1963年位からの10年間は自由奔放な青春時代を故郷鎌倉で謳歌しました。中でも仲良し3人組の友達とは殆ど毎晩飲み歩きましたし、学生の分際でよく遊びまわりました。価値観の同じ友達と言うのは良いですね。金のある人が奢り、おごられると言うバランスの取れた友達同志だから楽しめたのかも知れません。
今から49年前に『トノヤマ』が開店しました。先に書きましたおでんのトノヤマから独立した俳優殿山泰司氏の義妹の尚子(以下チャコママ)が小町の路地で始めました。今のユニオンの脇の道です。当時35歳と言う年齢ではじめた彼女は酒を売ると言うよりはお客が喜んで集まる事を目的にはじめたようです。いわば出会いの場の提供でついでにお酒も売るという、そんな感じの店でした。偶々、子供の時からのポン友がバーテンとしてカウンターに入る事になったので、我々もつけができると言う事で通い始めました。
学生の若造が飲んで騒いでいるとカウンターの端で静かに飲んでいる黒のタートルネックの渋い2枚目が殆ど毎日のように来ていました。友達のバーテンに聞くとそれがチャコママの旦那と言う事が分かり、大人の居場所なんだなと我々もちょっぴり大人になったような気がしたものです。しかしその時は旦那がママのヒモの様な感じでうざったく感じたものでした。行けば必ず居ると言うので絶対ヒモだと思っていたのです。そんな疑問が解けたのは映画『怪談』と言う映画が日本アカデミー賞を取ったり、カンヌ映画祭で審査員特別賞を取った後、その旦那が戸田重昌という美術監督で小林正樹、篠田正浩、大島渚などという映画監督と仕事をしている人だと分かったからでした。
そしてバーカウンターのデザインをし製作を松竹の大道具に作らせたのです。これは100年はもつと言う当時流行のラワンのフローリング材で両端に綺麗なRをとった美術品と言っても良いカウンターを作ったのでした。
そのデザイン性はもとより頑丈なつくりは今でも直した事も無く酒とタバコのシミが確りと付いて現役で頑張っています。このカウンターはある種飲み屋遺産になってもおかしくない位のものだけにもし店を閉めるとなったら貰いたいと思っているほどです。
そんな事で松竹関係者は勿論雑誌の編集者、作家、カメラマン、サラリーマン、地元の商店街の主人やらが毎晩飲みに来ては談論風発議論をしたり、情報交換をしたりと楽しい場を提供してくれていました。
直木賞をとる前の立原正秋氏などはよく飲んだくれて荒れていたようですが、ママの一喝で帰らされたりしていましたが賞を取ってからは大人しくなったようです。今は飲んだくれて暴れる人も居なくなり一寸さみしい気がしますが、時たま右翼と左翼の客同志がぶつかり合っているのは見かけますが、勉強になりますので覗いてみるのも楽しいと思います。チャコママに言わせると客の方が先に死んじゃうので、困ってしまうといってますが、ここで酒を覚えたりした人たちが段々少なくなってきているのは事実でここでも高齢化が進んでいるのです。
長く続けていられる秘訣を聞くとやはり『人が好き』と言っておられます。そして客同志を紹介し気が合えば客同志が勝手に付き合いだすと言う接着剤の役目を果たす事が大事といってます。そして店に入れば皆私のお客さんと言う事で会社の地位や立場などは関係なく平等に扱ってくれます。客の中には大会社の経営者や高名な芸術家、銀行のえらいさんなどが居ても皆平等という事を徹底させています。ですからお銚子5~6本くらい飲んだらもう帰りなさいと言うし、一度来てまた出戻りで来る人には酔っ払ってるからといって酒を売ることはしない、この辺のポリシーは立派なもんであると思います。
そして何よりも値段が安い一人2000円~3000円あれば酔っ払うので懐にやさしいし、何よりも気遣いがありがたい。私は葉山まで帰るので逗子駅の終バスに間に合うように気を使ってくれるし、今日は飲みすぎといって止められる事もしばしばだ。水商売の難しさは分かっているつもりだが、この人を見ていると弱いんだか強いんだか分からなくなる。やくざのような客には啖呵もきるしある時は童女のような可愛らしさを見せるし女性の強さを垣間見る思いがする。
当初は義兄の殿山泰司氏やご主人の威光もあったようだが、それらを跳ね除けて自身の力で『スナックトノヤマ』というブランドを確立した毎日の努力と言うものを私も見習いたいものだと思っている。
来年50周年と言う記念の年まで頑張ってもらって、さらにその先まで続けてもらいたいものです。とにかくこの商売で50年は凄い事だと思うのです。(鎌倉最古のバーなんて凄いと思います)
三婆通りと言われたこの路地も今や一婆通りになってしまっているので、世界遺産も良いですが何か振興策を考えねばと思って日々飲み歩いているのです。
是非、途中下車して鎌倉小町三婆通り『スナックトノヤマ』に立ち寄って下さい。
今から49年前に『トノヤマ』が開店しました。先に書きましたおでんのトノヤマから独立した俳優殿山泰司氏の義妹の尚子(以下チャコママ)が小町の路地で始めました。今のユニオンの脇の道です。当時35歳と言う年齢ではじめた彼女は酒を売ると言うよりはお客が喜んで集まる事を目的にはじめたようです。いわば出会いの場の提供でついでにお酒も売るという、そんな感じの店でした。偶々、子供の時からのポン友がバーテンとしてカウンターに入る事になったので、我々もつけができると言う事で通い始めました。
学生の若造が飲んで騒いでいるとカウンターの端で静かに飲んでいる黒のタートルネックの渋い2枚目が殆ど毎日のように来ていました。友達のバーテンに聞くとそれがチャコママの旦那と言う事が分かり、大人の居場所なんだなと我々もちょっぴり大人になったような気がしたものです。しかしその時は旦那がママのヒモの様な感じでうざったく感じたものでした。行けば必ず居ると言うので絶対ヒモだと思っていたのです。そんな疑問が解けたのは映画『怪談』と言う映画が日本アカデミー賞を取ったり、カンヌ映画祭で審査員特別賞を取った後、その旦那が戸田重昌という美術監督で小林正樹、篠田正浩、大島渚などという映画監督と仕事をしている人だと分かったからでした。
そしてバーカウンターのデザインをし製作を松竹の大道具に作らせたのです。これは100年はもつと言う当時流行のラワンのフローリング材で両端に綺麗なRをとった美術品と言っても良いカウンターを作ったのでした。
そのデザイン性はもとより頑丈なつくりは今でも直した事も無く酒とタバコのシミが確りと付いて現役で頑張っています。このカウンターはある種飲み屋遺産になってもおかしくない位のものだけにもし店を閉めるとなったら貰いたいと思っているほどです。
そんな事で松竹関係者は勿論雑誌の編集者、作家、カメラマン、サラリーマン、地元の商店街の主人やらが毎晩飲みに来ては談論風発議論をしたり、情報交換をしたりと楽しい場を提供してくれていました。
直木賞をとる前の立原正秋氏などはよく飲んだくれて荒れていたようですが、ママの一喝で帰らされたりしていましたが賞を取ってからは大人しくなったようです。今は飲んだくれて暴れる人も居なくなり一寸さみしい気がしますが、時たま右翼と左翼の客同志がぶつかり合っているのは見かけますが、勉強になりますので覗いてみるのも楽しいと思います。チャコママに言わせると客の方が先に死んじゃうので、困ってしまうといってますが、ここで酒を覚えたりした人たちが段々少なくなってきているのは事実でここでも高齢化が進んでいるのです。
長く続けていられる秘訣を聞くとやはり『人が好き』と言っておられます。そして客同志を紹介し気が合えば客同志が勝手に付き合いだすと言う接着剤の役目を果たす事が大事といってます。そして店に入れば皆私のお客さんと言う事で会社の地位や立場などは関係なく平等に扱ってくれます。客の中には大会社の経営者や高名な芸術家、銀行のえらいさんなどが居ても皆平等という事を徹底させています。ですからお銚子5~6本くらい飲んだらもう帰りなさいと言うし、一度来てまた出戻りで来る人には酔っ払ってるからといって酒を売ることはしない、この辺のポリシーは立派なもんであると思います。
そして何よりも値段が安い一人2000円~3000円あれば酔っ払うので懐にやさしいし、何よりも気遣いがありがたい。私は葉山まで帰るので逗子駅の終バスに間に合うように気を使ってくれるし、今日は飲みすぎといって止められる事もしばしばだ。水商売の難しさは分かっているつもりだが、この人を見ていると弱いんだか強いんだか分からなくなる。やくざのような客には啖呵もきるしある時は童女のような可愛らしさを見せるし女性の強さを垣間見る思いがする。
当初は義兄の殿山泰司氏やご主人の威光もあったようだが、それらを跳ね除けて自身の力で『スナックトノヤマ』というブランドを確立した毎日の努力と言うものを私も見習いたいものだと思っている。
来年50周年と言う記念の年まで頑張ってもらって、さらにその先まで続けてもらいたいものです。とにかくこの商売で50年は凄い事だと思うのです。(鎌倉最古のバーなんて凄いと思います)
三婆通りと言われたこの路地も今や一婆通りになってしまっているので、世界遺産も良いですが何か振興策を考えねばと思って日々飲み歩いているのです。
是非、途中下車して鎌倉小町三婆通り『スナックトノヤマ』に立ち寄って下さい。