気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

人生の別れ道 ・・・ 4.自己を磨く

2010-11-26 11:38:53 | Weblog
私なども つらい仕事 いやな用事を前にすると

  ついつい後回しにしようと一時のがれ 放逸に逃げようとします。


受験前の子ども

入院直前の病人の心理にも共通したものがあると思います。


  ・・・ また そこが平凡な人生の姿かもしれないのです。



自分がしなくても誰かがやってくれるだろうという

  「甘え」や「他人依存」の気持もおなじことです。


自分は体を休めておきたい つらい仕事は誰かにまかせてしまおう

  ・・・ これです。



文明の進歩・発達というものは

こうした骨の折れぬ生き方を求めて発明・発見されてきたものでしょう。


自分だけ楽をしないで みんなで骨を折らずにゆける方法はないかと

  工夫し努力した人間自然の人情が

  ・・・ 今日の物質文明を生んできたのです。



しかし 果たして

  それによって私たちは幸せになったといいきれるでしょうか。


もし人間が怠けもになるために文明を生み 育てたとしたら

  ・・・ 一体何のねうちがあるのでしょうか。



精力の消耗をさけることができたら

人間は さらに体目標に向かって全力を集中し
 
  ・・・ 飛翔しなければいけません。


能率化・効率化は

 よりよき・より高き人間としての「自己を磨く」ためにこそあるのです。



* 2010.11  東ブータンで





人生の別れ道 ・・・ 3.億劫(おっくう)になる

2010-11-26 10:35:37 | Weblog
「億劫になる」という言葉があります。


ちょっとわからないに言葉にぶつかる。

立ち上がって 字引を本棚から引っぱりだしてみればよいのに

  ・・・ それが面倒くさい。

  ・・・ 億劫になるわけです。



億劫という文字は 仏教では大変に長い長い時間を意味しています。


せっかくすわったのを もういっぺん立つとというのは

  非常に長い時間がかかるような気がするわけです。



この億劫にうちまかされるところに

  ・・・ 「死の径(みち)」があるのです。


思いきって立つか立たぬか

  ・・・ そこに人生の岐路があるのです。



* 2010.11  東ブータンで





人生の別れ道 ・・・ 2.易きに流れる

2010-11-26 09:39:26 | Weblog
私たちは「つつしみ」のある生活

  抑制のゆきとどいた人生を歩むべきことを教えられ

  ・・・ 守ろうとします。


だが そうはいっても ・・・

少しでも楽な道へ

  少しでも骨の折れぬ道へとゆこうとするのが人情です。


もちろん

そんな生き方が人生の目的であるとは誰も思っていないでしょう。



けれども 易きに流れるのが人間というものです。



* 2010.11  東ブータンで





人生の別れ道 ・・・ 1.つつしみ ・ 放逸

2010-11-26 08:47:32 | Weblog
つつしみは甘露の道

放逸(なおざり)は死の径(みち)

つつしむものは則ち死すことなく

道の失えるものは生けるもすでに死せるなり

                    (増一阿含経)



この聖句は「法句経」にもありますが

そこでは 「甘露の道」を「死なざるの道」とよんでいます。

不滅不死 永遠無窮の道ということです。



しかし それにしても痛烈な言葉ではありませんか。


つつしみは不死 放逸は死

  ・・・ だと 釈尊はいい切るのです。



* 2010.11  東ブータンで





不安の静め ・・・ 3.自分を喪(うしな)わない

2010-11-26 06:18:03 | Weblog
自分から逃れてはなりません。


何かをすぐ祈ったり 願ったりしてはなりません。



大地をを二本の足でふみしめ

  人間の 自分の可能性を力いっぱい切り拓いていくことです。


・・・ そこに私たちの「安らぎ」があるのです。



釈尊が亡くなって2500年。

その教えは生きています。

釈尊のことばは不滅なのです。



死を恐れ 財の失われるのを恐れるよりも

  私たちは「自分を喪(うしな)う」ことを恐れなければなりません。



ゆかば その道はひらかれん ・・・


一日一日をつよく たくましく

  内につつしみをもちつつたたかいぬく ・・・ ことだと思います。



* 2010.11  東ブータンで





不安の静め ・・・ 2.己こそよるべ

2010-11-26 06:17:21 | Weblog
ちかごろは 神秘的・幻想的な力に身をまかせて

  自分に不可能なことをかなえてもらおうとする人びともいます。



「もろもろの山に 森林に 園に 霊廟に

  帰依(よりどころ)を求めんとする」とは
 
  ・・・ そういう行いや気持ちの現われをのべているのです。


しかし 人間の恐怖は

  そんなことで取りのぞかれ 安らぎをえられるものではない

  ・・・ 釈尊はつよく叱っています。



怖れるのも自分 乗り越えるのも自分。


己こそよるべであり
 
自分のなかにとり憑(つ)き 巣食った

  しがみつきや愚かさゆえの怯(おび)えを克服し

それにうちかたねば
 
  ・・・ 「安穏(あんのん)」はえられないといわれます。



* 2010.11  東ブータンで





不安の静め ・・・ 1.いわれなき恐怖

2010-11-26 06:16:53 | Weblog
世の衆生(ひとびと)はいわれなき恐怖にかられて

もろもろの山に 森林(はやし)に 園(その)に

  さては樹に 霊廟(はか)に帰依(よりどころ)を求めんとする

こは安穏(あんのん)のよりどころに非ず

                          (法句経)



「いわれなき恐怖」とは

死への恐れ

財産を失うのではないかという恐怖

子どもに裏切られるのではという老いのおののき ・・・ です。



そうした恐怖や苦しみにかられると ほとんどの人は

世をはかなんで隠棲したり

放浪の旅に出たり

あるいは 山にこもってこの世の憂さを捨て去ろうとします。


鎌倉・室町・江戸のころには そうした世捨て人がたくさんいます。


また なかには人里はなれたところに行って

ひたすら恐怖を逃れよう

  不安を静めようと悪戦苦闘をする人もあるし

自分の肉体をいじめぬいて苦しみを忘れ去ろうとします。



あるいは

人だまりのレジャーにまぎれこもうとわが身を走らせ

美しい自然のふところにだかれて

  われを忘れようと努める人もいるし


さらには

亡き父や母の墓にぬかずいて

  「この怯(おび)えを救ってください」と祈ったり


いっそのこと死んでしまおうと

  「あの世」にすべてを賭けようと試みたりもします。



* 2010.11  東ブータンで