KIMISTEVA@DEEP

新たな「現実」を構成するサブカルチャー研究者kimistevaのブログ

怒るとか、悲しむとか、

2008-01-07 18:04:37 | わたし自身のこと
久々にネットをつないで、知り合いのブログを見ていて、
あらためて、「わたしには何もないなぁ」、と思う。

ブログを始める動機は人それぞれかもしれないけれど、
必要条件はある。
それは無条件に前提とされている「自分」の存在だ。

「好き」とか「嫌い」とか、怒りとか悲しみとか、
そういうハッキリしたものがあって、
そういうハッキリした感覚を持つ主体としての「自分」がある。

それは、モラトリアムとかアイデンティティ拡散とか、
そういうこととは別の次元の話。
そもそも書く主体としての「自分」があるか、という話。

そういうものが、わたしにはない。


「どうして怒るの?」「どうして悲しいの?」と聞いたときに、
「どうしてだろう」と一旦立ち止まって、理由を紡ぎだそうとする人を見ていると、心底うらやましいと思う。
きっと、そういう人は、感覚や感情が先にあって、
「どうして?」と聞かれたときにはじめてその理由を語ろうとするのだろうから。


わたしの場合はまったく逆。
「この人の論理で言えば、ここで怒るべきだろう」
「わたしは今こういう人間だということになっているから、ここで悲しむべきだろう」と、
自分で考えて、納得して、はじめて怒ったり、悲しんだりする。
そのとき前提となるような「自分」なんてものはなくて、
すべては他人から見た「自分」として行動しているだけ、
かくあるべき「自分」を構成するために行動しているだけ、というような気がする。

そういう意味でわたしは果てしなく「論理的」だ。
もちろん自嘲を込めた意味で。


いまさら「自分さがし」なんてする気もないけれど、
それでもせめて、何も考えなくてもあるような「自分」が欲しいなぁと思うのは、
ただのないものねだりだろうか。


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