)が足を引っ張ったようだ。「そんな事実はない。確かに警察も来て騒ぎにはなったけど、間違いだ」という主張が苦しくて、信用されていないようだ。作品とは関係ないけど、それでも「あー、ね」と野次馬が思っちゃったんなら仕方がないってことか。
 作品じたいは悪くない。歌詞が南部訛りなのが珍しい。

若い娘ではあるけれど けっして美しくはない でも 色気づいてることもない
あなたが誰かを愛しているなら 本当に愛しているなら
相手を騙そうとしてはいけない  私を信じないのなら どうでもいいけれど
心の中を見てほしい 明確な気持ち
人を騙して野牛呼ばわりはいけない 手をつないで一緒に歩こう

舟で南に行こう 海に行って ボートに乗って ダイビングしてサンゴ礁を見に行こう
毎日深夜まで遊ぶ旅に連れて行って それから二人で一緒に座って月を見よう
ノラおじさんの映画を観に連れて行って 古くからあるチャクプラ市場にも行こう
胸がいっぱい チェディ寺に祈りに行こう 
私たち二人が永遠に愛し合うことができますように.

ああ ああ ああ 言って
私はあなたをとても愛しています 愛してます
いいことしかない南の旅へ誘いたい
プラタトナコンシーアユタヤに敬意を表し チャンディに逃げよう
タンクライおじさんに敬意を表し 午後はクルンチン滝へ
私は本当にこの人を愛している たとえ未亡人になっても

 歌詞はどうってことがない。南部の観光案内みたいな歌で、中央部や北部のタイ人も南部に行きたくなるのではないか。彼らの認識は「南部は良い所なんだけど、人がちょっと大らかで残忍なんだよなー。なんかね、とつぜん怒り出すんだけど、その切っ掛けがわかんねぇの」と思ってるフシがあって、でもガイジンにはそんなことは言わない。なんかね、微妙な感じなんだ。
 もっとも、南部のタイ人も「北へ行くほど冷血なんだよなー」と思ってるんじゃないか。
 ヤワラーッの老人に聞いたことがあるが、「インド人って北に行くほど人が悪くなるんだけど、北のインド人は南に行くほど頭が悪くなるって言うんだよな」と笑っていた。どこもそんなもんか。
ไทยแลนด์อเมซิ่งไทยแลนด์ -เดอะอีสานโปรเจคท์ พบกับ ปุ้ย ดวงพร
 こういったイメージビデオは普通にテレビで放映されてるんだが、こういうのを見て「うっわー。いいなー。行ってみたいなー、こんな国」って言うと、「バカネ-。コレハたいヨ」と日本語で笑いながら、ちょっと得意そうだ。愛国心とか言うと警戒するタイ人は多いが、タイが嫌いなタイ人って、見たことがない。国として健全なのだろう。

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