このところ葉山の町長選挙や町議の補欠選挙の話題がかまびすしいが、国政も地方も小粒の政治屋が跋扈しているのでこのブログも少し飽きてきているので政治的なことや社会的なことを少し離れようと思い、生まれ故郷の事を忘れないうちに記しておこうと思い立ちこれから何話になるか分からないが、鎌倉懐古として子供の頃の思い出や出来事を少しずつ語って行きたいと思います。多少記憶違いやお名前で間違いがあるかもしれませんがご容赦下さい。
鎌倉懐古 1
生まれたのは小町の1丁目、警察のすぐ側の針谷産婦人科でその頃は市内には丸さんという助産婦(お産婆さん)ともう一軒くらいしかなかったので、学校時代の友達はほぼ針谷さん出身でした。
物心付いたのは3~4才くらいでしょうか。朝起きると母か婆やにおんぶされ家を出て若宮大路の江ノ電の鎌倉駅の見物に毎日出かけるのが日課でした。当時の江ノ電は横須賀線のガードのところから若宮大路に入ってきて鎌倉警察の前、二の鳥居前が江ノ電の駅でした。今では無くなった丸い滑車のようなパンタグラフを車掌がその溝に電線を接触させる場面を見るのが楽しみでした。当時は戦争後3年くらい経っていましたがアメリカ軍(進駐軍)の兵隊が鎌倉見物に来ていたり、将校クラスは鎌倉の家を接収したり借りたりして結構華やいだ雰囲気もありました。特に戦災にあわなかった分、大きなお屋敷なども残っており良い雰囲気が保たれておりました。
4歳で鎌倉幼稚園通称ハリス記念幼稚園に通いました。これは父がプロテスタントのクリスチャンだったのでその関係でと思いますが兄や姉も同じく通って居りました。ちなみに私たち兄弟(兄2人姉1人)全員キリスト教系の学校を卒業しています。
ハリスの良い所はクリスマスのプレゼントやイースターのゆで卵など楽しい行事が一杯ある事でした。また戦後の大変な時期にもかかわらずアメリカの支援が沢山あった様で食べるものやプレゼントは子供にしては宝物のようでありました。この幼稚園には今では有名になった学者やジャーナリスト企業経営者など多くの日本のオピニオンリーダーとなった人達も居ます。又面白い事に鎌倉は寺町と言っていいほどお寺があるのですが殆どが山の際や谷戸の奥にあるのですが、キリスト教の教会は殆ど平地それも駅に近いところにあると言うこの対比は非常に面白いと思います。これは戦略的伝道活動とも言うべき事で誰でもいらっしゃいという門戸の開放で、鎌倉駅から300m~500mの範囲に教会が立てられていました。これはどこの町に行っても同じ傾向が見られ特にカトリックの考え方ははっきりしていました。町の中心は教会という考え方。つまり八幡様と一緒です。
4歳の子供が小町から下馬の幼稚園まではすぐですが、当時はまだ松並木が鬱蒼と茂っていて昼なお暗い狭い道で怖かったのを覚えています。親が心配したのはガードまでの区間は江ノ電が走っていて轢かれないかという心配でした。現にヰマスモータースと言う自動車屋さんの誰かが轢かれた大事故があった様で特に気をつけて歩いた記憶があります。鎌倉中の子供が集まってきているので御成小学校と第一小学校そして付属小が卒園後の行き先でした。私も付属を受けたのですがくじ引きで落ちました。以来籤運の悪さは今日に至っておりますが御成小学校に入れて生涯の友達も出来ましたし今では籤運の悪さを感謝しております。
御成小学校とは珍しい名前ですが、これは元御用邸の後を鎌倉女学校に下賜されその後小学校に転用されたために皇族の御成りになると言う事で名づけられたと聞いておりますが、当時はまだ宮内庁の官舎が校庭の南側にありました。そこでの6年間が今に続く人生のベース作りになったのかもしれません。(次号に続く)
鎌倉懐古 1
生まれたのは小町の1丁目、警察のすぐ側の針谷産婦人科でその頃は市内には丸さんという助産婦(お産婆さん)ともう一軒くらいしかなかったので、学校時代の友達はほぼ針谷さん出身でした。
物心付いたのは3~4才くらいでしょうか。朝起きると母か婆やにおんぶされ家を出て若宮大路の江ノ電の鎌倉駅の見物に毎日出かけるのが日課でした。当時の江ノ電は横須賀線のガードのところから若宮大路に入ってきて鎌倉警察の前、二の鳥居前が江ノ電の駅でした。今では無くなった丸い滑車のようなパンタグラフを車掌がその溝に電線を接触させる場面を見るのが楽しみでした。当時は戦争後3年くらい経っていましたがアメリカ軍(進駐軍)の兵隊が鎌倉見物に来ていたり、将校クラスは鎌倉の家を接収したり借りたりして結構華やいだ雰囲気もありました。特に戦災にあわなかった分、大きなお屋敷なども残っており良い雰囲気が保たれておりました。
4歳で鎌倉幼稚園通称ハリス記念幼稚園に通いました。これは父がプロテスタントのクリスチャンだったのでその関係でと思いますが兄や姉も同じく通って居りました。ちなみに私たち兄弟(兄2人姉1人)全員キリスト教系の学校を卒業しています。
ハリスの良い所はクリスマスのプレゼントやイースターのゆで卵など楽しい行事が一杯ある事でした。また戦後の大変な時期にもかかわらずアメリカの支援が沢山あった様で食べるものやプレゼントは子供にしては宝物のようでありました。この幼稚園には今では有名になった学者やジャーナリスト企業経営者など多くの日本のオピニオンリーダーとなった人達も居ます。又面白い事に鎌倉は寺町と言っていいほどお寺があるのですが殆どが山の際や谷戸の奥にあるのですが、キリスト教の教会は殆ど平地それも駅に近いところにあると言うこの対比は非常に面白いと思います。これは戦略的伝道活動とも言うべき事で誰でもいらっしゃいという門戸の開放で、鎌倉駅から300m~500mの範囲に教会が立てられていました。これはどこの町に行っても同じ傾向が見られ特にカトリックの考え方ははっきりしていました。町の中心は教会という考え方。つまり八幡様と一緒です。
4歳の子供が小町から下馬の幼稚園まではすぐですが、当時はまだ松並木が鬱蒼と茂っていて昼なお暗い狭い道で怖かったのを覚えています。親が心配したのはガードまでの区間は江ノ電が走っていて轢かれないかという心配でした。現にヰマスモータースと言う自動車屋さんの誰かが轢かれた大事故があった様で特に気をつけて歩いた記憶があります。鎌倉中の子供が集まってきているので御成小学校と第一小学校そして付属小が卒園後の行き先でした。私も付属を受けたのですがくじ引きで落ちました。以来籤運の悪さは今日に至っておりますが御成小学校に入れて生涯の友達も出来ましたし今では籤運の悪さを感謝しております。
御成小学校とは珍しい名前ですが、これは元御用邸の後を鎌倉女学校に下賜されその後小学校に転用されたために皇族の御成りになると言う事で名づけられたと聞いておりますが、当時はまだ宮内庁の官舎が校庭の南側にありました。そこでの6年間が今に続く人生のベース作りになったのかもしれません。(次号に続く)