KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

学ぶことへの不信感

2007-07-26 12:54:03 | お仕事
わたしは何のために生きているのだろう
…という問いに対するひとつの答えをみつけた。

わたしは、
学ぶことへの不信感を少しでもやわらげるために、
学校や塾など、いわゆる学校化された教育の場で受けてきた傷を少しでも癒すために、生きているのだと。

そういうことを、
今年新しく非常勤講師として働きはじめた専門学校で教えてもらった。


ある少女は最後に、授業への感想としてこんなことを書いてくれた。

「わたしは今まで、頭の回転がよくて、世の中のことを知っている人しか書くことをしてはいけないと思ってました。世の中を知らないわたしは、書くことを避けてきました。でもそうではないとわかりました。」(プライバシー保護のため要約してます)…と。


わたしは、彼女とはまったく逆の信念を持っていた。
言葉を紡ぐこと、物語を語ることは、
弱くてちっぽけで小さなわたしが、唯一、世界とつながることのできる手段だと。
書くことは、世界の中に自分の痕跡を残していく手段であり、
文章は自分自身の痕跡を確かなものにし、わたしたちが生きるこの社会や、まだ見ぬ未来の人たちへ自分の存在を残していく手段だと。

だから「世の中」を知らない人ほど、書かなければいけないし、
「頭の回転がよく」ない人ほど、書かなければいけないと思っていた。
なぜなら、そうやってその人の痕跡を残していかなければ、
わたしたちの存在は無意味なものとして消されてしまうから。

「世の中」を知る人、「頭の回転がよい」と思われている人って、
この社会にふつーに適応している人のことでしょ?
そんな人はもう適応してるんだからもういいよ。
適応できなくて、あがいているあなたたちだからこそ、
その声を残していかなければいけないんだよ。
その声に誰かが耳を傾けてくれるかもしれない。その声に救われる人もいるかもしれない。
少なくとも、わたしはそういう人たちの声が聴きたいな。


そんなことをずっとずっと伝えていったはずだ。


そのことを、彼女は理解してくれたのだと思う。
わたしは、これほど、教師であったことがうれしいと思ったことはない。
(…こんなこと毎回書いてますが、本当にそう思うのです)


学校化された知識は、適応的な人間をつくるための知識だと思う。
たしかにそれを見につけていれば、なんの軋轢も感じずにうまーくやっていけるかもしれない。
(とかいいつつ、良い成績とってれば良い大学いけて、良い就職先があって…なんて伝説はもはや嘘なんだけどさ)

その知識とズレを感じたとき、
あまりにその知識と自分とがかけ離れていることを感じるとき、
生徒たちは傷つく。
この世の中は自分を受け入れてはくれないのだと。
そしてそんな自分を受け入れてくれそうもない知識を「学ぶことへの不信感」を持つのではないかと思う。

「わたしには関係ないことでしょ?」
「そんなこと学んでどうするの?わたしには関係ない」

…そう言いたくなる気持ちはとてもよくわかる。

だって、相手はこっちを見向きもしないのに、なんでこっちばっかりアプローチしなきゃいけないの?
政治のお勉強をして選挙にいったら世の中はかわるの?
結局いつも、自民党で、コイズミでアベじゃん。


ごもっともだ。


だからせめて、書くことの授業だけでも、自分らしくある時間にしたいと思う。
だって、書くことは、自分の痕跡を残すことだから。
わたしが教えているのは、どうしたら他者の前で自分らしくあれるか。
自分の痕跡を残しつつ、他者とつながることができるか。
その方法に関する知。それだけだ。