気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

寡聞の者 ・・・ 3.知恵のある老人

2010-11-07 08:25:18 | Weblog
釈尊は

牛のごとく老ゆる人を「空しい老人」 ・・・ 空老 とよび

知恵のある老人を「充実した老人」 ・・・ 実老 とよんでいます。



実老は 知識の人ではありません。



知恵と知識のちがいは

人生の根本テーマ ・・・ 正 ・ 老 ・ 病 ・ 死

  に対する解決力をもっているかどうかによって決まります。




 

寡聞の者 ・・・ 2.多くのことを聞かない人

2010-11-07 06:38:59 | Weblog
「愚かなるもの」とは どんな人をさしているのでしょうか。



愚かなるものは牛のごとく老ゆ

                     (法句経)再掲


この句の前後に その内容がはっきり示されています。


  「聞くこと少なきひと」

  「その肉肥ゆれども かれの知恵は増すことなからん」


「愚かなるもの」とは 「多くのことを聞かない人」

  つまり 「寡聞(かもん)の者」ということです。



逆に「多聞の人」は ・・・ 「知恵の人」です。


多くを聞くとは 何を聞くことをさしているのか。

  ・・・ 「正しい法(おしえ)」です。

      ここでは 「仏陀の教え」を意味しています。


もちろん 仏教のみが「正しい法」ではありません。

もっとひろく「真理のことば」と うけとってもよいでしょう。



人間は 正しい教えを聞くことがなければ

  自分のもっている素晴らしさも 愚かさも

                ・・・ 知ることができない。

知らねば

  人生について深く考えてみることもなく

  正しい人間のいとなみに精進することもなく

  「肉は肥ゆれども 知恵はますことなし」

            ・・・ という結果となるでしょうね。





寡聞の者 ・・・ 1.愚かなるもの

2010-11-07 06:02:58 | Weblog
愚かなるものは牛のごとく老ゆ

                     (法句経)



辛辣(しんらつ)・針をさすような聖句(ことば)です。



昔から

「馬のように食い 牛のごとく老い 犬のように死ぬ」といわれます。


人間として もっともみじめな生き方をいいあらわした聖句です。



そうした生きざまを 釈尊は

  「愚かなるもの」 ・・・ といっているのです。






生と死 ・・・ 4.生命尊重 ・ 不殺生

2010-11-07 04:46:04 | Weblog
人間は やがて死ぬべき存在だからこそ 「生」の貴重さがわかるのです。

もし

人間が 不死鳥のようなもであったら

  おそらく文明は ここまで進んでこなかったでしょうね。


死があるから 素晴らしい人生をと願って

  病を克服する医学も

  生きている喜びを歌う詩も ・・・ 生まれてきたのです。



釈尊は 殺生をきびしく戒めた人です。


不殺生は 仏教の一番の根幹です。


これを崩したら 人間は人間としての資格を喪(うしな)うのです。



そして この生命尊重 不殺生の教えこそが

「人の生をうくるはかたく
 
  やがて死すべきものの いま生命あるはありがたし」

  ・・・ という聖句(ことば)のうちに脈うっているのです。






生と死 ・・・ 3.いま生きる尊さ

2010-11-07 04:45:03 | Weblog
いつの日かきっと死ぬ自分が いま地上に生き

胸いっぱい大気を吸い 人を愛し

  喜びや悲しみのリズムのなかで のびのびと暮している

  ・・・ これは 実に素晴らしいことです。



まして 齢をとってくると

友人や先輩などの死

あるいは 子どもの死にぶっつかることが増えてくる。


死は年齢をえらばない というきびしい現実にも直面します。


そのとき

私たちは 自分の生きていることの「有りがたさ」に気づきます。

「有りがたし」とは

  英語でいうサンキュウなどという浅い喜びではありません。



人間として
 
いま自分が生きている尊さ 不思議さ 難しさ 稀有(けう)な驚き

  ・・・ そうした 「在ること難し」という自覚です。


この自覚をもつとき

私たちは 生命を大切にし

  一日一日を精いっぱい生きていこうという気持にもなるし

同時に

  自分以外の人間のいのちを尊重しよう

             ・・・ という想いにかられます。




 

生と死 ・・・ 2.やがて死の日は

2010-11-07 04:44:05 | Weblog
人間は おそかれ早かれ かならず死にます。


あらゆるできごとのなかで

  「死」ほど 疑いなく確実に訪れてくるものはありません。


私たちが死を忘れていても

  死は 一瞬たりとも私たちにとりついて離れようとはしません。


どんな若々しい人にも

  死の日は 用意されています。



「右のこぶしにて左の手をうつことは あるいは仕損じても

  しかし 生まれたものの死ぬことだけは間違いない」

            ・・・ と 昔の坊さんはいっています。





生と死 ・・・ 1.人間として生まれて

2010-11-07 04:43:09 | Weblog
人の生をうくるはかたく

やがて死すべきもものの いま生命(いのち)あるはありがたし

                           (法句経)



私たちはふだん

自分が「人間」に生まれてきたことや

   「人間」として生きていることに

  さほど深い想いをめぐらしたりしないものです。

いわば「人間」であることを 当りまえのことのように思っています。



しかし 何かの拍子に

ふと 自分が人間としてこの地球上に生まれていることに

ある種の不思議さと感動をおぼえることがあるのではないでしょうか。


ひとり庭に出て 空を仰いだとき

生まれたばかりの赤ちゃんを胸にいだいたとき

あるいは

旅先で 重い荷物を引いて坂道をのぼる牛や馬を目にしたとき

捨てられた子犬や猫が ゴミ箱をあさっているのを見たとき

・・・ 「人間に生まれてきてよかった」という気がすると思います。



この「ああよかった」と しみじみとわれをふり返る想い ・・・

これを 釈尊は 「人の生をうくるはかたく」といわれたのです。


かたくとは

「容易ならぬことだ」 「なみたいていのことではない」

  という深い感動をいいあらわしています。



人間尊重とか 基本的人権とかいうことも

  この自覚が土台になくては生まれてきません。



しかし

他の動物とちがう「人間」という

  万物の霊長に生まれてきたことの喜びだけでは

    本当の生命の尊さは ズシンと胸にひびいてきません。



・・・ そのことを 釈尊は

  「やがて死すべきものの いま生命あるは」

            ・・・ とつづけておられるのです。