「現実」は社会的に作り上げられるもの。
唯一絶対の「現実」なんて存在せず、「現実」は場に関わる人々の関わりの中でさまざまに現れ得るもの。
・・・という社会構成主義の思想を信条としている割に、
かなり頻繁に、「だって、それがふつうでしょ。」と言っている自分に気づいた。
しかし「ふつうでしょ」と言ったからと言って、
その「ふつう」が誰にでも通じる唯一絶対の「現実」だとは思っていないのも事実。
だとしたら、わたしにとって「ふつう」とは何か。
なぜ、わたしは対人的なトラブルが起きたときの自分の正当性の根拠に「ふつう」を持ち出すのか。
それはきっと、
わたしにとって「ふつう」が、自分を縛るための規範を示す言葉だから。
確かにイメージとしては、正規分布の中央付近とか、偏差値50とか、
そんな類の「平均」というイメージを描いているけれど、
実際にそれがわたしの中でどう機能しているかといえば、
自分を縛るための規範以外の何ものでもない。
だって、わたしの「ふつう」が他人の行動を評価したり、あるいは他人の行動を規制したりするようなものだとは、まったく思えないもの。
ただただ、わたしの行動だけを律する規範。
わたしの行動だけを規制したり、抑圧したり、促進したりするルールやモラル。
それが、わたしにとっての「ふつう」だ。
だから、「ふつう」を誰も教えてはくれないし、誰かが教えられるようなものでもない。
ただ勝手にわたしが生み出して、わたしが利用しているもの。
それを利用しているとなんとなく人間関係がうまくいくからという、それだけの理由で使われてきたモラルやルール。
わたしが博士論文で使った言葉で言えば「実践的倫理知」か。
そういえば、
「だって、それがふつうでしょ」とわたしが言う相手はいつも、
「ふつうを基準にすることは意味がない」という人ばかりだ。
だからこそ、わたしは「ふつうでしょ」と言うのだろう。
わたしの言葉が相手を律することなどないとわかっている文脈だからこそ、「ふつうでしょ」と言えるのだし、そうでも言わなければこの人はわたしの言うことに耳を傾けはしないだろうという思いがどこかにあるのかもしれない。
「だって、これがわたしの論理だから」と言っても仕方ないから、
ちょっとインパクトのある言葉を使って、「だってこれがふつうでしょ」と言う。
それはとても卑怯なことだとも思うけど、
そうでも言わないと消されてしまいそうになる自分の立場に耐えられない。
きっとそういうことなのだろうと思う。
セクシュアル・マイノリティの人たちは、それだけでは社会の支配的な視線に消されてしまいそうになる自分の経験を、「セクシュアル・マイノリティーのストーリー」として語ることによって、自分の経験のストーリーを守ろうとする。
「異常者」や「悪」「犯罪者」というレッテルから自分の経験を守ろうとする。
それは、見方によっては卑怯なことかもしれないけれど、
でもそういう手段でしか守られない小さな「現実」、弱い「現実」があることも確かだろう。
それはいわば「ふつう」の政治学とも言えるべきもので、
わたしたちが自分の「ふつう」を消されないように、日々、さまざまな戦術を駆使していることを思わせる。
わたしは常に「精神病」のレッテルを貼られがちだから、それに対して「ふつう」と言い続ける。
(そもそも、病を抱える人がほとんどを占めるこの世の中で、病を抱える人の「ふつう」こそが、一般的な「ふつう」でなくてなんだろう)
しかしどうして、こんなにもわたしの「ふつう」は脅かされるのか。
もしかしたら、そのことから考え始めなければならないのかもしれないけれど。
唯一絶対の「現実」なんて存在せず、「現実」は場に関わる人々の関わりの中でさまざまに現れ得るもの。
・・・という社会構成主義の思想を信条としている割に、
かなり頻繁に、「だって、それがふつうでしょ。」と言っている自分に気づいた。
しかし「ふつうでしょ」と言ったからと言って、
その「ふつう」が誰にでも通じる唯一絶対の「現実」だとは思っていないのも事実。
だとしたら、わたしにとって「ふつう」とは何か。
なぜ、わたしは対人的なトラブルが起きたときの自分の正当性の根拠に「ふつう」を持ち出すのか。
それはきっと、
わたしにとって「ふつう」が、自分を縛るための規範を示す言葉だから。
確かにイメージとしては、正規分布の中央付近とか、偏差値50とか、
そんな類の「平均」というイメージを描いているけれど、
実際にそれがわたしの中でどう機能しているかといえば、
自分を縛るための規範以外の何ものでもない。
だって、わたしの「ふつう」が他人の行動を評価したり、あるいは他人の行動を規制したりするようなものだとは、まったく思えないもの。
ただただ、わたしの行動だけを律する規範。
わたしの行動だけを規制したり、抑圧したり、促進したりするルールやモラル。
それが、わたしにとっての「ふつう」だ。
だから、「ふつう」を誰も教えてはくれないし、誰かが教えられるようなものでもない。
ただ勝手にわたしが生み出して、わたしが利用しているもの。
それを利用しているとなんとなく人間関係がうまくいくからという、それだけの理由で使われてきたモラルやルール。
わたしが博士論文で使った言葉で言えば「実践的倫理知」か。
そういえば、
「だって、それがふつうでしょ」とわたしが言う相手はいつも、
「ふつうを基準にすることは意味がない」という人ばかりだ。
だからこそ、わたしは「ふつうでしょ」と言うのだろう。
わたしの言葉が相手を律することなどないとわかっている文脈だからこそ、「ふつうでしょ」と言えるのだし、そうでも言わなければこの人はわたしの言うことに耳を傾けはしないだろうという思いがどこかにあるのかもしれない。
「だって、これがわたしの論理だから」と言っても仕方ないから、
ちょっとインパクトのある言葉を使って、「だってこれがふつうでしょ」と言う。
それはとても卑怯なことだとも思うけど、
そうでも言わないと消されてしまいそうになる自分の立場に耐えられない。
きっとそういうことなのだろうと思う。
セクシュアル・マイノリティの人たちは、それだけでは社会の支配的な視線に消されてしまいそうになる自分の経験を、「セクシュアル・マイノリティーのストーリー」として語ることによって、自分の経験のストーリーを守ろうとする。
「異常者」や「悪」「犯罪者」というレッテルから自分の経験を守ろうとする。
それは、見方によっては卑怯なことかもしれないけれど、
でもそういう手段でしか守られない小さな「現実」、弱い「現実」があることも確かだろう。
それはいわば「ふつう」の政治学とも言えるべきもので、
わたしたちが自分の「ふつう」を消されないように、日々、さまざまな戦術を駆使していることを思わせる。
わたしは常に「精神病」のレッテルを貼られがちだから、それに対して「ふつう」と言い続ける。
(そもそも、病を抱える人がほとんどを占めるこの世の中で、病を抱える人の「ふつう」こそが、一般的な「ふつう」でなくてなんだろう)
しかしどうして、こんなにもわたしの「ふつう」は脅かされるのか。
もしかしたら、そのことから考え始めなければならないのかもしれないけれど。