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KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

面倒見が良くて優しいかわりに、悩みの深いオネーサンです

2008-02-18 13:52:12 | わたし自身のこと
最近は、もっぱら、
「好きになるなら○○さん、付き合うならkimsitevaさん」という名言に落ち込んでいます。
そんな矢先、ある御方のブログで「ザ恋愛インタビュアー-あなたの代わりに1000人に聞いてみました-」とやらを見かけたので、「怖いもの見たさ」にやってみました。
(結果に落胆することは、わかりきってるんだけどさ)

というわけで、コレ。
ザ恋愛インタビュアー結果


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【総合的なイメージ】

1位   甘えすぎて重そう 417票
2位   いつも悩んでいる 196票
3位   悩みが少なそう 98票
4位   したたか 96票
5位   女神様みたいだ 91票  


【こんな恋愛をしてそうBEST3】
1位 冷え気味で落ち着いた大人の恋愛 504票
2位 もやもやを常に抱えながら言えない恋愛 153票
3位 誰も分かってくれないと諦める恋愛 142票

【こんな理由で別れそうBEST3】
1位 淡々としてなんとなく別れる 495票
2位 女として見られなくなって別れる 157票
3位 いつも泣かされて別れる 147票

【こんな人がお似合い】
(SかMか)
1位 ドMの人 337票
2位 ノーマルの人 309票
3位 ややSの人 152票

(性格など)
1位 賢くて余裕のある人 513 票
2位 とにかく甘えさせてくれる人 144 票
3位 前向きで強く生き抜いている人 141 票

【街角の声】

宮城県在住 5歳 幼稚園生 しょうさん
なに?kimistevaおねーちゃん?うん、好きだよ。将来ケッコンするし。ぼくと。


東京都在住 17歳 高校生 けいたさん
え?kimistevaさん?あーはいはい。あのヒトは憧れッスねー。面倒見がよくて、素敵なおねーさんって感じ。こんな年齢で言うのもなんですけど、遊びではなくて結婚向きッスかねー。


佐賀県在住 14歳 中学生 ひとみさん
恋愛に夢は抱いてますけど、kimistevaさんのようにはなりたくないです。だって、すごい彼氏とかに頼るタイプなのに、なんか全然彼氏に感謝しないですよね。


埼玉県在住 56歳 経営者 としろうさん
kimistevaさん?知っていますよ。彼女は少し男性不信なところがあるように思えますが、分かってほしいだけなんですよね。むしろ世の中の男性陣に、彼女の気持ちを受け入れてやる器がないことが残念で仕方ありませんね。


東京都在住 20歳 大学生 こうたろうさん
ん?なんですか?あぁkimistevaさんのこと聞きたいんですね。あの人はいいですねぇ。優しくて大人びてて、細かいことにごちゃごちゃ言わなさそうだし、重苦しい感じもないし。でも、まぁおれみたいな年下は相手にならないでしょうけど(苦笑)。
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予想どおり、落胆。

東京都在住の大学生の言葉にこれ以上なく、絶望します。
そんな東京都在住の大学生を蹴り飛ばして、
埼玉県在住のとしろうさんと結婚しようかと思ってしまう今日この頃。
(・・・あ。しょう君のことは大好きだよー。将来ケッコンするんだよねー♪)

どうでもいいけど、
「総合評価」と「こんな恋愛してそう」のランキングを見るかぎり、アタシってホント、ツンデレだわ。

Reason for the Pain/ Pain for the Reason

2008-02-15 19:54:26 | わたし自身のこと
すがすがしいほどに、いたいたしい。

きっと、今が、これまで生きてきた中でもっとも、つらい時期だと思う。
わたしにとって、今、必要なことは、絶望すること。
カラカラと笑いながら、涙を流しながら、絶望すること。
そのあとで、春を待ち望みたい。

のっぺりした広い野原で、
ひとり、
風に吹かれながら、
この傷みに絶望していたいよ。

パンドラの箱

2008-02-15 13:36:44 | わたし自身のこと
ある国で戦争が起こったとして、
その戦争の最中に、AとBという二人の人間が出会い、友情が芽生え、彼らは「戦友」となる。
ところが不幸なことに、Aはその後、恐ろしく酷い拷問にあってしまう。
Bは近くにいながら、何もすることはできず、
しかし、ただAが拷問にあったというその事実だけを知ることとなる。

そして、戦争が終わる。
戦争が終わって数年した頃、突然、AはBに連絡する。
しかしどうもAは戦争のときのことをすっかり忘れているらしい。
おそらく拷問を受けた記憶は、彼が生きていくためにはあまりにも残酷な記憶で、そのためにAは戦争があったあの時期の記憶をすべて失ってしまったらしい。

さて、このとき、Aを友人として慕うBのとるべき行動とは何か。

わたしの回答はこうだ。

「Bは、どんなにAに不信がられようと、とにかくAの前から姿を消すべき」

だって、そうだろう。
AとBとの友人関係というのは、戦争が起こったその時期、戦争という「出来事」を抜いて成立しない。
AがBとの友人関係をたどればたどるほど、トラウマと化している、拷問という「出来事」を思い出さざるを得なくなる。
記憶を抹消するほどつらい、その過去に出会わざるを得なくなる。
一度閉じたはずの「パンドラの箱」を開かざるを得なくなる。
そのことが容易に予想されるのであれば、BはAの前から姿を消さざるを得ないだろう。
もし、Aにとっての幸せを長い目で見ようとするのであれば。

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たとえ話はこのくらいにして、
そのような次第で、わたしは長年の友人に縁を切られることとなった。
・・・この言い方は正しくないかな。
正しくは、「縁を切らざるを得なかった」。

今となっては、
長い期間を経て、彼女からもらった連絡と、それによって続いた友人関係は、「亡霊」のようなものだったのかもしれないと思う。
あたかも「ある」ように見えるけれども、その実体は「ない」。
いつかは消えてしまう、はかない記憶の「亡霊」。

ただ、わたしの方が少し早く、それが「亡霊」であることに気づいてしまったというそれだけの話なのかもしれない。

「パンドラの箱」が、一旦、開いてしまえば、
それはもう元に戻ることはない。

わたしはそのことを何も後悔していないし、
むしろ、ようやく物事があるように収まっただけだと思っている。
わたしとの縁を切ることによって、
きっと、彼女にとってわたしは「つらいときに何もしてくれなかった卑怯な奴」になるのだろうが、わたしはそれでかまわない。

現実は、常に両義的だ。

わたしが現実でなくなれば、彼女が語る「過去の物語」の一登場人物になってしまえば、彼女の物語は、とてもキレイなかたちで完成するだろう、そうあってほしいと、わたしは願う。
だって、わたしが彼女にしてあげられることは、今や、そのくらいしかないから。


ただひとつ気になるのは、
その「亡霊」のように友人関係が成立してしまった期間に、
彼女を「友人」だと、パートナーの友人に紹介してしまったことである。
その後、彼女たちがどういう関係に展開しているのかはわからないが、
もし、あまりに上手くいきすぎていたらどうしよう、というのが唯一気がかりなことで、
そうすると、きっと、わたしは余計に、パートナーの友人に嫌われてしまうのだろうなぁ・・・ということをグダグダと考えているとキリがない。
・・・いや、だって。わたしきっとこの先、「つらいときに何もしてくれなかった卑怯な奴」になるんですよ。
パートナーはわたしを信じてくれるだろうけど、
そんなわたしと付き合っているパートナーのことをその友人が悪く評価するようになったら・・・と思うと、あまりに、つらくて悲しくて耐えられない。

この先、どんなに頑張って、その方と良好な関係を築こうと思っても、不可能だろうということがハッキリ見えてしまったことも、わたしを暗澹たる気持ちにさせる。
親しくなりたい、と思っていても、これだけうまくいかない要因が連続すると、
もはやこれも運命か、とあきらめたくもなる。
これはもはや、わたしがいくら努力しても、頑張ってもどうしようもないことなのかもしれない。


とはいえ、まあ、そんなことを考えていても、しかたないのも事実で、
とりあえず、今は、「あるべき姿になったこと」に感謝したいと思う。
少なくとも、何かを始めるとしても、「あるべき姿になった」、この地点からしか始まらないのだから。

弱さのちから

2008-01-29 18:05:00 | わたし自身のこと
恋人のことを、さらに、好きになる。

弱いときも、強いときも、彼は、美しいから不思議。
弱くあるときに、なんにも言わずに紅茶をいれてあげられる人間でいたいよ。
悲しいときに、一緒にカラカラと笑っていられる人間でいたいよ。

だってDV体質なんだもん

2008-01-24 11:59:06 | わたし自身のこと
昨日、「DV講演会」中止事件のことを書いたら、
「kimistevaという人は、DVの話題に関しては随分と「熱く」なってしまう人なのだなぁ」というメールをいただいたので、わたしの記事を相対化するためにもここで言い訳を。

そりゃ、熱くもなりますわ。
だって、アタシ、DV体質なんだもん。

わたしでなければできないことがある。
正確に言えば、ある社会問題に対して、当事者が言わなければならないこと、当事者が語らなければならないことがある。
前の記事は、当事者(といっても「DV被害者体質」とよく言われるだけですが)として、こういうことを言わなければならないだろうなぁ、ということを当事者としての生の感覚で書いたものです。


そりゃ、いくらでも第三者的な立場から客観的に語ることだってできます。
でも、それはわたしの仕事じゃない。
女性議員たちやフェミニストの学者たちがそんなこといくらでも論じているし、それを今さらわたしが繰り返したところで意味はないと思う。


DVに限らず、ハラスメントって被害者は本当につらいんですよ。

何が一番つらいって、「自分が悪い」「自分に罪がある」と思いこんでしまうところがつらい。
自分の思うことや考えることがすべて間違っていて、
だから相手は自分のことを罵りつづける。
でもその相手は少なくとも過去には自分のことを愛していてくれたはずだし、
きっとわたしが「良く」なれば愛してくれる。
わたしが「悪い」から愛してくれないんだ。

・・・とこう思うことがどれだけつらいことか。
「お前みたいな男、こっちから願い下げだー!」とスッパリ縁を切ることもできないし、かといって永遠に関係が回復する見込みもない。
なぜなら、「わたしが悪いから」。


内田樹氏は田口ランディの言葉を引用して、ハラスメントを「呪いのコミュニケーション」と呼んだ(内田樹『子どもは判ってくれない』)けど、それは本当に言い得て妙だと思う。
DVを含むハラスメントの被害者は、「弱い酸に浸されるように」ゆっくりじっくり自分の心を壊されていく。
反撃することも、拒否することも許されず、とにかく縛りつけられ動けない状態で呪いの言葉をかけられる。


DV防止法関連のサイトに掲載されている「DVとは?」の項目には、雑多ないくつもの項目が並べられているけれど、それらに共通するのは、そういう「呪いのコミュニケーション」。


でも、呪われたもののつらさは、誰にもわからないし、
呪いをかける者は「呪いをかけている」自覚すらない、というのがハラスメントの恐ろしいところで、だからこそ、DVもハラスメントも当事者(厳密に言えば被害者)以外の人々にとっては、「よくわからないもの」「得体の知れないもの」としか映らないのだと思う。


だから、せめて「呪い」をかけられた人の絶望感がわかる人間として、
「当事者以外の人間に何がわかる!」と熱く叫んでおくことは大切だと思ったわけです。

生活に必要なものとは

2008-01-14 18:31:39 | わたし自身のこと
引っ越しのための荷造りをしていると、
「現在の生活において必要なもの」と「必要でないもの」を分類するという作業に追われることになる。

今日はマンガの仕分けを行った。
『最終兵器彼女』と『大奥』はある意味「封印」しないと生活がなりたたないのでダンボールに封印。
柴田亜美も読んでるとキリがないから、とりあえず数ヶ月封印。
『西洋骨董洋菓子店』は日常的にないと生きていけないから棚に残す必要有。
『西洋骨董洋菓子店』がらみの同人誌も同様。
『ジュラールとジャック』『ソルフェージュ』はたまに読むから、まだ棚に残しておこう。

・・・とわけていくと、どんどんよしながふみのBLものだけが残っていく。

BLなのか。
やっぱり、BLなのか…!わたし…!

…とあらためて実感する今日この頃である。
それでもいくつかは決心してダンボールに封印しましたけどね。

怒るとか、悲しむとか、

2008-01-07 18:04:37 | わたし自身のこと
久々にネットをつないで、知り合いのブログを見ていて、
あらためて、「わたしには何もないなぁ」、と思う。

ブログを始める動機は人それぞれかもしれないけれど、
必要条件はある。
それは無条件に前提とされている「自分」の存在だ。

「好き」とか「嫌い」とか、怒りとか悲しみとか、
そういうハッキリしたものがあって、
そういうハッキリした感覚を持つ主体としての「自分」がある。

それは、モラトリアムとかアイデンティティ拡散とか、
そういうこととは別の次元の話。
そもそも書く主体としての「自分」があるか、という話。

そういうものが、わたしにはない。


「どうして怒るの?」「どうして悲しいの?」と聞いたときに、
「どうしてだろう」と一旦立ち止まって、理由を紡ぎだそうとする人を見ていると、心底うらやましいと思う。
きっと、そういう人は、感覚や感情が先にあって、
「どうして?」と聞かれたときにはじめてその理由を語ろうとするのだろうから。


わたしの場合はまったく逆。
「この人の論理で言えば、ここで怒るべきだろう」
「わたしは今こういう人間だということになっているから、ここで悲しむべきだろう」と、
自分で考えて、納得して、はじめて怒ったり、悲しんだりする。
そのとき前提となるような「自分」なんてものはなくて、
すべては他人から見た「自分」として行動しているだけ、
かくあるべき「自分」を構成するために行動しているだけ、というような気がする。

そういう意味でわたしは果てしなく「論理的」だ。
もちろん自嘲を込めた意味で。


いまさら「自分さがし」なんてする気もないけれど、
それでもせめて、何も考えなくてもあるような「自分」が欲しいなぁと思うのは、
ただのないものねだりだろうか。

クリスマス となりは何を する人ぞ

2007-12-25 18:36:10 | わたし自身のこと
世間はクリスマスですね。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか。

わたしのアパートでは、ここ数年、クリスマス・イブの前日から当日にかけて、怪奇現象が起きます。

時間は主に夜10時過ぎ。
突然、30分~1時間。長いときは2時間にわたる震度2程度の揺れが発生します。
部屋全体が震撼し、ミシミシと壁がなります。
もちろん地震ではありません。
どこか別の場所でマグニチュードが発生しているようです。
初期のポルターガイストってこんな感じなんでしょうか。


揺れはおさまったり、再び起きたりしてキリがないので無視して寝ます。
すると次の日の朝、ドアの外から声が…

「…今日は、わたしがサンタクロースねっ♪」


隣の部屋に住む人はいったい何をしているのでしょう…?

ちなみに昨年はたしか、悲鳴に近い声が揺れとともに聞こえるわ、壁に体の一部を打ち付ける音がするわで本気で心配しました。

道端で倒れたように眠る人がいるよ

2007-12-21 15:10:31 | わたし自身のこと
♪道端で 倒れたように 眠る人が いるよ♪(尾崎豊『愛の消えた街』)

・・・というわけで、
先日、道端で倒れてしまいました。
正確には、あまりに激しい腹痛に襲われて立てなくなり、道端に横になりました。

この街の人は、やさしい。
ほぼ学生だけしか通らないような道で倒れたせいでしょうか、
そんなに人が通ったわけでもないのに、たくさんの人が声をかけてくれました。
学生同士だということで互助精神が働くのでしょうか。
ともかく、ほんとうに助けられました。


ところではじめに、大学生と見られる二人の女の子に、

「大丈夫ですか!?誰かお知り合いの方に連絡しましょうか?」
・・・と、声をかけていただいたんですが、
1分くらい「声をかけるべき相手が果たしているか」と考えてみて、まったくいないことに自分で愕然としました。
(彼女たちも困惑しただろうなぁ…)


友 達 少 な す ぎ !!


研究室の飲み会後だったため、研究室のメンバーに頼れなかった、というのもあるのですが、
別に飲み会がなかったとしても、わたしは頼れなかったと思います。


おそらくリスク管理をするときに、
「あとで「迷惑かけられた」と言われるのは死んでもいや!」という項目が最優先事項として考慮されるので、「迷惑かけられた」と言わない人を探すことになるのですが、
そういう人が、今、わたしの近くにいないことがわかりました。

自戒をこめていいますが、「親切」を、「迷惑かけた」-「迷惑かけられた」というパラダイムで捉えるほど不毛なことはありません。
「親切」は「親切」として受け取るからこそ、すがすがしい関係でいられるのに、「迷惑」という言葉が入ったとたんに、それは「悪いこと」になり、ドロドロとした謝罪の応酬へと変質してしまいます。


「親切」って関係を良いものへと作り上げるものなのに、
「迷惑」という言葉を持ち込んだとたんに、関係を悪くし、わたしの神経性胃腸炎を悪化させるものになってしまうんですね。不思議。


・・・というわけで、「迷惑かけた」「迷惑かけられた」という言葉にめげないようにしています。
「ごめんなさい」ではなく「ありがとう」を。
「親切」を謝罪でかえすのではなく、感謝でかえすこと。
それこそが、大切なことだとあらためて思ったのでした。

君とZOO!ZOO!ZOO!

2007-12-17 17:08:35 | わたし自身のこと
パートナーと上野動物園に行ってきました。

待ち合わせの時間にわざと遅れていって、

「ごっめーん!待ったぁぁー?」
「こいつぅー。(こつん)」

・・・を実現しようと、わざと待ち合わせ時間になっても待ち合わせ場所に行かなかったのですが、わたしのパートナーは一枚上手でした。
わたしの行動を予測して、わたしが時間つぶしにいた本屋に来てしまい、わたしの少女漫画ファン時代からの夢の計画はまぼろしと終わりました。

ちくしょー。今度こそ。

それにしても、20年ぶりに上野動物園なんて行きましたが、
小さい頃にいったときと、今とで、こんなにも見える景色が違うのか!
…と驚きました。

わたしの記憶では、上野動物園=パンダ(当時はトントン)と象とペンギンくらいでした。しかもキャラクターグッズのイラストみたいな、動物の「カタチ」しか記憶にないんです。
でも、20代後半になってあらためて動物園に行ってみると、
動物園のおもしろさは「カタチ」ではなく「動き」だなぁと思いました。


プレーリードッグやミーアキャットはクルクル不思議な動きをするので惚れます。
バイソン(学名Bison bison)がフオーとはく息が白いのでハッスルします。
象はあまりに年をとっているので、昔見た上野動物園のドキュメンタリー映画(戦争で象を殺さなくてはいけなくなる話)を思い出してキュンと胸がしめつけられます。
オカピの前で、子どもたちが「オッパッピー?オッパッピー?」とはしゃいでいます。
トラやライオンや白熊は絶対、サービス精神発揮するようにしつけられてると思います。


とはいえ、一番「動き」が面白いのは猿山です。
猿山の世界の秩序とカオスは、いろいろ哲学的な知見をもたらしてくれます。
突然どこかでケンカが起こり、巻き込まれるモノがいたり、無関心なモノがいたりして全体として秩序が維持されている様子を見ていると、いろいろなことを考えさせられます。
社会を人工的に操作することの難しさというか、不可能性というか。
そんなことを考えてしまうわけです。


動物園はいくつになって見てもおもしろい、すごく不思議な施設だと
あらためて思いました。