KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

自分を守るための理論:弱者としての教科教育学

2007-07-05 19:43:37 | 研究
無鉄砲なところのあるわたしは、大学院に入ってしばらく、無鉄砲にいろいろな学問分野を渡り歩いた。
その時期に、たくさんの方々と知り合いになり、とても可愛がっていただいている。そのことには本当に感謝してる。

…それはそうなんだけど、
大学院に入って5年目ともなると、
さすがに、いろいろなお誘いやオファーに答えられなくなる。
最近は、そういうことが多々あって、
自分自身で、大切なことの選択をしなければならないことが多い。
自分で、「わたしにとって、何が大切なの?今やるべきことは何?」と問いかけ、
一日中、考え続けてようやく答えを出す。
そんな生活を丸二日間、続けてしまった。


さっさと答えを出せば、時間も無駄になるまいに、と自分に呆れてしまうが、しかたない。
でもおかげで、自分のことが少しわかってきた気がする。


そんなわけで、
社会・文化的アプローチの研究会には出る。
社会教育学会にも出る。
メディア・リテラシー教育の講演会にもいく。
…だが、文学関係・カルチュラルスタディーズ関係はやめておこう、
という結論を出した。
また、研究とは関係ないが、とりあえず、高校の演劇部は優先することにした。
(こんなに優先してるんだから、いつか学会発表くらいにはしてやるっっ!と無駄な決意を固めたりもするが)


カルチュラル・スタディーズの高尚な理論を聞きにいくよりも
高校生と一緒にいるほうを選んでしまったり、教育学関係の講演会を選んでしまうあたり、わたしも大学院にいる間にずいぶん、変わってきたんだなぁ…とあらためて思ってしまう。

前は、哲学や文学・社会学の理論をふりまわすだけの人間だった気がする。
理論を自分を守る刃にして振り回して、教科教育学なんて嫌いだと、ずっと言い続けてた。
自分自身が弱くて弱くてしかたなかったから、
自分を守ってくれるような理論がほしかったのだろうと今になると思う。


教育学は、いつだって、他の学問に比べたて立場が弱くて、
教科教育学はさらに、弱者の中の弱者である。
院生になったばかりの頃知り合いになったある方は、
「教科教育学は完全なる弱者ですから」と言っていた。
佐藤学氏も、国語教育学なんてイラナイと一蹴していた。
科目内容に関わる専門の学問分野と教育学だけがあればよいのだと。


わたしは、そんな、果てしなく弱い立場にある教科教育学が嫌だったんだろうな、と思う。
だって、そんなに弱い学問が自分を守ってくれるはずはないから。
わたしは自分を擁護してくれるような理論が欲しかっただけなのかもしれない。