気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

愚行 ・・・ 3.毒

2010-11-30 10:30:24 | Weblog
釈尊は

  物を食べ

  物をもつうえでの食べ方

  もち方 ・・・ を問題にしています。



よき象のように 根を洗う力はどうして育つのか。


それは

  物事を理屈や知識でとらえるから可能なのか

それとも

  自然の叡智(えいち)を身につけることよって可能なのか


・・・ それを 私たちに問われているのです。



どんなに役立つ物も かならず毒というものが含まれています。


雞のなかには「どり」というものがあります。

これを食べると大変なことになります。


蟹にも「がに」というものがあります。

やはり 身体にさわる毒分をもっています。


そこを食べさえしなければいいが

  ・・・ うっかりして食べてしまいます。



水も流れがとまると 澱(よど)んで臭い出す。


これを識別する力は 学問教養にはよりません。

知恵であり ・・・ 相手にのめりこまない「心のゆとり」です。



* 2010.11  東ブータンで




 

愚行 ・・・ 2.貪欲・迷い・執着

2010-11-30 07:29:32 | Weblog
仏教での托鉢は「戸々乞食 次第乞食」といって

順々に一軒一軒をたずねて

  食物を乞わねばならぬことになっています。


決して選んだり 順序を乱してはいけない。

ドアからドアへと家並みにゆけ ・・・ というのが釈尊の教えです。



食物をくれるか くれないかは

  相手の裁量であって ・・・ こちらから求めてはならない


そこに

忍耐力の鍛錬 人の心を知る勉行ができ

  根気強さ「忍辱(にんにく)」の力も育ってくる。


そのつらさがなくては

  食物のありがたさも 修行の意味もないわけです。



若い僧は その教えを破り

  自分の得るものにがつがつとし

  目的のために手段をまちがえて
 
  ・・・ 身心を疲れさせていったのです。


もし象が 蓮の根をむさぶることのみに執着し

  泥を洗わなかったら

  ・・・ あるいは毒に気づかず死ぬかもしれない。



貪欲・迷い・執着 ・・・ は 人生の毒である。


  ・・・ これが この聖句の中心テーマです。



* 2010.11  東ブータンで





  

愚行 ・・・ 1.むさぼり

2010-11-30 06:24:34 | Weblog
龍象(よきぞう)は蓮の根を抜けども

水に洗いてこれを食うなり

異族(ほか)の象は彼にならえども

泥を合(まぜ)て食うが故に

病にかかりて遂に死にいたるものなり

                     (雑阿含経)



自然観察者釈尊は

  ここでは象と食物の生態から教訓を残しておられます。



私は 聡明な象が蓮を食べるときに

  泥を水で洗っているなどということを知りませんでした。


ある人の話では 馬も萩を食べるとき
 
  根もとについている泥をよくふるってから口にするということです。


いちいち泥があるかないかたしかめて食べるわけです。

一首の本能による鑑別の力といえましょうね。



このことばは欲深い年若の修行僧が

  たくさんの食物くれる家だけ托鉢して歩き

ついには欲のために身体もやせ 目もくぼんゆくさまをみて

  ・・・ むさぼりを戒めた聖句(ことば)だといわれます。



* 2010.11  東ブータンで




 

怖れに勝つために ・・・ 6.堕落(だらく)

2010-11-30 05:34:33 | Weblog
知識や才能を武器にして立ち向かう人ほど ・・・ 危険視されます。



美人は 自己の美しさを武器にするがゆえに

  美の崩れるのを怖れ

  他人にも高慢になり ・・・ 嫌われます。


肉体や性を得物(杖:武器)として生きる娼婦は

  それゆえに肉体蝕(むしば)む病におびえ

  ・・・ ついには 心まで腐ってゆきます。



人間の堕落は

  この「怖れ」をよぶ「武器」にあるのです。


「杖をとるがゆえに怖れ生ず」 ・・・ です。



生存競争のはげしい社会にあって

  しみじみと ・・・ 私たちに反省を与えてくれることばですね。



* 2010.11  東ブータンで





怖れに勝つために ・・・ 5.無位真人

2010-11-30 04:55:09 | Weblog
「無位真人」ともいいます。

地位のない人こそ

  まことの幸せをかちとった人という意味です。



がつがつと地位を求めるより 「無位」の平和と安らぎこそ大切です。



杖をとれる人びとを見よ

杖をとるがゆえに怖れを生ず

                  (スッタニパータ)再掲


この言葉から

自分の怖れの原因となっている「杖」を探し出し

  発見したら ・・・ すてて下さい。

すてるとは それへのこだわりを放つということです。



出世して 地位を高くと思っている人は

  ・・・ その心欲から出離(はなれ)て下さい。


そうした人物こそ 向こうから迎えられてゆくのです。



* 2010.11  東ブータンで





怖れに勝つために ・・・ 4.平凡の尊さ ・ 無事貴人

2010-11-30 04:54:34 | Weblog
「杖」とは 刃物や武器だけにあてはまるものではありません。


「財産」にも

「学問知識」にも

「権力」や

「地位」にも ・・・ 通じます。



そうしたものをもつゆえに 恐れをもつのが人間です。


「無事貴人」という禅の教えがあります。

なにごともないのが

  もっとも人間として素晴らしい ・・・ ということです。



平凡の尊さです。

力や武器をもって非凡がる人には 恐れ苦がつきまとう。


・・・ 平凡であることが幸せの第一です。



* 2010.11  東ブータンで





怖れに勝つために ・・・ 3.武器をすてなさい

2010-11-30 04:53:55 | Weblog
武器をもてば怖くない ・・・ そうではありません。


釈尊は ご自分の体験を語り出しました。

  人びとよ
  私もまたかって恐れをもっていた。
  それは 生 ・ 老 ・ 病 ・ 死 ・・・ だった。
  その不安と怖れのゆえに 夜も眠れなかった。

  では どうして私はその怖れにうち勝てたか。
  その四つの苦への「とらわれ」をすてたからだ。
  いままでにぎりしめていた
    なんとか長生きしよう そのために神に祈ろう
    神という武器をがあれば大丈夫だ
    病気には医者という得物がある
  ・・・ という その得物(杖)をすてたからだ。

  お前たちのその恐怖にひきつった顔は
    杖にとらわれているために起こっている
  ・・・ 杖をすてなさい。

  そうすれば 怖れから開放され 解決の知恵が見出せる。


・・・ 素晴らしいことです。



* 2010.11  東ブータンで





怖れに勝つために ・・・ 2.逸話(エピソード)

2010-11-29 13:33:48 | Weblog
 釈尊が、ある年故郷へ帰られたとき、日頃仲のよい二つの氏族が水のことで殺気だった争いをくりひろげていたことがあります。

 二つの種族の一方は彼の生まれたサキャ族、他方は母の故郷コーリャ族の人たちです。
原因はローヒニー河の水が旱魃(かんばつ)のため少なくなり、たがいにできるだけ多くの水を自分のほうにひこうとして起こったものでした。

 河をはさんで二つの氏族の人びとは、それぞれ「杖」をもち、いまにも血を流そうとしていた。
 農耕をもって生きる彼らには水は生命です。


 そのとき釈尊は 声高くこの聖なることばをかけられたのです。

 水を求める心の切なるままに得物(杖)をとりながらも、彼らの顔はひきつり、脚はぶるぶるふるえている。
 ・・・ それを釈尊は指摘したのです。


  「杖をとるがゆえに」怖れている人びとよ

  その怖れに勝つためには

    まずその手による得物をすてるがよい


    ・・・ 人びとは はっとしました。



* 2010.11  東ブータンで





怖れに勝つために ・・・ 1.杖

2010-11-29 12:31:48 | Weblog
杖をとれる人びとを見よ

杖をとるがゆえに怖れを生ず

                  (スッタニパータ)



よく映画やテレビドラマの場面に こんなシーンがあります。


ふたりの男が口論している。

そのうちひとりが そばにあった棒をもって立ちあがる。

相手もふところから刃物をとりだす

そのとたんに

  ふたりの表情はがらりと変り

  額に汗を吹き出し

  わなわなと体をふるわせ

  ・・・ 目に殺気と恐怖の入りまじった表情をうかべる。


もうふたりには

  口で争っていたときのような人間的はゆとりはありません。

棒を手にした瞬間から

  一種えたいの知れない怖れにひきずりこまれてしまう。



もしかすると ・・・ 家庭の中でもあるかもしれませんね。


言葉で叱っているときは 父の 母の顔に

  親らしい威厳も

  人生の教師としての誇らかさも残っていますが

拳を振りあげると ・・・ 一瞬のうちにがらりと変ります。


拳でなぐるということにいい知れぬ恐れをもつのでしょう。

打ちどころが悪ければ 子どもは(妻は)怪我をします。

それは父も 母もさけたい。


しかし

拳を振りあげてしまった自分には それだけの自信がないし

  拳が ・・・ 彼・彼女自身を激情へと追いやってしまう。



もしかすると ・・・ 同じ経験をお持ちかも知れませんね。



「杖をとるがゆえに怖れ生ず」とは ・・・ そのことです。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 6.仏教のいのち

2010-11-29 11:49:04 | Weblog
深く世俗のけがれのしみこんでいない若者たちは

「純白の布がただしい色をうけるがごとく」

  ・・・ 教えは 彼らの全身に染み入っていきました。



この「自己を探せ」 「汝自身を知れ」

  ということこそ ・・・ 仏教のいのちです。



自分を忘れがちな私たちの胸もとに

  「自分の本性を明(あき)らめよ」

         ・・・ とつきつけたのが「仏教」なのですね。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 5.逸話(エピソード) つづき

2010-11-29 10:43:18 | Weblog
(4.釈尊の逸話につづく)

 この釈尊の問いは青年たちにショックだったようです。
彼らはほとんどが良家の子女で、知識人だっただけに、はっと虚をつかれた思いだったのでしょう。
 ・・・ 「もちろん、女より自己を探すことです」

 その答えをえて、釈尊は静かに語りはじめました。


  人生の正しい見方・正しい生き方・欲望とはなにか

  欲にひきずり回された生活が いかに恐るべきものか

  盗みをした人間を責めたてることに 何の意味があるのか


  生とは 死とは

  老いとは何か ・・・ 。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 4.逸話(エピソード)

2010-11-29 09:22:46 | Weblog
 いつ、どこで釈尊は、「自己探求」を若者に呼びかけたのでしょうか。


 釈尊が35歳の12月8日に正覚をえてから程ないある日、ウルヴェーラの村に向かう途中です。この村は釈尊にとって思い出深いところでした。
 苦行に疲れきった身を洗い、極端な苦行をすてて悟りを開かれたのも、この村のかたわらを流れるネーランジャラー(河)のほとりでした。

 そこで彼は若者に声をかけられる。
「女性をひとりみかけませんでしたか」
 みると男女数十人がいる。彼らはそれぞれ妻を伴い遊びほうけていたのでした。
ところが、ひとりだけ未婚だったので遊女をつれてきた。そしてみんなが遊びたわむれている間に青年の持物を盗んで逃げたというのです。
若者たちは その女を血眼になって探していたわけです。

 釈尊は青年たちをじいっとみつめながらいいました。
「若者たちよ、君たちは、その女を探しだすことに真剣になるよりも、もっと探さねばならぬ大事なものがあるのではないか。君らは、女を探すのと自己を問いたずねることと、どちらが大切だと思うか」  (つづく)



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 3.自己をたずねる

2010-11-29 06:46:04 | Weblog
釈尊は

  祈れとも 拝めともいいません。

  祈祷やまじないをしろなどとは申しません。


「おのれ自身をだずねよ」 ・・・ それしかいわないのです。


  ・・・ これをいつまでも忘れないことが肝心だ と思いますよ。



自己をだずねるのです。


寺院や仏閣をたずねるのではありません。


・・・ 釈尊にとって大切なのは 人間と生命(いのち)です。



それがなければ ・・・

  お堂や塔など ・・・ 少しも値うちのないものなのです。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 2.自己探求

2010-11-29 06:45:08 | Weblog
仏教・釈尊の説かれた教えの根本は

  「自己探求」 ・・・ にあったのです。


いったいこの「我」という人間は何ものなのか。

人間の苦とは何か 喜びとは何か

・・・ その「自己を知り 掘りさげる教え」

    ・・・ それが仏教の生命(いのち)なのです。



若き者らよ

汝らは婦女(おんな)をだずぬると

おのれ自身をたずぬるのと

汝らにとっていずれがすぐれたりや

                     (律大品) 再掲


この「若き者らよ」 という呼びかけではじまることばは

  その釈尊の仏教を ずばりいいあらわしています。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 1.仏教

2010-11-29 06:44:29 | Weblog
若き者らよ

汝らは婦女(おんな)をだずぬると

おのれ自身をたずぬるのと

汝らにとっていずれがすぐれたりや

                     (律大品)



仏教を どんな宗教だとお考えですか ・・・ 。


救いの宗教でしょうか。


祈りの宗教でしょうか。


それとも ホトケさまにおまかせする宗教なのでしょうか。


念仏信者なら 「はからいの宗教」というでしょうし


仏教哲学の本を読んだばかりの人は

  「仏教は合理主義の哲学」というかもしれません。


また 宗教に親しむ方は

  「加持祈祷」をあげるかもしれません。


禅にはげむ人は
 
  さとりの宗教だ ・・・ と ためらいなくいうでしょう。



たしかに

仏教は 中国から朝鮮を経て日本に伝わり

  消化されてからは さまざまの形で私たちにふれあっています。


いろんな見方 うけとり方がある ・・・ のは 当然のことですね。



* 2010.11  東ブータンで