KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「対話論的には違ったテキストになりますね」

2007-07-13 11:45:14 | 研究
自分が、心からそのことを大切だと思うなら、
どんなに非力なわたしでも、その大切なものを守りつづけることができるのだ、
…とわかったのは最近のことだった。


大学院というのはとても専門分化の激しいところで、
研究室に入ってしまうと、他の研究室とは交流がなくなる…
という話は、たくさんある。
でも、わたしが大切にしたい学問領域はたくさんあって、
わたしはそういうたくさんの領域の中で生きていたいと思っていた。


つい最近、国際文化活動研究学会の日本大会が行われることになって、
わたしが参加申し込みをしたら、
「ポスター発表もぜひやってください」
といわれた。
わたしは、そのことがとてもとても、うれしくて、ぜひやりたいと思って、いろいろこれまでの調査資料を眺めていたのだが、
つい昨日、担当教官から
「博士論文スケジュールの関係で微妙な時期だからダメ」と言われてしまった。
夏休みに新しい発表のために研究を進めていく余裕はない、と。


どうしようもなくなって、
大学時代からずっとその分野のことでお世話になっている先生にメールした。
そのときに、その先生からかえってきた返事が、

「内容はなんでもいいのです。
 オーディエンスがちがえば、対話論的には違ったテキストになりますね」

…というものだった。

なんというか、
その返事そのものが、その学問領域全体のあたたかさや、まなざしの優しさすべてをあらわしているようで、わたしはあらためて感動した。

…もちろん、言っていることはそのとおりなのだ。
だけど、これまでの近代的なアカデミズムの考え方からいうと、研究の知見というのは個人の所有物であり、それは誰かがどこかで発表したその時点に意味を持つものなのだ。
(ノーベル賞関係の科学論文のやりとりを見れば、それは明らかだろう)
だから、当然、どこの学会誌にも、どこの学会発表募集要項にも「内容は未発表のものに限ります」と書いてある。


でも、違うのだ。
オーディエンスが違えば、違うテキストがあらわれる。
そこでどのような対話があるか…それこそがテキストの意味を決定する。
人間の文化という視点からみれば、そのほうが真実だ。

なかなか学問組織の体制はかわらない。
そういう中でこういうスタンスを当然のようにつらぬいていること。
そのことにあらためて感銘を受けてしまう。
やっぱり、わたし、この学問領域にいるわたしだけは永遠に大切にしていきたいなぁ。