気の広場

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怖れに勝つために ・・・ 2.逸話(エピソード)

2010-11-29 13:33:48 | Weblog
 釈尊が、ある年故郷へ帰られたとき、日頃仲のよい二つの氏族が水のことで殺気だった争いをくりひろげていたことがあります。

 二つの種族の一方は彼の生まれたサキャ族、他方は母の故郷コーリャ族の人たちです。
原因はローヒニー河の水が旱魃(かんばつ)のため少なくなり、たがいにできるだけ多くの水を自分のほうにひこうとして起こったものでした。

 河をはさんで二つの氏族の人びとは、それぞれ「杖」をもち、いまにも血を流そうとしていた。
 農耕をもって生きる彼らには水は生命です。


 そのとき釈尊は 声高くこの聖なることばをかけられたのです。

 水を求める心の切なるままに得物(杖)をとりながらも、彼らの顔はひきつり、脚はぶるぶるふるえている。
 ・・・ それを釈尊は指摘したのです。


  「杖をとるがゆえに」怖れている人びとよ

  その怖れに勝つためには

    まずその手による得物をすてるがよい


    ・・・ 人びとは はっとしました。



* 2010.11  東ブータンで





怖れに勝つために ・・・ 1.杖

2010-11-29 12:31:48 | Weblog
杖をとれる人びとを見よ

杖をとるがゆえに怖れを生ず

                  (スッタニパータ)



よく映画やテレビドラマの場面に こんなシーンがあります。


ふたりの男が口論している。

そのうちひとりが そばにあった棒をもって立ちあがる。

相手もふところから刃物をとりだす

そのとたんに

  ふたりの表情はがらりと変り

  額に汗を吹き出し

  わなわなと体をふるわせ

  ・・・ 目に殺気と恐怖の入りまじった表情をうかべる。


もうふたりには

  口で争っていたときのような人間的はゆとりはありません。

棒を手にした瞬間から

  一種えたいの知れない怖れにひきずりこまれてしまう。



もしかすると ・・・ 家庭の中でもあるかもしれませんね。


言葉で叱っているときは 父の 母の顔に

  親らしい威厳も

  人生の教師としての誇らかさも残っていますが

拳を振りあげると ・・・ 一瞬のうちにがらりと変ります。


拳でなぐるということにいい知れぬ恐れをもつのでしょう。

打ちどころが悪ければ 子どもは(妻は)怪我をします。

それは父も 母もさけたい。


しかし

拳を振りあげてしまった自分には それだけの自信がないし

  拳が ・・・ 彼・彼女自身を激情へと追いやってしまう。



もしかすると ・・・ 同じ経験をお持ちかも知れませんね。



「杖をとるがゆえに怖れ生ず」とは ・・・ そのことです。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 6.仏教のいのち

2010-11-29 11:49:04 | Weblog
深く世俗のけがれのしみこんでいない若者たちは

「純白の布がただしい色をうけるがごとく」

  ・・・ 教えは 彼らの全身に染み入っていきました。



この「自己を探せ」 「汝自身を知れ」

  ということこそ ・・・ 仏教のいのちです。



自分を忘れがちな私たちの胸もとに

  「自分の本性を明(あき)らめよ」

         ・・・ とつきつけたのが「仏教」なのですね。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 5.逸話(エピソード) つづき

2010-11-29 10:43:18 | Weblog
(4.釈尊の逸話につづく)

 この釈尊の問いは青年たちにショックだったようです。
彼らはほとんどが良家の子女で、知識人だっただけに、はっと虚をつかれた思いだったのでしょう。
 ・・・ 「もちろん、女より自己を探すことです」

 その答えをえて、釈尊は静かに語りはじめました。


  人生の正しい見方・正しい生き方・欲望とはなにか

  欲にひきずり回された生活が いかに恐るべきものか

  盗みをした人間を責めたてることに 何の意味があるのか


  生とは 死とは

  老いとは何か ・・・ 。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 4.逸話(エピソード)

2010-11-29 09:22:46 | Weblog
 いつ、どこで釈尊は、「自己探求」を若者に呼びかけたのでしょうか。


 釈尊が35歳の12月8日に正覚をえてから程ないある日、ウルヴェーラの村に向かう途中です。この村は釈尊にとって思い出深いところでした。
 苦行に疲れきった身を洗い、極端な苦行をすてて悟りを開かれたのも、この村のかたわらを流れるネーランジャラー(河)のほとりでした。

 そこで彼は若者に声をかけられる。
「女性をひとりみかけませんでしたか」
 みると男女数十人がいる。彼らはそれぞれ妻を伴い遊びほうけていたのでした。
ところが、ひとりだけ未婚だったので遊女をつれてきた。そしてみんなが遊びたわむれている間に青年の持物を盗んで逃げたというのです。
若者たちは その女を血眼になって探していたわけです。

 釈尊は青年たちをじいっとみつめながらいいました。
「若者たちよ、君たちは、その女を探しだすことに真剣になるよりも、もっと探さねばならぬ大事なものがあるのではないか。君らは、女を探すのと自己を問いたずねることと、どちらが大切だと思うか」  (つづく)



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 3.自己をたずねる

2010-11-29 06:46:04 | Weblog
釈尊は

  祈れとも 拝めともいいません。

  祈祷やまじないをしろなどとは申しません。


「おのれ自身をだずねよ」 ・・・ それしかいわないのです。


  ・・・ これをいつまでも忘れないことが肝心だ と思いますよ。



自己をだずねるのです。


寺院や仏閣をたずねるのではありません。


・・・ 釈尊にとって大切なのは 人間と生命(いのち)です。



それがなければ ・・・

  お堂や塔など ・・・ 少しも値うちのないものなのです。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 2.自己探求

2010-11-29 06:45:08 | Weblog
仏教・釈尊の説かれた教えの根本は

  「自己探求」 ・・・ にあったのです。


いったいこの「我」という人間は何ものなのか。

人間の苦とは何か 喜びとは何か

・・・ その「自己を知り 掘りさげる教え」

    ・・・ それが仏教の生命(いのち)なのです。



若き者らよ

汝らは婦女(おんな)をだずぬると

おのれ自身をたずぬるのと

汝らにとっていずれがすぐれたりや

                     (律大品) 再掲


この「若き者らよ」 という呼びかけではじまることばは

  その釈尊の仏教を ずばりいいあらわしています。



* 2010.11  東ブータンで





心の生命(いのち) ・・・ 1.仏教

2010-11-29 06:44:29 | Weblog
若き者らよ

汝らは婦女(おんな)をだずぬると

おのれ自身をたずぬるのと

汝らにとっていずれがすぐれたりや

                     (律大品)



仏教を どんな宗教だとお考えですか ・・・ 。


救いの宗教でしょうか。


祈りの宗教でしょうか。


それとも ホトケさまにおまかせする宗教なのでしょうか。


念仏信者なら 「はからいの宗教」というでしょうし


仏教哲学の本を読んだばかりの人は

  「仏教は合理主義の哲学」というかもしれません。


また 宗教に親しむ方は

  「加持祈祷」をあげるかもしれません。


禅にはげむ人は
 
  さとりの宗教だ ・・・ と ためらいなくいうでしょう。



たしかに

仏教は 中国から朝鮮を経て日本に伝わり

  消化されてからは さまざまの形で私たちにふれあっています。


いろんな見方 うけとり方がある ・・・ のは 当然のことですね。



* 2010.11  東ブータンで