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KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

あいかわらず、年齢不詳

2007-05-09 09:41:02 | わたし自身のこと
微熱と胃痛が続いたので、
先日、ついに内科に行ってまいりました。

そのときの出来事です。

わたしが診察室に入ると、医者がまず一言。

医者:「失礼ですけど、お子さんいらっしゃいます?」
わたし:「は?…いません。」

…嗚呼っっ!
もうそんな年に見られるようになったのか…。

医者:「じゃ、ちょっと診察しますんで顔上げてください。」
わたし:「はい。」

…と言って、顔をあげるわたし。
すると医者。

医者:「ああ。大学生?バイトの帰り」

時刻はすでに5時半。
他に診察を受ける人はOLやサラリーマンといった感じの人々ばかり。
そんな中、何故、同じようにスーツを着ているわたしが「大学生」なのか。

いったい、この人には、年齢いくつくらいに見られてるんだろう?

「大学生」なのに、「子どもがいる」ように見られているのか?
それとも、
「子どもがいるか」というのは、医者として確認すべき事項で、「大学生」に見られていたのか…?

いろいろ謎。
あいかわらず、年齢不詳で生きてます。

存在することの実感

2007-04-27 14:53:07 | わたし自身のこと
確かにその人が存在はしているのは事実なのだけれども、
その人が「確かに存在している」という実感が、果てしなく希薄な人がいる。

以前からいろいろな人に言っているが、
わたしは、眠っているときに見る夢の密度が、とても濃くて、
(あるいは、現実の記憶がとても薄いのかもしれない。相対的なものだから)
夢で見た内容と現実との境界が曖昧になることが、とても多い。
さらにいうと、物語でいつか見た内容との境界も曖昧になることがあって、
わたしにとっての「現実」というのは、本当にわたしが実際に体験した現実なのだろうか、と考えると、とても自信がない。

あるとき、
相手は覚えていないが、誰かに告白され、
なぜかわからないがパートナーに何か悪いことをしてしまった夢を見たことがある。
その後、すぐに「しまった!なんてことをしてしまったんだ!」と思って、ガバッと起き上がり、現在のパートナーに謝罪メールを打とうとして、ハッと我にかえり、「ああ、夢か」と気づいたのだが、こういうことがあること自体が自分でもよくわからない。

夢における自分の行動のコントロールができない、というのは誰しも抱える経験ではあるが、起きたあとにその行動に責任をとろうとした人はあまり聞かない。
それほど、わたしにとって夢と現実の境目は曖昧なのだ。

そんなわたしではあっても、
自分の存在が希薄であると感じたことは多々あっても、
他人のことをそのように感じたことは、これまで一度だってなかった。

だけどその人の存在といったら、あまりに希薄すぎて、
ぼんやり考えていると、
「あれ?いつか読んだ小説の登場人物だったかな…?」なんて、思えてきてしまう。
夢に出てきた記憶すらないから、そういう確信が深まってしまって、さらに質が悪い。


高校時代以来会っていない友人にも、
一度しか会ったことのない子どもたちにも、
そんな感覚は抱いたことがない。

だから、とても気持ちが悪い。
わたしって、そんなに現実感が危うい人間だったかなぁ。

自分の仕切りなおし

2007-04-12 12:49:59 | わたし自身のこと
わたしがこれまで生きてきて精神的に一番つらいと感じていた時期は、
大学院に入ってからの2年間でした。

わたしを支えてきてくれた周囲の人々をすべて失って、
自分のやりたいことすらハッキリとは見えない状態で、
自分にとって「なんか違う」と感じられるような授業ばかりを受けなければならなかったあの頃は、本当につらかった。
何度も、退学や休学を考えて、
カウンセラーに相談したり、担当教官に相談したりしました。
けど、結局、ここにいつづけています。
そして、もう5年生。最終学年です。

あのときは、あんなにつらかったのに、
それでも、ここにいるなんて、本当に不思議だと思います。

そういえば、昨日、最近知り合いになったかたに、
「T先生(担当教官)牧場の異端児です」とメールの最後に付け加えて書いておいたら…、

「kimsitevaさんだったら、T牧場の異端児どころか、N学系棟(わたしの研究室がある建物)の異端児と名乗っても許されるのではないでしょうか?(本気で。)」

…という返信がかえってきて、凹みました。

教育学の異端児だという自覚はあったけど、
心理学・心身障害学・教育学あわせても、さらに異端児と言われると、
「自分ってなんなんだろう?」
…とあらためてアイデンティティの危機に陥ります。

そんなわたしではありますが、
(まったく読んでもらってないようですが)博士論文のドラフト(草稿)も出したし、博士論文提出の用件もどうにか揃いつつあるようです。
これは、本当に不思議な話です。

とはいえ、そこまで来てしまった昨年の12月からは、
精神的に不安定な時期を送っていました。
自分の中の未整理なものすべてを整理しきってしまうと、そこには空虚感が残ります。
曖昧なものや未整理なものに支えられて、自分のやりたいことなり、自分のこれからの方向性なりを決めてきたわたしにとって、自分の中の整理がキレイについてしまっている状態というのは、不安定な状態でした(…なんて逆説的な話でしょう)

そのようなしだいなので、
いつか、自分の仕切りなおしをしようとずっと思ってました。
解決できない課題や、整理できない問題を、もう一度、自分の中で抱えなおさないと自分がこれから先、生きていけないような気がしたのです。

昨日はそのための一大決心をしました。

教育社会学のコミュニティに参加しようという決心です。
これまで、教育社会学っぽいことはたくさんやってきたつもりですが、実をいうと大学時代から本格的に学んだことは一度もなかったのです。
そのため、教育社会学に関わる人の資源が乏しく、いつも「孤軍奮闘」でした。

たまたま、いろいろな人とのつながりの中で教育社会学を志す院生と知り合いになれたので、これを機にそのコミュニティに入ってみようと思いました。

わたしのやってきたことは、どれだけ「教育社会学」として通用するのかは、まったく未知数ですが、できるだけのことを今やっていきたいと思う。
そのための自分の仕切りなおしです。

ワタシハ カンペキ ダー!!

2007-03-26 11:16:32 | わたし自身のこと
わたくし、言わずと知れた強迫神経症です。

ゴチャゴチャに集められたビーズの仕分けとか、
転がった無数のビンをすべてきちんと立てていく作業とか、
グチャグチャした文章をきちんと整理していく作業とか、
…大好きです。

こういう人間は、小論文の赤ペン添削に向いていると思います。
わたしの専門学校での仕事は、まさに、天職!

グチャグチャだった小論文が、
赤ペンで添削いれたあとに、スーッと筋のとおる清書で返ってきたりすると、
とてつもない恍惚感が味わえます(変)
しかも、なぜか(?)生徒たちにも感謝されます。
まさに一石二鳥!

それはともかく、
昨日、数日ぶりに実家から帰ってきたら、台所の電気がつけっぱなしでした。

が がががーーーん ! !

こういうとき、強迫神経症の人間はパニックに陥ります。

なぜだ!なぜだ!なぜだ!!
わたしの何が悪かったんだー!!

そして自分への不信感のデフレスパイラルです。

やっぱりわたしなんて信用ならないんですよぉぉ。
わたしは、カンペキじゃないんだぁぁ…。

そして外に出られなくなったりします。

ああ。いつになったらわたしはカンペキになれるのか。
いつもいつもいつも、

「ワタシハ カンペキ ダー!!」

と振り付けつきで言ってはみるものの、まったくカンペキになれません。
…こういう人間は、統計調査には向いていません。

やさしさの実感

2007-03-24 16:39:20 | わたし自身のこと
以前、どうしようもなく落ち込んだときがあって、
誰のまなざしも意識することなく、
その気分をぶつけるかのような文章を書いてしまいました。

落ち込んだときというのは、不思議なもので、
自分では見えているつもりでも、実は何も見えなくなっているようです。
実は、目を閉じている。
それまで開いた目を自ら閉じているのに、自分で「見えている」と暗示をかけているようなものです。

わたしの場合、こういうときに心配してくれる方がいて、
そのことをとても幸せだと思います。

心配してくれる人の存在、
気にかけて声をかけてくれる人の存在は、
わたしが目を閉じている…というその事実に気づかせてくれます。


そういえばあるとき、
自分が現在いる研究室に自分の居場所が見出せなくなったときがありました。
(一般的に見ても、国語教育学という分野にわたしの居場所が「ない」ことは明らかなのですが(笑))
「もうダメだ。明日から研究室に来るのはやめよう」と決意して、担当教官T先生に、「精神状態を崩したのでしばらく学校休みます」…のような文面のメールを書きました。
メールを書いて、送信して、
PCをシャットダウンして、荷物を片付けて帰ろうとしたそのとき、
T先生がかけこんできて、
「大丈夫か!」と第一声。

たったこれだけのことですが、
そのおかげで、わたしは次の日も研究室に来ることができました。
別にそのあと、きちんと相談したわけでもなんでもないのです。
でも、そういうやさしさを実感する出来事が、わたしには必要だったんだと思います。

今のわたしが生きていられるのは、
「もうダメだ」と思ったそのときに、
やさしさを実感させてくれる人が、周囲に存在してくれているからだということは、間違いないと思う。

今回も、そんなことを実感しました。
わたしは、本当に、幸せだね。

常磐線内の「ささやかな抵抗」

2007-03-12 19:26:01 | わたし自身のこと
TMライナーという便利で人気のない乗物の本数が激減してしまったため、
現在、水戸芸術館に通うために常磐線を利用している。

この前、常磐線の人気のない車内で揺られながら、
ぼーっと前の扉を見たら、
あまりにも小さな、ささやかな抵抗が電車のドアに施されているのを見つけた。

ドアにシール(テープ?)が貼られている。
ドアが開いたらどうなるのだろう…と、ちょっとだけドキドキする。


ドアが開く。


当然、はがれる…が落ちない。
うまく、それぞれのドアに片側だけ粘着して、
またドアが閉まると、もとのようにドアの分け目にシールが貼られているように見える。

でもきっと、初めにはった人は、電動で動くドアに対し、ささやかな抵抗を試みたに違いない。
そして、わたしより、もっとドキドキしたに違いない。

「ドアが開いたらどうなるんだろう?」


そんな常磐線内のささやかな抵抗のお話。

自分のための出費とは:『リトルボーイ-爆発する日本のサブカルチャーアート』:

2007-03-09 17:05:52 | わたし自身のこと
わたしの実家はそれほど裕福ではなかったし、
高校生に入って突然、大人側の経済感覚や世間の感覚を身につけざるを得なくなってしまったので、自分のための金銭を費やすことに興味がない。

学術振興会の特別研究員に受かったとき、
「年間3万円ずつくらい自動引き落としでユニセフに寄付しようかなぁ…」とわたしが本気で言ったら、わたしのパートナーはため息をついた。

そんなわたしが、昨日、ついに思いきって、
自分のためだけに、自分のほしい高価なものを買った。
それが、
村上隆『リトルボーイ-爆発する日本のサブカルチャーアート』である。

水戸芸術館に高校生ウィークカフェスタッフのためにいったときに買ったものだから帰りが重い、重い…。
思いきった買物は、時期を選んでするべきである。

『夏への扉-マイクロポップの時代-』の展覧会カタログも一緒に買った(予約した)ので、
合計15000円弱!!
当然、カード買い!!
うわーー!大人だーー!!

…と一人で一日ドキドキハラハラしてしまった。
そして、今も一人で人知れず罪悪感にさいなまされている。


でもやっぱり買うべきだった…と思えるのは、
『リトルボーイ-爆発する日本のサブカルチャー-』をみんなに見せたいと思えるからだ。
わたしの周囲にいる友達や、専門学校で出会う学生たちに、すごくこのカタログを見せたいと思う。わたしが持っていれば、わたしに触れる人たちはこのカタログを見ることができるだろう。
そして、きっと、いろいろな話を聞かせてくれるだろう。
そしたら、わたしはすごく幸せだなぁと思うのだ。

結局、わたしにとって本やアートとは、
誰かとともにあるコミュニケーションを開くものでしかないのかもしれない。
そんなことを最近、思う。

★遅咲きガール★

2007-02-16 14:36:07 | わたし自身のこと
生物というものは、とても、うまくできていると思う。

わたしの所属する大学の実験心理学の先生の中に、
動物実験で恋愛行動を確かめる…という、大学院生になった今から考えると、おそろしく先進的なことをやっていたなぁと思える、偉大な先生がいた。

その先生は、わたしが大学2年生だった当時、鼻息が荒いことで有名で、
そしてその鼻息はマイクに音声として拾われてしまうので、
宿命的に学生たちにネタにされていた。
「~ですーっ…フゴー(←鼻息)」という言い回しは、かなりわたしの周囲でブームだった。(同じころに、「kimistevaウォーク」もネタとして流行していたという話はまた別の話)


その先生は、その鼻息の荒さも去ることながら、
言い回しがいちいち印象的で、多くの名言を残した。
その名言のひとつに、

「セックスなんて動物だろうが人間だろうがやることは一緒。なんの面白みもない。面白いのは、それまでなんですーっ…フゴー」

というのがある。
1年生必修の基礎科目「心理学」で18歳前後の少年少女相手に、そんな話しなくても…、とも思いつつ先生の話を聞いてみると、面白い部分というのは「恋愛」、すなわち、できるだけ無作為に(そしてできるだけ進化に効率が良いように)相手を選ぶプロセスだという。

そう考えると、一番効率が悪いのは、「ペアができない」状況が多々発生すること。でも、実際はけっこうスムーズにペアは形成される。
これってすごい。

人間も同様で、
いくら、自分の顔が悪いとか、プロポーションが悪いとか、悪いところを並べあげて絶望的になっていても、
結局、そういう不完全な誰かを好きになってしまうのだし、
不完全な自分も誰かに好かれてしまう。
ただし人間の場合、生物的な進化云々よりも、社会・文化的な要因のほうが強いから、このペアは生物学的な要因によるペアというよりも、社会・文化的な要因のためのペアなのかもしれないけれど。

それはともかく、
そんなシステムのおかげで、わたしも孤立することなく生きていけるのだが、
それでも、「自分が孤立せず存在するための」「好かれるための」コミュニケーション・パターンというのが安定し、確立するにつれ、自分がどんどんそこから離れられなくなることに一種の絶望感を抱くことがある。

こうすれば、「好かれる」ことはわかってる。
だけど、だとしたら、そうでないわたしはどうなるの?

そんな不安を、試すこともできないまま、漠然と抱えてしまうことになる。

そんなとき。
自分を他のコミュニケーション・パターンに誘ってくれる他者が存在することは、これ以上なく、ありがたいことだ。
とにかく、うれしい。喜ばしい。
飯田橋駅西口前を「わーい♪」と言いながら、とびはねてしまうほど、うれしい(実話)
突然、任天堂DSを買おうかな、と思えてくるほどうれしい。
わーい♪わーい♪わーい♪


この日、関東には春一番が吹いていたらしい。
そんな「遅咲きガール」な一日だった。

…誰かに無条件に優しくされることって、稀有な経験だよね。
わたしも、誰かに対してそんな存在であれるだろうか。
いつでも、そうありたいと願うよ。

多大なる負の遺産

2007-01-25 17:14:52 | わたし自身のこと
ようやく先週からずっと続いていた鬱病から回復した。

鬱病は「心の風邪」とよく言うけれど、
これは、すごく上手いなぁと、わたし個人は思う。

理由その1。
わたしの場合、ダラダラダラダラと休まずに毎日を続けていると、風邪の場合と同様、鬱がこじれる。

理由その2。
治療方法は、家で一人とじこもって寝ること。これしかない。

理由その3。
さらにつけ加えると、わたしは鬱病で寝込んでいるときに、(なぜか)風邪薬を飲む。

…外の他人から見たら、完全に風邪。
だからこそ、他の人に余計な心配をかけなくても済むんだけど。

ただし、風邪と異なる大きな点がひとつ。
それは、鬱病の場合、治ったあとに多大なる負の遺産が残ること。
昨日の夜から今日までは、その負の遺産を処理するために費やすことになってしまった。


負の遺産…。
要するに、ふだん表に出さずに自分の中にしまいこんでおくような
さまざまなネガティブ感情である。
正確にいうと、ネガティブ感情を噴出させたまま、人との対応をしてしまうせいで、その方々に、ものすごーーーく不快な思いをさせてしまう。
…そのことである。

ああ。だから、鬱のときは誰とも連絡をとらないのが一番なんだっっ!
毎回、反省するのに、また同じ過ちを繰り返してしまうという学習能力のなさ。
ああ。われながら、イライラする。

そんなわけで、今日一日は、
パートナーから、研究室から、調査関係にいたるまで
多大なる不快感を与えてしまった方々に、「ごめんなさい」「ごめんなさい」とメールを書きまくった。

今回は、調査関係でご協力いただいている方にまで、迷惑をかけるという、この、どうしようもなさ。
最低である。最悪である。
取り返しがつかないことをしたのは、わかっているけれど、
どうにかそれでも調査は続けていかなければならない。
…これはかなり、がんばらないと。

ああ。多大なる鬱病の負の遺産。
もうちょっと、精神的に健康になりたいなぁ。