気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

ことば ・・・ 5.教育 ・ しつけ

2010-10-24 12:12:54 | Weblog
ことばは 人を傷つけるためにあるのではありません。


そして

ことばによってこそ 人の心を動かすことができます。


ヨーロッパでも ことばはロゴスといわれ

  最高の理性のあらわれ とみています。



道元禅師は

「人の心は 決定(けつじょう)の言のことばに随うと在らず」

  ・・・ と語っています。


自己の人間形成は

  ことばによって一点一画刻みこまれてくる ・・・ という戒めです。



野卑(やひ)なことば
 
  ヒステリックなことばは 捨てましょうよ。


教育とか しつけとかいうものは

  ・・・ 正しいことばがなくては なりたちません。





ことば ・・・ 4.つつしみをとり戻す

2010-10-24 12:12:27 | Weblog
ことばは 精神の脈動だ といいます。



歪んだ心からは

  ひねくれた悪意のことばしか出てこない

  平気で相手の心を蝕(むしば)むことばが出てくる。



よきことばは

  人を想い いとおしむ心がなければ生まれてきません。


粗野で つつしみのない人が 口先でことばを飾っても

  そらぞらしく聞こえるのも ・・・ そのためです。


粗暴な人間のことばが 荒々しく

ふしだらな生活をしている人のことばが 乱脈なのは

  ・・・ そのためです。



現代の若い人びとのことばの乱れは

  ・・・ 心の乱れ のあらわれです。



ことばの悪行をすてて ・・・ という教えは

  いま 大人も 青年も つつしみをとり戻すために大切です。





ことば ・・・ 3.心が定まる

2010-10-23 19:00:12 | Weblog
私たちは ことばによって助けられ 守られ

  楽しみを味わい 人生を深めているのに ・・・

ともすれば

  無責任なことばや激語・綺語・悪語を口にします。



仏教でも

身(しん)・口(く)・意(い)の三つを

  「三業」 三つの人間の行為とし

  ・・・ もっとも大切にしなければならない といいます。


肉体の働き・ことば・意志の働き
 
  この三つによって 人は苦しんだり もだえたりします。



ことばひとつにしても

たった一言のために 一生を灰色にしてしまうこともあります。



しかし

いくら美しい 正しいことばを用いようと思っても

  ・・・ その人の心が定まっていたくては ダメです。





ことば ・・・ 2.ことばの力

2010-10-23 17:15:16 | Weblog
ことばは 自分の内側に起こった喜びや悲しみなどを

  相手にも同時に起こさせる力をもつものです。


反対に

相手の苦しみも ことばをもって知ることができます。


人と人とのかかわりの水路は

  ことばによってひらかれているのです。


相手のなかに もうひとりの自分をなげこみ

  ともに喜び ともに泣くことができるのもことばの力です。



そのことばを つつしみもなく使い

  不用意に相手を傷つけるために用いることはよくない。


「怒りのことば」をすてて

「よきことばを使いなさい」 ・・・ と 釈尊はいわれます。







ことば ・・・ 1.この大切なもの

2010-10-23 13:48:03 | Weblog
ことばの怒りをまもれ ことばを制御せよ

ことばの悪行をすてて ことばの善行をおさめよ

                         (法句経)



ことばというのは

考えれば考えるほど 巧妙な人間の発明品ですね。


ことばを使うと 私たちはわかりあうことができます。


ことばの使用をぬきにして 人間関係は成り立たないくらいです。



「ことばをかける」 「声をかける」というのは

  人と人との結びつきをつくろうとすることです。


「ことばもかけてくれない」 「口もきかない」ということは

  たがいに人間的信頼を失った状態だといわれるくらいです。



このように「ことば」は

  人間同士がわかりあうために

  スムーズな人間関係をつくるために ・・・ 大切なものです。


ともに笑い ともに泣くという共感も

  ・・・ ことばによって もたらされます。






何を恥ずべきか ・・・ 3.恥の心

2010-10-23 10:01:54 | Weblog
恥ずるのはよい。

・・・ 何を恥じるか です。


粗末な食事をしようと

車がなかろうと

一流大学に行けなかろうと

学問がなくても

  ・・・ そんなことを恥ずべきことではありません。


他人の苦しみを自分の苦しみとすることのできない人こそ

  ・・・ 恥としなくてはならない のです。



ヨーロッパには 「罪」と「罰」があります。


罰をさけるために罪をみつめ
 
  罪を告白するような良心の痛みがなくてはなりません。


それを 「恥の心」といってもよいのです。



「地獄に行く」というのは

恥ずべきを恥じない人間は かならず悪の泥沼に生きる

  ・・・ ということです。



何を恥とすべきか ・・・

  もう一度 胸に手を当てて考えてみる必要がありますね。





何を恥ずべきか ・・・ 2.地獄に行く

2010-10-23 06:38:23 | Weblog
釈尊のいわれる

「恥ずべからざるを恥じ」というのは

  物質的な恥 ・ 怨みの恥をさしているのです。


「恥ずべきを恥じず」とは

怠惰・虚栄・ごうまん・思いやりのなさ・エゴイズムといった

  醜さに気づかず ・・・ 恥としないことをいっているのです。



口先で道徳をとき 人に修業をすすめながら

  自分では それを行う少しの意志ももたぬ人


脱社会だ 女性よ外へ出て働けと叫びながら

  自分は ぬくぬくと家庭に寝そべっているような人


言行不一致 虚偽 ・・・ そうした生活を送っている人は

「恥を恥としない人」であり

  「地獄に行く」ような人間だ ・・・ といわれるのです。



釈尊は

その人の行為いかんによって よくも悪くもなるし

  それが将来を決定する ・・・ といいます。


自分の行為が矛盾していないか いつわりはないか

  と問いつめ 恥じる人でなければ

  ・・・ 幸せをうることはできない と教える人です。




(再掲)

恥ずべからざるを恥じ 恥ずべきを恥じず

よこしまな思い抱ける人びとは地獄へゆく

                      (法句経)





何を恥ずべきか ・・・ 1.何を恥じるか

2010-10-23 06:00:50 | Weblog
恥ずべからざるを恥じ 恥ずべきを恥じず

よこしまな思い抱ける人びとは地獄へゆく

                      (法句経)



日本人は「恥の国民」だといわれます。


ルーズ・ベネディクトという人は 日本の文化を「恥じの文化」とよび

欧米の「罪の文化」に対立させています。


むかしから

恥をかかされたといって自殺した人は 日本にはたくさんいます。

そして

「恥」を知る人は立派な人だ とみられてきました。



たしかに

恥を知らない人よりも 知る人のほうが美しくみえます。


恥というのは 自分のむき出しの欲求を抑え

  相手に快さを与えよう という気持のあらわれです。


ですから

そうした恥の気持をふみつけ 無視されると

  ・・・ ひじょうに苦しみを感ずる。

そのとき

恥の人は 相手の人を罰しようとせずに 自分を痛めつけます。

自殺は その最後の自罰のあらわれ といってよいでしょうね。



しかし

大切なことは 何を恥じるか ・・・ ということです。


自分の能力以上のことを要求されて できなかったために

  衆人環視のなかで叱られたということを「恥」とすべきなのか

それとも

自分の努力の至らなさを恥じなくてはならないか

  ・・・ どちらでしょうか。


あるいは

粗末な衣服や 手狭な住居を恥ずかしいと思うべきなのか

才能や財力も乏しいのに

  見栄をはることを恥と感じねばならないのか

  ・・・ いずれなのでしょうか。




  

無益なもの識り ・・・ 4.たった一つの言葉

2010-10-23 05:32:08 | Weblog
すぐれた宗教家は 経文をそらんじるよりも

  たった一つの「コトバ」を命がけでえらびます。



日蓮上人は 法華経を身(からだ)で読んだといいます。



知恵第一といわれた法然上人は

  万巻の書から ナミアミダブツの一句をえらびとりました。




(再掲)

無益なることを多く誦(そら)んずるも

  此のことは妙となすべからず

他(ひと)の牛をかぞふるがごとし

                     (増一阿含経)


無益なもの識り ・・・ 3.ひとの牛をかぞえる

2010-10-23 05:31:23 | Weblog
釈尊は 内容本位の方です。



いやがる子どもに 無理にお祈りをさせたりする

  ・・・ 形式主義をしりぞけられた人です。


ところが

門前の小僧もならわぬ経を読むのだから ・・・

小さいうちに何でも叩き込んでおけ という風潮が

  ・・・ 大人にも 子どもにもさかんです。


ピアノのおけいこ

画塾通い

バレーのおけいこ

学習塾 ・・・ などに熱心で

何かを習わせていないと不安でたまらない
 
  ・・・ 教育ママが これです。



釈尊は

そうした人を 「ひとの牛をかぞえる」のと同じ愚かなことだ

  ・・・ というのです。


インドでは 家々から

  なぜか飼い牛を牧童にあずけ 遊ばせる習慣があります。

牛飼いは 朝牛をあずかり 夕方になると

  「はい 三頭」 「はい お宅は五頭」と数えてつれてくる。


頼まれ仕事として ただ数えているだけなのです。


何を習っても 自分で本気にならなければ

  この牛飼いと同じではないか。

ページをだけめくっていても 勉強だといえるか。


他人の牛を勘定していても

  一向自分のものにはならないし 牛もふえない。



・・・ 釈尊は 強く叱っています。



そうです。

もぬけのカラの学習には ・・・ 何の価値もありません。





無益なもの識り ・・・ 2.耳年増 (みみどしま)

2010-10-23 05:30:46 | Weblog
みなさんのまわにも 暗記を得意とする人がいるでしょう。


やたらと長い詩をおぼえて 得意気に吹聴するタイプの人です。

つめこんだ数字をペラペラと口にして

  相手を煙にまく政治家や 学者も ・・・ その類(たぐい)です。



情報が氾濫すると ・・・ こうした「無益な」物識りがふえています。



やたらと講習会や講演会にでかけていって

  うわっつらな耳学問だけをしてくるご婦人もふえています。



ある人は そうした人びとを「耳年増」とよんでいましたが

  ・・・ 青年の間にも この傾向が広がっています。





無益なもの識り ・・・ 1.論語読みの ・・・

2010-10-22 12:04:03 | Weblog
無益なることを多く誦(そら)んずるも

  此のことは妙となすべからず

他(ひと)の牛をかぞふるがごとし

                     (増一阿含経)



「論語読みの論語知らず」という諺があります。


また
 
ただ読んでいればよい くり返しておればいいのだ

  くり返すところに意義があり 神秘の力がある

  ・・・ ということを口にする人がいます。



釈尊は それを

「無益なることを多く論ずるも このことは妙とすべからず」

  ・・・ と拒否されます。


このことばは

二人の孫弟子が

  たがいに自分の暗誦した経文を競いあっているのをみて

  ・・・ 叱られたときの教えです。





虚空(そら)に道なし ・・・ 5.明快に生きる努力

2010-10-22 11:06:51 | Weblog
釈尊は 物事をはっきりいう人でした。


いつの世でも

庶民というものは くだらない理屈をこねまわし

  それにうつつをぬかしている。

そんな歯がゆいことをせずに

  何故 本質へずばりと入ってゆかないのか。

偽態のくりかえしはやめよ

  ・・・ と きびしく戒めているのです。


「死んだらどうする」

「齢をとったら その先は」

「景気の動向は」

・・・ 人びとは 先回りして

    情報に餓え 人のさしのべる手を求めています。



釈尊は そんなこと捨て置け ・・・ という。


禅僧なら

一喝くらわすか 棒でうちすえてやれ

  そんな ぐだぐだと物事に煩っている暇があるなら

  ・・・ 実践に移せ。



釈尊は それをずばりと

「虚空に道とすべきなく」といい

「みちの人 あるなし」 ・・・ というのです。



私たちは もっと明快に生きる努力が必要です。

空のなかに吸い込まれるようではだめです。



自然からの学び方も ・・・ いろいろですね。




(再掲)

虚空(そら)には道とすべきなく

  うつろなる外道(げどう)に 沙門(みちのひと) あるなし

おろかなる世人は 戯論(たわむれ)をたのしめど

  如来はかかる 戯論あることなし

                          (法句経)





虚空(そら)に道なし ・・・ 4.愚行

2010-10-22 06:35:19 | Weblog
人間は とるにたらないぬ議論をえんえんとくりかえす愚行に

  ・・・ 気づかないことが多いものです。



最近のマスコミを眺めていると

  つくづくと この釈尊の聖句(ことば)が思い出されます。


たとえば

老齢化社会を迎え 老年者にどんな生きがいを与えるべきか

それは年金か それとも心の充実か

  ・・・ といった原則論が あきもせずくり返されています。



教育の問題もそうでしょう。


おちこぼれをどうするか

  いまだに 何ひとつ答えさえだされていません。



不毛の議論が
 
テレビで 新聞でこわれたステレオのように

  いつまでも同じ叫び声を上げています。