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KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

「ふつう」を誰も教えてくれない

2007-12-05 10:09:24 | わたし自身のこと
「現実」は社会的に作り上げられるもの。
唯一絶対の「現実」なんて存在せず、「現実」は場に関わる人々の関わりの中でさまざまに現れ得るもの。
・・・という社会構成主義の思想を信条としている割に、
かなり頻繁に、「だって、それがふつうでしょ。」と言っている自分に気づいた。
しかし「ふつうでしょ」と言ったからと言って、
その「ふつう」が誰にでも通じる唯一絶対の「現実」だとは思っていないのも事実。

だとしたら、わたしにとって「ふつう」とは何か。
なぜ、わたしは対人的なトラブルが起きたときの自分の正当性の根拠に「ふつう」を持ち出すのか。

それはきっと、
わたしにとって「ふつう」が、自分を縛るための規範を示す言葉だから。
確かにイメージとしては、正規分布の中央付近とか、偏差値50とか、
そんな類の「平均」というイメージを描いているけれど、
実際にそれがわたしの中でどう機能しているかといえば、
自分を縛るための規範以外の何ものでもない。

だって、わたしの「ふつう」が他人の行動を評価したり、あるいは他人の行動を規制したりするようなものだとは、まったく思えないもの。

ただただ、わたしの行動だけを律する規範。
わたしの行動だけを規制したり、抑圧したり、促進したりするルールやモラル。
それが、わたしにとっての「ふつう」だ。

だから、「ふつう」を誰も教えてはくれないし、誰かが教えられるようなものでもない。
ただ勝手にわたしが生み出して、わたしが利用しているもの。
それを利用しているとなんとなく人間関係がうまくいくからという、それだけの理由で使われてきたモラルやルール。
わたしが博士論文で使った言葉で言えば「実践的倫理知」か。


そういえば、
「だって、それがふつうでしょ」とわたしが言う相手はいつも、
「ふつうを基準にすることは意味がない」という人ばかりだ。
だからこそ、わたしは「ふつうでしょ」と言うのだろう。
わたしの言葉が相手を律することなどないとわかっている文脈だからこそ、「ふつうでしょ」と言えるのだし、そうでも言わなければこの人はわたしの言うことに耳を傾けはしないだろうという思いがどこかにあるのかもしれない。

「だって、これがわたしの論理だから」と言っても仕方ないから、
ちょっとインパクトのある言葉を使って、「だってこれがふつうでしょ」と言う。
それはとても卑怯なことだとも思うけど、
そうでも言わないと消されてしまいそうになる自分の立場に耐えられない。
きっとそういうことなのだろうと思う。


セクシュアル・マイノリティの人たちは、それだけでは社会の支配的な視線に消されてしまいそうになる自分の経験を、「セクシュアル・マイノリティーのストーリー」として語ることによって、自分の経験のストーリーを守ろうとする。
「異常者」や「悪」「犯罪者」というレッテルから自分の経験を守ろうとする。
それは、見方によっては卑怯なことかもしれないけれど、
でもそういう手段でしか守られない小さな「現実」、弱い「現実」があることも確かだろう。

それはいわば「ふつう」の政治学とも言えるべきもので、
わたしたちが自分の「ふつう」を消されないように、日々、さまざまな戦術を駆使していることを思わせる。
わたしは常に「精神病」のレッテルを貼られがちだから、それに対して「ふつう」と言い続ける。
(そもそも、病を抱える人がほとんどを占めるこの世の中で、病を抱える人の「ふつう」こそが、一般的な「ふつう」でなくてなんだろう)

しかしどうして、こんなにもわたしの「ふつう」は脅かされるのか。
もしかしたら、そのことから考え始めなければならないのかもしれないけれど。

二人の人間・二つの倫理

2007-11-20 16:08:33 | わたし自身のこと
たとえば、こういう状況を考えてみる。

Aという人間が命題Aとして示される倫理規則(例:どんなに親しい間柄でも金銭の貸してはしてはならない)を持っていて、
もう一人の人間Bが命題Bで示される倫理規則(例:困っている人がいたら必ず助けるべき)を持っているとする。

AとBとはお互いに交友関係がないが、Cという人間はAともBとも交友関係があるとする。
(Cはきっと苦労が多いだろうなぁ)

ある日、CとAとの関係の間にトラブルがおきた。
Cは以前、Aに1000円を貸していたのだが、その1000円をいつまでたっても返してくれないので、CがAに抗議した。で、Aとの間が気まずくなった。


問題は、このトラブルが起きたという一件を、
CがBに話すとしたら、
どのように話すのが妥当であるか、という問題である。


だってBは、「困っている人がいたら必ず助けるべき」という倫理規則を持っているのである。

Cが「Aにお金を貸したんだけど、いつまでたっても返してくれないんだよ!ぷんすか(怒)」と言ったら、Bは気分を害するに違いない。
Bは言うだろう。
「C、お前そんな奴だったの?だってさ、そのAって人間は困ってたんでしょ?それを見て困ってるからお金を貸したんでしょ?それについて文句を言うのは筋違いじゃない?」

ここで問題になるのは、AとCとの関係性における倫理規則と、BとCとの関係性において成立している倫理規則が異なるということにある。


考えるに、Cがとりうる手段は三つ。
ひとつは、①Bとの間に起きたことを今後一切Aには話さないこと。
もうひとつは、①C自身の倫理規則を立ち上げること。もちろんその中には、AかB、どちらかの倫理規則を選択することも含まれる。その場合、選ばれなかったほうの交友関係を閉ざさざるを得なくなるけれど。
最後の手段は、③異なる倫理規則があるという状況を説明した上で事件を話すこと。


おそらく、最善の選択肢は③ではないかとわたしは思う。
しかし、根本的な問題は、③の手段が通用する相手は、そもそも命題でキッチリ記述できるような倫理規則など持っていないのではないか、ということ。
AやBが、柔軟な倫理規則を持っている人間であれば、そもそも問題は起こらないのではないか。Cが窮地に立たされることはそもそもないのではないか、ということである。



最近、他人が自分を傷つける理由に興味がある。
そういうときは、たいてい、きっと自分が他人を傷つけているから。

恐竜好きな男の子と、「源氏物語の中でもっとも好きな女性は誰ですか?」と聞く男性

2007-11-19 11:40:30 | わたし自身のこと
最近、ぼんやりと考えていたことではあったが、
フェミニズムが本当に問題にすべきなのは、
恐竜好きな男の子でもメカ好き・電車好きな男の子でもなく、
初対面の人間に「源氏物語の中でもっとも好きな女性は誰ですか?」なんて、
同世代の少女(あるいは年上の女性)に平気で尋ねるような男性だと思う。。


まあ、わたしの場合、大抵、そういう質問をされると、
ニッコリ笑って(高校生のときはキッパリとにらみつけながら)
「葵の上です。」
…と言うだけだけれど。


「男の子はブルー」「女の子はピンク」の紙オムツを批判するよりも、
国語教科書の中から『どろんこ祭り』を「性差別的である」として削除するよりも、やるべきことがあるのではないか、と思ってしまう。

イメージとしての「女性なるもの」に憑依されること、
そのものを問題にするべきではないかと思う。
だって、イメージに憑依された男性が、それで幸せであるとも思えないもの。

世界に幸福をもたらすことが社会科学の仕事なら、
ジェンダー論者の仕事は、憑依された男性たちから、憑依したイメージをお払いすることにある。
それはけして、憑依する前の霊そのものを退治することとは違う次元のことなのではないだろうか。

Responsibility(責任・応答可能性)2

2007-10-03 13:24:29 | わたし自身のこと
以前、宙さんから以下のようなコメントをいただいた。

>私も大卒後すぐ小学校に勤めてすぐ辞めましたが、
>「心のノート」で教育される様を間近に見て嫌悪し、怖くなった
>(教育現場に居る自分自身が。そして教員の鈍感さも。)…ということがありました。
>学校内部に居る限り、「何か」に巻き込まれ「何か」に加担して、
>子どもたちを傷つけてしまうのではないか…と、そんな恐怖がありました。
>だから今も、学校教育からは距離をおいています。
>KIMISTEVAさんはこの問題とどんな距離感や姿勢で関わるつもりか少し興味があります。

この問題に対する少しクリアーな答えが得られたので、
ここに記しておきたい。

カフカの『城』という作品を知っているだろうか。

『城』の主人公は測量技師のK。
Kは、ある城の伯爵に測量のために招かれる…のだが、
その城の近くにある霧深い村に訪れたそのときから、
いっこうに城のありかがわからない。
城に招かれながら、城にたどりつけないK。

Kは村の住人に城にたどり着く方法を尋ねる。
その村は城の前にあり、
いわばその村に住む人々はその城に統治された空間の住人、
いわば「城の住人」であるはずだから。

しかし、住人たちは誰も自分と城とは無関係で自分にはよくわからないという。
城との関係性をすべての住人が放棄している。
城と一定の関係にあるはずの…その責任をこの住人たちは誰一人引き受けていない。
Kが城にたどり着けないまま、この話は終わる。


内田樹はこの話をメタファーにしながら、
「日本国民」という責任のありかたについて議論している。

わたしたちが個人として海外に出たときには、
否応なく「日本国民」として話しかけられ、
「日本国民」として戦争責任について非難を向けられたりする。
おそらく海外旅行で東南アジアに出るわたしたち若者の多くは、そういう非難のまなざしに対して「アタシは関係ないのになぁ」と思うことだろう。
だって、
今の日本だってたいして好きじゃないし、
当時の日本のことだってドウシヨウモナイと思うし、
当時の政治家を選挙で選んだのはアタシたちじゃないし、
そうだとすれば、
戦争を起こしたのもアタシたちの責任ではないから。

でもそれって海外の人から見ると、
まさに『城』のKのような気持ちになるのではないか、ということ。

話しかけるのは、みんな日本からやってきた日本国籍を持つ「日本国民」。
だけど、みんな「日本国民」としての責任を放棄する。
みんなが、「日本ってどうしようもない国だよね」と外側から批判していたら、
だとしたら「日本」っていったいどこにあるの?
そういうこと。

だからとりあえずは、国民国家という枠組みそのものがもはや賞味期限ぎれを迎えつつあることを知った上で、
とりあえず、今は「日本国民」である者として
海外の人々への応対可能性をきちんと確保していくべきではないのか。
…というのが、彼の議論。

国民国家の問題はものすごく複雑な問題なので、
ここでシンプルにこの議論に賛成かどうかという結論を出すことは避けたい。


ただ…
わたしは「日本国民」としての責任を負えるということはできないけれど、
わたしが、教育に対して(限定すれば、国語教育に対して)、
子どもたちに対して応答可能な存在、責任を負える存在でありたいと思っていることは確か。

「今の教育、ダメだよね」「ゆとり教育、最悪だよね」
…と外側から非難するばかりで、
教育への責任を放棄するカフカの『城』の住民ではなく、
教育に対して責任を負える存在でいたいというのが、
わたし自身の考えの底にあるのだと思う。


わたしは以前から何度も言っているように、国語科が嫌いだ。
嫌いだからこそ、国語科教育の研究をしようと思った。
その分野に責任を負うことからはじめなければ、その分野を変えていくことはできないからだ。

わたしは責任を負える立場から、子どもたちに接していこうと思う。
子どもたちから、「どうしてこんな勉強しなくちゃいけないの?」と非難のまなざしを向けられたときに、きちんと答えられる存在でいたいんだ。
そして、子どもたちの言葉をきちんと社会に伝えられる存在でいたい。

それが、わたしが教育の場にいつづける理由である。

頼られることと頼ること

2007-08-31 18:25:00 | わたし自身のこと
体調が悪い。

昨晩の夜はひどかった。
携帯電話上で市内にある病院を検索してから、
ようやく眠りだす。

何度も携帯電話が鳴る。
そのたびに起きて、出なければと思うのだが、
「出なければ」と思う自分がイヤになって布団をかぶる。

着信音はいつまでたっても終わらない。


頼られる側にまわりがちな人間は、
いったい誰に頼ったらいいのだろう、とたまに思う。

誰もなにもしてくれないのなら、
自分で自分の身を守るしかないじゃないか。
そのこと自体を責められてもどうしようもない。

さすがにもう疲れたよ。
少し休ませてほしい。

思いの表現・関係の表現

2007-08-28 19:08:45 | わたし自身のこと
最近。
…といっても、ここ1年くらいのこと。

わたしの日常の中にいた人たちが去って、
あらたに出会う人たちがいて、
その人たちとの間で、傷つくことがあって…。

自分のそれまでのことばのありようを否定的に捉えるようになっていた。

そんな矢先、
久々に昔、手にとった本を読んでみて、
なんだか否定していた自分を肯定された気がした。


「ことばは自分の内側の「思いの表現」でありつつ、一方で自分と相手との「関係の表現」でもある。ことばというものの有りようをよく見てみれば、これは誰もが容易に気づくことである。ところが、案外そのことが見逃されて、重大な錯誤をきたすことがある。

 「ちょうだい」ということばなどは比較的単純であるために、関係によって言い方にさまざまなレパートリーがあるにせよ、もとにある「思いの表現」と「関係の表現」とが大きくすれ違うことは少ない。しかしことばによっては、本意が自分のうちの思いそのものを離れて、関係の表現だけが前面に出てくることがある。

 たとえば「すみません」ということば。これは本来、相手に対して自分は申し訳ないことをしたという謝罪や反省の思いを表現したものである。もちろんその本来の意味どおりに、このことばでもって真摯に謝罪し、反省の意を表すこともある。しかし必ずしもそういう場合ばかりではない。

 …そこで表現されるのは謝罪や反省の思いでは、さらさらない。とすればそこでの「すみません」は、むしろ状況や雰囲気が生み出す関係の表現なのである。」

(浜田寿美男「ことばは人間の何を表現するものなのか―供述分析の現場から―」『日本語学』22-3) 


供述分析を専門とする浜田先生がここで問題としているのは、
取調べ現場で発される「すみません」「申し訳ございません」という言葉である。
だから、ここで浜田先生が言わんとすることはとてもシンプルだ。
要するに、
人間は嘘をつくつもりがなくても、嘘をつくということ。
いや、結果的に嘘をついてしまうということだ。
「関係の表現」を迫られる結果として。


「関係の表現」としてのことば。

これこそ、わたしの研究の出発点だった。
わたしは「わたし」であるためにことばを用いる。
自分をとりまく関係の中で、まぎれもなく「わたし」であるために。

(余談だが、このときのわたしの一年かけた思考の旅の成果がインターネット上で見られるようになったらしい。そんなわけで実名をばらすことになるが、アドレスを掲載しておく。https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/dspace/handle/2241/89653 …外部から見られるのかどうかはわからないが。)


「関係の表現」としてのことばを大切にしようとするわたしにとって、
ことばが「関係の表現」であることを無視し、
特定のことばを無頓着に強要しようとする人はまさに敵だった。
ことばは、関係の中でわたしが「わたし」であるための手段である。
その手段を奪い、「わたし」の顔を奪おうとすることは暴力以外の何者でもない。


ことばは思いを表現するためのものだけではない。
ことばは思いを表現するものだと短絡的に考えることは、
わたしたちの世界をシンプルに考えるためのひとつの手段だとは思うけれども、
それは真実ではない。

この手の中にいる人たちを…

2007-08-26 20:29:12 | わたし自身のこと
何年前のことだったか。わたしの知り合いの人に、

「すべての人を幸せにすることなんてできないけど、
 せめて、自分の手の中にいる人たちくらいさ。幸せにしたいと思うんだよ。」

…と言われて感動したことがある。

わたし自身が、その方の「手の中にいる人たち」に入るかどうかわからないが、
少なくとも、
彼のことを長いこと知っているわたしには、
彼のいいたいことの意味がよくわかったからだ。

そして、
わたし自身も、今、同じ願いを抱いている。
せめて、わたしが言葉を交わす距離にある人たちくらいは幸せでいてほしいと思う。
それは見方によっては、ただのワガママなのだけど。


わたしにとってもっとも身近な存在であるはずのあの人は、
幸せでないようだ。
誰にもわかってもらえないかもしれないが、
わたしには、そのことがとても悲しい。

2007-08-19 00:14:58 | わたし自身のこと
夜になると風が吹く。

夏の夜風はいつもわたしに、過去と未来を考えさせる。
15歳の夏、
わたしは夜風の中で10年後の自分を考えていた。

今、夜道を歩いていて風が吹くと、
なぜか幼い頃、浴衣を着て歩いていた自分を思い出す。

10年後もわたしは、わたしを好きでいられるだろうか。

人のことは言えないけれど

2007-08-16 19:29:11 | わたし自身のこと
初めて、高校生を叱ってしまった。
わたしの場合、「叱った」というよりも注意を促したという、
それだけのことだけれども。


考えてみれば、高校生にありがちなおねだりだ。
彼氏・彼女で一緒にいたい。
だから「ダブルデート」状態になるように車割りをしてください、と。
まあカンタンにいえばこういうことだった。

…ここまでアカラサマなことはいわれなかったけど。

でも、
そのメールが、彼ら・彼女らのダブルデートからの帰宅途中に送られていたことと、
他にもいるはずのつきあっている部員たちのことをまったく考えていない
内容だったことが、
わたしを激しく失望させた。


彼ら・彼女らは、集団の中でどうあるべきかとかそれなりに考慮していることは、わたしなりにわかってる。
だから「はいはい」と言うことを聞いて適当に車割りをすることもできたのだけど、どうにもそれができなかった。


わたしだって人のことは言えないのだ。
だからこそ、彼ら・彼女らに言わなければと思ってしまった。

自分のつきあっている相手のことだけじゃなくて、
周囲にも目を配らなければならない場面があるのだということを伝えたかった。

なぜなら、
わたし自身、そういう時期に、
身近な人にそんなかたちで説得をされたことがあったから。
そしてその人に今でも感謝しているから。


それでもやっぱり
自分のしたことが正しいのかどうか悩む。
「価値観」で済まされる問題とは、いったいどこまでの範囲の問題なのか、
いまだにわたしはわからない。

個性のカケラもない文体で

2007-08-15 16:11:09 | わたし自身のこと
博士論文の修正版を印刷した。
もう修正版を作成するのも2回目だが、それほどイヤにはならない。


物語や詩といった
文学的なことばからは意識的に距離を置いていたせいで、

個性のカケラもないような論文スタイルの文章でありながら、
その人らしさが滲みでてくるような文章が書きたい、

…と、ずっと願いながら文章を書いている。

論文を書き直すたびに、少しずつ、
わたしらしさ…というか、
わたしでしか書けない言葉を紡ぎだすことができるような気がしている。
個性のカケラもないような論文スタイルの文章の中に、
少しずつわたし自身の居場所ができていく。

ああ。これがわたし自身の言葉だ、と思えるような言葉。
そんな言葉を求めている。
わたしはそれを見つけるためにずっとずっと文章を書きつづける。
個性のカケラもないような文体で。