気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

生きることは捨てること ・・・ 3.脱皮

2010-11-24 15:03:01 | Weblog
「脱皮」ということばは

  蛇が 自分の薄皮をぬいでゆく姿から出てきたといいます。



要らぬものは ぬぎ捨てる。


いつまでもしがみつかない。



新しい誕生のために 昨日の無用物を捨てる。



* 2010.11  東ブータンで





生きることは捨てること ・・・ 2.自然に学ぶ

2010-11-24 15:02:01 | Weblog
詩人釈尊は

自然の光景から教えの比喩(ひゆ)をえらび

  学びとり方を示してくれます。

自然は 人間の師ですよ ・・・ と。



そして

もう一歩鋭く自然を観察する心 ・・・ を説かれます。


花びらはなぜ散るのか ・・・ ということです。


秋がくれば 桐の葉は風をまたずに散る。

落ちるときがくれば なにもせずとも落葉ははじまる。


柿の実も真赤に熟せば 猿の手を借りずに落ちていく。



時の流れ

  時の成熟が 落ちねばならぬ花や葉を散らせていく。


花びらの下から新しい生命の実が上がってくる。


実を結ぼうとする力が

  しおれた花びらに 「お前は無用の長物だ。去れ」と命じる。



落葉は 人の目にも寂しさを想わせます。

だが 散ることは

  新しい生命を創造するために必要であり

    ・・・ それは 喜びでもあるのです。



* 2010.11  東ブータンで






生きることは捨てること ・・・ 1.飛花落葉(ひからくよう)

2010-11-24 15:01:08 | Weblog
萎(しお)れたる花びらを すておとす バツシカ草のごとく

乞食するものらよ かくのごとく むさぼりと怒りとをふりすてよ

                         (法句経)



バツシカ草とは

ラテン語でジャスミヌム・サンバックと書かれてある花のことです。


私たちはジャスミンという香水をもっていますが

この香水は このバツシカからとったものだそうです。


高い香りを放つ花 それがバツシカ草なのです。



釈尊の生まれたヒマラヤの南麓は

菩提樹やニグローダ樹の生い繁った

  美しい自然の展開されている地方でした。


そうした恵まれた自然のなかで 草花の実り熟れ散りゆくさまを

  彼はじっと注意してみてきました。

バツシカの花びらが 時来ってハラハラ散る ・・・

  そこに人生の意味を看取されたわけでしょうね。



「飛花落葉の中に悟りを見出す」と仏教ではいいますが

ヒラヒラと散る花や葉のなかに

  あるいは素直な自然界の和(やわ)らぎのなかに

つまり

さりげなく咲く野辺の一輪の名もなき花や囀(さえず)る小鳥に

敬虔(けいけん)な気持をもち 宗教的心情をいだく ・・・

  そこに釈尊のいう「悟りへの道」が開けていくのでしょう。


* 飛花落葉(ひからくよう)
  花が風に散り木の葉が秋に落ちるように 世の移り変わりの無情であることのたとえ 



* 2010.11  東ブータンで







親子のきずな ・・・ 8.無我 ・ 無私

2010-11-24 04:44:02 | Weblog
私たちは もともと「無体」「勿体(もったい)」なのです。


勿体というこの考えから
  「もったいない」という言葉が生まれているのです。


自分のものならもったいなさはない。

あらゆる自然と世の中の働きからの預かりもの

  さずかりものだからこそもったいないのです。


その「自分」を「私」がこれを傷つけることは許されません。


生産尊重の根本には この「無我」「勿体」の思想があるのです。



ここからすべての想いをスタートさせれば

  「わが子」でなく「われらの子」であり

  「わが財」でなく「我等が財」であるという

    ・・・ 「私有」のまちがいがよくわかります。


「我に子らあり」という利己が成りたたぬ以上

子供は 社会の子であり 他人の子もわが子であり

    ・・・ 一切の区別 差別は まったく無意味になります。



自他一如  自利利他という仏教の慈悲の思想を

  これを忘れては理解できないのです。



もし 私たちが この「無我」「無私」の本質がわかり

それが人間社会であることにめざめれば

  ・・・ 奪いあいも 争いも この地上から消えるでしょうね。



* 2010.11  東ブータンで





親子のきずな ・・・ 7.「自分のもの」などない

2010-11-24 04:43:05 | Weblog
仏教は

どこにも「自分」とか「我」という「実体」はない

ただ自分というものを おたがいの頭の中でまとめているにすぎない

  ・・・ という原理にたつ教えです。 (再掲)



この例としてよく車の例がひきあいに出されます。

「ミリンダ王の問い」という経典のなかにでてくる話です。


ナガセーナという僧が 王に向かって「車」とは何かと問う。

車とは 輪のことか 心棒か 軸か どれかときく。


それは車の一部分だと王は答える。


では 車はどこにあると重ねて問う。


王は答えられず

  輪であり 心棒であり すべてがより集まったものだという。


つまり 車とは無数のものの集まりにすぎないわけです。



私たちのいう「自分」もそうでしょうね。

この私も

  鼻が「私」であるわけでもないし

  心臓と胃が「私」であるはずがない。

五官の機能・蛋白質・水分・皮膚・細胞など

  ありとあらゆる働きが集まって「私」はできている。

・・・ 「自分のもの」など どこにもありません。


このように自分という「本体」がないのに ・・・

  「私の子」「私の財産」などというものがあろうわけがないのです。


すべての言語・知識もみんな 生後誰かに教わったものです。



* 2010.11  東ブータンで