もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

19世紀の歌曲から

2022年04月16日 19時17分57秒 | タイ歌謡
 てれれー てーてれ てれれー てーれて てれてー てーてれ てーれてーてれてれてーてーてーてーれーてーてーてーてーてれてれてれーてーてーれてれてれてー てーれてれてれてー 

 そのとおり。簡単にバレちゃったね。そう。ブラームスの交響曲3番第3楽章の冒頭、チェロのパートを平仮名書きしたものだ。
Brahms : Symphony No. 3 (III. Poco Allegretto / Leonard Bernstein ,Vienna Philharmonic
 ブラームスなんかの作曲家を大きくカテゴライズするとロマン派ってことになって、クラシックファンに人気があるのは、この括りの作曲家たちだろう。乱暴に説明すると、安心して聴ける部類の音楽っていうか、「これ和音なの?」っていうような前衛的な音の重ね方で、慣れない聴衆を不安な心持ちにさせるような音楽が出現するまえのスタイルだ。19世紀から20世紀にかけて隆盛を誇った。もちろん今でもロマン派の作曲をする者はいるけれど、大体やり尽くされてしまっている感じ。「古典」ってのがぴったりな音楽で、まあ基本と言っていい。だから楽器の技術を習得するなら、この辺りから始めることになる。
 楽器の練習は楽しい。ひたすら音階の昇降を繰り返したりするアレだ。初心者の頃は「こんなことやってて何の役に立つのか」と思ったりしたものだが、音階練習が役立つとか、そういうのは間違ってる。プロフェッショナルの、ほんの一握りのチェリスト以外、チェリストじたいが役に立たない。いや、希少なプロのチェロ弾きだって何の役に立っているのかは不明ではある。飢えた子供の前でチェロを弾いても、うるさいだけだ。戦場でチェロを弾いて、その音を聞いた兵士が「おお。おれは何をしているのか」と我に返り、弾を撃つ手を休め、天を仰いだりしていたら、敵に撃たれちゃう。
 何を言っておる。おれはチェロで助かったぞ。胸ポケットに入れていたチェロが流れ弾を防いでくれたのだ、なんていう話はない。そもそもチェロは胸ポケットに入らないし、よしんば入ったとしても形状は薄い木の箱だから弾丸など容易に貫通してしまい、命拾いは望めない。楽器ケースも中途半端で、侏儒(こびと)ならともかく、布団袋で圧縮したカルロス・ゴーンでさえ隠すにも小さすぎる。護身の効果もないし、綺麗に刺身を盛ってみても喜ばれないだろう。管楽器だったら酒を仕込んで、アルコール依存症の人が隠れ飲みをするのに良いかもしれないが、弦楽器ってのは本当に役に立たない。イタリアあたりではパルミジャーノ・レッジャーノを下ろすのに使ったりもできるが、弦がべたべたになるから止めたほうがいい。
 音階練習の話だった。あれはつまらない、というのが普通の感想みたいだが、おれは好きだった。楽しいから。いやいや、あれを楽しむには何かコツでもあるのだろう、普通は退屈だぞ、と呆れられたこともあるが、コツなんて、ない。音程が正確に近づくにつれ、楽しくなった。それだけだ。楽しいのに理由なんかないし、メトロノームに合わせて音階を上下させているとワクワクしちゃう。何だろうね、あれは。ひたすら3連符の同じフレーズを繰り返していると気持ち良くなっちゃったりするんだがこれは、わかって貰える話なんだろうか。今ではサイレントチェロと、デジタルのメトロノームがあって、どっちもヘッドフォンに繋げると弱音器も要らず、気兼ねなく弾ける。良い時代になったものだ。実家は田舎の一軒家だから気兼ねなどいらなかったが、今はそうもいかない。弦楽器の音は思いの外響くものだ。そういえば昔、深夜に電気ピアノを練習するのにヘッドフォンで音を聞きながら弾いていたら、鍵盤を押さえる音が「ゴトゴト、ゴトゴトうるさい!」と、まえの奥さんに怒られたことがあって、あれが離婚の一因だってことはないが、かなしかった。深夜にひとり、ピアノも弾けないなんて。まあ落ち着いて考えたら、深夜にごりごりピアノを弾く人は少数派だわな。
 音階の練習と言っても、ひたすらドレミを弾く訳ではない。レミファソラシドレ、と弾くと、これはDドリアンという旋法で、和音の名称を付けるならDm7か。モード手法に欠かせない練習なのだ。この旋法をモードと言って、他にリディアンとかイオニアンとかフリジアンとか、ぜんぶで7つ。それを12のキーでやるから12×7=84通りのモードがあることになる。それ全部憶えるの大変じゃね? と思うかもしれないが、弦楽器だと同じ運指を上下に擦らすだけ(でもないが、基本はそう)だからラクだ。鍵盤と管楽器なんかは大変そうだ。歌の伴奏で「キーを2音下げて」なんて言われても弦楽器の人は簡単に頷くが、鍵盤や管楽器だと、「ちょ、ちょっと待って」と架空の運指をアタマの中でシミュレートすることになる。カラオケのリモコンでキーを変えるのと違って、演奏者が熟練していないとキーの変更は一大事で、だから生バンドはシロウトの歌伴奏を嫌がる。キーの変更に対応できても歌手が音痴だとホントに吐き気がするし。
SCALES 101, How to PERFECT your SCALES , Pablo Ferrández tutorials ( SUBS EN ESPAÑOL)
 もっとも音階練習なんかを一日も欠かさずにしていたのは学生の頃で、オトナになってしまうと楽しいことや仕事も増えて、そんなことは滅多にしていられない。毎日の腕立て伏せもランニングも疎遠になって、結婚でもしたらまったく生活が変わってしまうのは我ながら驚くばかりで、プロにでもならなきゃ誰でもそんな感じだろう。そりゃ音階の練習は嫌いではなかったが、好きな娘と益体もない話をして手を繋いで「あのね、あのね」って語らってるほうが遙かに楽しい。音階の昇降を聞いて感動するやつはいないが、料理を作れば「おいしいね」と喜んでくれる。
 そうして、ひとは歳を取ると音階の練習に明け暮れることなく普通の生活というものを送るようになるのだが、まったく音階の練習から遠ざかるのかというと、まるで縁を切る訳でもない。楽器を持つと、まず音階を弾いてしまう。楽器の練習時間はなくなったけれども他に様々な経験を積んだお陰で、演奏に深みが出たかといえば、そんなことがあるわけもなく、自分でもヘタになったと思う。
 弾いていて楽しいのはギターなんかで、ちゃんと練習したことがないから、ヘタになるってことがない。ヴァイオリン属の楽器と違ってフレットがあるから音が外れることもない。昔と違ってタブレット端末でコード進行つきの楽譜を探す。日本語検索でなく英語検索だと無料で幾らでも転がってるので、それを参考に即興演奏をしていると気持ち良くて楽しい。音符に忠実に旋律を弾くのも退屈でしょ。それに、おれは低音楽器で音楽の基礎を学んだのでト音記号を読むのがヘタなのだ。弾き始めに「えっと……」って切り替える時間が要る。要するに演奏者としては大したことないのが社会人になって練習から遠ざかったものだから、目も当てられないくらいにヘタになったってことだ。まあアマチュアだしね。自分で楽しむくらいならいいんじゃないか。
 ギターを弾くのが好きな理由は即興が楽しいってこともあるが、コード(和音)を考えるのが楽しい。元々ちゃんとした訓練を積んでいないから好きなようにやる。まずベースではないのだからルート(根音。Cのコードならドミソのうちのドの音を指す)はアタマの中で鳴らして、弾かなくていいという間違った考えを持つのが好きで、積極的にルートは排除する。つまりは代理コードってことだ。そのうえで構成音を考えながら弦を押さえていくと、指が届かないから、この音は省略しちゃえとか、いややっぱり入れたいからオクターブ変えてぶっ込むか、などともうデタラメで、そこへいくと減5度や7度は押さえやすいからコードネームにはない音だけど入れておくかとか、手癖がついてくるんだが、ギターを弾ける人がおれの押さえ方を見ると「何それ」って言う。「見たことない押さえ方だな」って戸惑う。まあね。この和音はヘンだったな、ってことも多々あるが、昔コードブックってのを見て図解通りにコードを押さえたら、これがドミソみたいなつまんない音の重ね方でイライラするから妹にくれてしまった。かといってジャズのギター弾きが押さえるコードほどは練れてないので少し違う。重ねて鳴らす音は3つか4つもあれば十分で、どうかすると1音とか2音ってこともある。
 若い頃と違って知らない人の前で楽器を弾くのがイヤで、今では家族の前だけだ。息子が小学校に上がった頃コードを教えて、おれがリフを弾いてブルーズをやったら面白かったみたいで、そうなるとギターで遊んでばかりで、今では息子が旋律で、おれはバッキングやウォーキングベースで、これは楽しい。息子のフレージングのほうがカッコいいのね。ただ、まだ若いからブルーズの「もたつき」なんかがまだできない。

 タイの7平均律のときの音階ってのも、もちろんあって、ちゃんとドレミみたいに音に名前がある。タイ古典音階の事をทาง(ターンg)といって意味は「道」とか「やり方」みたいなことで、英語のWayが近い。音それぞれの名が「ร・ม・ฝ・ช・ล・ท・ด」で、ロー・モー・フォー・ソー・ロー・トー・ドーと読む。西洋音楽でイタリア語で言う「ドレミ……」、英語圏などの「CDEF……」に相当する。ローが2つあるが、最初のローはRoで巻き舌発音、5番目のローはLoで普通に日本語発音のローで良い。

 五線譜でヘ音記号付きだと誤解を招きやすいんだが、じゃあどう書けっていうのかと訊かれたら、どう書いても分かり難いんで、まあこの画像でいいか。
 ระนาด(ラナーッ – 木琴)での音階説明の動画があって、わかりやすい。
เพลงล่องแม่ปิง ระนาดเอก | สื่อการสอนดนตรีไทย | WSF School
 2音同時に鳴らしているけれど、オクターブのユニゾンであって、和音ではない。12平均律の絶対音感か相対音感を持ってる人は聴いててキモチワルくなるので閲覧注意だ。
 それぞれの音盤の上の方に音階の名を書いた紙を貼ってある。「ช(ソー)」の音から始めてるね。
 おれの知る限り、タイの古典音階について、その名をทาง(ターンg)というとか、各音の名前(ร・ม・ฝ・ช・ล・ท・ด)を紹介した著述はこれまでになく、インターネットの記事をググってみても見当たらないから、本邦初かもしれないが、それはこんな事を書いてもしょうがないし、誰も興味がないからだろう。おれが名付けた訳でもなく、タイではそう言ってるよというだけの話で、胸を張って紹介する話でもない。
 憶えても遣いどころがないし何の自慢にもならなくて、純粋に、ただ知識として存在することだから、ぜひ憶えていただきたい。Wikipediaに載せても良いんだが、あれは知らない人が記事の細部を知らないうちにいじくってきたりして、なんか感じ悪いしメンド臭くなっちゃって最近じゃ新しい記事を書いたり、古いのを更新したりってことをしてない。相変わらず知らないタイ人から何とかいうタイ歌謡歌手の記事を日本語でも出してくれとかリクエストはあるんだが、どうでもよくなってしまった。有名どころは訳したし、あとはタイ・オラタイさんくらいかな、と思ってから2年くらい経ってる。誰かこれを読んで、代わりにWikipediaに載せてくれても良いんだが、あー、そうか。出典も明かさないといけないのか。出典に、「もっとましな嘘をついてくれ」って書くのもカッコいいけど、即削除の案件ぽい。ちゃんとした出典探すのもメンド臭いか。
 まあ、そのうち気が向いたら載せようかな。

 7平均律の弦楽器ってのもあって、この動画の楽器は7平均律の音程でフレットが設定してある。グラチャッピー(กระจับปี่)っていうんだけどね。たまに楽器屋で見かけても12平均律仕様になってるようで、7平均律仕様の実物は、おれも見たことない。ヘンな名前だと思ったら、パーリ語の「亀」が語源だそうで、たしかに胴の裏が亀の甲っぽいんだが、亀の甲を使うことはなくて、あの馬鹿でかいジャックフルーツやチークの木で作るんだって。アユタヤ王朝時代に王室向けに笛とセットで演奏された楽器で、奏者は少ないというのね。構造としては琵琶なんかに近いようで、難易度は高くなさそうなんだが、タイのWikipediaによると演奏が非常に難しいんだそうだ。
ลาวแพน เดี่ยวกระจับปี่
 これ、フレットは可動式なのかと思ったら、そうではないようだ。胴の裏が丸いうえに、竿とヘッドが馬鹿に重いため不安定で、バランスを取るのが難しいと言うんだが、難しいって、そういうことなのか。装飾だと思うがヘッドが長すぎるんだよ。楽器として欠陥品ぽくて、これじゃ廃れるわけだ。
 これも7平均律の演奏なんで、西洋音楽の絶対音感か相対音感しか持ってない人はご注意いただきたい。
 また、7平均律の音符付きの動画は下のようなもので、音程を示すタイ文字の羅列で表していて、和楽器の楽譜に近い物がある。これはソー(ซอ)の解説動画なんだが、字幕で音符のタイ文字が標示される。音程を表す文字の上に「゜」が付くことがあるんだが、これはオクターブ高くなる記号なんだね。先に貼った画像では低いオクターブだと「.」が付き、さらにオクターブ低くなると「‥」と2点が付くようだ。ソーの正しい構えも勉強できてためになるね。日本語で言う女座りってやつだ。タイでは男もこの座り方ができるのが普通で、タイ寺院に行けばイヤと言うほど見られる。
ฝึกสีซออู้แบบ"คาราโอเกะ"-เพลงลาวดำเนินทราย

 さて、今日の歌だが、たまにはガチで良い曲を紹介する。まずは聴いてみて。
เอย เพลงเขมรไทรโยค สายเลือดไทยเดิม .. เคลิ้มทั้งสตู จากรายการเพลงเอก
「クメールサイヨーク(เขมรไทรโยค)」っていう曲なんだけど、クメール(カンボジア)語ではないし、クメール文化の薫陶を受けた楽曲ってこともない。サイヨークってのは、ビルマに近いカンチャナブリ県にある地名で、サイヨーク滝が有名。
 じゃ、なんでクメールなんだよ、というと、この歌詞の元になった叙事詩つうか物語に「クメール・クロム・ラック(เขมรกล่อมลูก)」ってのがあって、意味は「クメールの子守歌」って感じか。それを下敷きに作った曲なんだね。
 この曲は非常に由緒正しくて、1888年9月20日に発表されたもので、もう130年以上まえの曲なのに、そこまで細かく特定されてるのは、当時タイを治めていたチュラロンコン大王が夫人の誕生日に贈った歌だからだ。
 聴いてのとおりで、歌声の音程が縦横無尽つうか、西洋音楽みたいにいきなり正しい音程には行かない。スラーで音程を取りに行くやり方で、これはタイの古典音楽では歌だけでなく楽器の演奏でもそうだ。弦楽器などフレットのない物なら容易であるが、管楽器などでもベンドでスラーさせてまで音を取りに行く。そっちの方が難しいだろうに。
 こういった音の取り方は中国なんかもそうだが、タイの古典音楽のほうがスラーを矢鱈に多用する。西洋音楽でこれをやると、先生にめっちゃ怒られる。叱られるんじゃなくて怒られる。やっちゃいけない技法のひとつで、パガニーニなんかもやってんじゃん、と言いたいところだが、あれでも1曲につき精々いち度か2度くらいで、多用ということはない。
 アジア音楽は、のべつ幕なしスラー。隙あらばスラーで、西洋音楽の人はこれを酷く嫌がるね。おれも最初は違和感があったが、基本はアジア人だから、すぐに慣れちゃった。
 あと、タイ人の歌の巧い人は、「ンー」って歌うときに口を閉じている訳で、声を鼻から抜いて、マイクを鼻の穴に向けて声を拾うということをするね。ルクトゥン歌手でもルククルン歌手でも、タイ人歌手なら、だいたいやる。これはさすがに他の国の歌手がやるのを見たことがなくて、タイだけのマイク遣いのテクニックかもしれない。
 あ。そうだ。歌詞の抄訳ね。

タイの陛下へ サイヨークのお話
女王陛下 この豊饒なる地には あなたの見たこともない 多くの草木が茂っております
チャイチョンでは 山が峡谷に揺れております 湧水が滔滔と溢れます
見てください この美しさ あらゆる物が豊かな水に流されていきます

水はどこまでも澄んで 誰もが泳げばマサヤ(魚)の美しさを見る
女王陛下 あなたの知らない 詠唱が聞こえます
黄昏の空に響く 帰宅の歌 それは黄金の孔雀の歌
誰の耳にも届く よく通る歌

あの美しく素敵な 歌詞
なんて楽しい 旋律 私たちが歌った歌
ご覧ください 木々と美しい花が あなたを誘います
小鳥の囀り 満ちあふれ
チュルククルチュクル チュックラ タララッ
わたしたちを誘う その歌声

 歌詞の抄訳は単なる美辞麗句っぽいけれどタイ語で読むと、その音の響きが美しい。昔の雅なタイ語だ。この格調を日本語にできないのがもどかしい。意味しか伝わってないからね。
 古くさいタイ語ではあるけれど、当時の最高峰の作詞家・作曲家が本気で作った中でも一番出来の良い楽曲を選んだんだろうから、名曲になるのは必然で、130年を経てなお、こうして聴くことができる。
 この手の節回しにタイ人は弱くて、21世紀になったばかりの頃、映画「タイタニック」を軽々と抜いて、たしか今でも歴代一位の興行収入を記録した映画「ナンナーク」のテーマ曲もタイ古典音楽の節回しで、このテーマもタイ人の涙を搾り取った旋律だ。
 良い映画だったなあ。サワリだけ聴いてみよう。
Official Trailler - นางนาก
 この辺りの曲は名曲が多いのに、あんまり聴く機会がない。ひっそりと廉価CDを売ってるくらいで、テレビやラジオで聴くことも少ない。動画も多くはないんだが、あってもアマチュアばかりだ。でも、タイ歌謡の基本が詰まってる。とはいえ需要が少ないんで、プロのいる世界ではないみたいだ。
 次の動画を見てみよう。キム(ขิม)とソー(ซอ)の合奏で、歌入りだ。音程が悪いのはご愛敬だが、間違いなく良家のお嬢様だ。普段から陽に当たってないから色が白いもん。この手の音楽をビンボー人の家の子がすることはまず、ない。ホテルのロビーなんかで、この手の音楽を演奏してるんだが、良家のお嬢しか見たことない。演奏のギャラは昼飯代にもならないくらい安いんだけど、お嬢様だから、そんな幼児の小遣いみたいな金額でも文句言わない。「他国のお客様を音楽でお持てなし致しておりますの♪」って感じ。こういうお嬢さんたちは、お喋りすると浮世離れしてて面白い。ヴァイオリン属の楽器の腕に覚えがあるならソーなんかを「ちょっと弾かせて」ってテキトーにペンタトニックスケール上下させて即興で弾いてみせると、すぐにセッションが始まって友達になれるよ。
ลาวดำเนินทราย
 音と画像が別撮りだから微妙に合ってないのも些細なこと。曲は「ลาวดำเนินทราย(ラオダムヌンサイ)」といって意味は、「ラオスの黒い砂丘」みたいな感じか。これも19世紀の歌だけど、発表年は不詳。川を船で下っていると黒い砂の傾斜が見えて趣のあることだよ、というような歌詞のようだが、古語なんで訳がメンド臭い。ともあれ、その当時の船遊びができる上流階級のお方の歌なわけで、船を漕ぐ労働歌とは違った雅やかな歌曲だ。
 聴いたタイ人の殆どが感動するにも関わらず、あまり聴かれないって事情も、その辺だね。庶民の音楽ではない。これで時代が下って20世紀にはルククルンへと受け継がれるタイ歌謡の系譜だ。ルクトゥンの源流のひとつである19世紀の民謡なんかは、その性質上、記録も楽譜もない。消失したとかじゃなくて、最初から記録されていないのだ。口伝によって継承されたものばかりだろうが、タイ人のことなので曲によっては原型を留めていないかもしれない。

 もっと遡ったプリミティヴな楽曲も聴いてみようか。まずはカンボジアの古典芸能つうか土着舞踊と歌。1963年とのクレジットだが、だったら独立後のカンボジア王国時代の記録だ。1963年にカラー撮影? まあそういうこともあるのかな。シアヌークの統治していた頃で、合衆国と断交するまえだね。曲の名前などは不明で、「カンボジア古代の歌」という動画タイトルだ。この斉唱でダウンビートの4拍子ってのは、タイのアップテンポのルククルンにも見られるパターンで、みんなでココナッツ製の椀を叩いて拍子を取っている。歌垣とは趣が違ってはいるが、こういうので男女が親密になったのかね。
เพลงกัมพูชาสมัยโบราณ

 次が「古代イサーンの子守歌」だ。イサーン地方の歌なのに下品じゃないなんて、と思うが確かにイサーン語で「ボダーイ」とか言ってるし。素朴で、美しい。子守歌だけあってプロの歌手向けではない俗唱にもかかわらずスラーの多用で音程を取りに行く。しかしコブシは一切回さず、それどころかノンヴィブラートなのに音程を定めずに「ゆらぐ」。タイ人のシロウトの歌に見られる技法っていうか、唱法だ。タイの子供って他の国に比べても可愛さが突出していて、幼少時に可愛さを遣いきってしまう者が続出なんだが、こういう歌で育てられたら、そりゃ可愛いわけだ。
เพลงกล่อมลูกอีสาน สมัยโบราณ หาฟังยาก
 イサーンの子守歌ってのは有名なのが多くて、次の歌は今でも普通に子守歌として歌われているものだ。良い曲だ。動画を観る限り何かのオーディション番組ぽいんだが、ここで歌っているのはプロの歌手でジプシー・シーサコーン(ยิปซี ศรีสาคร)というツッコミどころのある名前だが、そこは気にしない。オーディションを受ける必要のない人なのでゲスト出演だろうか。それにしちゃ審査員がボタンを押して加点したりしてて、よくわからない。それはともかくタイの御婦人に時々いる無駄に妖艶な人で、こういう人に子守歌を歌わせるなんて、どういう料簡だとは思うものの、これが巧い。ちょうど良い具合の下世話な場末声で「泣いちゃダメよ」とか「元気よく育ってね」みたいな歌詞を歌い上げているんだが、こんなお母さんが毎日歌ってくれたら、どんな子供が育つんだろうか。ここでもスラーと音程の揺らぎは健在で、西洋音楽のベルカント唱法なんかを習得した人は卒倒しそうになるだろうが、そういうものと諦めて貰うしかない。
กล่อมลูก - ยิปซี ศรีสาคร เพชร 300

 さて、これで最後にしようと思うんだが、今はメオ族と言ってはいけない山岳民族のモン族の娘さんの独唱で、やはり子守歌だ。コメントを読むと歌っているのはモン族の若い女子大生ということなんだが、おっそろしく巧い。ていうか西洋音楽基準では絶対に巧いとは言われないだろうが、巧くてもヘタでも何でもいいが、とにかく、いい。
 しかし聴いていて少し困ったんだが、これは7平均律の旋法じゃないか。あの平均律はアユタヤ王朝あたりの王室なんかの出自かと勝手に思っていたんだが、モン族の俗唱で7平均律ってことなら、そりゃもう話がぜんぜん違ってくるわけで、ひょっとしたら雲南省辺りにその痕跡があったらどうしよう。いや、どうしようってことはないんだが、アユタヤ発祥説は、考え直さなきゃならない。
 揺らぎを通り越して裏声と地声を自由にコロコロ行き来する唱法は、タイのシロウト唱法の他にはブルガリアの唱法や日本の琉球にある島唄にも見られる技法で、やはりヴィブラートは抑えてあって、独特の洗練があって気高さすら漂う。北タイの人々の気高さに通じるものがあって、南のタイ人とは違い、どんなに貧しくても住まいを自分で作り、木の床で寝る。地べたに寝るということをしないのだ。そんなの当たり前だと思うかもしれないが、日本と違ってタイは暖かいから地面でも生きていける。腹が減ったらバナナがそこら中にあるし、堕ちようと思えば地べたまで堕ちるのは容易なのだった。じっさい南部だと、そういう人を当たり前に見ることができる。
Kwv txhiaj เพลงม้ง
 クレジットには「モン族の歌」とあるだけで、子守歌ではないかもしれない。歌詞を聞いてもタイ語と全く違ってて何だかわからない。全くわからない。
 いや。それにしても美しい歌だ。
 これで最後の曲のつもりだったが、見つけた。このモン族の娘がスタジオで歌ってる。再生回数は数十万だが、コメント欄が熱い。根強いファンが多いみたいだ。モン族の冠を頂き、凜と歌っている。モン族に多い美人という程ではないが、あの辺の人に多い濡れた瞳の持ち主っぽい。あの眼差しは、なんか困る。会ったばかりで好意とかそういうもの以前のことなのに、濡れた瞳で見られると勘違いしそうになるんだよね。ヴィエンチャンの国営市場の宝石店の女主人も濡れた瞳の持ち主で、数年にいち度しか会わないのに毎回、食事を奢ってくれる。おれは決して上客ではなく、石を買ったのは数回で、高い物など買ったことがない。それなのにルビーをくれたり、結婚しました、と旦那を紹介してくれたり、ひょっとしたら友人だと思われているのかもしれない。女主人の方は、美人です。いや。でした、だ。知り合った頃は二十歳になったかどうかという感じだったが、今では歴とした初老だ。
 ラオスにもモン族はいて、確かめたことはないが、ラオスの宝石屋の女主人もモン族だと思う。旦那は英語とフランス語に堪能で、育ちが良いんだろうな。
 そんなことより動画だった。
Lug Txaj - Lig Muas - Kev Nkauj Nraug (Live In Studio Ver.)
 いいね。気に入った人は「Lug Txaj」でYoutube検索をかければ、けっこう似たような人がヒットする。本人のも幾つかあるね。
 思いもかけず、今回は長くなってしまった。タイでは正月だね。友人から連絡で、「めっちゃ暑い」だそうで、そりゃそうだ。一年で一番暑い時期だもんね。

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