福ちゃんの散歩道

コロナ禍で関空での遊びも卒業、栂地区ウオーキングコースを中心に近場の日々の散歩で何か見つけよう。🚶‍♂️🚶‍♂️

10月15日(月)のつぶやき

2018-10-16 02:11:26 | 0 話題& ひろい読み &つぶやき

ちん電 阪堺電車 駅巡り 今日は HN17 高須神社駅 周辺は❓戦災を免れているゾーンです

2018-10-16 01:00:27 | ちん電 阪堺電車はメチャ面白いぞ🤣🤣
HN高須神社駅 神社の読みは、「じんじゃ」ではなく「じんしゃ」と車内アナウンス、由来は不明。
周辺には高須神社や旧鉄砲鍛冶屋敷がある
戦災を免れたゾーンに町家が多く現存する

高須神社駅下車

乗って来た電車を見送る

この駅では数人待っている
駅前は何もないが喫茶店は営業中の様だ
高須神社 狭い一画に


何方かと言うと氏神さんに近い?

境内から





後にした
踏み切りを渡り高須神社方向 浜寺公園行き


チョット散策


⬇︎
鉄砲鍛冶屋敷・・・・ビニールパイプが雰囲気を壊すね!(笑い



⬇︎
薫主堂 大変歴史のある雰囲気を感じる。明治20年創業 建物は江戸末期らしい

看板



虫籠(むしかご)と呼ばれた中2階の窓古い商家面影

⬇︎
清学院 1689年堺大絵図には「山伏清学院」の名が記され、江戸後期か「清光堂」の名で寺小屋

お不動さん

寺子屋を



建物は広くない
生け花 先程生けられたとか

堺市在住 65歳以上無料でした



⬇︎
榎並屋勘左衛門 芝辻理右衛門・・江戸時代 江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用され鉄砲年寄として、堺の鉄砲鍛冶の中心的地位にあったとのこと。
跡地




現在 水野鍛錬所 明治5年創業の日本刀・包丁を鍛える工房 本日(土)休日でした


⬇︎


阪堺電車 高須神社 下車の ぶらり散策でした
351形 351号だ これで一駅乗る

★帝国車両で1962年 351・352 の2両が製造。モ501形とほぼ共通設計で全金属製車体。

次は、綾之町で下車しよう 次回アップする

堺市の歴史は、信長・秀吉・家康。現代では 与謝野晶子 絡みの見所が中心かなぁ
結構、楽しめるなあ
阪堺電車 各駅 周辺を散策してみよう

2018.10.13. 阪堺電車 高須神社周辺にて

★阪堺電車 高須駅の歴史
1911年(明治44年)12月1日 - 阪堺電気軌道の駅として開業。
1915年(大正4年)6月21日 - 会社合併により南海鉄道の駅となる。
1944年(昭和19年)6月1日 - 会社合併により近畿日本鉄道の駅となる。
1947年(昭和22年)6月1日 - 事業譲渡により南海電気鉄道の駅となる。
1980年(昭和55年)12月1日 - 事業譲渡により阪堺電気軌道の駅となる。
★構造
相対式ホーム2面2線で、我孫子道側に手動式の上下渡り線がある。当駅から堺市街地(環濠内)に入るが、大道筋から東へ2筋目の十間筋の西側を沿う新設軌道上にホームがある。

✳️鉄砲鍛冶屋敷
https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/27
✳️高須神社
http://www.komainu.org/oosaka/sakai_sakai/takasu/takasu.html

川はよく判りませんでした❗️

✳️ 地理
内川は短冊型の町割が現在も残る堺市街地の北西を流れ、途中で古川(ふるかわ)と通称される放水路を分岐し、堺市街地の南および南西を流れる土居川を合わせて大阪湾に注ぐ。これらの内川水系は堺市街地を取り囲んでいた環濠の残存部分にあたり、潮の満ち干きで流れる方向が変わる感潮河川である。内川水系の流路延長は約4.7km(内川:約2.0km、古川:約0.6km、土居川:約2.1km)、流域面積は約7.96km2。
以前は水質の悪化で生物はあまり見受けられなかったが、最近では清掃活動の成果もあって魚が見受けられるようになった。現在では、芦ヶ池から仁徳天皇陵の周濠の浄化も兼ねて大仙水路を経て井戸水を導入しており、また、出島漁港から海水の導入も行われている。

★歴史
大阪湾に西面する環濠都市であった堺は、市街地の北・東・南を堀で囲まれていた。この堀が土居川と呼ばれた。
当初の土居川は1586年(天正14年)に豊臣秀吉によって埋立てられている。1568年(永禄11年)の織田信長への屈服に比肩する自治都市の終焉を象徴するできごとだったが、1583年(天正11年)に始まった大坂城築城および大坂城下の開発との関連が強く、堺商人らの大坂への強制移住と時期を同じくする。
1615年(元和元年)の大坂夏の陣で、堺市街地は豊臣方の手によって火を放たれ全焼した。しかし、江戸幕府は堺の復興にすぐに取り掛かり、堺奉行の長谷川藤広から地割奉行に任命された風間六右衛門によって元和の町割と呼ばれる都市計画が実行された。これにより堺市街地は以前より北・東・南方向へ拡張され、規模も拡大された土居川が再び設けられた。
土居川の東部分の内縁には、大鳥郡北庄村・中筋村・舳松村の農民を現在の錦之町東 - 南旅籠町東間に移住させて農人町が形成され、さらにその内側には、それまで市中に散在していた寺院を移転させて寺町が形成された。また、南部分の外縁には湊村の半ば市街化された集落が広がり、これらの農村は堺廻り4ヶ村と呼ばれた。
その後、1704年(宝永元年)の大和川付け替えによって沿岸部に大量の土砂が堆積しだしたため、市街地の西にも旧海岸線に沿う形で堀が設けられた。これが内川である。加えて、港湾機能が著しく衰退したため、寛政年間に田中治兵衛(布屋治兵衛)や吉川俵右衛門などの尽力によって現在の旧堺港にあたる新港湾と新地が開発され、新港湾に注ぐ竪川、新地の西へ分岐する旭川(あさひがわ)と通称される新堀川が形成された。
1955年(昭和30年)に旭川が埋め立てられ、昭和40年代に入ると、土居川は北・東部分が埋立てられて南部分を残すのみになってしまった。北部分は道路(堺市道三宝高須線)、東部分は土居川公園、平面道路(安井町交差点以北は堺市道砂道翁橋線、以南は国道26号)、高架道路(堺出入口以北は阪神高速15号堺線、以南は国道26号)が建設された。1972年(昭和47年)以降は、竪川以南が土居川、以北が内川という区分になっている。2006年(平成18年)4月1日、内川、内川放水路、土居川の管理業務が大阪府から堺市に移行した。