KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

内田樹『先生はエライ』

2007-07-18 18:44:03 | 研究
「窮鼠、猫を噛む」というか「火事場の馬鹿力」というか。
こういうときは、どういうことわざが一番適当かはわからないけれど、
「自分の力では絶対どうしようもない」と思うような博士論文の修正要求がきても、2日間か3日間ジタバタしているうちに、なんとか道が開けてくる。

そんなこんなでジタバタしている中で、
「ああ。アタシの言いたかったことってこういうことだったのね」
とあらためて発見したりする。
逆に言えば、
そういうような課題を出せるT先生はやっぱりスゴイし、エライのだ。

第一回目の修正要求のあとに書き直したときには、
じたばたしていろいろ文献を読み漁っているうちに、
思いがけず、「実践的道徳知」(practical-moral knowledge)(論文中では「実践的倫理知」というオリジナルの訳語を用いている)という概念を発見して、
その概念で論文をまとめていったら、思いがけずうまくいってビックリした。


そういえば、内田樹『先生はエライ』の(ちくまプリマー新書)の中で、
歌舞伎なんかでもよくとりあげる、張良が師匠から奥義を教えられる場面がとりあげられていた。

張良は「太公望から伝授された奥義をお前に教えてやる」とかなんとか言われて、その師匠に弟子入りする。
だけどその師匠はまったくなーんにも「教えて」くれない。
ある日、張良が町を歩いていると、師匠が馬に乗ってやってくる。
…で、張良の前に来て、沓を片方落として、「拾え」と言う。
張良は、沓を拾って師匠にはかせる。
これまたある日、張良が町を歩いていると、師匠が馬に乗ってやってくる。
…で張良の前に来ると、今度は、沓を両方落とす。
すると、張良が「わかりました」とかなんとか言って、免許皆伝。


そんなお話。
この話、『先生はエライ』の中でも、「張良、すげぇ!」という話(学びはそれを学ぼうとする者に開かれる…ということの事例)として解釈されていたような気がします。
確かに、張良はすごいのだろうけど、それだけでもないとわたしは思う。

どうでもいい例えかもしれないけど、
例えば、師匠が一回目に町で張良に会ったとき、沓を両方落としていたら、張良は「わかった」のだろうか?…と思う。

確かに、その師匠がただ単にぼけていたという可能性は否定できないけど、
(会話分析やってると、そういう現象に多々出会うんだな。これが。)
師匠が一回目に町で張良に会ったとき、沓を「片方だけ」落とした…ということに意味があるんじゃないかと私は思う。
だって、片方だけ落とされたからこそ、「偶然なのかな?…それとも意図的なのかな?」って悩むもの。両方、沓を落とされたら、「間違いなく意図的だ!」って思うんじゃないかな。
で、きっとそういう状態からは、張良は何も学ばなかったと思う。
学べなかったと思う。
だって意図的であることが自明だったら、その意図の中身を探ろうとしか思わなくなるだろうから。でもその意図の中身なんて探ったところで何も出てこないでしょう。おそらく。

偶然か意図かわからない状態で、二回目がきたからこそ、「わかった!」っとなったんじゃないかな。
これは、もしも、内田樹氏のその後の説明が正しいのだとしたら、という仮説に基づいた話に過ぎないけれど、そうでないとしても、やはり一回目に「片方だけ」沓を落としたことに意味があると思う(説明不足きわまりなくて申し訳ない。気になる方は『先生はエライ』を読んでください)。


その人にとって、もっともふさわしい学習のデザインの仕方ってあると思う。
そういうデザインの仕方を、本能的に知っている人も確かにいる。
T先生は間違いなく、そういう「教育的センス」をもっている人なのだ。間違いない。
…どうでもいいけど、こういうふうに、先生を賞賛することが、一種の「のろけ」にあたるということを、内田氏の本を読んで初めて知りました。

いや。
でもわたしは生涯を通じて、本当にこれ以上なくステキな先生たちに出会ってきてると思うよ(←のろけ)