goo blog サービス終了のお知らせ 

KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

それでもやっぱり国語科は好きになれない

2007-08-10 22:18:11 | わたし自身のこと
以前の記事にも書いたが、
1年以上先の小学校教諭認定試験に向けて、小学校全科の勉強をしている。

本日は「国語」。
自分自身の中にある矛盾と、
純粋なる研究的好奇心に沿いきれないかもしれないという恐怖と。
…そんないろいろなものを抱えて大学院に入学して五年。
国語教育学を研究する自分を少しずつ認められるようにはなったけれど

それでもやっぱり国語科は好きになれない。

小学校学習指導要領の文言を見直してみて、あらためてそう思った。


このブログを読んでいる人の中には学習指導要領なんて見たことない人も多いだろう。
日本の学校教育は学習指導要領に基づいて行われる。
現在使われている学習指導要領は、平成10年に改訂されたもので「平成10年版学習指導要領」と呼ばれている。

ここは重要な点なのでしつこいようだが確認しておきたい。
この学習指導要領は、けして、戦前から連綿と続いているものではない。
平成10年に改定された「新しい」学習指導要領なのだ。
その学習指導要領の「国語科」の「指導計画の作成と各学年にわたる内容の取り扱い」に以下のような教材選定の観点が示されている。


「我が国の文化と伝統に対する理解と愛情を育てるのに役立つこと」

「日本人の自覚をもって国を愛し、国家、社会の発展を願う態度を育てるのに役立つこと」


もう一度言おう。
この学習指導要領は平成10年に改訂された「新しい」学習指導要領に掲載されている文言である。
戦時下の学習指導要領(戦時下にはそんなものはなかったのだが)ではない。


日本の文化を愛することを悪いと言っているのではない。
わたしが恐怖を感じるのは、「愛する心を育てること」が「教材選定の観点」として示されているという事実だ。

わたしはバリバリのフェミニストだが、
そんなわたしだって、
「男女平等の精神を理解し、フェミニズムの理念を尊重する態度を育てること」
…なーんて文言が「教材選定の観点」として示されることには反対である。
そんなのオカシイと思う。


男女平等の精神を理解することは大切だ。
(差別問題にかかわったことのある人ならよくわかるだろうが)無知であることはやっぱり罪だから。
だけど、そのことと「尊重する」「愛する」という問題は別問題だ。
それは個人の思想の問題であって、
そういうことを、国民の義務である義務教育の内容にしてしまうのは、国家によるイデオロギー統制ではないか。


しかも、そーんなイデオロギー統制バリバリな文言を掲載しているくせに、
しれっと…

「児童の読む図書については、人間形成のため幅広く、偏りがないように配慮して選定すること」

…なーんて書いてしまう、この鈍感力。
そんな矢先、たまたま寄った本屋で、読書感想文の「課題図書」コーナーを見つけて、あらためて苦笑してしまう。


偏りがあるのは、お前ら自身だろうがっっ!!

マンガもアニメも見ない人間に「偏り」どうこう言われたくありません。
そういう輩に限って、見もしないくせに
「マンガはお菓子です。お菓子だけでは人間は生きていけません。良い本を読みましょう」なんて言いやがるんだよな。

「良い本」ってなぁに?
それこそ、偏ったイデオロギーを流布するための装置でしょ?


…あーあ。
こんなに怒ってたせいで、この文言、絶対忘れられないよ。
そんなわけで、なんだかんだ言いつつ、勉強は進んでいます。

言葉しか要らない

2007-08-09 22:19:40 | わたし自身のこと
生きることを真摯に考えられる人は美しいと思う。


生きるために、体は必要なのだろうか。
わたしがいくら、言葉しか要らないといっても、
わたしの体は残りつづけてしまう。
でもわたしにとっては、
体だけが残り、言葉が失われていくほうが、
果てしない恐怖だ。


わたしの体は世界とつながることができない。
わたしに残されているのは言葉だけだ。
どんなにストイックに生きようとしても、
わたしは自分の言葉だけは手放せない。

遺産相続パラダイス

2007-08-09 22:01:10 | わたし自身のこと
実は、今、わが家が遺産相続でもめている。

遺産相続問題なんてまったく遠い世界のことだと思っていたら、
いつの間にやらこんなに身近な話になっていた。
驚きである。


実をいうと、今でもどういう人種の人たちが、いったいどういう事情で、遺産相続なんかの問題でもめたり…面倒くさいことになったりするのか理解できない。
なので、これを機会に、
なぜ、日本人が遺産相続でもめるのかを考えてみたい。


先に結論を言うと、遺産相続問題が生じる原因は、
日本に古くからある「不平等」を前提とした慣習と、
「平等」を前提とする法的なルールとの矛盾にあると考えられる。


日本の慣習は人間が「不平等」であることを前提としている。
いまだに差別はなくならないし、
いまだに男性の賃金より女性の賃金が低い。
カリスマと権威にべったり甘えながら、
優越感と劣等感を交錯させることによって成り立っているのだ。日本は。


そういう社会の中では、
いまだに男性のほうが女性より「エラく」、
いまだに長男のほうが次男・三男より「エラい」のだ。きっと。
で、そういう優劣を決定する構造の中で、
遺産の相続者1名がなんとなーく見かけ上決まったように見えてしまうらしい。

法律上、手続きしなきゃ相続したことにならないのに。
法律上、なんの手続きもなければ、相続者は決まらないはずなのに。


そんなわけで、そんなふうになんとなーく相続者に決まったように見えてしまった人は、「この遺産はオレのモノ」という意識を持つようになる。

法律上、手続きしなきゃ相続したことにならないのに。
法律上、なんの手続きもなければ、相続者は決まらないはずなのに。


この状態。
すなわち、法律上ではまったくなんにも決まってないけど、一般的な信念においてなんとなく決まっている状態が、遺産相続問題の根本にある。
つまり、なんにも決まってないのに、「俺のモノ」意識だけができあがっちゃうから、他の人は口出ししにくいわ、その割りにソイツなんにも進ませようとしないわという状況ができあがっちゃうのだ。


…ああ!面倒くさい!!


国家が、相続手続きをしない人間に罰金を課すことにしたのは、ものすごく良い決定だった。
しかしそれでもなお、相続問題がなくならない現状を考えると、罰則をもっともっと重くするべきなんじゃないかと思う。


もういっそのこと、
1年間放置したら全額没収…とかそのくらいにしないとダメかもよ。

1年間なーんにもしない奴が相続人になっているにしても、
1年間相続問題でもめつづけて決められないにしても、
どっちにしろ、1年ぐらいで「ハイ、もうおしまい」って誰かが言ってくれない限り、人間関係がドロドロしていくだけ…って感じがします。


お金は、わたしたちが幸せになるためにあるのにね。

書くこと。生きること。

2007-08-01 13:36:08 | わたし自身のこと
書くこと。そして生きること。
…このことの関係についてずっとずっと考えている。

博士論文を書いていると、
わたしがずっとずっと考えてきたこの問題にあらためて向きあわざるを得ない。


わたしは、なぜ生きているの?

この問いに、確かな答えがあるとしたら、
それは、書くこととの関わりの中にある。
たとえ、「書くことを教える」という間接的なかたちであるにしても。


それだけは、確か。


・・・・・・

わたしは、世界から残されて、たったひとりだったから、
いつ消えてもいいと思っていた。


消えないための手段を考えていたわけじゃない。


だけど、せめて自分の痕跡が、たとえ微かな痕跡であったとしても、
残すことができたらと思った。


そのときに、わたしに残された手段は書くことだけだった。
あのときは、毎日、何かを書いていた気がする。


人と人とがつながるためのことば。
そのことばを痕跡として残すための「書くこと」。


痕跡は残される。
<いま・ここ>にいるわたしでない誰かに向けて差し出された痕跡。


誰でも、その痕跡を見ることができる。
わたしでない誰かもそれを見ることができる。
もちろん、<いま・ここ>にいるわたしでないわたし、未来のわたしも。


その痕跡を見るときに、
わたしは、自分が生きていたことを思う。


それは、わたしが生み出せるほんのかすかな光。
混沌とした闇の中で、わたしがわたしであることを知るための光。
わたしが一人でないことを知るためのかすかな光。

イビツで非対称な関係

2007-07-21 15:21:40 | わたし自身のこと
三国志の中でもっとも好きな軍師は誰か、と聞かれたら間違いなく、荀を挙げます。
もし軍師としての活躍度を全部数値化することができたら、
三国志No.1軍師になるのは彼だろう、と勝手に思っています。

でも私が彼を好きなのは、そんな表だった側面ではありません。
彼にまつわるエピソードでもっとも好きなのはこれです。
(もちろん、彼の死にまつわるエピソードにはいくつかのものがあるので、
これが実話だったのかどうかはわかりませんが)


曹操から贈られてきた食事のフタを開けたら、
中身が空だったので、
これは「死ね」という意味だと思って、自殺した。

これです。
…なんてステキなんだろう。
なんてナイーブで、ヴァルネラブルなんだろう。
(こういう解釈自体、乙女な妄想だということは自覚してます)

あのマッチョな男だらけの、三国志の中でのこのナイーブさ。
きっと彼、傷つくこともすごくすごく多かったんじゃないか
…なーんて勝手に想像して心配してしまいます(←無駄)。


イビツで非対称な関係性を形成してしまうのは、
もうどうしようもないのでしょうか。
そういう人間は一生そのまま生きるしかないのかな。


わたしもそのうち、
自分にとって大切な人から、何の意図もなく送られた空の食器を見て、
自殺してしまいそうな気がします。

バブリー恋愛観

2007-07-04 13:34:38 | わたし自身のこと
かなり昔、何かの本で、
「バブリーな恋愛観を追い求めてしまう女たち」の記事を読んだ反動で、
どんなに傷つこうと、イヤな目に遭おうと、酷い仕打ちをされようと、
「まあ、人と付き合うなんてこんなもんでしょ」
…と、納得してしまう自分がいる。

最近は、そんな自分がとても嫌いだ。

「バブリーな恋愛観」というのは、つまり、
「もっとステキな恋愛があるはずだ」「もっと良い男がいるはずだ」と、そんな理想を追い求めて現状をいつも不満気に捉える女性たちのこと。
正直、そういう女性の数は少なくないと思う。
誰だって、もっと幸せになりたいからだ。
自分をもっと幸せにしてくれる異性とめぐりあいたいからだ。
だから、そういう人たちの思いすべてを「バブリーな価値観の持ち主」として一蹴してしまうのは筋違いだと思う。
(もちろん、あまりに現実離れしてしまうのは問題であるけれど)


ついに最近、
「おまえ、完全に被害者だもん」
…と言われてしまった。

わたしは、もうちょっと幸せになろうと思っても、
よかったのかもしれない。
自分を蔑むことは、誇大妄想を抱くことと同じくらいには罪なのかもしれない。

…そういうふうに思えるようになっただけでも、
わたしは少しだけ、前に進んだのかもしれない。

メガネのおっちゃん

2007-07-01 21:28:30 | わたし自身のこと
愛車のウィングロードを車検に出しているため、
一週間くらい、車なし生活を送っている。

わたしは、いつも実家の近くで車検を出すようにしていて、
また、車検の時期がちょうど一学期末から夏休みの時期でちょっと余裕ができることもあり、車検の期間は実家で休養をとることにしている。
そんなわけで、
久々の徒歩生活の余暇を満喫している。

今日、久々に、小学校のときに何度も歩いた通学路を逆戻りするかたちで、
駅から家まで帰ってみた。
駅から歩いて…ガード下のトンネルを抜けて、細い小道に入る。
すると、そこに、「メガネのおっちゃん」がいた。

小学校のときというのは、
行動範囲が狭いせいか、自分の領域内の小さな世界のさまざまな「おもしろさ」を発見しまくる時期だと思う。
わたしもまた然り。

「メガネのおっちゃん」はそんな「おもしろさ」を演出するキャラクターの一人だった。
まるで志村けんがコントで使うようなビン底メガネ(当時のわたしは「岡田あーみんのマンガみたい」と思っていたが)で、
U字シャツとももひきで縁側に座り、新聞を読んでいる。

小学生のわたしたちは、「メガネのおっちゃん」の歌を作った。
3番まで作ったはずだが、残念ながら1番しか覚えていない。

♪メガネのおっちゃーん 
 メガネのおっちゃーん
 メガネふきふき
 勉強してる    ♪

この歌から、当時のわたしにとって
新聞を読むことは、イコール、「勉強すること」だったことがうかがえる。

久々に会った「メガネのおっちゃん」は、
あいかわらず、同じ風貌で、ビン底メガネもまったく変わらずだった。
しかも、ポストに入っていた新聞をとりにきた。

何もかも変わらない。
「メガネのおっちゃん」は健在だった。
そのことに何よりもおどろいた。


河川工事が行われ、わたしの家の前の道はなくなり、
あれだけ毎日遊んでいた公園もいつの間にやらなくなっていた。
ベイシアができて、センドウができて、コメリができて
セルフのガソリンスタンドとスーパーが乱立するようになった。
…それが、すべてここ10年の間に起こった。

だけど、「メガネのおっちゃん」の生活は、もう20年近く変わっていないことになる。
それがあまりにも「メガネのおっちゃん」のイメージにぴったりで、
そのことに一人で苦笑した。

水戸にいきたしと思えども…

2007-05-31 13:15:25 | わたし自身のこと
最近、
この3月にやった水戸芸術館での調査に基づいた論文を書いているせいか、
とても水戸に行きたくなる。
というよりは、「夏への扉―マイクロポップの時代」展が見たくなる。

だけど、水戸にいっても、「夏への扉」はもう見られない。
そろそろ次の展覧会が始まっているだろう。
「夏への扉」はもうすでに、過去の展覧会なのだ。

でも、そのことに自分自身の感覚がついていっていないような気がする。
いつでも、
水戸芸術館にいって、ギャラリーを折り返すと、あの暗い部屋があって、
そこには、「ヒューヒュー」やら「ブルルルル…」やら謎の音声がとびかうカオス空間があるのではないかと思ってしまう。

でも、もはや、そこに、そういうものはない。

ハシゴにのぼって、
一万円札とともにめっちゃ笑顔になったり、ションボリしたりする泉さんはもう見られない。
そのことが信じられない。

そういう感覚は、
小さい頃、勇気を出して入ってみた、あの古ぼけたお屋敷に似ている。
わたしの中で、そのお屋敷はまだあるのだが、
実際には、近くの河川工事の関係で壊されてしまった。
最後まで、人が住んでいるのかいないのか、わからなかったあのお屋敷。
それは、わたしの中にずっと生きている。

いろいろなものが、なくなっていく。
それが時間が流れるということなのかもしれない。

水戸に行きたいなあ。
せめて、有馬さんの個展を見に行きたい。
そのくらいの贅沢は、今のわたしに許されるだろうか。

「所有」の季節:表現の「所有」について

2007-05-16 13:15:19 | わたし自身のこと
5月初めに、
いろいろとカルチャーショックなことがあって、
自分が当たり前と思っていた価値観を見直すきっかけになった。
その中のひとつが、表現のこと。
表現すること。そして、表現によって創作された作品のこと。


自分で書いたあらゆる文章は、
おそらく、わたし自身の「表現」といってもよいのだろうけど、
自分自身としてはそんなものとして思ったことがなかった。

でもそれは、ある種、特別な感覚なのかもしれないということに気づいた。

確かに、ブログの記事ならともかく、
「CINII」で本名で検索すればヒットしてしまうような論文の数々や、
一応、作者名をわたしにしている脚本まで、
「自分の作品ではない」「自分の表現ではない」と言い切ってしまうと、
さすがにそれは、一般的な価値観とのズレがあるのかもしれないと思う。

でも、実際にわたしはそう思っている。
そもそも、ある表現や作品を、
誰かが「所有」するものとして考えてこなかったし、
また、そう考えることが苦手なのだと思う。

例えば、脚本。
作者名をわたしの名前にして書かれた脚本は、演劇部の高校生たちに手渡される。
この瞬間に、作者名としてのわたしの名前なんて、ただのラベル以上の何者でもなくなってしまう。
わたし自身もそういうものだと思っているし、
高校生たちもそう思っているのだと思う。

実際、わたしが「作者」であることが顕在化する場面は、
あの高校生たち特有のジョークや嫌味(?)の中だけだ。
(わたしが「筆者の意図」という言葉が嫌いなので、わたしが演出していると、あてつけにそんなことを言ったりする。まったくもう。)

演劇部に遊びにきてくれているわたしのパートナーも、
「いろいろ手伝っている中で、そんなこともやっているって感じ」
…というようなことを言っていたし、きっと、そういうものなのだろうと思っている。


そう。
正確に言えば、あの脚本は「たたき台」であって、いつ捨てられてもいいもの。
目的が異なれば、いつでも変えられてしまうような「オモチャ」のようなものだから、作者も筆者もないのだ。
そんなふうに思っている。

「オモチャ」が人々が集まって行う遊びの中で生み出され、
その中で機能していくように、
わたしが書いたものも人々が集まって、何かを行うとする中で、
ひとつの「道具」として生み出され、機能していく。
それだけの話だ。

それは脚本だけでなく、論文も同様である。

そこにあるのは、フィールド調査―分析―論文執筆をめぐる一連の集団による行為でしかない。
そこには、さまざまな人が関わるし、
わたしがしていることは、たまたまそのようなさまざまな人々が行う行為のなかで、「研究」あるいは「論文執筆」という役割を担当しているだけなのだ。

オーサーシップは、たまたたま、執筆を担当した者に与えられた名前に過ぎないと思う。
こういうことを示して、
わたしは、ある方にこう言った。


わたしにとって、表現とは、作品とは、非常に倫理的なもので、
自己の表出、自己のオリジナリティの現れとは見ていないのだ、と。


そもそも表現とは、誰かが「所有」できたり、
「所有権」を主張できたりするものなのだろうか?
完全なる孤独の中に生まれた表現は、確かに、あるのかもしれない。
だけど、もし、そういうものだけが「表現」と呼ばれるのであれば、それはあまりにも表現の枠組みを狭めてしまうのではないか?


谷川俊太郎氏は、小学生が作った自作のパロディを見て、怒りを覚えたという。


もし、そういうものだけが表現なのだとしたら、
わたしは、一切、表現なるものを行ったことはない。
だって、例え、わたしが自分の論文内容の濫用に怒りを覚えたとしても、
それは、わたしが「研究」という過程をともに過ごしてきたさまざまな人への倫理的な責任感から生じる怒りであろうから。
それは、「自分を侵された」ことへの怒りとは一線を画している。

医学と似非医学:「アルカリ性」と「酸性」

2007-05-09 09:48:41 | わたし自身のこと
さきほどの診察の話の続きです。

とりあえず、診察を終え、風邪だろうという話になりました。

医者はおもむろに「かぜを治すためには」と書かれたプリントを取り出して、わたしに説明しだします。
「休養すること」「暖かく過ごすこと」など二つの項目の説明を終え、
最後の「食事について」に入った途端、医者はこう言いました。

医者:「大事なのはね!体をアルカリ性にすること!」
わたし:「…は…はぁ。」
医者:「だから、スポーツドリンクや緑茶なんかね。いいから。アルカリ性。あとは、梅ぼし!アルカリ性ね。」

医者はやたらと「アルカリ性」を繰り返します。
そして、最後に、

医者:「牛乳は乳製品なんかはダメ。酸性だからね。下痢したりとかしちゃうから。」
わたし:「…はぁ。」


体液はアルカリ性だとして、
「アルカリ性食品」とやらと人体との関係は、ないんじゃないでしたっけ…?
それとも、そういうわたしの認識が似非医学なの?

どうも「アルカリ性」やら「酸性」やらという言葉を聴くと、
「あるある大事典」やらその他の、似非科学健康番組を思い出してしまいます。
…うーん。疑わしい…と思ってしまうわたしが間違っているのか?


ちなみに、
今は、医者の指示に従って、緑茶とスポーツドリンクを飲んでます。
とりあえず、回復には向かっているようです。