「北の山・じろう」日記

内容は主に時事問題。時々株式投資関係の記事も交じります。

尊富士の初優勝を陰から支えた照ノ富士<2024.3.27

2024-03-27 20:15:44 | スポーツ

今場所の相撲に限らず、照ノ富士が尊富士を指導したり励ましたりしたケースは多々あったようです。

そもそも照ノ富士が尊富士と出会ったのは、尊富士が中学生の時です。
師匠の伊勢ケ浜親方が出身地の青森県の相撲クラブと関係があり、そこに通っていた尊富士が照ノ富士の目に留まり、その後照ノ富士も何かと気にかけていたようです。もう10年前後前の話です。

大学卒業後、尊富士が伊勢ケ浜部屋に入門した大きな理由は照ノ富士のいる部屋だったからのようです。

尊富士にとっては中学生時代は、その当時出世街道を邁進していた照ノ富士は憧れの存在だったのだろうと思います。
その後、照ノ富士は病気と大怪我でドン底まで落ちました。その後、本当に苦労して再起して横綱まで上り詰めました。
その過程を、尊富士はよく知っていて憧れが尊敬に変わりました。
年も離れていますし照ノ富士にとっては、尊富士は弟弟子と言うより自分が師匠に近い感覚だと思います。

照ノ富士は、入門後の尊富士に筋トレの禁止を申し渡し、四股やすり足の下半身強化を命じたそうです。
尊富士が学生時代に下半身の強化が出来なかったのは高校生時代にも大学生時代にも膝を怪我してかばいながら稽古しなければならなかったからです。
そんな事情もあり尊富士の下半身の弱さが照ノ富士には分かったので、下半身の強化を命じたのだと思います。
尊富士も素直に照ノ富士の指導に従い、入門後は下半身の強化に励んできたのだろうと思います。

先場所初十両十両優勝を達成した陰には、照ノ富士の的確なアドバイスや励ましがあったと思います。

そして照ノ富士は先場所優勝のパレードの旗手に尊富士を指名しました。
尊富士にとっては、夢のような体験だったでしょうね❓
照ノ富士が教えたかったことは、「将来自分もこうなれ!」と言うことです。

そして十両優勝後、尊富士が集中力を欠いていた時・・
「こんな程度で満足してたらダメだろ!もっと上があるんだから上を目指せ!」
と、カツを入れたそうです。

今場所は、照ノ富士は故障で途中休場しましたから何くれとなく東京から尊富士にアドバイスや激励をしていたようです。
2敗目を喫した夜に宿舎に照ノ富士から電話があって、的確なアドバイスと激励をしたようです。(この時は治療のため東京にいたのだろうと思います。)

照ノ富士の最大のアドバイスと激励が、14日目の夜でした。
病院から帰っても全然歩けない状態だったようです。
師匠の伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)は出場を止めたようです。歩けないのに土俵に上がっても意味がないですもんね❓

その後照ノ富士が尊富士の様子を見て発言します。

「どうだ?」

「この状況はきついです。歩けないですし」

「お前ならやれる。記録はいいから、お前は記憶に残せ。勝ち負けじゃない。最後まで出ることが大事。負けてもいいから。しょうがない。でも、このチャンスは戻ってこない。オレもそういう経験があるから」

そうしたら不思議なことに❓
『この言葉を聞き「言われた瞬間に、少し自分であるけるようになった怖いぐらいに。さっきまで歩けなかったのに。『立て』と言われたら(歩けるようになった)。そこで『明日(千秋楽)、頑張ります』と言いました」という経験をした。』
その後・・・
『再度、伊勢ケ浜親方のもとをたずね「出させてください」と伝えた。「横綱に言われて急にスイッチが入った。第2の自分がいるような感じだった」と、不思議な力がわいてきたという。』

照ノ富士は、自分で何度も経験があり尊富士の状態を見て大丈夫と判断して、上記の激励をしたのでしょうね。

尊富士には、掛け替えのない兄弟子がいるのは確かなようです。もし照ノ富士の激励がなければ、尊富士は休場したと思います。
そうなれば結びの一番で大の里が気の抜けたような相撲は取らなかったと思います。優勝は、どっちに転んだかは分かりません。

110年ぶりの快挙の裏には、沢山のことがあるのだな❓と思いました。


尊富士、千秋楽前夜の照ノ富士からの魔法の言葉明かす「言われた瞬間に少し歩けるようになった」
[2024年3月25日13時26分]
https://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/202403250000450.html


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