もっとましな嘘をついてくれ ータイ歌謡の日々ー

タイ歌謡について書いたり、うそをついたり、関係ないことを言ったりします。

パカワトとアラハト

2022年04月11日 14時48分14秒 | タイ歌謡
 タイの国歌が歌えたりするんだが、それが役に立ったことなどいち度たりともない。じゃあ、なぜそんなものを憶えたのだ、と訊かれても返答に困るわけで、憶えようとして憶えたわけではない。気が付いたら歌えるようになっていただけだ。
 タイに行ったことのある人ならわかると思うが、あの国では毎日2度、国歌がかかる。朝8時と夕方6時。そのときに外出している国民は、街のスピーカーから国歌が聞こえると、歩みを止めて直立不動の姿勢を取らなくてはいけない。はっきりと法律で決まっていて、これを怠ると不敬罪で逮捕されることもある。例外は勤務中の医師や運転手などで、そういう人たちまで動きを止めると人命に関わるから、これは除外されているが、一般の人々は外国人も含めて、この法律に従わなければならない。
 まあ家の中だと、直立不動にならなくてもいいという法律はないが、我が家はタイの自宅内にいるときはソファに腰掛けたままとか、そんな感じだ。
 テレビやラジオを点けていると、その時間に国歌が流れるから、ふと思い立ってみて、がば、と立ち上がると、他の家族も釣られて立ち上がり、「……もう……」って顔で、ひとり座るわけにもいかず、直立不動を崩せずに国歌を聴いている。
 そんな国歌が聞こえてくるのが、毎日なんである。
 しかも2度ずつ。
 そりゃ憶えるよね。
 曲じたいはCmajor(ハ長調)で難しいことはない。あえてコードをつけるならC、F、G、Dといったところで、テンションノートを載せてG7、D7も加えておきたいところだ。
เพลงชาติไทยแรก บนแผ่นดินรัชกาลที่ 10
 歌詞は国歌としては普通で、「タイの国家はタイ国民の血と肉でできている」って歌い出しが勇ましい。
 むしろ日本の国歌のほうが「あなた様の御代が、ずっとずーっと続きますように。小石が巌になり苔むしちゃうくらいまで」なんて奴隷根性丸出しの歌詞で少数派なんじゃないかと思う。これ、皇居の主は歌えないよね。歌うんなら歌詞を変えて「朕が世」か。
 フランスの国歌なんて「旗を暴君の血で染めろ」とか「武器を取れ」とか「敵の血で大地を染め上げろ」とか勇ましいし、アメリカ国歌だって「ロケットが赤く輝き」とか「破壊・混乱・邪悪な足枷は奴らの血で購えた」みたいなこと言ってて物騒だ。民主主義ってのは平和裏に勝ち得たものではなく、過酷な闘争の果てに得た物だというのがわかりやすい。
 わりと平和なのが連合王国の国歌で、「女王陛下を守り給え」みたいな歌詞で、だいたい穏便かと思ったら、6番の歌詞で「激流が如きスコットランドの反乱を打ち破らむ」とか言い出して、ちょっと不穏になっちゃう。
 タイ国歌の他に、タイでよく聞くのが、「国王陛下を讃える歌 เพลงสรรเสริญพระบารมี」で、これは映画館で映画が始まるまえとか、コンサートの開演まえにかかる曲で、こっちはお世辞抜きで良い曲だ。むかし日野皓正のコンボがバンコクに来たとき、この曲を3管編成にアレンジして管楽器だけで吹奏したのがすっげー格好良かった。
Thai Royal Anthem เพลง สรรเสริญ พระบารมี
 この曲の歌詞を暗唱できる程には聴いた回数が少なくて歌えないんだが、憶えても国歌以上に遣いどころが少ないように思う。
 そういえばタイ国歌は、タイの国籍を取って帰化する人は歌えなきゃならないんだと聞いたことがあるが、そんな予定はないしなあ。と、国歌で思い出したが相撲取りの元横綱・鶴竜は日本国籍を取得してるんだが、あの人が優勝した場所の表彰式では国歌斉唱のとき、明らかに歌ってなかった。いやべつに歌わなくても歌えなくても構わないんだが、日本の国籍を取得するのに君が代が歌えるかどうかの試験なんてのはなさそうだ。いちおうググってみたら「君が代を歌わせるテストを設けた方が良いんじゃないか」みたいな記述もあるんで、どうやら国歌は帰化条件にはないようだ。

 まあ、歌えたからって、それで日本への忠誠に繋がるかどうかなんて意味がないような気もする。だって、おれ、パーリ語で念仏を唱えられちゃうんだもんね。とうぜん信心など、これっぽっちも持ち合わせていないのに念仏だけは暗記してるってのは、念仏を知らないよりも罰当たりな感じがするけれども、不信心者や異教徒だからといって罰を与えるのは越権行為であって、仏陀さまは、そのような理不尽で筋の通らぬことをするわけがない。
 パーリ語の念仏ってのもタイ人と結婚したらタイ寺院にしょっちゅう連れて行かれたり、祝儀不祝儀どちらもセットで坊主の読経が漏れなく付いてくるから、憶えちゃう。
 タイ国歌と違って、聞いててホントに意味がわかんねぇの。パーリ語なんて上座部仏教の念仏にしか使われない言語だからね。サンスクリット語じゃないのか、ってよく訊かれるんだけど、あれは親戚で、どっちも古代インドのアーリア語群の言語だ。パーリ語は俗語で、その文語・雅語がサンスクリット語だ。「良い匂い」をパーリ語の言い回しとしたら、サンスクリット語ふうの日本語では「うたて馨(かぐわ)し」って感じか。アーリア人が使ってたんだね。ドイツのヒットラーが「我々は由緒正しいアーリア人種で……」って自説を主張してたけど、そのアーリア人ってのはインド人だってのをヒットラーは知らなかったようで、そんなの知らせたら「何だって。そんじゃ、このこと知ってる奴とインドのアーリア人は全員殺さなきゃ」とか言ってたかもしれないね。
 とにかくパーリ語の読経なんだが、音だけで憶えてて、その意味がまったくわからない。タイ語から類推するのなんて無理。ぜんぜん系統が違う言語だからね。いち度ネットで検索して、その意味を読んだことはある。感想は、「ふうん」ってことで、意味はあんまり憶えてない。読んだその日のうちに概ね忘れた。しょうがないよね。心に響かないんだもん。
 で、片仮名で書くと「ナモータッサー パカワトー アラハトー サムマー サンブッタサー」って言ってて、たしか阿羅漢がどうとかいう意味だった。アラハトーってのが阿羅漢なんだろうね。これ、天台宗の坊主が、このまんま言うんだよね。さすが日本に最初に入ってきた仏教だ。ちゃんとパーリ語使ってんのね。
บทสวดนมัสการพระพุทธเจ้า
 あと、天台宗じゃ「プッタンサラナンガッチャーミ」ってのも言うよね。仏陀だったか仏教だったかに帰依しますみたいな意味だったはず。三度帰依します、だったかな。しかしなぜ三度。まあ、その三度も怪しいもので、でも面白いからググらない。
พุทธัง สะระณัง คัจฉามิ | บทไตรสรณคมณ์ (พร้อมคำแปล) | บทสวดมนต์ของฆราวาส | บทสวดมนต์บาลี - ไทย
 正直、意味なんて気にしてないが唱えられる。タイ人には「へえええ!」って感心されるんだが、うちの奥さんと息子は、おれには全く信心というものがないのを知ってるんで、ニコニコ見守っているだけだ。
 さいしょ、うちの奥さんはおれに信心のかけらもないと知って、「え。日本人なのに? ニホンジンもタイ人と同じくブッキョートなんでしょ? 違うの?」と、驚き、やがて呆れていたが、「なぜ、あなたには信心がないのですか」との疑問に簡潔に答えると、「……ふうん」と考え込み、「それは正しいかもしれないけれど、その考えだと仏陀様を信仰する意味がなくなってしまう」と言い、翌日には「その考え方だと、生活(ชีวิต - 人生とか命とか訳してもいい)がラクになってしまう」と言い、さらに数日後、「罰は当たらないの?」と訊き、それっきり信仰の話題をすることはなくなるのと引き替えに就寝まえ、枕に両手をついて何事かを祈るのを止めてしまった。あの祈る姿は、タイ人と結婚したんだなーという趣があるうえに妙に色っぽくて好きだっただけに残念だ。信心があるフリをして一緒に祈っておけばよかった。うちの奥さんとの結婚で、最大の失敗が、これだ。
←就寝まえの祈り
 タイ人と結婚して嬉しいのが、この枕に両手をついて祈る姿と、就寝時に寝間着として着るサロン(โสร่ง)姿と、感謝の意を表する「ไหว้(ワイ - 合掌)」ではないか。
 中でも婚前に見る機会が多いのはワイ(合掌)で、その破壊力は絶大だ。ワイの直撃を食らって「け、結婚してください」と求婚してしまう外国人が後を絶たない。「シアワセにします」まで言ってしまう。タイ人の男性は、子供の頃から見慣れていて免疫があるので、直撃を食らっても平然とワイをし返して事なきを得るのだが、外国人は、この仕草に心臓を鷲掴みされて、身体の弱い者はその場で崩れ落ちて正気を失うのだった。
←合掌(ワイ)
 そしてもうひとつ、タイ衣装の女性の巻きスカートであり、マレー半島でも「サロン」と言うのは、マレー語が語源だからだそうで、ビルマでは「ロンジー」と言う。正装のときのスカートがくたびれてくると普段着になり、さらにくたびれると寝間着や浴衣になるのだが、浴衣は文字通りの浴衣で、水浴びの時に着用したものだが、近年では自宅の個室シャワーが普及してきたため、サロンを浴衣に用いて裸体を隠すことは希になっている。さすがにおれも年寄りだが、浴衣としてサロンを着用するのを見たのはドラマだけだ。寝間着としてなら、うちの奥さんが新婚当時はサロンを巻き付けて寝ていて、あれは下着を着けないのが普通で、ハンパない色っぽさが素晴らしいものだったが、面倒だし窮屈だという理由で、いつの間にかパジャマやTシャツになってしまった。タイ人なのに。非常に残念ではあるが、日本人だって和風の寝間着を着る機会などは温泉旅館にでも行かない限りないのが昨今だから、致し方ないのだろう。
 ついでに思い出したのだが、タイ人の7割ほどが入浴時に背中を洗わないし、残りの3割も嘘ついてるかもね、という統計の記事を読んだことがあって、いくら何でも嘘っぽいから、その件について訪ねてみたら、「ラ?」と言ったきり、もじもじして答えない。うっそ。洗わないのか。
それ以来、うちの奥さんの背中を洗うのは、おれの役目になってしまったんだが、世界って広いぞ、ほんと。
←サロンで水浴び
 話は戻って、タイ女性と結婚した者の多くは就寝まえの、あの祈りを見られるのかと思うと羨ましい。信仰なんかしなくていいから祈ってくれないかな、などと罰当たりなことを考えてしまうのだが、もう二度とあの神々しい姿は見られないのだ。浜口庫之助の次に、かなしくてかなしくてとてもやりきれないのは、おれだったのだ。と、ここで気になって一応ググってみたら、「悲しくてやりきれない」の作詞はサトウハチローだった。そうか。サトウハチローだったか。でもサトウハチローと浜口庫之助は同一人物だよね。嘘だけど。
 そんなことより、これからタイ女性と結婚する予定のある男は、信心なんかなくてもいいから、一緒に就寝まえに祈ったほうがいいよ。どうせ信心があってもなくても寺に行って拝まなくちゃならないんだから。事実はどうあれ「信仰は、ありまぁす」って言っておけばいい。割烹着も着たら意味わかんないけど完璧だ。
←信仰はありまぁす with割烹着

 もう8年くらいまえのことになるのか。
 黄金週間が始まってすぐの頃だったな。道をあるいていると、小学校低学年あたりの女の子達が3人いて、「おじさん。たすけて」と叫びながら駆け寄ってきた。
 いったいどうした、と訊く間もなく「ねこがね、食べられちゃった」と泣いている。
 何を言っておるのだ。
 ねこが 食べられた。
 そんな話は聞いたことがないぞ。
「あのね。カラスがね、ねこ、食べちゃったの」
 あー。カラス。
「さいしょ見たときね、4ひき、いたの。生まれたばっかりなの」
 そう言って植え込みを指差した。低木の陰で小さい命が、動いていた。
 泣く。泣く。泣きながら、おれの袖を掴む。
「でもね、2ひき、食べられちゃった」
 あー。食べられた。
「おじさん」そう言った娘たちの目は涙でキラキラ光っていた。「たすけて」
 親猫はカラスに突かれて逃げたと言う。はあ……。メンド臭せぇな。正直な感想がそれだが、そんなもの、助けない訳にはいかない。黒猫と鯖トラか。まえに育てた猫が死んだとき、喪失感がただ事でなかったので、猫を育てるのはもうやめようね、という話すらしなかった。あれはツラすぎる。しかし、ここに放っておいたら間違いなく食べられて死んでしまう命が、ふたつ。もうやけくそみたいに抱きかかえ、家に帰った。とうぜん、うちの奥さんが「なにそれ」というようなことを言い、事情を話してタオルに包み、動物病院に連れて行くと言ったら「わたしも行きます」と言う。
 病院では数週間猫を預かってくれ、水で柔らかくした乾燥餌を食べられるようになるまで育ててくれた。
 少しだけ成長した2匹がうちに来たとき、名前を「パカワトとアラハトでどうか」と提案したら、怖い顔で「อย่านะคะ(やめてくださいね)」と丁寧なタイ語で言われて怖かったんで、やめた。何でだよ。パーリ語のありがたい呪文じゃないのかよ。ていうか呪文て言っちゃダメか。経文だな。
「じゃあ、チグリスとユーフラテスで」とテキトーに思い付いたことを言ったら、それは気に入ったようで、「あなた、本気で考えたら良い名前を思い付くのですね」と微笑んでいた。うちの息子の名前を思い付いたときも、たいへんに感心して絶賛してくれて、「いやテキトーです」と言えなくなってしまったんだが、このときもそうだった。
 鯖トラがチグリスで、黒猫がユーフラテスだ。チグリスってのは「虎」って意味だったはずで、英語圏アルファベットのTigarと似てると言えば似てる。ユーフラテスに「黒」という意味はなかったはずだが、まあソムタムとカオニャオや、助六と総角みたいに、チグリスとユーフラテスはセットだから、それでいい。
 ユーフラテスは、犬みたいに人懐こくベタベタと寄り添ったりペロペロ顔を舐めてくるチグリスとは違って愛想というものがまるでなく、猫らしい猫だった。病弱で、数年後に静かに死んでしまった。2匹のうちの1匹だから、悲しみは半分かというと、そんなことはなくて、実は誰にも言わなかったが己の肛門を舐めた舌でおれの顔を舐めてくるチグリスよりもユーフラテスの方が好きだったわけで、肛門を舐めるような奴は家族だと認めるわけにはいかない。寝たまま起きなかったユーフラテスの死には少なからずがっくり来たけれども、数ヶ月で立ち直ったから、やはりもう1匹の力は凄いのかもしれない。
 一昨年おれが危篤になったとき、おれの母が家のチグリスを見て「いろいろ大変だろうから」と無理矢理実家に連れ帰ってしまい、なんてババアだと憤り取り返そうかと思っていたが退院後、病み上がりで歩行も数百メートルも歩くと息切れしてしまうような有様で、じっと療養しているうちにチグリスは甘やかされて懐柔されてしまい、なし崩しに親権みたいなのが移ってしまった。ひでぇババアだと思ったが、いつかチグリスも死んでしまうことを考えたら、その悲しさのババ抜きもいいかと思い直し、そのままになった。
←チグリスとユーフラテス
Theycallmemeaow | เพลง กินมาม่า
 キーワードを猫(แมว)にして歌を探したら、その中にこれがあった。なるほど。映像に猫が出てくるんだが、歌詞には猫の「ね」の字もない。どういうことかと思ったらハンドルにMeaou(タイ語の猫の英字表記)と入っていた。
 それにしてもカッコいい曲だな、と思ったら、これは元歌があってカミラ・カベロのHavanaって曲だった。タイ語バージョンと言うより替え歌で、歌詞の意味もぜんぜん違う。原曲の英語の歌詞に似たタイ語を無理に付けているから意味なんてなくて当然なんだが、それでも意味が通るような単語を選んでいるので、そのへんのシュールさが、おかしい。
 伴奏がキーボードひとつで、シロウトにしちゃ悪くない。打ち込みのソフトを使った方が簡単で、さらに格好良くなったような気もするんだが、そういう知り合いがいなかったんだろうね。歌も悪くない。お遊びにしちゃレヴェルが高い。とはいえ、このMVを簡単に表現すると「シロウトの悪ふざけ」で、この人の投稿動画では、このMVだけが図抜けて再生回数が多く、他はそうでもない。
 とりあえず歌詞を和訳しておく。今回の歌はシロウトの替え歌で、検索したって歌詞なんてヒットしないんだが、MVに字幕が出てたんで、それで訳すことができた。意味不明な歌詞だと思うだろうが、韻を踏むことを優先したテキトーな物なので、それは仕方がない。
 タイトルがもう「กินมาม่า(キンママー – 即席ラーメンを食べる)」で、原曲のHavanaと苦しい韻を踏んでいる。テキトーすぎんだろ。

カメラマンはママー(即席ラーメンのブランド名)を食べるのが好き
どんなにお金を稼いだとしても ママーを食べる
幸せで悲しい 稼いだ金で即席ラーメンを食べる
だいじな宝物は ママー
キロ単位で 買ってきちゃう
ママーとママーの箱
実際 給料ではステーキを食べるべき
(給料は安いけどね)
でも乾燥食品を買わなくちゃいけないのは とても悲しい
(私たちは高価なものを食べるのが好き)
これを太陽の下で買わないようにするのは仕方がないこと
(本当にそうだよね)
しばらくは箱買いだとしても もう少しお金を稼ごう
(そして新しいおもちゃを買うんだ)
ウーウーウーウーウーウーウーウーウーウーウー
ママの箱は3つある
さらに魚の缶詰が2箱
(いっぱい集めたでしょ)
ウーウーウーウーウーウーウーウーウーウーウー
サレン(行商人)は私に2バーツ寄越せって言う!
おじさん!?!? ズルはダメだよ!!!!
持って帰ってちょうだい

 ふざけてんなー。ついでに原曲も貼っておく。歌詞は難しい英語ではないし、気になるんだったらググったら和訳は出てくるんじゃないかな。男と女の言ってることが擦れ違ってて、破局の予感の高まるラヴソングで、でもよくある話だから別れることもなく関係が続くかもしれず、ちょっと面白いね。もちろん即席ラーメンも猫も関係ない。
Camila Cabello - Havana Official Music Video
←晩年のカオスワイ
 チグリスとユーフラティスのまえに、うちで育てていた猫は白猫で、名前は「カオスワイ」といった。意味は銀シャリ。白飯だね。白猫の例に漏れず左右の目の色が違うオッドアイだったんだが、これをタイでは「カオマニー」といって、王室など高貴な人にだけ許された猫だった。シャム猫ではないのね。美人で可愛いだけの猫で、アタマは悪かった。それでもうちの息子に尻尾を掴まれても我慢してじっとしたりして、気立ては良かった。
 この猫が、いち度だけ喋るのを聞いたことがあって、夕刻に目が合ったら「ช่วยไม่ได้(チュアイメダーイ – 救いがないよね)」と言った。
 え? と訊き返したんだが、もう横を向いて黙っているだけで、それっきりだった。寝ぼけていた訳でもなく、急いでうちの奥さんに「今、猫が喋った!」と教えると、こくん、と頷いて「うん。猫はときどき喋るものです」と言う。なにそれ。ふだん会話してんの? と訊いたら、「いえ。この猫はあなたが好きですから」と答える。いやでもタイ語だったよ。「そりゃそうですよ。猫にニホンゴは難しいから」と目を合わせない。
 何だったんだ、あれは。さっき、このことを訊いたら、「猫が喋るって。そんなこと、あるわけないでしょ」と笑ってる。思い違いだったのかな。
 どうも自分が信用できないときがあって、こないだ危篤になるまえは身体に機械を埋め込まれているという妄想が止まらず、「そんなわけなかろう」という正気のおれとの葛藤が凄かった。また、ものすごく斬新な金儲けの方法を思い付いたが、実行は限りなく不可能に近い。入院まえのこのブログの文章もヘンなところがある。よっぽど削ろうと思ったけれど、面白いドキュメントなのでそのままにしている。そのうち消すかもしれない。さすがに危篤が近いと精神にも変調を来すんだね。
 さて、おまけだ。イモ臭い猫耳娘が出てきて、歌うのがルクトゥンというデタラメさで、歌のタイトルが「ミャオ ンガオ(เหมียวหง่าว)」といって、意味は「めっちゃニャー」って感じか。歌手の名前も「น้องไข่ดาว มินตัน(ノンカイダオ ミンタン)」ってふざけた名前で、ミンタンは苗字だけど、ノンカイダオってのは「目玉焼きちゃん♡」ってニュアンスだ。目玉焼きのどこに可愛さの要素があるというのか。
เหมียวหง่าว - น้องไข่ดาว มินตัน 【MV OFFICIAL】
 歌が無駄に巧いのにも困ったもんだが、イマふうにしようとする無理が祟ってビンボ臭いことになってる。ウィスパーボイス系のルクトゥン歌手ってのも、いそうでいなかったかもしれない。
 歌詞は訳すまでもないようだが、「顔は韓国人ふうでも心はインディー(ようこそ)です。ニャンコになりたい。ニャーニャー。孤独な心を抱きしめてね」みたいな事しか言ってない。ニャーニャーにコブシ回してどういうつもりか。
 出演する猫はシャム猫だね。タイの故事に、むかし聖人が猫に「仏陀様の祭壇の見張りをするように」と言いつけ、夜も寝ずに暗闇に目をこらしていたら顔の中心が暗闇に染まってしまったという賢い猫がシャム猫になったっていう話だったように記憶している。でも猫だよ。そんなわけないじゃんね。
 あれは何の役にも立たないし、してほしくないことを敏感に悟ってしでかす生き物だ。
 取り柄といえばかわいいことだけで、その一点でヒトを操る。
 今うちには猫がいないので、掃除がラクだ。花を買って飾ることもできる。
 うーん。
 猫がいないメリットって、あんまりないな。


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