気ままな旅

マイカーでの気ままな旅で、束縛された予定や時間にとらわれない、自由奔放な行動をとる旅の紹介です。

熊野三山と伊勢神宮への初詣

2016-04-04 16:10:05 | 思い出

 2016年(平成28年)1月3日 私たちは、昼過ぎに南大阪にある自宅を出発し、熊野三山と伊勢神宮への初詣に向かう。

 南大阪の自宅からは、犬鳴温泉経由の曲がりくねった粉川街道を走行し、和歌山県の紀ノ川ICに30分ほどで到着する。 

 紀ノ川ICからは、整備が進められている京奈和自動車道(和歌山→奈良→京都までの延長120km)に入り、奈良方面に走行すると、30分ほどで奈良県の五条ICに到着する。

 そこから国道168号に入り、五条市内から吉野川を渡って行くと山岳道路に入って行く。 

トンネルや急こう配の坂道やカーブの多い道路で、登り切った所に下記写の道の駅「吉野路大塔」がある。 

国道168号道の駅 「吉野路大塔」から・・・奈良方面を望む

道の駅「吉野路大塔」で小休憩した後、再び出発すると、今度は下り坂の急こう配や急カーブが続いていく。

 さらに走行するとダム湖があり、愛車は湖畔にできた狭い道路に入って行く。 

道路の対岸では、新しい道路工事が至る所で進められている。 

そのまま狭い道路を進んで行くと日本一面積の広い十津川村に入って行く。 

道路は相変わらず狭く、対向車が来るたびに、道路幅の広い場所を見つけ、対向車を通過さしてから走行して行く。

この道路では、常に対向車を意識して運転する必要性がある。

特にカーブの手前やトンネルの手前では、対向車を意識していないと、狭い場所では対向車と鉢合わせになり、

どちらかの車がバックしなければならず、無駄な時間がかかってしまう。

 道が狭い割には通行量も多い。

正月休暇の為か大型車の通行はなく、ほとんどがマイカーで大きな渋滞はなくスムーズに流れている。

この国道168号は、国道169号と共に、紀伊半島を南北に縦断する幹線道路で、京阪神から多くのレジャー客が訪れる地域でもある。

土津川村中心部を過ぎてしばらくすると奈良県から和歌山県に入り、熊野本宮大社のある本宮町に到着する。

今日は本宮町にある小さな食料品店で、夕食の買い物をして、近くにある道の駅 「奥熊野古道ほんぐう」 で車中泊する予定である。

車中泊した道の駅「奥熊野古道ほんぐう」

1月4日(月)晴れ 1月にしては暖かい朝である。道の駅の周りには朝もやがかかり、遠くを見渡すことができない。

出発の準備を整え、簡単な朝食をすますと、直ぐに出発する。

10分弱で熊野本宮大社に到着、駐車場も朝早いせいか車は少ない。

駐車場を出ると、妻と二人ゆっくりと熊野本宮大社参道に向かって行く。 

熊野三山の中心的な存在の熊野本宮大社の入り口

左側には、八咫烏(やたがらす)が描かれた幟が立ち、熊野本宮大社の大鳥居と杉木立の参道が、本殿に向かって真っすぐにのびている。

 ここは、2004年に「紀伊山地の霊場と参拝道」として世界遺産に登録されている。

 紀伊山地は、自然信仰に発する日本人の宗教心を育んだ原郷でもある。

 蜿蜒(えんえん)と連なる峰々、巨木や奇岩を抱えて生い茂る深い森、渓谷を走り瀑を懸けて、大小の川を作りながら海に注ぎ、天空が一体化するような海原を形成している。

 ここは、熊野三山と呼ばれる自然環境から生まれた聖地で、伝統的な信仰を積み重ね、伽藍や墓所、修行の場を併せ持っている場所でもある。

 熊野三山は、熊野川を遡上した所にある「本宮(ほんぐう)大社」、熊野川河口近くの「速玉(はやたま)大社」と、

滝をご神体とする「那智大社」が、熊野灘に注ぐ那智川流域にあり、 これらの3つの神社をまとめた呼称である。

 熊野本宮大社では、熊野三山の三神に共通する神を祀っている、熊野三山の中心的存在で、日本全国3000を越える熊野神社の総本社である。

 

  本宮大社は「家都美御子神(けつみみこのかみ)=阿弥陀如来」、速玉大社は「速玉大神=薬師如来」、那智大社は「夫須美神(ふすみのかみ)=千手観音」をお祀りしている。

 平安時代から鎌倉時代にかけては、皇族や貴族などの「熊野詣」が大流行し、

後白河院 {1122~1192年=第77代天皇、即位の翌年、保元の乱が起こり、譲位して法皇となって院政をしき、広大な荘園を所領した。

梁塵秘抄(りょうじんひしょう=平安時代末期の歌謡集、後白河法皇編、当時流行していた今様(いまよう)が集められている)を著したといわれる} の参詣は34回に及んでいる。

 それに伴い熊野街道が発達し、各地から熊野への道も発展していった。

 日本各地へも熊野信仰が広がり、一般民衆の間でも熊野は「日本第一霊験所」として考えられ、「蟻の熊野詣」と言われるほど盛んになっている。


 その昔、熊野三山を参詣する人々は、必ず山を登り、川を越え、森を抜け、太陽を拝し、水に感謝することになる。

 これを体得することによって、霊験あらたかになるといわれている。

 熊野に行くには中辺路(なかへち)・小辺路・伊勢路などのルートが開発されていたが、どのルートから来ても、最初に参詣するのが熊野本宮大社であった。

熊野本宮大社に掲げられた年頭あいさつ

1月4日で朝早いせいか、参拝する人はまばらで、境内には、神社独特の静寂な雰囲気が漂っている。

私たちは、杉の木の大木に覆われた参道をゆっくりと本殿に向かって進んで行く。

 しばらく進むと真っすぐな158段の石段が、 両脇に杉木立を並べ本殿に向かってのびている。

石段を登り切ると、謹賀新年のあいさつ文と、本年を一文字で表した「気」が掲げられている。

 

2016年(平成28年)の一文字の「気」 = 「元気」・「やる気」・「強気」・「気迫」

しばらく、気の文字と説明文を見ていると、「なるほど」と思えてくる。

何事も「気」をなくせば、そこから先は、惰性、マンネリ、病気などが蔓延してくるように感じる。

逆に、「気」を しっかりと持てば、前向き、希望、夢、健康など明るい未来が見えてくる。

私たちにとって、すべての第一歩は、この「気」を どのようにもつのか! にかかっている。

かつて、経営の神様と言われた 松下幸之助は、著書の中で、

「青春とは心の若さである。

夢と希望に満ち溢れて、生活しているかぎり、

青春は永遠にあなたのものです。」

このようなことが書かれていたことが思い出されてくる。

 

参拝者が少ないためにか、巫女たちがいつものような厳粛なふるまいではなく、女子高校生のような戯れている姿があった。

この厳かな門をくぐると熊野本宮大社の本殿の境内である。 参拝を前に自然と身が引き締まってくる。

朝もやがかかっている熊野本宮大社本殿、趣のある社殿が立ち並び、私たちは左側の相殿から第一殿へ、さらに第二殿、第三殿、第4殿へと順次参拝する。

 

熊野造りの社殿が堂々と立ち並び重要文化財に指定されている熊野本宮大社、年間を通して多くの人たちが訪れる。

 

熊野造りと言われる建築様式で建てられている熊野本宮大社、多くの参拝者が訪れる熊野信仰の総本宮で家津美御子大神(けつみみこのかみ)を祀っている。

 

朝もやが立ち込める静寂な雰囲気のなか、心静かに熊野本宮大社に参拝する人たち。

熊野本宮大社は、本宮大社の家津美御子大神、那智大社の夫須美神、速玉大社の速玉大神の三神を共通の神として祀る熊野三山の中心的存在で、

日本全国3000を超える熊野神社の総本社である。

熊野本宮大社の参拝をすました私たちは、駐車場に隣接する、コーヒーショップで軽い朝食をすまして、那智大社に向かって行く。

 

 

急斜面に造られた那智大社、本殿にはこのような急斜面の階段を息を弾ませながら、ゆっくりと登って行かなくてはならない。

 何度も訪れている那智大社であるが、何度訪れても安らぎを感じさしてくれる那智山。

急斜面に建てられた伽藍や参道の石段、奥深い森から流れ落ちる大きな滝と三重塔など、

ここでしか味わえない大きなポイントが幾つかあり、その一つ一つが、心に安らぎを感じさしてくれる!  

 古の世界で上皇や多くの人たちが訪れた信仰の深さが伝わってきそうである。

 那智山は、平安末期から鎌倉時代、現生浄土を求めて多くの参拝者が訪れた熊野信仰の聖地である。

一年中を通じて多くの人たちが訪れる那智大社本殿

熊野那智大社の境内から社殿を観る。江戸時代に大改修された権現造りの社殿で、日本で最初の女神、夫須美大神を主神に12柱の神々を祀っている。

那智大社に掲げられている本年の干支 丙申

那智大社で参拝をすました後、隣にある那智山青岸渡寺(西国観音霊場第一札所)にも参拝する。

那智の滝と三重の塔ををバックに記念の撮影、何度来てもこの場所で撮影する。

私たちは、写真撮影をしながら、三重の塔方面に下って行く。ここからの景色は、三重の塔と滝が一体となった、那智山を代表する風景である。

滝と三重塔とが写ることによって、趣きを益し、那智山を代表する風景になっている。

写真などでこの風景が紹介される旅に 「一度は行ってみたい」 と思わすような! 人々に強い印象を与えているように感じる。

  

            代表的な風景の三重塔と那智の滝           本殿から那智の滝への 石段の参道 古の歴史を感じさしてくれる。

 三重塔の前を通り過ぎて滝方面に下って行くと、写真のような杉の木の大木に包まれた石段の古道があり、

数百年前に熊野詣で訪れた、古の雰囲気をそのまま伝えている。

 大木が生い茂る参拝道をさらに下って行くと、滝に直結する道幅の広い参拝道に出てくる。

豪快に流下する滝の爆音が大きく聞こえている。

滝の前には広場があり、多くの参拝者や、外国から来た観光客で賑わいをみせている。

滝前の写真スポットでは、訪れた人たちが順次交代するような形で記念撮影をしている。

 

石段の参道と那智の滝、ここでは滝そのものがご神体であり、滝に向かって鳥居が建ち、参拝できるような施設も造られている。

那智山一帯が、滝に対する自然信仰の聖地であり、滝が飛瀧神社のご神体である。

私たちも、この場所から滝に向かって参拝をする。

那智の滝、落差133mの日本一の滝で、華厳の滝、袋田の滝と共に日本三名瀑に数えられている。

那智山の参拝と観光を終えた後、私たちは、駐車場に戻り、新宮市内にある、速玉大社に向かって行く。

時間もお昼回っていることから、新宮市内のレストランで昼食を摂ることにした。

昼食をすました後、愛車で10分ぐらいの距離にある速玉大社に向かって行く。

熊野三山のひとつである熊野速玉神社

ここ熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)は、熊野三山の一つとして全国に祀る数千社の熊野神社の総本山である。    
 約2000年ほど前の熊野三所権現が最初に降臨された、元宮である神倉山(新宮市内)から現在の鎮座地に御遷りになった。
 これにより神倉神社の「旧宮」に対して「新宮」と号した古書に書かれている。
 現在の「新宮」と言う地名も、この事から呼ばれている。
 御祭神は、熊野速玉大神(いざなみのみこと)・熊野夫須美大神(いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ、新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めている。

多くの人が訪れる熊野速玉神社の神門から境内を望む・速玉神社は平成16年には世界遺産に登録されている。

 

華麗な美しさを見せる速玉神社拝殿と鈴門(右側)

速玉神社拝殿へ参拝する人たち

熊野三山の中で現在の社殿は熊野川の畔に位置する場所にある。

私たちは、河原にある臨時駐車場に車を止め、歩いて5分ほどで拝殿まですすむことができた。

色鮮やかな大変美しい神社である。

何回も訪れているが、境内に入ると、伽藍の美しさと繊細さが、自然と心に落ち着きを与えてくれる。

大きなしめ縄で飾られた神門をくぐると、色鮮やかで美しい社殿全景が見渡される境内にでる。

何度訪れても、社殿の美しさは抜群で、その壮麗さには強く印象付けられる。

早速、拝殿に行って、妻と共に参拝する。

 

参拝を終えると、私たちは愛車に戻り、伊勢神宮方面に出発する。時間も午後3時30分になっている。

通常だと国道42号を走行、し松坂方面から伊勢市に入ると5時間程度の時間を有すると考えられるが、

最近は高速道が開通しているらしい、が私は通行したことがなく、わからなかった。

国道42号を走行して行くと、バイパスが所々に出来上がっており、車はスムーズに走行できる。

途中熊野市内のスーパーで夕食の買い物をすまして、風光明媚な七里御浜の海岸を尾鷲方面に走行して行く。

さらに走行して行くと、真新しい熊野尾鷲道路に入って行く。

ほとんどがトンネルであるが車はスムーズに流れ、尾鷲がこんなに近かったのか! と、さえ思えてくる。

さらに走行して行くと、紀勢自動車道尾鷲北ICに入って行く。

この道路をそのまま走行し、紀伊長島、多気JCTから伊勢自動車道多に入り多気PAまで走行して行く。

多気PAに午後6時30分ごろの到着時間であった。

予定時間よりも大幅に短縮されたように感じ驚きであった。

到着すると早速車中泊の準備をして、妻と二人で少し早い夕食を摂った。

新年早々の車中の中で、カーナビのテレビを見ながら摂る夕食も、茶の間の雰囲気があり、

杯を傾けながら、ゆっくりと過ごしながら摂る夕食も、それなりの趣きがあり、楽しいひと時であった。

 

1月5日(火) 晴れ 朝、7時頃起床すると、早速、寝具などを片付け、簡単な朝食を摂る。

朝食を終えると、直ぐに伊勢自動車道を伊勢方面に出発しして行くと、まもなく伊勢西ICに到着する。

伊勢神宮方面に向かって行くと、新年の交通規制があり、神宮方面へはマイカーで入ることができなくなっている。

近くの駐車場に愛車をとめて信号を渡ると、伊勢神宮内宮へ通じるおはらい町がある。

五十鈴川沿いに沿って続く800mの通りには、江戸時代を思わすような、

切妻や入母屋の様式を取り入れた日本の伝統的な木造建築が並んでいる。

おはらい町の通りには、たくさんの土産物店・飲食店や商家が立ち並び、多くの人々が立ち寄ったりして賑わいを見せている。

10分程歩いて行くと、大きな賑わいを見せている場所に出てくる。

伊勢神宮、内宮の入口である宇治橋で前には、大きな鳥居が立てられている。

皇学館の女子学生も宇治橋を渡り内宮に進んで行く。

太陽信仰の象徴とされる天照大御神、この天照大神を祀っているのが伊勢神宮である。

冬至の日には、この宇治橋の真ん中から朝日が昇り、神々しい光景が見られる。

夏至には伊勢神宮の近くにある二見浦の夫婦岩の真ん中からしめ縄を潜って朝日が昇ってくる。

 

宇治橋は五十鈴川に架かる全長102mの橋で、橋を渡ると内宮の神域へと入って行く。

伊勢神宮内宮に掲げられ青空の下、風になびく日の丸。 

やはり、新年早々に日の丸を見ると、日本人として身の引き締まるような思いがする。

 

 伊勢神宮には、内宮と外宮があり、内宮は皇大神宮(こうたいじんぐう)、外宮は、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)からなり、

内宮は天照大御神(あまてらすおおのかみ)、外宮は豊受大神宮をお祀りしている。


 農業の神様である御饌殿(みけでん)は、内宮の天照大神が、豊受大神と毎日の御饌(食事)をなさる所だという。

 つまり、農業の神様を重んじることによって、人間の生活の安定を祈願するという信仰の表現だそうだ。


 神宮内の古い記録によると、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう=21代天皇、西暦456年~479年)の枕元に立った天照大神が
「五十鈴川のほとりの一人ぼっちは寂しい、丹波の豊受大神と一緒に住みたい」
 とおっしゃってから「丹波国比冶乃真井原=たんばのくにひじのまないはら」(京都府)から移されたものだといわれている。

 
 皇大神宮(内宮)は日本の神々の親だという天照大御神を祀り、御神体は八咫鏡(やたのかがみ)である。
 この鏡は代々天皇の皇居内にあったが、崇神天皇(すじんてんのう=第10代天皇 紀元前97年~29年)の頃、もったいないと大和の国の笠縫邑(かさぬいむら)へ、

その後、垂仁天皇(すいにんてんのう=第11代天皇、紀元前29年~紀元後70年)が、

五十鈴川のほとりに内宮を建てて、大和の国からここへ移して祀ることになったと伝えられている。

宇治橋を渡って神宮の神域に入って道なりに進んで行くと、大正天皇の御手植松などの立派な松が私たちを迎えてくれる。

さらに進んで行くと、手水舎があり、鳥居をくぐると、右側に五十鈴川の御手洗場が見え、大勢の人達が訪れている。

大きな樹木の中にできた参道を鳥居をくぐり、内宮御正宮方面へ道なりに進んで行く。

聳え立つ大木の枝間から木漏れ日が射す参道を多くの参拝者の方々と共に進んで行く。

数百年、あるいはもっと、昔から夢にまで見た伊勢参り・・・伊勢神宮内宮の御正宮(ごしょうぐう)が、その場所である。

日本の地方の村には、必ずと言っていいほど氏神様が祀られている。 

伊勢神宮は、その氏神様の総氏神様であり、天照大御神がご鎮座されている。

私たちも、石段を登り、御正宮でお参りした後、元来た道を駐車場まで戻り、外宮に向かって行く。

内宮から外宮までは、車では10分ほどで行けると思うが、渋滞があり、40分ほどで到着する。

駐車場からは近くに北御門(きたみかど)の入り口がある。 

そこから入って行くと、正面に広場があり、その向こうには、手水舎と橋(火除橋)が見えている。

私達は手水舎で身体を清めた後、火除橋を渡り、外宮の神域に入って行く。

伊勢神宮外宮(衣食住や産業を司る豊受大御神(とようけおおみかみ)をお祀りしている)

5分ほど進むと両側に神楽殿と九丈殿の場所にでると、多くの警察官が出て、歩行規制を実施している。

やがて参道に沿って縄が通され、外宮の御正宮に進むことができなくなった。

警備の警察官に、何事かと尋ねると、もうすぐ安倍首相一行が参拝に訪れるので、その場で 「しばらくお待ちください」 とのことであった。

間もなく安倍総理一行が参拝に訪れるとのことで、警備の警察官に指示されて位置で待つ多くの人たち。

私も、隣り合わせにいた30代ぐらいの男性と30分ほど談笑していると、神官に案内された安倍総理一行が多くの人たちを連れてやってくる。

伊勢神宮外宮を新年の参拝に訪れた安倍総理一行が神官に連れられてやってくる。

外宮の参拝を終え、元来た参道を戻って行く安倍総理一行の大勢の人たち

安倍総理一行が私たちの前を通り過ぎて、15分ほどで参拝を終え戻ってくる。

その間は全く身動きができなかった。

首相一行が戻られてすぐに歩行規制は解除されて、外宮の御正宮に向かって行くが、多くの人たちでごったがやしていた。

安倍総理が参拝を終えた後、外宮の御正宮に向かう多くの参拝者たち

木塀に囲まれた外宮御正宮へ向かう参拝者たち(御正宮の中には、御正殿があり、その後ろには、御餞殿(みけでん)と外幣殿(けへいでん)がある。

外宮御正宮へ参拝に向かう人たち

外宮の御正宮での参拝を終えた後、近くにある、風宮(かぜのみや)、土宮(つちのみや)、多賀宮(たがのみや)にも参拝する。

 

思いもかけない、伊勢神宮外宮で安倍総理一行と出会った。 

7年前の参拝の折には、麻生首相一行と内宮で出会ったことがあった。 

このときは確か1月4日であったはずで、今日は1月5日であることから、昨日参拝されたと思い込んでいた。

どうやら国会の関係で今日になったようである。

外宮も何度か訪れているが、風宮・土宮や多賀宮は初めてで、外宮の奥深さを感じる。

 

今年の正月妻と二人だけの静かな正月であった。

毎年、近くにある大森神社と水間観音には初詣を例年通りに行っている。

今年は急に熊野三山と伊勢神宮の参拝を思い立ち行くことにした。

今年の道中は雪もなく、天候も上天気で大変スムーズに走行できた。

それに、熊野から伊勢までの道路が大変良くなっているのには驚かされ、大変近くなっているように感じる。

 

外宮の参拝を終えると時間も午後3時を過ぎていた。

駐車場に戻るとそのまま伊勢自動車道に入り、関JCTから名阪道、西名阪・阪和道に入り午後6時過ぎに帰宅する。 

 

毎年、初詣は自宅近くの神社や寺、寺院などに行って、昨年の感謝や、本年の平和や安定を祈願することが 習慣になっているが、今年は熊野三山と伊勢神宮に出かけた。

自然災害や悪質な事件、目を塞ぎたくなるような国際的なテロや紛争など、私たちを取り巻く安全保障環境が様変わりしている。

こうした環境の中で、世界中の人々が安定した平和的なな暮らしを願うと共に、こうした紛争地域などで、平和的な活動をされている方々に対して、

感謝の気持と、健康に留意され安全に活動できますことを祈願せざるを得なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


バリ島への行き 立ち寄った初めてのマレーシアー②

2015-07-03 18:10:02 | 思い出

2015年(平成27年) 4月10日(土) マレーシアの首都クアランループにある、ペトロナスツインタワービルの見学を終えた後、

コーヒーと甘いマレーシア独特のお菓子を食べながら30分ほど休息する。

日本の和菓子と似ていておいしい。

 休息をおえた後、私たちは、電車を利用して、歴史的な施設の多いマスジット・ジャメを予定している。

地図を見ると、近くに電車のKLCC駅がある。

 ビル構内にある案内看板にしたがって、地下商店街をKLCC駅に向かって歩いて行くとすぐであった。

券売機の前で、チケットを買おうとしたが、よくわからず困っていると、近くにいた30歳前後の女性が、買い方を教えてくれて、改札口まで案内してくれた。

親切な女性であった。何度かお礼を言って、私たちはマスメジット・ジャメ方向の電車改札機に向かった。

ところが改札機を通過しょうとした時にトラブルが発生する。 

チケットを改札機の所定の場所に置くと、ドアーが自動的に開いて通行できるようになっているが、

妻が何度チケットをおいてもドアーは、閉じたままで開かない。

後ろにいた40代位の男性が、見かねて、妻の持っていたチケットをもって駅員の所に行ってくれた。

駅員がフォーマットして、再び改札機に置くと、ようやく開いて通行することができた。

私たちは、この男性にお礼を言って、到着した電車に乗り込んで行く。

この電車は、LRTという路線を走る電車である。

乗車して三番目の駅が目的地のマスジット・ジャメ駅で、10分程の所要時間である。

駅に到着して外に出ると川があり、その向こうに、マスジット・ジャメという KL(クアラルンプール)最古のモスクが、堂々とした威風を放しながら見えている。

下の写真のように目の前の川と、その向こうにある川が、すぐ近くで合流している。 

ここがクワラルンプール、都市名の由来になった場所である。

少し先の川がクアラルンプールの名前の由来になったクラン川と、ゴンバック川の合流地点、水間にマスジット・ジャメといわれるモスクが建てられている。

川越しに威風を放つマスジット・ジャメの建物を見ながら入口の方に向かって行く。 

入口で建物の中に進もうとしたが、ガードマンから、手を横に振り、これ以上は入れないと停止させられた。 

仕方なく、道路を真っ直ぐに進んで行く。

 

1909年に建設されたKL(クアラルンプール)最古のモスクで、クアラルンプール駅と同じハボックが設計している。 

ムーア時代の様式に影響を受けたタマネギ形のドーム屋根やアーチ形建物、塔と曲線などと、

使用されている大理石やレンガ壁などが、バランスよく設計され、独特の美しさを醸しだしている。

クアラルンプールの歴史的な建築物が多いマスジット・ジャメ周辺の街並み

駅から真っ直ぐに進んで行くと大きな通りがあり、緑の多いクアラルンプールの美しい街並みが見え、往来する車や訪れる人たちで賑わっている。

マスジット・ジャメの周辺に建つ 市立劇場(旧市庁舎)と白亜の旧高等裁判所

マスジット・ジャメ周辺には多くの歴史的な建造物が集中し、かつて、この地域がマレーシアの中心であったことがうかがえる。

駅から進行してきた道を曲がると、イスラム様式でレンガ造りの市立劇場(旧市庁舎)や旧高等裁判所がある。

100年以上の昔にできたとは思えないような美しいレンガ造りと、細部にこだわった外観や色彩が独特の美しさを醸し出している。 

その上に建つ真っ黒なドームと、さらにその上に建つ真っ白い塔が、イスラム様式の個性的な景観を見せている。

外観的にもムーア・イスラム様式独特のアーチ状の白い窓が、赤い煉瓦と共にうまく調和し威風を放つ市立劇場(旧市庁舎)

マスジット・ジャメの隣接地にある市立劇場、以前は市庁舎として使用されていた。 右の白い建物が旧高等裁判所である。

市立劇場は、国立織物博物館と同様、1896年にA、B、フバックによって設計された建物である。

白の外壁とレンガ壁がイスラムやムーア建築の特色を生かしいる。 

この場所から見る建築物、独特の形状からくる色彩やコントラスが、120年前に立てられたと思えないほどの美しさを魅せている市立劇場の建物。

旧高等裁判所、この建物は1915年A、B、ハボックによって設計された。  

白亜の色彩にイスラムやムーア調の形状が美しく、屋上にある白と黒のドームが建物全体の重厚な雰囲気を漂わしている。

現在は民事など軽微な裁判所として利用されている。

スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧マラヤ連邦事務局ビル)

イギリスの統治時代には行政の中枢となったビルで、国の重要な行事が行われてきた。現在は最高裁判所になっている。 

 

私たちは、マスジット・ジャメや市立劇場・旧高等裁判所の建物を見学したあと、横に長くひときわ威風を放つ、旧連邦ビルを見ながら、その前にある広大なグリーン広場(独立広場)に向かって、道路を横断して行く。

独立広場の前に建つ、スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧マラヤ連邦事務局ビル)

イギリス人建築家A.C.Normanの設計により1894年~1897年に建てられた。

イギリスのビクトリア様式、イスラムのムーア様式の融合したデザインになっている。

左右対称の中央には40mの高さのある時計塔と、その下には玄関が建築され、左右の塔と共に威容を放っている。

 

私たちは独立広場の隅にある花や噴水などを見学していく。 

そこから、美しく整備された広大な旧マラヤ連邦事務局ビルが良く見える。 ここからの光景は、いつまでたっても、飽きることがなかった。

それにしても美しい建物である。

中央の塔の上部にある時計台や、さらに、その上にある銅製の丸いキュポラが、建物全体の調和を図り、強く引き付ける役割を果たしている。

左右の同じ形状の小さなキュポラと、建築様式の建物がバランスよく配置され、中央の塔と共に存在感を一層高めている。

いつまでたっても飽きることのない歴史的な美しい建築物である。

また、どこか、歴史ある大国の宮殿のようなムードを醸し出しているようにも思える。 

独立広場からの スルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧連邦事務局ビル)でマレーシアに現存する植民地時代を代表する建物として知られている。

小さな池があり、ギリシャの神殿のような柱の上から滝のように落ちる水が流れ、その水間から見るスルタン・アブドウール・サマト・ビル(旧連邦事務局ビル)

 

この場所周辺には近代的な建築物や歴史的な建築物が多く存在している。

それに、美しい公園のように整備された独立(ムルデカ)広場のグリーンや

噴水や滝などの水の芸術品が、うまく調和し、独特の美しい景観を造り出し、マレーシアの歴史的情緒を高めている。

さらに、私たちは独立広場のグリーンの上を、国旗掲揚塔のある方向に向かってゆっくりと歩いて行く。

独立広場(ムルデカ・スクエア)と正面に近代的なビルを見る。 この広場は1957年8月31日の独立宣言された歴史的な場所である。

なぜか、この広場に立って周りの景観を見ていると、当時のマレーシアの志ある方々が、

小さなことにこだわらず、大志を抱きながら、国造りに邁進、心の中に新たなる決意を強く秘めていったであろう! との様子が目に浮かんでくる。

独立広場の南端にある国旗掲揚塔、世界一の高さを誇る100mの国旗掲揚塔にはマレーシア国旗がはためいている。 

下層の位置には、独立宣言するラーマン首相のモザイク画がおさめられている。

 

1945年、現在のマレーシアと呼ばれる地域はマラヤと呼ばれていた。

第二次大戦終了後、再び、イギリスが攻め込み、イギリスの植民地のマラヤ連邦となったが、1949年マラヤ連合へ移行する。

ラーマン初代首相

その後、ラーマンは幾度となく、独立のための使節をイギリスに派遣するが拒否される。

1956年、独立のための使節を再び、イギリスに派遣し、交渉した結果、独立のためのマラヤ連合憲法が施行され、1957年8月31日、民族の念願であった独立を勝ち取った。

  

 1957年8月31日 独立宣言するラーマン マラヤ連合初代首相のモザイク画 (独立広場の国旗掲揚塔に掲示されている)

 

かつてのマレーシアやアジアのほとんどの国は、長い間、欧米諸国の植民地であった。

植民地を持った欧米諸国は、繁栄をつづけ、栄華を味わっていた。

逆に植民地にされたアジアなどの国々は、衰退し、国民生活はきわめて困窮していた。 

そんな植民地時代の状況が数百年続く中、アジアのある国が、彗星のごとく現れ、白人国家の強国 ロシアを戦争で破ったというニュースが流れてくる。

世界中の人々は、この報道に驚き、圧政に苦しむアジアの人々にも、大きな喜びが湧き上がってくる。

西洋文明の強大な軍事力や工業力には、絶対にかなわないと思っていたことが、 自分たちにも やればできるのではないか! 

独立への道が開かれるのではないか! との希望の炎が芽生えてくる。

 

日露戦争での日本の勝利は、日本だけの勝利に終わらず、世界の植民地地図を塗り替えるほど、大きな影響力のある出来事であった。

インドの初代首相 ジャワーハルラール・ネルー は次のように語っている。

「日本がヨーロッパで最も強い国の一つであるロシアに対抗できたなら、どうしてインドにできないことがあろうか」

また、初代ビルマ首相 バー・モウも次のように語っている。

「日本の勝利を聞いたときの感動を思い起こす。この勝利がアジア人の意識の底流に与えた影響は決して消えることがなかった。 それは全ての虐げられた民衆に、新しい夢を与える歴史的な夜明けであった。」

その他、トルコ、イラン、フインランド、エジブトなどの国々も驚嘆し、歓声をあげ、黒人の解放運動にも火がついていく。

アジアなどの独立運動は、日露戦争での日本の勝利が、一つの大きな原動力になっている。

他方、その後の欧州側でも、有色人種の独立運動が活発になり、植民地化、奴隷化することは、もはやできない! と意識するようになる。

 

日露戦争後の状況について少し述べてみる。

1914年(大正3年)第一次世界大戦(人類史上最初の世界大戦)が勃発する。

1919年(大正8年) アメリカ ウイルソン大統領の提唱により、人類史上初の国際平和機構である 「国際連盟」 が設立される。

日本は1919年(大正8年) 国際連盟の第一次世界大戦後のパリ講和会議において

世界で初めて人種差別撤廃を明確に主張する。

この日本の提案は、海外でも大きく報道された。 

西洋列強の圧力に苦しんでいた国々や人々から、感謝の言葉が日本に述べられている。

人種差別撤廃法案は賛成多数にも関わらず、議長(アメリカ ウイルソン大統領)の裁定で否決される。

賛成多数にも関わらずアメリカ 大統領裁定で否決されたことから、

アメリカのシカゴなど多くの都市で人種暴動が発生、100人以上の死者、数万人が負傷するなどの事件が多発する。

 

1924年(大正14年) アメリカで 排日移民法が成立する。

1929年(昭和4年) 世界大恐慌が始まる。 この経済危機により、共産主義が勢力を得てくる。

それに対抗するイタリアでは、ファシズムが、 ドイツではナチシズムが大頭する。

第一次対戦後の処理に関して、ベルサイユ条約(1919年6月)が調印され、

それに伴って、もたされた国際秩序であるバルサイユ体制がなされたが、ドイツは反感し、

日本へ親近感を強め、植民地大国である、イギリスやフランスに反感するようになっていく。 

このようなことが、その後の第二次世界大戦への呼び水になっていく。

 

 

欧米が望んでいたのは現存するアジア・アフリカなどの植民地を、そのまま維持し、収益を上げ国家財政を豊かにすることであって、自分たちの植民地を手放すことなど、夢にも考えてなかった。

そんな、折りに、日本というアジアの小国が現れ、人種差別撤廃やアジアの植民地解放のために活動してくる。

このように、欧米諸国が進出している北東アジアや東南アジア・インドなどへの影響力を高めていく日本に対して、欧米諸国は快く思っていなかった。

特にアメリカのルーズベルト大統領は、同盟国を集い、

1941年(昭和16年) 資源のない日本への貿易封鎖網(ABCD包囲網)を確立し戦争へと追い込んでいく。

A=アメリカ、B=イギリス(Britain),C=支那(china),D=オランダ(Dutch)

貿易封鎖の内容は以下のとおりである。

①日本資産の凍結、②通商航海条約の廃棄、③鉄鋼禁輸措置(なかでも石油はアメリカに依存しており、禁輸は日本存亡の危機であった)

1941年8月 ルーズベルト米大統領は、石油禁輸強化を発令する。(日本の石油備蓄量は約半年分であった)

 

さらに、アメリカ政府は1941年11月、日本に追い打ちをかけるような無理難題なハル・ノート(日米間協定の提案基礎の概要)を突き付ける。

内容は、「日清、日露戦争やその後の条約によって日本が獲得した正当な、すべての権益を放棄せよ」 (欧米諸国は植民地政策をそのまま続ける)

こういった内容のハル・ノートを日本は突き付けられてきた。

この時、日本は、アメリカとの外交交渉を、何とか関係修復を図りたいとの思いで必死の努力を続けていた、

日本にとって、ハルノートは、寝耳に水で、目のくらむほど絶望感が走る内容であった。

この「ハル・ノート」は、アメリカ議会も、アメリカ国民も全く知らないところで、ひそかに日本に突き付けられた。

ルーズベルト大統領と、幾人かの側近のみが知っていた。

ルーズベルトは、この内容を突き付ければ、「日本は、我々に牙を剥いて、襲いかかってくるだろう」 と思っていた。

そして、日本から、最初の一発がほしかった。

そうすれば、「アメリカ国民は怒り、戦争やむなし、と心を一つにして、日本との戦争に邁進できる」 と考えていた。

アメリカのルーズベルト大統領ハル国務長官も、当時の白人感覚で、有色人種を差別して、このような無理難題を持ち出し日本にせまってきた。

このような無理難題な通牒を突き付けられた日本には、開戦以外に妥協の余地はなかった。

 

戦後、このハル・ノートの件について、東京裁判で、日本の無罪を主張したインドのパール判事は

「ハル・ノートのようなものを突きつけられたら、モナコヤルクセンブルクのような小国であっても、矛(ほこ)をとってアメリカに立ち向かうであろう」と述べている。

また、アメリカのハミルトン下院議員(ルーズベルトのライバラル)は、ハル・ノートの存在を知ると 「恥ずべき最後通牒」 と批判し、こういったものを突き付けられた日本は 「自殺するか!、降伏するか!、戦うしかない」 と述べている。

日本占領連合軍の最高司令長官であるマッカーサーも、戦争が終結して日本に来るまで、ハル・ノートのことは知らなかったと述べている。

 

私も、日本人の心を深く傷つけるハル・ノートのようなものを受け取れば、

どのような状況を考えても、熟慮しても日本の進むべき方向は戦う道しか残されていないと思う。

仮に、相手側の要求を日本政府が受け入れても、明治以降、外国との正当な権益を手放すことは、軍や当時の日本国民が許さなかったと思う。

 

ハルノートから日本には、開戦以外に妥協の余地はなかった。

ハル・ノートにより日本の真珠湾攻撃が決定し、大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまった! といっても過言ではない。

 

この時期のアジアは、ほとんどの国が欧米諸国の植民地であった。

植民地でないのは、日本とタイの2カ国といっていいような状況であった。

日本はかつてから大東亜共栄圏構想をもっていた。欧米諸国の植民地支配から、東アジアや東南アジアを開放し、

日本を盟主とする共存共栄の国際秩序建設を目指していた。

 

こんな状況のなかの、1941年(昭和16年)12月8日、 この日の早暁、日本軍はマレーシア東海岸のコタバルに敵前上陸を試みる。

 イギリスとオーストラリアの連合軍は、海岸沿いにコンクリート製のトーチカ(防御陣地)をつくり、上陸しようとする日本軍に、猛烈な砲火を浴びせてくる。

 中国戦線で戦ってきた命知らずの日本軍1万人は、それをものともせず上陸に成功し、交戦状態に入るが、日本軍の勢いに圧倒された連合軍は降伏する。

アジアの人々は、小さな日本軍が、世界に冠たる大英帝国の軍隊を降伏させたことでマレー人の目は開かれていく。

この時、マレー半島の多くの人達は、イギリスや華僑の支配からの独立を夢見て、積極的に日本軍に協力している。

 

反日的な華僑が日本軍政中に過酷な仕打ちを受けたことは事実であるが、

日ごろ私たちが目にする東南アジア史の書物の多くは、華僑の利害のみ基づいて書かれたものがほとんどだということを忘れてはならない。

 

 アジア植民地政策を推進するイギリスは、1623年にインドネシア東部のモルッカ諸島でオランダと交戦になり敗れる。

 その後、インド経営に力を注ぎ、それが軌道に乗ると、再び東南アジアに目を向けていく。

さらに イギリスは、1768年にペナン島、1819年にシンガポール、、1824年にマラッカを手に入れ、本国直轄の「海峡植民地」 を構成する。

 そして、内陸部も保護国化し、1895年にはマラヤ連邦をつくる.

植民地化に成功したイギリスは、スズ鉱山やゴム園の開発に力を注ぎ、中国人やインド人労働者を多数マレーシアに移住させる。

今日のマレーシア・シンガポールの複雑な民族構成の基礎を作ったのは、このことが原因である。

また、イギリスは、直接支配から、中国から連れてきた華人を中間搾取者として、マレー人の支配を強めていく。

このように植民地化されたマレー人は、イギリス人を憎むと同様に、中間搾取社の華人をも憎んでいた。

日本軍の侵攻によって華人は、これまで持っていたマラヤ連邦の利権を失うが、今度はゲリラ戦で抵抗してくる。

このゲリラに不意を突かれて命を奪われた日本兵がたくさんいた。

この時のイギリス軍は、植民地インドのグルカ兵やパンジャブ兵を主力としていた。

 

マレー半島のコトバルに上陸したあと、日本軍は地元の人達との協力を得ながら、シンガポールに向かって南下しして行く。

南下している最中にも現地の人達は日本軍によく協力したといわれている。

シンガポールには、アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア連合司令部がおかれていた。

日本軍は数的には互角であったが、制空権・戦車・歩兵戦術・戦闘経験において優越していた。

1942月2月 、日本軍はシンガポール攻略に成功する。

、シンガポールの住民たちも、難攻不落を誇っていたシンガポールの要塞が日本軍の攻撃で陥落したのを見て、日本軍に好意を持つようになっていく。

 当時のマレーシアの人達の悲願はイギリスからの独立であった。

日本は、欧米の列強からの貿易封鎖などの政策により苦難の状況に陥っていた。

この苦難な状況を打開するには、日本にとってもアジア諸国を、欧米からの独立を支援し、正当な経済関係の構築にあった。

その為に、日本は、植民地の全国民への教育、独立を勝ち取る強い心を持った青年たちの育成などに貢献している。

欧米諸国は、「植民地に一番先に造ったのは刑務所であったが、 日本は一番先に学校を造った」 といわれている。

 

パークロイヤルホテルに展示してあった三輪自転車(トライショー)、現在でも観光客を乗せて活躍している地域がある。

トライショーは人力車と自転車を組み合わせたような乗り物である。

 

さらに、帰国後色々な書物を読んでいると、次のような内容の記事があった。 

ある日本人の学校教師が、戦後、マレーシアを訪れました。

 かつて日本軍は大東亜戦争(太平洋戦争)中に残虐非道を尽くした、と思っていた彼は、マレーシアにおける日本軍の活動を調査しようと思ったのです。

 彼は、マレーシアの上院議員ラジャー・ノンチックに会って言いました。

 「日本軍はマレー人を虐殺したに違いありません。その事実を調べにきました」。

 すると、ノンチック議員は驚いて言ったのです。

 「日本軍はマレー人を一人も殺していません。

日本軍が殺したのは、戦闘で戦ったイギリス軍や、それに協力した中国系共産ゲリラだけです。

それに、日本の将兵も血を流しました」。


 そのような話が、『教科書が教えない歴史』 (扶桑社文庫)という本に紹介されている。

ノンチック議員は、その第一期生の一人でした。

彼は、同じように独立の熱意に燃えるアジアの青年たちと共に、留学生として日本に派遣されます。


 日本人教官たちは留学生たちを、わが子のように厳しく優しく指導し、

「独立を戦いとるためには、連戦連敗してもなお不屈の精神を持つことだ」

と励ましてくれたといいます。

 日本政府は食糧難の中にも、苦労して留学生の食糧まで集めました。

この日本留学の経験は、ノンチック議員の人生を変えるものとなったのです。

 そののち1945年、日本は敗戦を迎えます。

ノンチック議員は、そのとき決意を新たにしました。

 「日本はアジアのために戦い疲れて破れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」

 ノンチック議員らは、祖国独立のための戦いを続け、ついに1957年、祖国独立を果たしました。

さらに、彼ら日本に来た南方特別留学生たちが中心となり、

現在のASEAN(東南アジア諸国連合)が設立されたのです。

 ノンチック議員は、こんな詩を残しています。

かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。アジアの国の誰にでも、自分のことのように一生懸命尽くしてくれた」。

 かつて日本軍は、東南アジアを舞台として戦いました。

しかし 日本軍は 東南アジア人を相手に戦ったのではなく、東南アジアを東南アジア人の手に取り戻すために、欧米人を相手に戦ったのです。

マレーシア歴代首相の画が展示してある独立広場

1994年、(平成6年) に当時の村山富一首相が、例によって日本の過去について謝罪したことをとらえて、

マハテイール首相は 「なぜ日本が謝り続けるのか理解できない」 と発言しています。

マハテイール首相

マ八テイール首相は、日英両国の支配を比較して、謝罪すべきはイギリスであると考えていました。(教科書が教えない東南アジア=扶桑社)

マレーシアは、日本が占領するまでの長い間イギリスの植民地でした。

 

旧連邦事務局ビルの隣にある国立織物(テキスタイル)博物館

この博物館はムガール様式で建てられ、その美しさから人気の高い建物である。 

1896年に建築され、その間さまざまな官公庁の使節として使用されている。 2012年に現在の博物館として開館している。

マレーシアの織物や染め物、手工芸品などを紹介する施設である。

マレーシアの伝統的な衣装や工芸品も展示され、その中には国宝級のものも有り、なかなかの見ごたえのある博物館といわれている。

独立(ムルデカ)広場横にある国立歴史博物館

国立歴史博物館では、マレーシアがたどってきた先史時代からイギリスの統治時代、日本による統治時代を経て、

独立までの歴史と文化が、数々の資料を基に展示して紹介されている。

かつて、銀行に使われていた白いコロニアル様式の建物を回想し1996年に開館する。

 

クアラルンプール シテイーギャラリーと奥にある市立図書館

このシテイギャラリー-は、クアラルンプール市内の歴史的建物などを含めて、クアラルンプールを案内するいわば観光案内所である。

独立(ムルデカ)広場の左側に隣接している。

上記写真の奥には市立図書館があり、独立(ムルデカ)広場地下への入り口の対面になっている。

 写真の奥にある市立図書館は、長い間かかって建設されていてようやく2004年6月中頃開館するが、

残念ながら蔵書が不十分であるとの声があり、図書館側も、今後、少しずつ増やしていくといわれている。

シテーギャラリー前で音楽に合わせてダンスをする若い女性たち

 

独立(ムルデカ)広場や周辺の建物などを、見学したり、写真撮影したあと、来た時と同じ駅であるマスジット・ジャメ駅に向かって行く。

マスジット・ジャメ駅からは電車に乗ってKLセントラル駅へ向かって、同じコースでモノレールに乗り、

宿泊するパークロイヤルホテル近くのブキツ・ビンタン駅まで行ってホテルに帰って行く。

ホテルの自分の部屋について、荷物などを置くと、私たちはすぐに、クアラルンプールきっての屋台街であるアロー通りに出かける。

アロー通りは、パークロイヤルホテルから、徒歩10分ほどで、モノレールのブキツ・ビンタン駅下の大通りを過ぎるとすぐであった。

黄昏時をむかえ、屋台の明かりが少しずつ輝きだしている。

アロー通りには大勢の人達が訪れ、通りの両サイドには中華料理店が並び、店の道路側には、多数のテーブル席が設置されている。

通りの中央には、大勢の人たちが行き交い、乗用車も通行、大変なにぎわいを見せている。

 

大勢の人達が訪れにぎわいを見せるアロー通りの屋台街

夜になると大変な賑わいを見せるアロー通りの大屋台街、これぞアジアといった南国の雰囲気が漂っている。

道路の上に、テーブルとイスを並べた屋台スタイルが人気を呼び、中華料理を中心に、フルーツや焼き肉の屋台なども並んでいる。

アロー通りにある屋台レストラン「西湖」 メニューは中華料理であるが、日本にもある大衆中華料理店のメニューとほとんど変わらない。

私たちも空いているテーブル席に座り、夕食をとることにした。

やはり星空を見ながら屋台で食事することは、解放感があって気持ちがいい。

日本語は通じないが、ビールや焼き餃子、酢豚などの料理をオーダーしクアラルンプールの夜を楽しむ。

このような大屋台街は、日本では見かけないが、台湾でも屋台街があり大勢の人達で賑わっていた。

やはり、屋台は、建物などの圧迫感なく、晴れ晴れとした気分にさしてくれ、どんな飲み物や料理も、屋内よりもおいしく感じる。

それに、アジア特有の南国のムードもあり、私たち旅行者を有頂天のような、ルンルンとした最高の気分にさしてくれる。

 

4月11日(土) 今日は インドネシア バリ島へ移動する日である。 午前7時30分頃、ホテルからタクシーでKLセントラル駅に向かって行く。 

15分程でセントラル駅に到着すると、クアラルンプール国際空港への切符と、バリ島への飛行機への搭乗手続きも、この駅ですべて行うことができる大変便利な駅である。

おかげさまで私たちは、小さな手荷物だけの手軽の状況で特急電車や飛行機に乗ることができた。

クアラルンプールセントラル駅からKL国際空港へ向かう特急電車内

出発前のマレーシア クアラルンプール国際空港

2015年4月11日(土)午前11時 私たちを乗せたマレーシア航空機は定刻にKL空港を離陸し、インドネシアバリ島のデンパサールに向かって行く。 飛行時間は3時間であるが、不思議なことに時差はなかった。

インドネシア バリ島 テンパサール空港に定刻の午後2時に着陸する。

9年ぶりに降りたったテンバサール空港、前回の時よりも空港が新しくなっているように感じる。

 

今回始めて訪れたマレーシア・クアラルンプール、 そこには日本との深い絆があった。

訪れた旅先での私たち日本人に対する反応は、極めて好意的な親日な態度であった。

この親日的なマレーシアの人達の態度は、私たちの先人達とマレーシアの人達の深い絆から生まれている。

色々な書物を読んでいると、私たちの先人を悪に仕立てて書かれている本もたくさんあり驚かさせられるが、

私にはどうしても解せない。 

 ほんとに日本が悪であるならば、現地でのこのような親日的な態度は生まれない。

朝日新聞が誤報と伝えた従軍慰安婦の虚報(吉田清冶著)のような報道が多い様に感じる。

今回の旅行を通じて、旅先での歴史やそれにまつわる書物などを調査したり、読んでいると、

日本って素晴らしい! と新たに感動の心が湧いてくる。

以前に訪れた台湾でも、インドネシアでも同じような体験が思い出されてくる。

また、いつの日かマレーシアを訪れる日が到来する日を夢見ながら

私たちは次の旅先であるインドネシア バリ島へ旅立って行く。

 

 


バリ島への行き立ち寄った初めてのマレーシアー①

2015-06-19 21:47:17 | 思い出

 2015年4月9日(木) 今日はマレーシアの首都、クアラルンプールと娘たちが生活しているインドネシア バリ島への出発の日である。

 朝早くから南大阪にある自宅で出発準備を整えて、待っていると、近くに住む友達(女性)が車で訪れ、関西空港まで見送ってくれた。

 この友達とは、南大阪に住むようになって10余年の付き合いで、何かと私たちの力になってくれる。 今回も荷物が多く、思案していると自ら私が 「送って行きましょう」 と言ってくれた。 非常にありがたく助かった。

 今回の旅行日程に関しては、近くの旅行会社JTBと打ち合わせていると、当初、4月10日出発を予定していたところ、いざ出発となって見積もりをとると、当初予算よりも10万円前後、高くなっていた。 

 詳しく話を聞いてみると、出発する日によって航空運賃は変わるとのこと、それでは出発日を4月9日に繰り上げるとどうなりますか!

 早速、再見積もりをしていただいた。  驚いたことに、当初予算通りの金額で、10万円前後安くなっていた。

 このことから 出発日を4月9日、帰国日を4月20日に決定する。

 途中、マレーシアを経由することから、首都クアラルンプールで2泊して、インドネシアバリ島に向かう予定をたて、バリ島の娘宅で8泊、帰りの機内で1泊のスケジュールが決まってくる。

 マレーシアのホテルもJTBにお願いしたところ、宿泊費は最低でも一人15,000円はするとのことで、インターネット予約を勧めてくれた。

 ネットでは、日本語の分かるスタッフがいるのを優先して、宿泊ホテルを検索した結果、クアラランプールの 「パークロイアルホテル」 が浮かび、条件も合うことから、予約することにした。  料金は二人で1万円/泊である。

 インドネシア バリ島では、バリ島に住む娘家族のほかに、ドイツに在住する末娘家族(4人)と、アメリカからは、次女がやってきて再会する予定である。

  4月9日(木) 午前9時前に関西空港に到着すると、すぐにマレーシア航空の搭乗手続きを行った。 30分程で手続きは完了。

 すぐに近くのカフェーで簡単な朝食を済ませて、マレーシア航空の出発ゲートに向かって行く。

 午前11時00分 私たちを乗せたマレーシア航空は、関西空港を定刻に離陸し、マレーシアの首都クアラルンプールに向かって飛び立って行った。

 マレーシアまでの所要時間は、約7時間の空の旅で、日本との時差は1時間である。

                          

                                       搭乗するマレーシア航空機 登場して間もなく 午前11時00分、定刻に関西空港を離陸する。

離陸した直後、関西空港を眼下に見ながら、マレーシア航空機は上昇して行く。

関西空港を離陸して6時間余の時間が経過する。 下を見るとごらんのような島が見え美しい景色が広がっていた。 

 

暫くしてクアラルンプール空港へ着陸体制に入り高度を下げて行く。

航空機の真下には、ココナッツなど大きな葉をつけた、緑豊かな樹木が、視界一面に広がっている。

樹木の葉などがはっきりと目に入ってくると、間もなく私たちを乗せたマレーシア航空機は、クアラルンプール国際空港に着陸する。

丁度、定刻の午後6時00分(現地時間午後5時)であった。

 

マレーシアの国土は、南シナ海を挟んでマレー半島とボルネオ島北部にまたがっている。

古くは大航海時代から、帆船でできた貿易船が集まり、アジアとヨーロッパを結ぶ、交通の要所であった。

国土の60%を熱帯雨林がしめる自然豊かな国である。

民族的にもマレー系、中国系、インド系などの他民族が調和のとれた社会を形成し共存している。

宗教的には、イスラム教や仏教、ヒンドウ教、キリスト教など多岐にわたっている。

人口は約3000万人、首都は東南アジア有数の都市で、国をリードするクアラルンプールである。

マレーシア クアラルンプール国際空港

この国際空港は、世界の著名な建築家からアイデアを募集、

その結果、日本の黒川紀章氏の「森と空港の共生」 をコンセプトにしたプランが高い評価を受けて選ばれた。

空港のメインターミナルビルなどの主要施設の建設は、日本の円借款により支援され建設された。

1998年6月にマレーシアの玄関口として、クアラルンプール国際空港は開港する。

クアラルンプールから約50km南の緑豊かなセバンに位置している。

 クアラルンプール国際空港メインターミナルビル 「森と空港の共生」 のコンセプトらしく、空港の屋内からも緑が多くさわやかな空港である。

 

定刻に到着したマレーシア航空機の私たちは、クアラルンプール国際空港の国際線専用サテライトビルゲートに到着する。 

航空機から降りと、それぞれのターミナル間を結ぶ、エアロトレインに乗ってメインターミナルに移動する。

メインターミナルには5分ほどで到着するすると、人の流れに沿って進んで行く。 

その先には、エスカレータがあり、そこに入国審査場がある。

15分ほどで入国審査をパスした後、荷物を受け取り、クアラルンプール市内の予約しておいたホテルに向かうことになるが、

どのルート(鉄道か、タクシー)で行くか!  まだ、決めていなかった。

空港で荷物を受け取る時に、日本語が分かる女性のスタッフがいて、どのルートが良いか聞いてみると、

私たちの荷物を見て、鉄道は何回か乗り換えがあるから、タクシーの方が良いと勧めてくれた。

その言葉で、タクシーで行くことに決め、乗り場に行くと、

「タクシーは前払いクーポン制で、50m程離れた所にある販売所でチケットを購入するように」 といわれた。

早速、チケットを購入し、タクシーでクワラルンプール中心部にある、パークロイアルホテルに向かって行く。

空港からクアラルンプール中心部までは、高速道路があり、所要時間は約1時間である。

タクシーの車窓からの光景を楽しんでいた。 

空港周辺の道路沿いに、大きな葉をつけたココナッツの樹木が生い茂っている。

暫くの間、その光景が続き、その広さには驚かされるが、

タクシー運転手に訪ねると、この樹木の実からココナッツオイルを抽出し、世界に輸出されているとのことだった。

高速道路は渋滞もなくスムーズに走行していると、ほどなくして、高層ビルが林立するクアラルンプール中心部に入って行く。

交通量の多い道路をしばらく走ると、私たちが宿泊する 「パークロイアルホテル」 の玄関に到着する。

手元の時計では、午後9時、マレーシア時間では午後8時であるが、まだ、明るく黄昏時の心地よい時間帯に入っている。

 

宿泊した21階建てのパークロイアルホテル(クアラルンプール市内)

 

フロントでチェックインを済まして15階の部屋に入る。 部屋から外を見ると、真下には道路があり、その向こうには、小さなモノレールが行き来している。

このホテルは、建築年数はかなり建っているものの、立地条件の良いクアラルンプール中心部に属している。

私は、その利便性を第一に考えて、このホテルを選んだ。

ホテルの部屋に荷物を運び終えると、私たちは、当ホテルの地下にあるレストラン街に出かけて行った。

幸いにして、日本食のレストランがあった。

ウエイトレスに、日本語で話しかけると、すぐに日本人シェフの若い男性が来て、簡単な会話と食事メニューについて質問する。

お勧めの日本定食と3点ほどの料理を注文して、暫くすると、日本酒と一緒に料理が運ばれてくる。

味もほとんど日本とは変わりはなく、私や妻にとっては、なじみやすものであった。

シェフと日本語でマレーシアのことや料理などについて会話をしていると、なんとなく気持ちが落ち着いてくる。

料理の味も、まずまずで、日本と比較してもあまり変わらなかったが、少し料金的には高く感じた。

 

4月10日(土)朝、7時半ごろに目覚める。 

ホテルの窓から外を見ると、まだ夜が明けていなく真っ黒であったが、ライトを点灯した数多くの車がせわしく往来している。 

どこの国でも見られる朝の交通ラッシュである。 8時になっても、まだ、夜が明けていなかった。 やはり、時差の関係は大きいと感じる。 

私たちは、ホテルで朝食を済ませると、すぐに、カメラを持って妻と二人でクアラルンプール市内観光に出かけて行く。

宿泊したホテルからKLモノレールのブキツ・ビンタン駅に向かう途中での撮影。

 

  ホテルから5分程歩くと、モノレールブキツ・ビンタン駅がある。

 そこから クアラルンプールの交通の要所であるKLセントラル駅に向かって行く。

 

  マレーシアのクアラルンプールは、180万人が暮らすアジアを代表する大都市のひとつである。

 クアラルンプールとは、マレーシア語で 「泥の川の合流地」 という意味で、国内では通称 「KL」 の呼び名で親しまれている。 

 マレーシアの首都として、貿易、商業、政治など国の中心的な役割を果たしている。

 クアラルンプールは、スズ鉱山の採掘拠点として栄えていた。

 19世紀中ごろクラン川とゴンバック川が交わる合流地点で、スズが見つかり、スズの町として開拓された。 

そして、掘り出されたスズを川の水で洗ったため、川には泥水が流れるようになった。 

それが、この町の地名 「クアラルンプール(泥の川の合流地)」の由来である。

 

  KLモノレールのブキツ・ビンタン駅でコインのようなチケットを購入する。 

当初、チケットをどのように買うのか! よくわからないために、駅員に話をすると、発券機まで来てくれて、親切に教えてくれた。

KLモノレール  ブキツ・ビンタン駅から乗車しKLセントラル駅に向かう。 全線が高架で市内の眺望がよかった。クアラルンプールは緑が多く美しい街である・

クアラルンプールのKLモノレール 色々な車体の色がある。

KLモノレールの車窓からのクアラルンプール市内、道路もよく整備されている。 所々に大きな樹木の森があり、緑と近代的な高層ビルが調和したの美しい街並みを形成している。

15分ほどでKLセントラル駅に到着する。

 KLセントラル駅は、鉄道の玄関口で、バンコク~シンガポール間を走るマレー鉄道の国際列車や、クアラルンプール国際空港へもこの駅から発着している 

クアラルンプールの交通の要所であるKLセントラル駅へ行き交う人たち。

私たちは、KLセントラル駅を外に出たりして、写真撮影や街並みを見学をした後、通常の電車に乗って、この駅が出来るまで、活躍していたクアラルンプール駅に向かった。 KLセントラル駅からは5分ほどの距離にある。

クアラルンプール駅に到着した美しい車体の電車

クアラルンプール駅に到着すると、長いプラットホームがあり、ホームの一番端には、出口に向かう階段があった。 乗降客はまばらである。

一番端の階段を上って、改札を出た後、出口の駅舎中央の正面に向かって行くためには、降りた隣のホームをUターンするように、階段を上り下りする必要があった。

クアラルンプール駅構内 かつてこの駅がマレーシアの中心な役割を果たしていた時代の雰囲気が漂い、イスラーム調の造りになっている。

 

クワラルンプール駅構内の意匠デザインの素晴らしさを感じながら、駅舎を出て行く。

外に出て、駅舎を振り返ると白い白亜の建物になっている。

その上空には、数か所から天に突き刺さるような槍のような塔が、ドームの上に造られ、聳え立っている。

窓も大小のアーチ形をした開口を、左右にバランスよく配置し、頂上部の塔と共に洗練された美しさを見せている。

 

 1886年に開業したクアラルンプール市内の最古の駅である。 

現在の駅舎は海峡植民地時代の1910年に建築された、イギリス風の建築様式で、観光名所の一つになっている。

細部にまでこだわって建築され、美しい姿を見せる白亜の駅舎 クアラルンプール駅

 白く、天に突き刺さったような、堂々たるムーア建築の白亜建築の駅舎、設計はイギリス人建築家ハボックによるもので、13~14世紀のオスマントルコ、ムガール帝国、ゴシック建築などやインドのダージ・マハルの影響を受けている。

 KLセントラル駅が完成するまでは、クアラルンプールの中心駅として活躍していた。

ムーア建築物のクアラルンプール駅、白亜の建築物の上にあるドーム形の塔が、イスラーム調のエキゾチックな雰囲気を一層高めている。

※ ムーアとは、イスラムの影響を受けた、スペイン地方のことを指し、イスラーム様式をヨーロッパから見た場合の表現である。

 

クアラルンプール駅の向かい側には、重厚な雰囲気が漂うマレーシア鉄道公社ビルが見えている。

屋上部には、クアラルンプール駅と同じように白いドームがあり、その周りには数本の丸い柱を配置している。

さらに、その上には、小さなドームがあり、中央には尖がった白い塔が、天を突き刺すように配置され、イスラーム建築の雰囲気を醸し出している。

マレーシア鉄道公社ビル(KTMコミューターなどを運営するマレー鉄道(マラーシアとシンガポ-ルを結ぶ鉄道)の本部ビル(政府系の会社)

イギリスの植民地時代に建てられ、ムーア建築の美しさが漂っている。1983年に歴史記念物に指定されている。

クアラルンプール駅の向かいにあるマレーシア鉄道公社ビル。

中央にははみ出した玄関があり、その上には、白い円形のドームと塔が聳えている。

この重厚感のある鉄道公社ビルは1917年に完成。 アジアやヨーロッパ各地の建築様式が巧みに融合されているといわれている。

 

クアラルンプール駅やマレーシア鉄道公社ビル見学した後、5分程歩いた所にある国立のモスクに向かって行く。

小高い丘にあるモスクの周りは公園のように美しく整備され、四方に見えるクアラルンプール市内の高層ビルと調和した光景を見せている。

国立モスクは、図書館や博物館のような白い格子の壁があり、その下には、近代手法の池を配置している。

建物に沿った池の中央には、噴水が真っ白い泡を見せながら幾数か吹上げ、美しいモスクを醸し出している。

近代的な建築と池や噴水のバランスの良さから、その美しさと心の癒しを感じさしてくれる国立のモスク

1965年に完成したマレーシア最大級のモスクである。

このモスクは、マレーシアの13の州と、クアラルンプールを表した14の角屋根で造られている。

全体としてバランスよく設計された近代の建築に、目を奪われそうな美しさを感じさしてくれるモスクである。 

1965年に完成したマレーシア最大級の国立モスク。

 

 このモスクについて、さらに調査すると次のように案内されている。

このモスクは、貝殻や星を思わせる幾何学的な形状の青い屋根、高さ73メートルのミナレット(礼拝時刻の告知に使われる塔)など、

現代イスラム建築の代表作としても知られている。

 8000人を収容できる礼拝堂があるほか、図書館や国の独立に貢献した人々の霊廟なども併設されている。

 

さらに、 国立モスクを眺めながら歩いていると、大樹の下で、昼の食事を販売する出店があった。 

大樹の向こうにはテーブルが並べられ、数人の方々が美味しそうに食事をしている光景も目に入ってくる。

 時間も、昼を回り、12時半ごろになっていて空腹を感じていた。 

食べ方や味は全く分からないが、マレーシアの食事に、急に興味が湧いてきて、食べてみることにした。

 店には3人の女性がいる。

 「料理は何にしますか!」 と聞かれたが、全く分からない。 

店の方に 「お任せします」 店の方は、私たち外国人に対して、にこっと微笑みながら 「まかしなさい」 といった表情で、お皿に料理をもってくれた。

 隣でフルーツジュースなどのドリンクを購入して、近くのテーブル席で昼食を摂りはじめる。

 

モスク横では食事や飲み物などを販売している。どれもが日本と比較すると格安の値段である。

私たちもこの国立モスク横の公園で昼食をとる。 大樹の下ではそよ風があり、涼しく心地が良かった。

私たち食べた昼食、マレーシアの一般的な料理なのか! 基礎味はしっかりしていて、お美味しい食事であるが、どれもカレーのようなスパイスがよくきいている。 食事後には飲み物が欠かせない。

 

昼食の後、モスクの入り口の方に進んで行くと、大勢の方が礼拝に訪れて来る。

イスラム教徒にとって一日5回の儀式は欠かせない。

イスラム教のメッカ(カーバ神殿)の方向に向かって礼拝をしなくてはならない。

毎日、①日の出前 ②正午前後  ③午後2時~3時の間 ④日没後 ⑤就寝前 と決められている。

多くのイスラム教徒が訪れ、国立モスク内の礼拝堂に向かって行く。

 

私たちは国立モスク内には入らず、反対方向に進んで行く。

そこには祭りのように露店が並び、大勢の人達が行き交ったり、周辺の草むらに座わり、食事したり、休息したりして過ごしている。

毎週、金曜日はイスラム教徒にとって大切な意義のある日とされている。

露店は100mほど続き、甘いお菓子や飲み物などの食料品や、お土産、衣類なども販売され、訪れた多くの人達でにぎわっている。

この露店街で、マレーシアの方々と目があったりすると、相手の方から にこっと笑って挨拶してくれる。

私がカメラをもって観光している状況から、日本人であることがわかるのか! ほとんどの方が笑顔で挨拶してくれる。

私たちも 「こんにちわ」 と答えていく。

旅をしていて、地元や行き合う人達が、「にこやかに接してくれる」 こんなにうれしく、楽しいことはない。

モスク前にある露店街、果物や飲み物などの食料品や、衣類など様々な品物が店頭に並び、大勢の人達が訪れている。

 

国立モスクの見学を終えた後、私たちは、タクシーに乗って、マレーシアを代表する高層建築物のペトロナス・ツインタワービルに向かって行く。

国立モスクから、近代的な建築物が建ち並ぶクアラルンプールの市街地を15分ほど走行すると、見上げるような高層ビルが立ち並ぶ一角に到着する。

ペトロナス・ツインタワービルを下から見上げると圧巻の大きさである(左の建物が日本、右の建物が韓国が建設する)

 

 このペトロナス・ツインタワービルは、高さ452メートル、88階建ての超高層ビルで、現代クアラルンプールを象徴するランドマークである。

 設計は、アメリカ人建築家シーザー・ペリー氏がイスラムの教えからイメージして設計したもので、2つのタワーはそれぞれ日本建設会社ハザマがタワー1を、韓国のサムスン物産建設部門がタワー2を建設した。 

 なお、41階と42階の二箇所に設けられた2本のタワーを結ぶ連絡橋(スカイブリッジ)は、フランスの建築会社による施工である。

 この建物は、国営の石油会社ペトロナスのオフィスビルとなっていて、コンサートホールやショッピングセンターなども入り、大勢の人達で賑わっている。

1階から見るペトロナスツインタワービルの地下にあるショッピングフロアーと地上階にあるフロアー

 

1階のフロアーを通り抜けると、大きな池があり、幾つかの噴水が真っ白い水を、形を変えながら吹上げ、訪れた人たちを楽しませてくれる。

池の周辺はKLCC公園として美しく整備されている。 まさに都会の中のオアシス的な存在で、市民憩いの癒しの公園になっている。

 

ツインタワービルの敷地内にある噴水広場、様々な噴水が時間がたつごとに変わる水の芸術品で訪れた多くの人達を楽しませている。

ツインタワービルは 左がタワー1(日本=ハザマ)、右がタワー2(韓国=サムスン)と名付けられている。

 

このKLCC公園は、広大な敷地(20ヘクタール=東京ドーム4個分)に緑と水がバランスよく配置され、

熱帯の情緒わ高めるマレーシア原産の樹木が1900種類も植えられている。

公園内にできた遊歩道は1.4kmもあり、訪れた多くの方たちが、ツインタワービルをバックに撮影したり、

芝生で寝そべったして、思い思いに過ごして楽しんでいる。

私たちも公園の遊歩道を散策しながらツインタワービルを中心に写真撮影をしたりして楽しんでいた。

ツインタワビルーのあるKLCC公園にあるクジラのような巨大モニュメント、見ていると巨大ビルに囲まれた都会の中で、美しい緑と水などが心を癒してくれそうである。

ペトロナスツインタワービルをバックに記念の写真撮影

このツインタワービルをKLCC公園から散策したりしていると、この二つのビルのよからぬ話題が思い出されてくる。

それはペトロナスツインタワービルの、片方のビルが

国立マレーシア大学の建築研究チームが調査した結果、韓国側が建てたタワービルが傾いてことが判明し、倒壊の危険性が指摘されたからだ。

そのような結果から、日本側の建てたータワービルは、テナントが埋まっているのに対し、

韓国側の建てた方は、テナントがほとんど埋まらない状況が続いている。

 

KLCC公園を散策した後、地下一階のショッピング街に入って行く。

トヨタ自動車の展示会場を行き過ぎると、果物店やカフェーなどの飲食店があった。

ツインタワービル構内では日本のトヨタ自動車のブースがあり、訪れた人が展示された高級車に触れながら係員の説明に熱心に耳をかたむけている。

ツインタワービル内にある果物店。 リンゴや南国の果物が並んでいる。

カフェーの前にはケーキや和菓子のようなものが陳列されている。

ペトロナスツインタワービルの地下一階のカフェー、手前には甘いお菓子などが陳列されている。

私たちも一時間近くの散策で、何か水分を摂りたくなっていたところに、陳列台のお菓子に 「どんな味だろう!」 と、急に興味が湧いてくる。

カフェーでコーヒーと共に食べた甘いお菓子

コーヒーと甘いお菓子を購入して食べてみると、 日本のお菓子に良く似ているような感じがする。

ほんとに甘いお菓子で、コーヒーの味は、くせのない飲みやすいものだった。

しばらくカフェーで休息した後、地下鉄に乗って、マレーシアの歴史の中心的な場所であるマスジット・ジャメに向かって行く。

 

私は、何度も海外行っているが、ほとんどがツアー旅行や、行き先の現地に家族がいる場合が多かった。

今回のマレーシア旅行は、ツアーでも、現地に家族や知人がいるわけでもなく、満足に外国語が話せない私にとっては、

大変意義深い旅行であった。

マレーシアやクアラルンプールの予備知識もなく、行き当たりばったりの気ままな旅であった。

言葉が分からなくても、現地の人達は、大変親切で、困っていると、すぐに対応してくれる。 それも笑顔で接してくれる。

今回も、旅の楽しさが、心の奥どころから、静かに湧いてくるようなマレーシアの旅である。

 

 

 

 

 

 

 


桜を追って・・立ち寄ったドイツ館・高知城や土佐の里山・大阪の桜・・・2014年(H26)

2014-05-14 14:25:57 | 思い出

 2014年 3月23日(日)インドネシアバリ島に住む娘が、一人で関西空港に下り立った。

 今回は二人の子供も連れずに一人で帰って来る。  

 前回の正月には子供を連れて2週間程の滞在であったが、今回は29日(土)までの一週間である。 

 娘は前々から 「日本の美しい桜が観たい」 と言っていた。 

私も娘には日本の美しい桜を見せてやりたいと思い、桜の開花状況を気にしていた。

 今回の娘は一週間しか日本に滞在できないことと、時期的に故郷の高知は、18日に桜の開花宣言が出されているが、

 大阪近辺の桜は、29日の帰国までに、観られるかどうか微妙な時期であった。

 3月25日(火)午前9時頃、私は娘に桜を見せたいとの思いで、妻と3人で南大阪の自宅を愛車プリウスαで出発する。 

 今日は娘も顔なじみで、私の幼な馴染みの夫婦と高知市内にある人気店 「ひろめ市場」 の前で夕方5時に会う約束をしている。

明日に高知城の桜を見学する予定である。 

 阪神高速湾岸線から明石海峡大橋や鳴門大橋を走行するいつもの帰省ルートである。 

大阪から高知へはこのルートが最短で、途中の高松道に入ってすぐの所にある板野ICから出る。

そこから、10分程一般道を走行し、徳島道の藍住ICへ入って行く予定である。

 愛車は予定時間通りに走行、淡路鳴門自動車道の通過時間から考えて、高知の友達との待ち合わせ時間までには少し余裕があった。  

 その為、娘の希望や、高松道の板野ICから近く、娘も興味があることから、第一次大戦の結果のおいて収容した5,000人のドイツ人俘虜と、地元の人たちとの交流を伝えるドイツ館に立ち寄ることにした。 

 ドイツ館には板野ICから10分程で到着する。

 ドイツ館は、道の駅 「第九の里」 とも併設されている。

この道の駅は 日本で初めてベートーベンの交響曲 「第九」 が演奏された地であることから、道の駅の名前の由来になっている。

                                   ドイツ館をバックに記念撮影をする。

ドイツ館前にあるベートーベンの像

 ドイツ館前の広場のベートーベン像を見学した後、私たちは、ゆっくりとドイツ館内に向かって歩いて行く。

ドイツ館の拝観料(大人=400円)を支払う。

 一階では、ビールやワインなど、ドイツとの関連商品が販売されている。

2階が、ドイツ兵俘虜と坂東の人たちとの交流に関しての写真や資料が展示されている。

坂東俘虜収容所の全景(徳島県鳴門市=松江所長)

 ドイツ館は、第一次世界大戦で、ドイツと日本は中国の青島(チンタオ)で交戦、戦況は圧倒的な兵力に勝る日本が有利に展開、ドイツ軍が降伏して、日本に多数のドイツ兵俘虜5000人が収容所に送られ、 地元の人たちとの交流や、俘虜たちが様々な技術や音楽、文化などを伝えている施設である。

 

ゆっくりと館内を見学して行くと驚くばかりの写真や資料が展示されている。 俘虜たちは、このように自由にビールなどの飲食もできた。

収容所で結成されたドイツ人俘虜たちのオーケストラ。 収容所にオーケストラできるなんて 何という! 人間味の溢れた内容だろうか!

俘虜収容所でこのような活動ができるなんて信じられない気持が湧いてくる。

ベートーベンの第9交響曲が日本で初めて演奏され、多くの人たちにそのメロデイーや、西洋音楽の美しさ、音色の素晴らしさを伝えた。

こういったドイツ人俘虜たちと、地元の人たちとの交流を深めることができたのは、坂東俘虜収容所の所長である松江豊寿大佐のヒューマニズム的な管理思考が原点にあると考えられる。 

松江所長や知識欲旺盛な暖かい坂東の人たち、それに溶け込み、ドイツの先進的な知識、パンや酪農に関することや、スポーツ・音楽など幅広い分野で、日本人を指導するドイツ俘虜たちとの交流、これが俘虜収容所で実際に起こっていたことで、とても俘虜収容所の出来事とは思えない様な内容であった。

世界中のどこにこんな俘虜収容所があるだろうか!

どこに松江所長のような、人間味溢れ、俘虜たちに自由な外出を許可する所長がいるだろうか!

ほんとに驚くばかりの内容で、日本人として誇りある感動する物語である。

初めて訪れた娘も、ドイツ人俘虜たちと、地元の人達との愛情深い交流に感動していたようである。

※ドイツ俘虜に関しての詳細な内容は当ブログ 「感動を呼ぶドイツ人俘虜の物語」 2013年12月31日投稿を参照してください。 

ドイツ館前に一足早く咲いていた桜をバックに記念の撮影をする。

ドイツ館の見学を終えたあと、道の駅の物産展で果物等を購入して、近くにある食堂で昼食を摂り、徳島道の藍住ICに向かって行く。

通常なら徳島道の藍住ICから一時間程走行した所にある井川池田ICからR32に入り、

絶景が続く大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)渓谷の美しさを堪能しながら走行して高知に向かって行くが、

今回は17時00分に高知市内のひろめ市場で会う約束から高知道に直接入って行く。

 高知ICから予約していホテルには20分程で到着する。

ホテルに到着して荷物などを部屋に運び込むとすぐに3人で出発する。

ホテルからは、多くの人たちで賑わう帯屋町商店街を通り、15分ほどで待ち合わせ場所である ひろめ市場 に到着する。

到着すると幼馴染の夫婦が笑顔で私達を出迎えてくれ、娘からバリ島のお土産のネックレスを夫人に、リゾートウエアーを夫にプレゼント、

特に夫人は、ネックレスをその場で着用、気に入っていただいたようで、思わず微笑みがこぼれていた。

総勢5人がテーブル席につき、オーダーした飲み物や料理が運ばれ、再会を祝してビールで乾杯、その美味しさも、また、格別であった。

※ ひろめ市場 

 土佐藩家老の屋敷跡付近にあり,屋敷が消えた維新後もその一帯は親しみを込めて「弘人屋敷(ひろめやしき)」と呼ばれていたことから,その名をとり 「ひろめ市場」 と名づけられる。

 ひろめ市場の中は 「お城下広場」 や 「龍馬通り」 など7ブロックからなり,鮮魚店や精肉店,雑貨・洋服屋,飲食店など,個性的なお店が集まっている。 

 市場内の至る所にテーブルと椅子が並べられていて,それぞれ自分の好きなものを,好きなお店で買ってきて,持ち寄って食べるスタイルとなっている。 

 その為に市場内のほとんどの飲食店にはテーブルがなく、至る所にある大きなテーブルで、思い思いに、親しい人たちとの飲が楽しめる様に工夫されている。 なかでも鮮魚などは新鮮で 「さすが高知」 と思えるほど美味しい食材を使っていることから高い人気がある。

 県外から訪れる人たちの人気のスポットにもなっている。 

食事後は食器をまとめておけばスタッフがすべて回収してくれる。 食べる・買う・見る・遊ぶ…と,楽しみ方は無限大で、自分に合わせた楽しみ方ができるように工夫されている。 (上記2枚の写真は2010年7月に撮影)

  久しぶりにあった幼馴染みの友との飲食を楽しみながらの談笑も、話が弾み、時間に気がつくと21時近くになっていた。

 バリ島からの娘は梅酒が大好きで、土佐の新鮮な魚などの食材と共に、日本の美味しい料理を楽しんでいた。 

 

 3月26日(水)高知市内のホテルで3人で宿泊していて、朝7時半ごろに目覚める。  

昨夜の友との飲食でぐっすりと眠ることができた。

 私が目覚めたときには、妻と娘が隣のベットで気持ちよさそうに眠っていたが、私がシャワーを使っている間に起床していた。

 ほどなくして出発の準備も整い、ホテル内の食堂に行って朝食を摂る。

 朝食の後、外に出るとあいにくの雨模様の天気である。

 高知城へは宿泊していたホテルからは歩いても行ける距離であるが、私どもは愛車で移動し、近くの駐車場に止めると、それぞれに傘をさしながら高知城に向かって行く。

 日本で一番早く桜の開花宣言が出され一週間ほど経過しているが、急に冷え込んだした日もあり、開花は思った程進んでないのではと思っていた。

  駐車場から並木道で南国情緒が感じられる追手筋に出ると、小高い山に築造された高知城の天守閣が見えている。 

その下には石垣が整然と築かれ、その上には、黒壁と重厚な日本瓦でできた追手門が堂々と威風を放っている。

 そして その前には、赤とピンクでできたぼんぼりが、規則正しく一定間隔で並べられ、さくら祭りの情緒を一層醸し出している。

 私たち3人は、写真撮影をしたりしながら、両サイドに並べられたピンクのぼんぼりの間を通り、重厚な追手門を抜け、城内に入って行く。

娘は高知城に来るのは初めてで、日本の城が珍しいのかスマホで撮影している。 そんな折での天守閣と追手門をバックに撮影。

 

追手門を通り抜けると広場があり、天守閣方面には、広い石段が緩やかに築かれている。 

石段の横には板垣退助の像が立てられ、像の側には 「板垣死すとも自由は死せず」 と書かれた石碑が建てられている。

さらに、小雨の降りしきるなか、石段を登って行くと、内助の功を発揮し、夫を出世さして賢妻として名高い山内一豊の妻像がある。

 一豊の妻の像前では、訪れた観光客がそれぞれにポーズをつくり記念撮影をしている。

さらに石段を上って行くと広い敷地があり、さくらの標準木のある三の丸に到着する。

三の丸から・・・整然と築かれた石垣の上に建つ高知城天守閣。

まだ、3分咲き程度の桜であるが高知城三の丸広場の桜を見て微笑む娘。

高知城内は高知公園としても整備され市民の憩いの場になっている。 

ここ、三の丸は気象庁が開花宣言をする場合の標準木がこの場所にあり、今年も全国に先がけて3月18日に開花が発表された。

高知市内の眺望の良い、三の丸広場で暫く桜を観賞したり、写真撮影をした後、すぐ上にある二の丸に向かって行く。

 

二の丸に咲く桜と高知城の天守閣

雨の中で咲く高知城の桜

二の丸からは天守閣が目の前にあり、高台にある石垣周辺に桜が咲いている。

 同じ敷地内にある桜でも、日当たりや風などの気象状況によって変わってくるのか、桜の開花状況が違っている。

私たちは、二の丸での桜観賞や撮影を終えると、本丸にある天守閣に向かって行く。

天守閣に入場するには、拝観料(現420円)が必要である。 

三層六階建の天守閣は、高知城の歴史にまつわる展示など、資料館として利用されている。

私たちも拝観料を支払って入場して行く。 

一階は天守閣の部分と本丸御殿の部分からなり、色々な資料などが展示されている。

天守閣の急峻な階段を登って行くと、それぞれの階に貴重な資料が展示されている。

高知城の模型

 高知城は高知市の中心にある典型的な平山城である。

 初代藩主の山内一豊とその妻千代が礎を築いた土佐二十四万石の歴史ある城である。

 山内一豊は天下分け目の戦であった関ヶ原の戦いによる功績で、徳川家康から土佐一国を拝領する。

土佐を拝領した山内一豊は,慶長6年(1601年)この地に新城の築城工事を始め、

独立式望楼型 四重六階(1601年築・1747年再)の天守閣や追手門などからなる高知城を築いた。

 高知城の建物は国の重要文化財に指定されている。

高知城天守閣からは360度高知市内が身近に眺望できる。 雨で少し霞んでいるのが残念であるが美しい街の様子が伺えられる。

最上階の天守は望楼型で古代に造られた城の典型である。

外観は4重、内部は3層6階建ての建物で、2重の入母屋造りの屋根の上に2重櫓の望楼を載せている。

天守閣からの眺望を楽しんだ後、階下に降りると、反対方向から降りて下って行く。

天守閣からの帰り道 広場にある桜と高知市内をバックに撮影。

さらに下って行って追手門を抜けると、下記の様な和服を着た美しいカップルが写真撮影をしている。 

記念に撮影をさしてもらった。

高知城追手門前で写真撮影をする和服姿の若いカップル。通行中の人たちも、この光景に思わず見とれていた。

高知城の桜や天守閣の観光を終えた後、愛車に戻り、30kmほどの距離にある、故郷佐川町に帰って行く。

今回は娘の滞在期間の関係で佐川町の自宅には、一泊しかできず、帰宅すると、先祖の墓掃除やお参りをなどをして過ごしていた。

3月27日(木) 久しぶりの故郷、家の中からドアーを開けると、快晴の天気の中に故郷の風景があった。

山に囲まれた、田園風景の真中を清流が流れている。 

土佐の里山には、大阪の空気と一味違う空気が漂い、すがすがしい気分にさしてくれる。

早速、妻や娘と故郷の桜を求め、3人で朝のウオーキングに出かけて行く。

今日の午後には故郷の里山を後にして大阪の自宅に帰る予定である。

いつものように 田園風景の中にできた農水路沿いの道を歩いて行くと、清流日本一の評価をいただいた仁淀川支流の橋に出て来る。

山に囲まれた橋の西方向には、小中学校の建物があり、その対岸には尾崎公園というさくらの名所がある。

残念ながら桜の花は開花していない。

東の方角には田園風景が広がり、500m位行った所には、ふれあいの里の施設がある。 

私達は農道近くの草花を観賞しながらゆっくりと歩いて行く。

すると緩やかにカーブして川に面し、大きな岩が突き出している。

里山の風景の中に美しい光景を醸し出している。

私は、この岩の上にたって故郷の光景を見るのが好きで、ウオーキングする時には必ず訪れて楽しんでいる。

高知県佐川町尾川地区の景観 川の両サイドには桜が植えられているが、残念ながらほとんどの桜が開花してなくて残念であった。

桜も少しは開花しているが、ご覧のような状況である。

里山の中央を流れる川の両サイドには多くの桜が植えられ、町民の憩いの場所となっているが、ご覧のような開花状況である。

少しピンクがかった美しい桜

この地点は正面の川と左の川の合流地点で橋の下には紅白の大きな鯉が泳いでいる。上部には開花して間もない桜が写っている。

さらにウオーキングを続けていると神社があり、その横には保育園がある。 園児たちのかん高い声が聞こえている。

 私もこの保育園の卒園児である。

私たちが声をかけて挨拶すると、 近寄ってきてくれた、色々と無邪気に話をしてくれる可愛い園児たち。

立ち寄って可愛い園児たちと話をしていると、思わず時間が経過するのも忘れてしまう程の楽しさがあった。

園児たちと会話を終えた後、少し歩いて行くとご覧のような桜がある。

ここの桜は少し開花しているようで3分咲き程度の花模様である。

私たちは、故郷のウオーキングを2時間程で終え、近くの喫茶店へモーニングに出かけて行く。

モーニングを終えた後は、近くの店で、お土産などの買い物を済まして家に帰り、出発準備が終えると愛車プリウスα(7人乗り)で土佐の里山を後にする。

2013年に11月に購入した愛車トヨタプリウスα(7人乗り)ハイブリットカー(燃費は20km/L)

 

佐川町の自宅を13時過ぎに愛車エステマで後にしてR33号を走行、伊野ICから高知自動車道に入って行く。

高知自動車道に入ると、途中の南国PAで、休憩と買い物を済まして大豊ICまで走行し、一般道のR32に入って行く。

娘が、「やはり高知に来ると大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)渓谷の美しい眺望を楽しみたい」 とのことで決める。

吉野川の下流方向から心地よい風に、数時匹の色とりどりの鯉が泳いでいる。吉野川の渓谷美と相まって、この季節の風物詩となって、訪れた人たちを楽しませてくれる。

大阪への帰りに立ち寄った大歩危渓谷と渓谷の上空になびく鯉のぼり。

四国山脈を縦断し徳島市方面に流れる吉野川、四国三郎ともいわれる暴れ川でもある。

その上流の四国山脈のど真ん中の切り立った岩壁の間にできたのが

大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)渓谷で、8kmにわたって渓谷美が続く。

川を挟んで対岸には岡山と高知を結ぶJR土讃線が、反対側には高松と高知を結ぶ国道32号がある。

 どちらも吉野川の渓谷美を楽しむことができる。

上空には色とりどりの鯉のぼりが泳ぎ、大歩危渓谷を行き交う観光船、駐車場から断崖絶壁の渓谷を眺める光景は迫力満点で、圧巻である。

私たちは大歩危小歩危の渓谷を楽しんだ後、国道32号線を徳島方面に走行し、井川池田ICから徳島道に入る。

途中から神戸淡路鳴門自動車道を走行し南大阪の自宅に帰って行く。 

21時30分頃の帰宅であった。

 3月29日(土)夕方、日本の桜が観たいと言っていたバリ島からの娘は、関西空港から帰って行く。

娘は帰国するに当たって、満開の桜は観ることができなかったが、高知に旅行して桜を観ることができ、楽しい旅行であったと、微笑みながらバリ島に帰って行った。

南大阪一帯の桜前線は、高知の開花前線から1週間ほどで咲き始めて来る。

私たちはカメラを持って数回にわたって出かけて撮影する。

  

大阪熊取町、桜の枝間から見る永楽ダム本体とダム湖

永楽ダム湖周辺は一周2kmの遊歩道があり、その途中から桜と、その後方には色とりどりの山桜が美しい花を咲かしている。

永楽ダム湖遊歩道の桜と山桜、通常の桜は人の手によって植えられたものであるが、山桜は自然のもので、周辺には群生地も多い。

永楽ダム湖上空の東ハイキングコースからの桜と山桜

東ハイキングコース展望台からの永楽ダム湖と周辺に一面に咲く桜

永楽ダム湖上空の東ハイキングコースからの西ハイキングコース沿いの山容にある山桜の群生地。 色彩りどりの美しさを見せている。

 

4月3日(木) 今日は大阪天満でビジネス関連の仕事があり、妻と二人で電車に乗って出掛けて行く。

ビジネスは午後4時頃に終了し、天満橋方面を見ると、大川沿いに桜が満開となっている。

高層ビルが聳り建つ、巨大都市の風景と、大川を行き交う観光船が、満開に咲く桜との見事なコントラストを見せている。

大阪天満橋周辺の大川沿いに咲く桜と高層ビル群の美しい光景。

満開に咲く桜を背景に行き交う観光船、洗練されたデザインの観光船が周囲の景観にマッチして花見情緒を高めてくれる。

天満橋を渡り大川沿いの桜並木には、大勢の花見客が訪れ賑わいを見せている。 

まだ、5時前後で、これからが勤務帰りのサラリーマン達が訪れ賑わいそうである。

私たちは、天神橋から大川沿いに咲く満開の桜を観賞しながらJR桜の宮駅まで歩いて行く。 

風もなく花見には穏やかな気温で、都会の中のオアシスに来たような気分にさしてくれる。

 

4月5日(土)曇 妻と二人で桜の撮影に出かけて行く。

走行途中に日根神社の参道沿いの桜が目に入る、車を止めて2~3枚撮影する。

立ち寄った日根神社の参道沿いに咲く桜(泉佐野市)

今日のお目当ては、昨年も撮影し印象に残っているJR新家駅(泉南市)東側の山容に広がっている山桜の群生地である。

かつての私は、桜といっても山桜には興味がなく、ソメイヨシノの桜に興味をもっていた。

ところが 昨年 この地で群生地に咲く色とりどりに咲く山桜を見て考え方が変わってしまった。

山桜は同じ群生地の中でも、花や葉の色や形状など、一つ一つの木によっても全く違っており、奥行きの深さを感じる。

花の色からも推察されるように、一つ一つの木に個性があり、誇らしさがあり、また、たくましさを感じる。

色採りどりの美しさを見せる泉南市信達六尾の山桜の群生地

市民の里グランド方向から見る山桜、左奥には関西空港連絡橋が見えている。

大阪湾方向を見る泉南市の山桜

道路沿いに咲いていた赤い葉をつける山桜、赤は山桜の代表的なイメージの花である。

泉南市のあがらの森に咲く山桜を観賞しながら愛車を走行さして行くと、舗装された道路から、地道のがたがた道に変わってくる。

この道には峠越えがあり、和泉山脈の山容に咲く山桜の眺望が見え、私たちを楽しませてくれる。

暫くがたがたの地道を走行して行くとダム湖が見え、湖畔周辺には桜が植えられ、美しい景観を見せている。

古来から水不足に悩まされてきた泉南地区の水不足解消のために造られた堀河ダム、ダム周辺には桜が植えられ、ダム湖と共に美しい景観をみせて、 山桜の咲く山容と共に私たちを楽しませてくれる。

4月6日(日) この日は朝方晴れていたが、昼前後には突然雨が降り出すあいにくの天気であった。

私がカメラを持って出かけるときには、雨は降っておらず、妻と二人で貝塚市の水間公園に出かける。

水間公園は、市民から親しまれた公園で桜や秋の紅葉も美しいことで知られている。

休日になると、バーベキューを楽しむ人たちも多く、公園内の木陰の下では様々なグループができ、バーベキューの煙と共に、

にこやかに談笑する人たちの声が聞こえてくる。 ただ、桜は満開を過ぎ散り始めている

水間公園の池のほとりに咲く桜、赤い欄干の橋と共に、水面に浮き、花見シーズンのなごりを感じさしてくれる。

水間公園の中央には芝生広場があり、その周辺の花の下には、幾つかのグループができバーベキューを楽しんでいる。

今回はインドネシアのバリ島に住む娘が2カ月に帰ってきて、高知に里帰りして満開の桜を期待していたが、

時期が一週間ほど早く、満開の桜を見ることができなかったのは残念であった。

しかし、娘と親子3人の久しぶりの旅行は楽しく、娘もリラックスできた様子で楽しく過ごすことができた。

特に、高知の友との飲食では、娘が梅酒オンリーの飲み方には驚かされたが、新鮮な高知の料理や日本食を美味しそうに食べていた。

本人も 「日本の料理は、基礎味がしっかりしていて何を食べても美味しい」 とのことだった。

 そして 3月29日(土) 関西空港から 今回の旅行の思い出を胸に、微笑ましい表情で帰って行った。

大阪市内の桜も久しぶりで、高層ビル群の中にできた桜のオアシスのような感覚が芽生え、

桜の並木道を鑑賞しながらゆっくりと歩いていると

やはり、日本人にとって桜は欠かせない文化で、我々庶民の中にしっかりと根付いているように感じる。

桜を見ることで、気持ちをリフレッシュ、明日への希望と勇気を、そして夢を与えてくれる。

そんな思いが自然と芽生えて来るような気持ちの桜見旅であった。

 

 

 

 

 


朝の輝く富士山と情緒豊かで魅力的な山中湖からの富士山

2014-03-12 10:30:14 | 思い出

 2013年(平成25年)10月25日朝、自宅のパソコンを開くと、ブラジルから一通のメールが届いていた。

 開くと日本の東京で10月30日(水)ビジネス関係のプロポリス(ブラジルの状況)に関して、社長が講演をするので出席してほしい旨の案内状であった。

 今月18日(金)~22日(火)まで故郷の高知へ帰省したばかりであったが、色々と打ち合わせをしたいこともあり、出席することに決め、その旨をブラジルにメール送信する。

 10月29日(火) 東京への出発準備を整え、午後2時40分頃、南大阪の自宅を愛車エステイマに乗り、妻と二人で出発して行く。 

 上空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降りそうであった。 

 愛車エステイマは、10年前に購入、走行距離も前回の高知への旅行で10万kmを少しオーバーしている。 

 この車は私たちの車旅にはなくてはならない思いで深い車で、強い愛着もあったが、今回、プリウスα7人乗りにチエンジすることにしていた。 

 11月10日が納車予定で、エステイマでの車中泊旅行は今回が最後となる。

  愛車は、阪和道から名阪国道に入り、忍者で有名な伊賀上野を過ぎた所から雨が降り出してくる。 

 今日は東名高速道路で富士山の眺望の良い足柄SAで車中泊をする予定である。

 走行する高速道路は渋滞もなくスムーズに流れている。 

 東名阪道から伊勢湾岸道に入って行く。 

 愛車は間もなく名古屋港をまたぐ名港大橋にさしかかってくる。

 名港大橋では、眼下に広がる港湾施設や、巨大な工業地帯の夜景が車窓から見えている。

 ここは、トヨタやホンダなどの日本の自動車産業の輸出拠点で、岸壁には多くの自動車が整列よく並べられている。

 東名道から静岡県の新東名に入る頃には、時々雨が激しく降り出している。

 だが、新東名は道幅が広く、カーブも緩やかで走りやすく、道路の設計も最高速度120kmで設計されているようである。

 時間も午後7時を回っているが、愛車は快調に走行している。

 東名高速道路と合流し程なくした午後8時ごろ、足柄SAに到着するが、雨は相変わらず降り注いでいる。

 足柄SAに到着してすぐに、私達はサービスエリア内にある入浴施設(あしがら金時湯=630円)に出かけた。 

 この入浴施設は、SAから外に出ることなく、そのまま歩いて行ける為に大変便利で、長時間運転で疲れた体を癒してくれる、ありがたい温泉である。

 温泉で体の芯までまで温め、癒された後、ノンアルコールビールをコンビニで購入し、隣のレストランで遅い夕食を摂った。 

 入浴した後、妻と二人でのノンアルコールビールも、格別の美味しさがあり、一日の疲れを忘れさしてくれ、落ち着いた気分にさしてくれる。

  ほどなくして夕食を終え、愛車に戻り、特設のベッドに横になっていると、いつの間にか深い眠りについていた。

 10月30日(水) 朝6時半ごろ目覚めると、愛車内を明るい太陽が照らしはじめている。 

 車外に出ると空一面に青い空が広がり、目の前に、まっ白い富士山が見えている。

 昨日の雨がうそのような上天気で、すがすがしい気分にさしてくれる。 

そんな朝の気分の中、目の前にある美しい富士山に暫く見惚れていた。

 早速、カメラを取り出し、サービスエリア内からの富士山を撮影していく。 

 富士山は何度見ても飽きのこない山で、見れば見るほど私の心を引き付けてやまない山であり、日本が誇る世界の名峰でもある。  

東名高速道路 足柄サービスエリアの駐車場からの朝の富士山

足柄サービスエリア内からの富士山

 富士山は魅力ある山である。

富士山の近くを旅したり、新幹線などで通過する折には必ず富士山方面に目がいってしまう。 

 これは私だけでなく、ほとんどの方が同じ気持ちで富士山方向に目がいっている。

 新幹線の車内でも美しい富士山が見えだすと、乗客達の歓声が上がるのを何度も目にしている。 

 逆に富士山が全く見えない折には、がっかりしたような静かな雰囲気が漂っているように感じる。

 それだけに富士山は、日本人はもとより、世界中の人たちから愛され親しまれている山でもあり、日本の季節によって表情を変えてくれることから、多くの写真愛好家たちを虜にしている山でもある。 

 写真愛好家の撮った写真は、れぞれに特徴があり、その地域やその地域に住む人たちの風情と、富士山を見事に現わしている絵画や写真などが多く、毎年新しく紹介されている。

 富士山の撮影を終え、愛車に戻ると、ビジネス用にスーツに着替えて出発の準備を整える。

午前7時30分頃、東京方面に出発して行く。

足柄SAを出発、高速道路を走行中の愛車からは、秋晴れの青い空の下にまっ白な雪をかぶった富士山が見えている。 

10分程走行すると、富士山の眺望の良さそうな鮎沢PAが見えてくる。 

このPAには一度も立ち寄ったことはなかった。 

このPAからはどんな富士山が見えているだろうか! 急に興味が湧いてきて立ち寄ることにした。

初めて立ち寄った鮎沢PAからの富士山、足柄SAからの富士山と少し違った感じがする。

鮎沢SAからの富士山、PAエリア内は山影に隠れている為に露出が合わず撮影できなかったが望遠レンズでご覧のような写真ができた。

鮎沢PAで10分ほど撮影などで過ごした後、すぐに東京方面に出発するが渋滞があり、東京品川区にある天王洲に到着したのは10時頃であった。 

早速、ホテル内の駐車場に愛車を預けると、すぐにモノレールとJRに乗ってビジネス関連の江戸東京博物館に向かって行く。

江戸東京博物館内で行われたはち祭りでのブラジル取引業者の講演とプロポリスの商談のために参加した。

※ プロポリスとは、ミツバチが樹木から集めた樹液と、ミツバチの唾液を混ぜ合わせた物質で殺菌力が高く、薬効成分も多く含まれている物質である。

 プロポリス治療の歴史も古く、古代のメソポタミヤやエジブト・ローマなどで重要な治療薬として使われていた。

 強い殺菌力から切り傷や感染症の治療などで傷口からの化膿をくいとめる作用や、 治療薬として、健康食品として多種多様な効果が実証され、驚異の自然産物の贈り物として世界に広く知られている。

プロポリスには副作用はなく、側に置いていると、応用範囲が広く、大変ありがたい自然の産物である。

  江戸東京博物館では、はち祭りが行われており、プロポリスに関して、ミツバチが樹木から採集したプロポリス原塊(げんかい)の展示や商品の販売が行われていた。

 また、ブラジルのプロポリス関係者による「プロポリスの品質と自然環境の整備・・・」などの講演や、ブラジル日本大使の講演などが行われていた。

 私達は講演を傍聴したあと、ブラジルからのプロポリス講演者(ビープロポリスブラジル社=旧ナツセントロ社)と、プロポリスの輸入に当たっての打ち合わせを行う。 

 プロポリスの品質は、ミツバチがどんな樹木から樹液を採集するかにかかっている。 

 今回の講演でブラジル企業が、養蜂家達と協力して、地域全体をプロポリス品質の最も高いといわれるアレクレン(英語=ローズマリ)を長年にわたって植樹して自然環境を整備していることから、世界最高品質のプロポリスといわれて、高い評価を受けていることが、よく理解できる。 

 プロポリスを輸入して、日本で販売している私たちにとっては、この講演はありがたかった。 

プロポリス品質・信頼性・安心感などが湧いてくる。

 ブラジル関係者とのプロポリスの打ち合わせを終えた後、私達は今日の宿泊先である東京品川区にあるホテルに戻って行った。

 10月31日(木)朝、7時過ぎに目覚め、ホテルの窓から外を眺めると青々とした快晴の天気が広がっている。 

 洗面などを済まして外出着に着替えると、妻と二人で1階にあるレストランに向かった。 

 朝食はバイキング料理で、多くの宿泊者が訪れて賑わっている。 

 半数近くの人たちが外国人である。

 食事を終え、コーヒーコーナーに行くと一人の年配の男性が笑顔で挨拶してくる。 

私も笑顔で挨拶を交わし少し話をしていると、その男性と同じ席に座り、会話が始まった。 

妻は笑顔で私達の会話を聞いている。

この男性は日本人であるが、20数年前にカナダバンクーバーに移住、夏はカナダで過ごし、秋や冬になる日本やハワイなどで暮らしているとのこと。 

 現在は離婚しているが、3人の男の子(全員結婚している)を育てあげたとのことで、カナダの留守宅は子供たちが面倒をみているとのことだった。

 そして私たちを、自分たちのアルバムを見せたいので、是非部屋に立ち寄ってほしいとの招待を受ける。

 私達は自分の部屋に戻り、チエックアウトの準備をした後、妻と二人で部屋を尋ねていく。 

 この方は今回も一人旅で、昨日は熊本、明日は青森と、外国人向けの新幹線切符を購入して、このような旅を続けている。

 東京のホテルルームは荷物もあり、借りたままとのこと。

 見せて頂いたアルバムには、カナダでの家族の写真や、ガーデンパーテイなどで楽しそうに過ごしている写真が写っていた。

 さらにアルバムを開いていくと、40代位の品の良い女性の写真があり、尋ねると東京に住む女性で、私の恋人とのことだった。

 だが、もう一人の女性がいて、宿泊しているホテルで鉢合わせをしないか、心配しているとのことで、私達を爆笑させるような、ユニークな方であった。 

 私が大阪から持ってきた柿を3~4ケプレゼントすると、大変喜んでくれて 「柿は私の大好物です」 といってくれた。

 カナダからの人との楽しいひと時を過ごした後、近くのショッピングセンターで買い物を済まして愛車に戻ると、首都高速に入り一路中央高速道路山中湖方面に向かって行く。

 東京都内も快晴の天気で、隙間なく建てられているビルの谷間にでき、曲がりくねった首都高速をカーナビを頼りに走行して行く。

 

           ビルの谷間にできた首都高速道路を走行し中央道方面に向かって行く。

 首都高速から中央道を長野方面に走行して行く。

 走行する愛車の車窓からは青空の下、東京の美しい都市風景が広がっている。

暫く走行すると進行方向には山が見え始めてくる。

さらに走行するとはっきりとした山岳風景が見えてくる。 

やがて中央道も山岳ににできた高速道に入って行く。 

 ほどなくして、大月JCTに入り、そこから河口湖方面に走行して行く。  

 暫く走行すると車窓からの視界が広がり、富士山のすそ野が見えてくる。 

 山頂付近は厚い雲の覆われて富士山は見えない。 

 広大な富士山麓高原にできた高速道路を走行していると、何となく私達をルンルン気分にさしてくれ、楽しさが湧いてくる。

 ほどなくして山中湖ICに到着し、そこから一般道に入って行くと、すぐに山中湖畔の駐車場に到着する。

 東京と山中湖では、標高のせいか! 全く空気が違っていた。

 上空は厚い雲に覆われているが、山中湖独特の風景がすがすがしい気分にさしてくれる。  

 私達は愛車を湖畔の駐車場にとめ、湖岸沿いにできた遊歩道をウオーキングに出かける。

 

山中湖畔に立てられている 世界遺産 ~富士山~  「山中湖」 案内板

山中湖は山梨県に属する湖で富士五湖(河口湖・西湖・精進湖・本栖湖)の一つで、最大の面積を持ち、面積6.67K㎡、湖岸線の長さは13.5kmである。 

湖面の標高は海抜982mで五湖の中では最も高い位置にある。

日本では中禅寺湖、榛名湖に次いで3位の高所に位置している。 

富士箱根国立公園に指定され風光明美な観光地として多くの観光客から親しまれている。

山中湖は、標高が1,000m位と高く、真夏の平均気温は26℃~27℃の大変しのぎやすく、リゾート地として最適な気温である。 

周辺には、旅館や民宿・別荘地・大学・企業の保養地も多くあり、ギャラリーなども点在することから観光スポットとしても人気が高く、年間400万人位の観光客が訪れている。 

ボートなどのレジャー遊具と水鳥が浮かぶ黄昏時の山中湖

山中湖には多くの水鳥が飛来し、水中に棲む魚などの餌を求めながら移動している。

 湖畔には何人かのカメラマンが三脚を立てカメラを富士山に向けているが、富士山は厚い雲に覆われ姿を現しそうにない。 

湖畔の遊歩道を30分程歩いた場所で、二人の男性がそれぞれに三脚を立て、カメラを富士山方向に向け、立ち話をしている。

 私も挨拶を交わした後、話をすることができた。 

一人の方は長野県から来た60歳代のおじさんで、時間があれば、富士山を撮りづづけているとのことで、富士山を2時間前から狙っているが顔を出さない。 とのことだった。 

もう一人の方は、奈良県から来たプロの写真家で、明日からは東京で自分の写真展を開催する。

 その途中で富士山を撮りたくて寄ってみた。

 富士山が顔を出さないし、間もなく日没の時間なのでそろそろ引き上げろうと思っていたところです。 とのことで、その後、二人の方は長野県と東京方面に向かって行った。

山中湖は釣りも盛んで数隻のボートが浮かび釣りを楽しんでいる。山中湖の水深は五湖の中で最も浅く12m~13m位である。 

山中湖の水は富士山の伏流水が湧水となりワカサギ・コイ・ウナギ・フナ・ナマズなどが生息している。 

大正時代にワカサギが放流された経緯がある。

また、山中湖一帯は鳥獣保護区に、湖全体が保護区に指定され、豊かな自然を背景に 「野鳥の宝庫」 としても知られている。

山中湖からの富士山方面。 富士山は何時顔を出してくれるだろうか! カメラを三脚に固定して雲が開けるのを待つカメラマン。

 残念ながらこの日の富士山は顔を出すことはなかった。 

山中湖に浮かぶ白鳥と水鳥が仲良く湖水に浮かび、餌を漁ったりして過ごしている。

私達は、湖畔を2時間近くウオーキングなどでして過ごした後、近くにある日替わり温泉 「紅富士の湯=700円」 で入浴する。

紅富士の湯も中々のもので、やはり温泉に入ると一日の疲れを癒してくれ、心身ともにリフレッシュさしてくれる。

 私達の旅の楽しさのなかで温泉は、最大の楽しみの一つであり、露天風呂から眺める景観に、いつも大きな期待に胸をふくらまして入浴している。 

今回は日没も過ぎ、富士山を見ることができなかったが、全国的に眺望の良い露天風呂はたくさんあり、そういった眺望の良い温泉に出会った時には最高の喜びを感じる。

車中泊をした山中湖畔の駐車場と愛車エステイマ 

温泉で体を癒した後、近くにあるコンビニで夕食の食材を購入する。 

すぐに湖畔の駐車場に愛車を止め、湖面にホテルなどの灯りが浮かぶ夜景を楽しみながら妻と二人で杯をすすめ夕食を摂った。

 やはり野外で飲む杯は格別な味があり、時がたつのも忘れてしまう程である。 

食事を終え愛車の特性ベットに横になると、いつの間にか深い眠りにおちいっていた。 

 

11月1日(金) 朝7時過ぎに目覚めると外は明かるい日差しが射している。 

ドアーを開け外に出るとまぶしい太陽が顔を出して湖面を照らしている。 

車中泊をしていた場所からは、富士山の眺望が良くない為に、すぐに眺望の良い湖畔にある駐車場に移動して行く。

移動した湖畔の駐車場からは、美しい富士山が雲を中腹に横たえて姿を現している。

 天候のせいか少し霞んでいるのが残念であるが、昨日のことを考えると、申し分のない天気であり、秋たけなわの心地よい空気が湖畔全体を包んでいる。

 

富士山を眺めながらの朝食、特性のブラジルコーヒーを富士山の湧水でドリップしてつくる。 

こうしてたてた朝のコーヒーは格別で、何度経験しても楽しいひと時である。

私たちが湖畔にある駐車場の片隅に、テーブルや椅子を持ち出して、朝の食材を並びて朝食の準備を進めていく。 

椅子に座りながら、ゆったりとした気分で、片手にコーヒーを持って富士山を眺めていると、何とも言えない安らぎと心地よさを感じる。

山中湖畔の真っ赤な紅葉と富士山と外国人観光客を乗せた大型バス

椅子に座りながらゆったりとした気分で朝食を摂っていると、大型の観光バスが隣の駐車場に数台入ってくる。

 

観光バスが数台訪れ、山中湖と目の前に聳える富士山を見て大喜びする外国人観光客たち

隣の駐車場では、バスから観光客が降りて来る度に大きな歓声が上がっている。 

山中湖や富士山をバックに数人ずつ、満面の笑顔で写真を撮っている。 

どうやらこのグループは、中国からの観光客のようで、言葉は分からないが、日本を訪れて富士山を見る喜びが表情から伝わってくる。

海抜が1,000m近い山中湖と広いすそ野をもつ秋の富士山、何度見ても富士山は飽きることがなく、やはり富士山は日本一の名山である。

コーヒーとおにぎり・パンなどで朝食を楽しんで暫くすると、私はカメラを持って富士山の撮影に出かける。

山中湖畔の駐車場から少し東に移動すると真っ赤なセルビアの花が咲いている。 富士山とのコントラストも見事であった。

湖畔の遊歩道沿いにできた公園には、ケヤキや花などが植えられている。 その枝間からは山中湖と富士山が見事な表情を見せている。

この木は桜の木か! 正面には山中湖と富士山、右わきには、紅葉が始まったもみじが見えている。

撮影を終え湖畔沿いの遊歩道を駐車場方面に戻っていると、湖の側に水溜りがあり、逆さの富士山がごらんのように映っていた。

カメラでの撮影を終えた後、駐車場に戻り、私たちはテーブルなどの後片付けをして、湖畔の南側にある駐車場に移動する。

移動した駐車場の横にある公園には 「山中湖 夕焼けの渚 紅葉まつり」 のぼり が立てられている。

この駐車場で、バイクに乗ってきた青年に会った。 

私が黒い革ジャンにヘルメット姿の青年に話しかける。

「かっこいいバイクだね、 なんCCですか!」  「250ccです」

 「座席が低く、乗りやすそうですね」 「そうです。 僕はバイトをしてこの単車を買いました。すごく気に入っています」

「今、工学大学の4年生で、 将来はレーシングカーの設計技術に携わりたいと考えています。 できれば自宅近くにある日産自動車のレーシングカー設計部門に入社したい希望をもっています」

この青年は神奈川県川崎市在住で、好感度のあふれた青年であった。

 私が今朝たてたブラジルコーヒーがあるけど飲みますか! との問いに 「コーヒー大好きです」 とのことで

我が家自慢のブラジルコーヒーを紙コップに注いでやると、美味しそうに飲んで頂いた。

しばらく、この青年と話をしていると、将来の人生に対してすごく前向きで、何事も自分の力で人生を切り開いていこうとする熱意を感じる。

30分ほど話をした帰りしなに、大阪から持参してきた和歌山の柿をあげると、嬉しそうににっこりと笑って立ち去って行った。

 

紅葉したもみじとその先にある山中湖遊覧船乗り場

遊覧船乗り場には先ほど観光船が着岸し、20~30人の人達が下船していた。 林の中で鮮やかに紅葉したもみじがあった。

庭園のようにきれいに整備された山中湖畔の公園

さらに湖水に沿ってできた公園を散策して行くと、湖に向かっている道があった。

 そうすると変わったバスがこちらに向かって走行してくる。 

何か変わったバスだナー と思っていると、このバスは、どんどん山中湖の方に進んで行く。

このバスは水陸両用バスである。 

20人程乗車し、窓はすべてオープンにしていて、ガイドの説明が、私達の所まで良く聞こえてくる。

やがてバスは、山中湖に向かってそのままのスピードで、大きな水しぶきを上げながら着水して行く。

私は水陸両用バスを見るのは初めてで、湖水に着水する光景も、勿論、初めてであった。

山中湖に大きな水しぶきを上げながら着水する水陸両用バス。

着水したバスは、ゆっくりと山中湖を遊覧していると、その前を先頭がアヒルの形をした遊覧船がスイスイと通り過ぎて行く。

水陸両用バスは、本物の船と比較すると、水の抵抗が大きいのか、何となく重そうでスピードが出ないようである。

遊覧船に向かって航行する水陸両用バス、暫く湖水を遊覧して方向転換し、元の着水した場所に帰ってくる。

着水したのとの場所に、山中湖を遊覧して帰ってきて上陸する水陸両用バス。

湖水から上陸してきた水陸両用バスを見学した後、元来た遊歩道を駐車場方面に帰って行く。

駐車場に戻ると、愛車エステマを運転し、昨日SAで紅葉の名所を訪ねると! 

「甲府の近くにある昇仙峡がきれいです」

との言葉を思い出し、まだ行ったことのない、昇仙峡にカ―ナビをセットして、山中湖を後にして河口湖経由して走行して行く。

やはり 富士山の裾野に広がる山中湖は、何度来ても飽きのこない魅力的な湖であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


土佐の里山の秋祭り(高知県佐川町尾川)・・・・2013(H25)

2014-02-15 13:58:39 | 思い出

  2013年(平成25年)10月18日(金)、朝からどんよりとした雲が広がっている。 

 そんななか、三重県の友達が愛車に乗り、11時30分頃、南大阪の自宅にやってくる。 

  私の故郷である土佐の里山に一緒に帰省するためである。 今回の帰省は 「故郷の秋祭りを是非一度見てみたい!」

 との かつてからの熱い想いからであった。

 私が土佐に帰省するのは、お正月や盆、春や秋の彼岸でのお墓まいりなどが主で、秋祭りに合わせて帰省したことはなかった。

 近所の人の話によると、幼かった頃と比較して、現在の秋祭りは全く違っていた。 

 祭りの状況を近所の人たちや友達から聞くたびに興味が深々と湧いてきていた。

 そんな気持ちで、土佐に帰省する話を三重県の友達にしたところ、「僕も行きたい」 とのことで一緒に帰省することになった。  

  三重県の友達が自宅にやってきて、程なくして、私達も出発準備を整え、午後1時30分頃、愛車エステイマで高知に向かって3人で出発して行く。 

 途中のスーパーで昼食の買い物を済まして、阪神高速湾岸線から神戸線に入り、明石海峡大橋へと入って行く。 

 何度通っても明石海峡大橋から眺める雄大な瀬戸内海や大阪湾の景観は素晴らしく飽きがこない。

 三重県の友達も、久しぶりに通行する海峡大橋の車窓からの景観を楽しんでいるようであった。

 愛車は淡路SAからの景観を楽しんだり、休憩した後、神戸淡路鳴門道を徳島方面に走行して行く。

 鳴門ICから高松道に入り、10分ほど走行した所にある板野ICから一般道に入って行く。

 一般道を10分ほどを走行すると徳島道藍住ICがあり、そこから高知方面に走行して行く。

 藍住から高知道の伊野ICまでは2時間ほどで、そこから、さらに国道32号を30分程走行すると私の故郷佐川町に到着する。 

 佐川町内のスーパーマーケットで、夕食の刺身(カツオ)などの料理や飲み物を購入し、我が家に帰って行く。

 久しぶりに高知の家で、友達との杯やカツオなどを食べていると話が弾み、いつの間にか深夜まで続いていた。

 

 10月19日(土)久しぶりの土佐の我が家、帰省の疲れか、今朝は8時ごろまで床に就いていた。 

 外に出ると上空には厚い雲が覆い、今日の秋祭りは、開催されるだろうか! 少し気になってくる。

 3人で車で20分程の所にある喫茶店へモーニング(朝食)に出かけて行く。

 この喫茶店は、窓から見る小川や人の手が入っていない緑の自然風景が楽しめ、心が癒される。

 私は帰省の度に立ち寄って朝のモーニングを楽しんでいる。 コーヒーにパン・野菜・ヨーグルトなども付いていて、席もいつも満席に近い状況である。

 故郷での昼間は、家の掃除や買い物などをして過ごし、夕方5時ごろ、自宅から徒歩で5分ほどの距離にある祭り会場に3人で出かけて行く。

  

里山の田園と秋祭りの会場(右奥) 中央の建物が 「ふれ愛の里 尾川」である。

祭り会場の手前には川(仁淀川の支流)があり、その向こう側にある広場が、今回の祭り会場である。

中央の 「ふれ愛の里 尾川」 手前の青いテントが秋祭り会場である。 花咲くうちの畑から秋祭り会場を望む。

   会場にはたくさんのブースやテントが張られ、その中央には、高さ1m位の舞台があり、後方に紅白の幕が張られている。

「2013第八回 おがわ秋祭り」 の主なプログラムは、小川での「アメゴのつかみ取り」「ストラックアウト」「南中ソーラン」「太鼓・歌・踊り」

「S-Four」「よさこい踊り」「打ち上げ花火 」 などである。 

おがわ秋祭り会場のブース、お酒などの飲み物やツガニ汁・おでん・焼きそば・焼き鳥などが販売されている。

夕方の5時ごろには雨は降ってないが気象情報では雨になっている。 

その為にか、各ブースはテントで覆われ、いつ雨が降ってきても祭りが続行できるように設営されている。

祭り会場に初めて訪れた折に、私の目を引き付けたのは、地元カメラマンの撮影した写真ブースである。

一年を通した故郷の生活や四季が、分かりやすく撮られている。

写真の出来栄えが見事で、暫くの間私を引き付けてやまなかった。

地元カメラマンによる里山の写真、里山で暮らす人たちの生活の活き活きとした表情が伝わってくる。

宵桜を見事なレイアウトで現わしている、桜の上空に輝く満月も桜とともに花見の情緒を一層高めている写真である。

写真のタイトル 「桜源郷の桜人」 とつけられている。

佐川町は全国的にも名前が知れ渡っている植物博士 「牧野富太郎」 の出身地でもある。

尾川地区にも、植物の父といわれる牧野富太郎博士が訪れて発見し、命名した「稚木の桜(わかぎのさくら)」がある。 

近くには尾崎公園や日本桜百選にも選ばれている牧野公園などの桜の名所があり、

3月の下旬~4月上旬には満開となり、大勢の花見客が訪れ賑わいをみせている。

 

※牧野富太郎(1862年~1957年)高知県佐川町出身、世界的な植物学者、独学で研究、命名した植物は2500種、残した標本は50万点、日本の植物分類学の父、「牧野日本植物図鑑」は、現在でも読み継がれている。 高知県五台山に牧野植物園、東京都立大学理学部牧野標本館、練馬区牧野記念庭園などがある。 95年の生涯で、多くの著書、標本などを残し、日本の植物学に多大な業績を残している。 

 

祭り会場の奥にも小さな小川が流れており、川の中では小さな子供たちが歓声を上げて楽しんでいる光景が目に入ってくる。

小川では子供たちによる魚(アメゴ)のつかみ取りが行われ、子供たちが魚を捕まえようと、一心に川面を見つめたり、魚を追いかけている。

故郷の写真や子供達が川に入り賑やかに楽しんでいる光景を見た後、飲食コーナーのテントに入って行く。 

大勢の人たちが談笑しながら飲食を楽しんでいる。 私達も空いた席で談笑していると、厚い曇に覆われた上空から雨が降り始めてくる。

 

多くの人たちで賑わう祭り会場の飲食コーナーと、その先では雨の降りしきる中、南中ソーラン踊りが行われている。

飲食コーナーのテントの中から、秋祭りの踊りなどを観戦しながら楽しんでいると、幼馴染の夫妻や、顔見知りの方たちとの触れ合いがあり、私達のコーナーも賑やかな盛り上がりをみせていた。

料理の中で特に注目したのは、私が幼い頃、亡き父が下の川から川ガニを捕って、それを砕いて作ってくれていたカニ汁である。 

この味は、中学1年生の時に父が他界し、それ以後、カニ汁を味わったことがなかった。

私たちが席について一番先に口にしたのが、このカニ汁であった。

 久しぶりに味わうカニ汁、亡き父を思い出しながら味わっていく。

私にとっては格別の味で、大変美味しかった。

 後から関係者に聞くと、「このカニ汁は、通常お店などで販売されているカニ汁の倍ほどのカニを使っている。 カニ汁の濃いさが違うはずだから、絶対に美味しい!  毎年、大釜で作っているが全部売り切れる」 とのことだった。

 外は雨が降り続いている。 

そんな無情の雨の中でも子供たちによる南中ソーラン踊りが続けられている。

可哀そうに思いながらも、踊る子供たちの真剣な眼差しが伝わり、観客達からも温かい声援や拍手が起ってくる。

踊りの衣装や黄色い鉢巻を巻いて、雨の中で懸命に踊る子供たちの南中ソーラン踊り

※ 南中ソーラン(なんちゅうソーラン)踊りは、民謡歌手の伊藤多喜雄が北海道のソーラン節をアップテンポにアレンジした曲を用いた踊りの通称名である。

 北海道の稚内南中学校の教員と生徒が考案した事が名前の由来で、アレンジされ派生したパターンも含め、日本国内の学校の運動会や体育祭等で広く踊られている。 

中学生の男女による南中ソーラン踊り、軽快な音楽に合わせ、からだ全体を大きく動かしながらリズミカルに踊って行く。

雨はおがわ秋祭りの会場である 「ふれあいの里 尾川」 にも、時々激しく降ってくる。 

小雨の合間に、若者たちの熱気に満ちた踊りが繰り広げられている。

私は、わが故郷でこのような祭りを見るのは初めてで、私の幼かった時の故郷の祭りとは大きく様変わりをしている。

ある意味では誇らしく思い、別の角度からは昔の祭りが懐かしく思い出されてくる。

会場では舞曲も、衣装も踊っている人たちも変わり、下の写真のような衣装をまとった女性たちが、両手に鳴子を持って、サンバ調に、リズミカルに踊り初めてくる。

私は、数年前に、この高知よさこい祭りの踊りを見て、強い印象と感動したことが思い出されてくる。

高知のよさこい祭りでは、次から次へと、各チームの街宣車が音楽を鳴らしながらやってくる。 

後には派手な衣装と両手に鳴子のを持った数十名の踊り子たちが、手足を大きく羽ばたきながら激しくリズミカルに踊りながら進んでくる。

踊り子たちの熱い情熱と熱気、それにサンバ調の音楽と衣装に圧倒される。

衣装も音楽も、踊りもチーム毎にすべて違っている為に、見ごたえがあり、いつまでたっても飽きがこない。

次のチームの衣装はどんなんだろう・・! 踊りはどうだろう・・! 音楽は・・! など期待感と興味が逆に膨らんでくる。

 

今や全国に広がる よさこい踊りのフレーズは、舞曲によさこい節が少しでも入ることと、両手に鳴子を持つことの二点で、

舞曲や衣装、踊りは、各チーム毎に自由なオリジナルで作られて踊られている。

各チームの特徴や個性が存分に発揮される踊りであるために、見る人たちも楽しく、興味も深まってくる。

 

よさこい節  「土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし買うを見た ハア ヨサコイ ヨサコイ」

「みませ見せましょ 浦戸をああーけて 月の名所は桂浜 ハア ヨサコイ ヨサコイ



この踊りは、 「Yosakoi ???祭り」 今では全国に広がり、各地区のこの祭りにかける若者達の燃えるような熱い眼差しと熱気を感じる。

起源は、高知のよさこい祭りを見た北海道の学生が、よさこい踊りとソーラン節をミックスさして、新たな舞曲と踊りを加えて、札幌ソーラン祭りで踊られ、高い評価を受けたことから全国的に広がっていったといわれている。 

独特の衣装をまとい、サンバ調の音楽に合わせて踊るよさこい踊り、両手には鳴子を、リズミカルに、大波のように大胆に、軽快に踊る。

雨の中で開催されている 「おがわ秋まつり」 こんな小さな地域で多くの人たちが結集している。

色々な知恵を出し合って、踊りや太鼓、それに写真などのブース、料理などに工夫が感じられる。

三重県から一緒に来た友達も、祭りの雰囲気を味わい、踊りなどを観戦し、談笑ながら杯をすすめている。

私も幼馴染や近所の人たちと杯をすすめ、旧交を深めながら、おがわ秋祭りを楽しんでいる。

よさこい鳴子踊り

よっちょれよ よっちょれよ
   よっちょれ よちょれ・よっちょれよ
  よっちょれ よちょれ・よっちょれよ
  高知の城下へ 来てみいや(ソレ)
  じんばも ばんばも よう踊る よう踊る
  鳴子両手に よう踊る よう踊る
  土佐のー(ヨイヤサノ サノ サノ)
  高知のはりまや橋で (ヨイヤサノ サノ サノ)
  坊さん かんざし買うをみた(ソレ)
  よさこい よさこい(ホイ ホイ)

雨も小雨になった頃、今度は年配の女性たちが浴衣に黄色い帯をまとい、ゆっくりとした舞曲に合しながら踊り始めてくる。

この踊りは、昔は尾川踊りとして、祭りや記念行事などの時に踊られていた。

私の伯母たちが、若い娘時代に、この尾川踊りをよく踊り、懐かしんで話をしていたことが思い出されてくる。

伯母達の年齢から考えると、もう100年も昔の話で、このころからの踊りで、佐川町の中でも尾川地区の踊りとして知られている。

手の動かし方に独特の特徴のある尾川踊り(豊年踊り) 地元の人たちによる懐かしい踊りに思わず見とれてしまう。

この尾川踊り(豊年踊り)は、私の子供時代、隣に住むおばあさんが、きれいな声で歌い、それに合わして大勢の方々が踊っていたことが思い出されてくる。

この踊りも若い世代の 「音頭取り」「太鼓打ち」「歌い手」などの後継者がいなく、踊りの継承がむずかしいとの話が伝わってくる。

高知を離れ大阪に住む私にとっては、何とも寂しい話であるが、こうした百年以上の歴史のある踊りの伝統を、

後世に残していけるように関係する方々のご尽力に期待し、継承していけることを願わずにはいられなかった。

飲食コーナーでの私達の杯もすすみ、祭りや懐かしい時代の話に会話がはずみ、テント内は盛り上がっている。

 

そうこうしていると、目の前にある田園の中から轟音とともに花火が打ち上げられていく。

こんな近くで打ち上げられる花火は、久しぶりで、その迫力と雨の夜空に舞う花火の美しさに思わず見とれてしまう。

おがわ秋祭りのクライマックスはやはり打上げ花火である。 目の前で打ち上げられる夜空の饗宴に、その美しさに誰もが見とれていた。

連続して30発ぐらいの花火が打ち上げられたように思う。 郷里で打ち上げられる花火は初めてである。 その驚きと祭りの感動は大きかった。

今回、初めて参加した「おがわ 秋祭り」 このような祭りであるならば、毎年帰省して、祭りに来たいと思った。

一緒に帰省した三重県の友達も 「いい祭りだ、また来たい」 と言っていた。

 土佐の里山で行われた秋祭り、私達は祭りの楽しさを幼少の気分に帰ったような気持ちで官能することができた。

天気が雨で残念な部分もあったが、故郷の人たちとのふれあいや、それに地域の子供たちが、情熱を燃やして取り組み、

からだ全体の手や足を大きく伸ばし、リズミカルに踊る姿は微笑ましく、また、たくましく感じられる。

 

それに、人口減少が続き、老若男女を問わず多くの有志が参加し、尾川活性協議会を立ち上げ、祭りの運営に当たっている。

日々行われる小さな努力が積み重なって成果は生まれる。 日本の地方の多くの市町村が過疎化に苦しんでいる。

時代は常に変化し、その変化への対応が求められている。 地方の過疎化も然りである。

私は人口減少が起こっても、多くの人たちが力を結集さして、活性化に取り組むことは大切なことだと思っている。

地方には、都会で味わえないような地方の良さがあり、自然環境や素晴らしい景観がある。

今回の 「おがわ秋祭り」 に参加さしていただいて、故郷の人たちの活き活きとした生活写真や、運営に携わる方や踊る人たち、

祭りへの愛着や情熱から、この祭りを末長く継続して、尾川の伝統を築いていってほしいと思う。

そうすることが、地域の活性化につながり、豊かな心、豊かな自然環境のある地域に育っていくと思う。

 

今回の祭りに参加して、祭りの運営に当たった方々や、参加した踊り子さん、祭りに参加したすべての方々に感謝いたします。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 


感動を呼ぶドイツ人俘虜の物語

2013-12-31 20:02:08 | 思い出

2013年8月 私たちは、南大阪の自宅を出発して、四国の名峰 瓶ヶ森(かめがもり)1896mへの登山や、高知県佐川町の故郷で、お盆の先祖供養などして4日間程過ごしていた。

その後、佐川町を後にして、徳島県にあるドイツ人俘虜を人道的に扱った松江所長、俘虜と地元の人たちとの交流や、音楽・文化などを伝えるドイツ館に向かって行った。

ドイツ人俘虜に関する物語は、最近 東映の映画 「バルトの学園」 の、舞台になった所でもあり、松江所長の父は、NHKのドラマ 「八重の桜」 の主人公と同じ会津藩士である。 

明治時代から会津の人々は、朝敵、賊軍とののしられ、松江は苦難の少年時代を過ごしていた。 

そんな松江所長が、どうして、ドイツ人俘虜たちを人道的に扱い、寛大であったのか! など、私は大きな興味を感じていた。

 

8月12日(月)晴 高知県地方は、8月に入ってもほとんど雨が降らず、山に囲まれた土佐の森林自然も、なんとなく弱々しい感じがする。 

そんな中、愛車エステイマで国道32号から高知自動車道を走行し、途中から徳島自動車道に入って行く。 

1時間ほど走行して藍住(あいずみ)ICに到着、そこから一般道へ入ると、15分ほどで坂東俘虜収容所跡地に到着する。

俘虜収容所跡地は、ドイツ村公園として整備され、園内には鳴門市ドイツ館や賀川豊彦記念館、ドイツ兵が残したドイツ橋、メガネ橋などがある。

 

坂東俘虜収容所跡とベートーベン 「第九」 日本初演の地の碑が立つ収容所跡地

左には 「ベートーベン「第九」日本初演の地」、 右側には 「坂東俘虜収容所跡」 と書かれた門柱が立っている

ドイツ村公園の収容所跡地入り口。

 

緑に囲まれた坂東収容所跡地、跡地一帯はドイツ村公園として整備され、2006年には、日本歴史公園100選に選出されている。

坂東収容所跡地を少し見学した後、ドイツ館に向かう。 愛車で5分ほどの距離にある。

駐車場はドイツ館のある公園と、道の駅「第九の里』が併用され、路線バス停留所なども整備されている。 

そして、駐車場の後方にあたる小高い場所には、堂々とした洋風の塔が聳え、威風を放つ、白亜の建物が見えている。

 ここがドイツ館である。

 また、駐車場の手前方向には、幼少期を鳴門で過ごし、大正デモクラシーの先頭にたって世界平和と理想社会の建設を目指した賀川豊彦記念館が見えている。

ドイツ兵俘虜の暮らしや地元・坂東の人々との交流の様子を伝える鳴門市ドイツ館

ドイツ館と隣接するこの一帯は、道の駅 「第九の里」として造られ、施設内では地元の新鮮な野菜や果物、加工品が手ごろな価格で販売されている。

私たちはカメラを片手に、両サイドの施設や風景を楽しみながら、ドイツ館の方にゆっくりと向かって行く。

ドイツとの国際交流を深める目的で造られた鳴門市ドイツ館、中央の塔は姉妹都市であるリューネブルク市役所をモデルにして造られている。

ドイツ館前広場の左側には、ラジオ体操でもしているように右手を上にあげ、身体を少し曲げている像が立っている。

何の像なのかと思い、近づいて像の下にある説明板を読むと、何とベートーベンの像であった。

どうして ここにベートーベンの像が立っているのだろうか! なぜ! この様な姿なのかと一瞬に思った。

良く像を見ると、指揮棒を持って強烈な個性で指揮をとっているように感じる 「ベートーベンの像」。

1997年に鳴門市市制50周年を記念し、ドイツ人彫刻家ペーター・クッセル氏により製作された。

ベートーベン像の碑には、次のように書かれている。

『 ベートーベン「第九」交響曲は,1918年6月1日,ここ板東において日本で初めて演奏された。
 第1次世界大戦時,中国の青島(チンタオ)で捕虜となったドイツ兵士約1,000名が,1917年から約3年間ここ板東の地で暮らした。

彼らは,板東俘虜収容所長松江大佐のヒューマニズムあふれる処遇のもとに,創意と自主性に満ちた集団生活を送った。

地域の人々とも交流を深め,俘虜生活の中で100回を超える演奏会を開催しているが,ヘルマン・ハンゼンが指揮するTokushimaオーケストラによってその全曲が演奏された。
 「第九」は,ベートーベンがシラーの詩を借りて,人間愛を描いたものである。
 鳴門の「第九」は,板東で生まれ,市民が育んだ固有の財産であり,国境を越えて世界へ発信する平和へのシンフォニーである。
 このたび,鳴門市制50周年を記念して,友愛と平和を永遠に誓い,ここにベートーベン像を建立する。
            1997年5月15日      鳴門市長 山本幸男 』  

 ドイツ館前の広場のベートーベン像を見学した後、私たちは、ゆっくりとドイツ館内に向かって歩いて行く。

ドイツ館の拝観料(大人=400円)を支払う。 一階では、ビールやワインなど、ドイツとの関連商品が販売されている。

2階が、ドイツ兵俘虜と坂東の人たちとの交流に関しての写真や資料が展示されている。

私たちは、ゆっくりと館内を見学して行くと驚くばかりの写真や資料が展示されている。

何という!  人間味の溢れた内容だろうか!

 

松江所長や知識欲旺盛な暖かい坂東の人たち、それに溶け込み、ドイツの先進的な知識、パンや酪農に関することや、スポーツ・音楽など幅広い分野で、日本人を指導するドイツ俘虜たちとの交流、これが俘虜収容所で実際に起こっていたことで、とても俘虜収容所の出来事とは思えない内容であった。

世界中どこにこんな俘虜収容所があるだろうか!

どこに松江所長のような、人間味溢れ、俘虜たちに自由な外出を許可する所長がいるだろうか!

ほんとに驚くばかりの内容であり、日本人として誇りある物語である。

 

ドイツ館は、第一次世界大戦で、ドイツと日本は中国の青島(チンタオ)で交戦、戦況は圧倒的な兵力に勝る日本が有利に展開、ドイツ軍が降伏して、日本に多数のドイツ兵俘虜5000人が収容所に送られ、地元の人たちとの交流や、俘虜たちが様々な技術や音楽、文化などを伝えている施設である。

多数のドイツ兵俘虜が収容された坂東俘虜収容所、大正6年3月 徳島県板野郡坂東町の陸軍用地に建てられた。

第一次大戦下、大正3年11月939名のドイツ兵が収容された。 この後、3年にわたる坂東の人々と俘虜たの交流が始まった。

ドイツ人俘虜を人道的に扱った坂東俘虜収容所松江所長

松江豊寿(まつえとよひさ)陸軍歩兵大佐 

明治5年、旧会津藩士を父にもち、下北の地に生まれる。民族を越えた素朴な人間愛で俘虜と接し、大正11年少将で予備役となり、のちに会津若松市長となる。

 

坂東収容所のドイツ人俘虜たち

四国の産業について調査や研究が行われている。この時は香川県の塩田についての研究が行われていた。

牧畜の指導も行われ、牧舎を建設する俘虜たち

同時では珍しい器械体操を披露するドイツ人俘虜

見学に訪れた地元の中学生に体操を披露する俘虜たち

サッカーやテニスなどのスポーツも行われていた。

所内の池に自分たちで作ったヨットを浮かべ楽しむ俘虜たち

エンゲルオーケストラも結成され練習に励む俘虜たち

エンゲル音楽教室の人々

西洋の音楽を初めて聞いた地元の青年たちが、音色の美しさに驚き、俘虜に指導を願いでて、音楽教室が定期的に開催されていた。

和洋大第音楽会が徳島市内千秋閣で盛大に開催され、会場は多くの人たちが訪れ盛況であった。 

和洋音楽界では、日本から、三味線なども披露されていた。

俘虜製作品展覧会のポスター

俘虜たちが製作した作品の展覧会も開催されていた

収容所内の新聞 「デイ・バラッケ」

驚いたことに俘虜収容所では、自由な論調を掲載した「デイ・バラッケ」という新聞が発行されていた。

内容的には、時事問題から軍事、戦況、日本のニュース、収容所内の出来事、演劇、音楽、スポーツ、懸賞論文や挿絵など総合雑誌のような紙面構成になっていて、論調も実にリベラルであったと伝えられている。

俘虜収容所内では定期的に新聞が発行された。原稿を作成する俘虜

俘虜たちが発行している新聞を配達している

俘虜たちの大きな楽しみであった祖国ドイツの家族からの手紙を読む俘虜たち。

現在の状況や歴史などの講演活動も盛んに行われていた。俘虜達の知識欲の旺盛さにも驚かさせる。

定期的に演劇活動も行われていた。中でも女装した俘虜の演劇は大人気であった。

演劇活動の一コマ、女性役には希望者が多かったと伝えられている。

俘虜たちの遠足、収容所近くにある日本の山々を歩き美しい日本の自然に触れることも大きな楽しみであった。

ビールを飲みながら談笑する俘虜たち、とても収容所内の光景とは思われないひとコマである。 

俘虜たちの最大の楽しみはクリスマスであった。

日本で初めて演奏されたといわれる第九シアター、実物大の人形がベートーベンの第9交響曲を演奏する。

ステージの前には椅子が並べられ、訪れた私たちをベート-ベン第9交響曲の世界へ案内してくれる

ドイツ兵俘虜たちによるベートーベン交響曲第9番の演奏、日本では初めての演奏で、お訪れた多くの方々を魅了する。

条約が結ばれ、収容所はやがて解放され帰国の途に、俘虜たちを乗せた船

日本からドイツまでの帰国航路。12月30日に出航し2月24日ドイツに帰国する。

地元の人たちによって現在も行われているベートーベン第九交響曲演奏会

鳴門市では6月の第一日曜日を 「第九の日」 と定め、国内外から仲間を募り、歓喜の歌声が披露されている。 会場は毎回超満員の熱気に包まれて開催されている。

亡くなった俘虜たちの慰霊碑

慰霊碑を護り続けドイツより表彰される高橋婦人。1964年(昭和39年)

俘虜の遺族が遺品を届けにやってくる(1972年)。

 

この施設は1917年(大正6年から1920年(大正9年)までの3年間、松江所長の暖かい采配によって生れたドイツ人俘虜たちと、地元坂東の人たちとの交流を描いた物語である。

大きな視野にたって、未開発の日本と先進国ドイツの現実を直視、未来志向にたった松江所長のヒューマニズムには大変驚かされる。

それに、ドイツ人俘虜たちを、捕虜としてではなく、優れた技術を持ったドイツ人俘虜たちを師として仰ぎ、何事にも積極的に学び、親しく接していく坂東の人たちの素晴らしさが感じられる。

かつての日本は、明治維新以降、お雇い外国人などから優れた技術を学び、日本に適した活かされた技術に改良し、技術立国日本の基礎が築かれていいった。

坂東の人たちがドイツ人俘虜たちから学んだ技術は、100年近くたった今日でも、伝統が活かされ、脈々と日本経済や文化の一役を担っている。 また、それにましても、日本とドイツの人たちの間に深い絆が築かれ、今日でも交流が続けられている素晴らしさがある。

一人の人間の行った采配が、後世の私たちの大きな遺産を残してくれていることに、一人の日本人として感謝の気持ちで一杯である。

たくさんの日本の先人達が行った国際貢献が思い出され、日本人として心が熱くなってくる。

私達は初めて訪れたドイツ館や、俘虜たちが造ったドイツ橋やめがね橋のある大麻比古神社、四国八十八ケ所霊場の第一番札所 「霊山寺」、 第二番札所 「極楽寺」などを見学し帰宅の途についたが、 かつての思いも満たされ、大満足の今回の旅であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本三大渓谷美の寒霞渓・瀬戸内海に浮かぶ小豆島の名勝

2013-08-26 21:56:51 | 思い出

 

日本三大渓谷美といわれる瀬戸内海国立公園の小豆島にある寒霞渓(かんかけい)、

垂直に聳り立つ岩壁の横を行き交うロープウエーが渓谷情緒を高めてくれる。

 

今回は2013年5月に旅行した瀬戸内海に浮かぶ小豆島(しょうどしま)寒霞渓(かんかけい)について触れておきたい。

 前回の投稿では、神戸から小豆島への船旅やオリーブについて、紹介さしていただいた。 

今回は小豆島滞在の2日目、午後からの、寒霞渓への旅の紹介である。

2013年5月4日(土) 五月晴れの快晴の天気が続いている。 

今朝は道の駅 「小豆島オリーブ公園」 で車中泊した後、オリーブ園やオリーブの原木などを見学して過ごしていた。 

オリーブについての見学や学習を終えた後、オリーブ記念館内にあるレストランで昼食を摂った。 

レストランでは、魚介類や地元の野菜などを使った地中海料理が楽しめる。

私たちは、オリーブオイルを楽しめるが、種類の異なるパスタをそれぞれに注文した。

あっさりとした味で、地中海料理の風味が味わえる料理であった。

 食後のコーヒーもあっさりとした美味しいコーヒーである。

 食事を終えるとすぐに愛車を運転、紅葉の名所として、日本三大渓谷美として知られる 

「瀬戸内海国立公園 寒霞渓(かんかけい)」 方面に向かって行く。

※ 日本三大渓谷美(三大奇景・三大奇勝) = 耶馬渓(大分県中津市)・妙義山(群馬県)・寒霞渓(香川県小豆島)

 私たちはオリーブ公園からR436号に入り、そこからブルーラインと呼ばれる道路を寒霞渓方面に上って行く。 

 当初は、ロープウエーからの景色も素晴らしいことから、ロープウエーで山頂駅に向かう! 

 と考えていたが、寒霞渓を見学したあとのことを考えると、 愛車の方が便利である。と、判断して 

愛車でブルーラインを走行、寒霞渓を目指すことにした。

                  寒霞渓独特の聳り立つ奇岩が、新緑の山々と共に美しい独特の風景を形成している。

 

 少し走行すると、今までと全く違った光景の山容が目に入ってくる。

 鮮やかな緑の中に、雨水によって数万年にわたって浸食された奇岩が、鋭い鋭角のように聳り立ち、それが、幾つもの峰々を形成し、寒霞渓独特の風景を醸し出して美しさを見せている。

 愛車はさらに、ブルーラインの曲がりくねった道路をスムーズに走行し、高度をぐんぐん上げて行く。

 車窓からの眺望も抜群で、リアス式の海岸や広々とした瀬戸内海の風景が、私たちを楽しませてくれる。 

 さらに曲がりくねった道路を走行すると、高度も上がり、眼下には、瀬戸内海や、小豆島の街並み、内海湾の素晴らしい眺望が目に入ってくる。

 少し霞んで見えているのが残念であるが、青い空が広がる秋には、もっと美しい景色を見せてくれているに違いない。

 ブルーラインからの内海湾と内海町の街並み、その向こうには瀬戸内海が広がっている。

 

車窓からの素晴らしい眺望を楽しみながらゆっくりと走行していると、いつの間にか瀬戸内海国立公園 「寒霞渓」 駐車場に到着する。 

駐車場近辺には、ロープウエーの山頂駅やレストランなどの施設もあって、多くの観光客で賑わっている。

私たちも、愛車を停めると、すぐに寒霞渓の眺望が楽しめる展望台の方に向かって行く。

        寒霞渓ロープウエー山頂駅周辺の光景、正面には山頂駅、周辺にはレストラン・駐車場・展望台などが整備されている。

寒霞渓山頂駅前にある駐車場からの三笠山671m、数人の方が見えている。

星ケ城山(ほしがじょうさん)は、小豆島中央東部にある標高817m(東峰)の山で小豆島最高峰である。 

星ケ城山は、西峰と東峰からなり、西峰にある山が三笠山(寒霞渓)である。

              多くの人たちが訪れ、展望台からの眺望を楽しんでいる。 ロープウエー山頂駅近くにある展望台。

山頂駅近くの展望台からの風景、眼下にある内海町と内海湾、その奥に広がっている瀬戸内海の光景

日本三大渓谷美の寒霞渓を代表するような奇岩の岩山と、緑の渓谷を行きかうロープウエーの風景。

山頂駅からの寒霞渓の渓谷美を代表するような風景、奇岩で出来た緑の渓谷を這うように行きかうロープウエーの光景

展望台で、恐る恐る眼下の渓谷を覗き込む少年と、幾層にも連なる、鋭角に尖がったの岩尾根が寒霞渓の独特な渓谷美を見せている。

展望台からの光景、風雨によって浸食された奇岩が垂直に聳り立つ渓谷の中で、新緑が広がり、所々にある岩山との一層のコントラストを高めている。

上部写真と同じ場所から撮影した展望台からの光景、浸食された岩壁と新緑の渓谷が、四季折々に美しい景色を見せてくれそうである。

寒霞渓ロープウエー山頂駅近くに第一展望台や第二展望台が、少し離れて鷹取展望台がある。 

これらの展望台は、駐車場から徒歩で行ける範囲であるが、愛車で移動した方が便利な四望頂展望台がある。 

私たちは1時間近く、山頂駅近くでの展望台や施設で愛車をとめ、写真撮影や見学などをして楽しんだ後、四望頂展望台へ移動する。

東屋のある四望頂展望台、その上空にかすかに見えるのが鷹取展望台、四望頂展望台からの渓谷美も一味違った味わいがある。

奇岩で出来た岩山と新緑が渓谷美あふれる光景を醸し出し、そんな中を行き交うロープウエーが、一層、山岳情緒を高めている。

展望台から・・・どっしりと聳り立つ玉筍峰(ぎょくじゅんほう)、眼下の内海湾や街並みの光景と共に、力強い風景を見せている。

四望頂から見る玉筍峰、秋の紅葉の美しさでも有名な寒霞渓、この緑が色づいた時、どんな景色を見せてくれるのか! 想像すると自然と楽しくなってくる。

数万年の年月による風雨で浸食された奇岩や岩壁と共に、四季それぞれに色彩を放つ樹木が、渓谷美を一層引き立て、美しさと感動を与えてくれる。

風雨の浸食により出来た聳え立つ奇岩と渓谷、幾重にも重なる岩尾根の鋭い岩峰、

それに生きづく樹木が岩峰との調和を図り、渓谷の一層の美しさを形成している。 

四季それぞれに変化する渓谷美の色彩が、季節ごとに訪れる人たちを虜にしてくれるような風景である。

奇岩の岩峰上に、ひょっこり乗っている烏帽子岩、左右の聳り立つ岩峰の美しい光景と共に、訪れた人たちの心に深く刻み込むような風景である。

烏帽子岩と後方の内海湾、その後方の山の窪みには、「二十四の瞳」などの撮影で有名な映画村がある。 

烏帽子岩は、下で支える岩底よりも、上に乗っかっている岩の方が大きく、しかも、斜めに傾いている。 この状態で、どうして岩が落ちないのか! 不思議な光景である。

四望頂からの寒霞渓の素晴らしい光景を堪能した後、私たちは愛車に戻り、さらに先にある美しの原高原方面に向かって行く。

 

ロープウエー周辺に広がる奇岩の岩尾根の渓谷と、新緑におおわれたの寒霞渓の見事な光景

美しの原高原・四方指展望台からの眺望を楽しむ人たち、 後方の小豆島最高峰、星ケ城山817mの光景。

山の中腹に白い建物がロープウエー山頂駅で、寒霞渓の美しい光景が一望できる。 

また、この展望台は、朝日が美しいことでも知られ、空に、海に、光の帯が広がっていく朝日の美しさが有名である。

この美しの原高原は、四季折々の花々が咲き乱れることでも有名な高原である。

標高777mにある展望台は、四方を指しても遮るものがないことから、四方指(しほうざし)と呼ばれ、

天気が良ければ瀬戸大橋や、淡路島と四国に架かる大鳴門橋などの大パノラマが一望できる。

 

美しの原高原・四方指展望台からの眺望を楽しんだ後、私たちは小豆島ブルーラインを、銚子渓、お猿の国方面に向かって行く。

ほどなくして銚子渓駐車場に到着するが、時間も5時を廻っていることから、少し停車しただけで、すぐに土庄(とのしょう)方面に向かって行く。

土庄に向かう途中の車窓からの風景、 深い緑に覆われた山の中腹には、城壁のような岩壁もつ山が現れてくる。

きれいに整備されたブルーラインからの車窓を楽しみながら、しばらく走行していると、今度は、目の前に大きな白い観音様が見えてくる。

突然現れた大観音様  大本山 小豆島大観音仏歯寺(ぶっしじ)(別名 しあわせ観音)である。 

太陽も西に傾き、逆光での写真撮影はなかなか難しい。

顔がはっきりと見えないのが残念であるが、観音様らしい優しく、美しい顔をした観音像である。

観音様の道路を、そのまま通り過ぎ、土庄方面に向かって行く。

土庄(とのしょう)町は、明治以降、島内行政や銀行、商店が集中し、交通面においても、小豆島最大の港として発展してきた街である。

また、土庄町には、全長2.5km、最狭幅9.93mの世界一狭い海峡があり、ギネスブックに認定されている。

 

寒霞渓からの帰り道、土庄町に立ち寄った後、私たちは今夜の車中泊先である、道の駅「オリーブ公園」 方面に向かって行く。

今日も、昨夜と同じように、まず、道の駅から2km先に行った所あるスーパーで夕食の買い物を済ませて、サン・オリーブ温泉(天然温泉)で入浴する。

この温泉からの素晴らしい眺望を楽しみながらの入浴は、ほんとに心や身体が癒される素晴らしい温泉である。

入浴後は、近くの道の駅に戻って、テーブルや椅子を愛車から取り出し、妻と二人、夜空を眺めながらの夕食を摂る。

海岸沿いの道の駅の一角で、さざ波の音を聞きながら、星空を眺め、妻と二人で杯をかたむけながら摂る夕食は、

何度経験しても美味しく、全てを忘れさしてくれ、明日への英気を養うことが出来るひと時である。

明日も小豆島の映画村やお寺などの観光を予定している。

ほどなくして夕食を終え、愛車内に入って、特性ベットに横たわると、

直ぐに深い眠りに入っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本オリーブ発祥の地 小豆島

2013-07-18 16:45:29 | 思い出

 2013年5月4日(土) 晴 昨夜からここ小豆島の 道の駅 小豆島オリーブ公園の下にあるオリ―ブナビで、妻と二人 車中泊をしていた。 朝、6時頃に目覚めると、駐車場の目の前にある、美しい浜辺のオリーブ゛゛ビーチから、時々打ち寄せてくる、小さなさざ波の音が心地よく聞こえてくる。 車外に出ると、数十台の香川県ナンバー以外の車が見え、昨夜から車中泊をしている。 まだ、朝早い時間帯なのか、車の廻りはひっそりとした静けさが漂っている。 

 今日も五月晴れの快晴の天気になりそうで、オリーブ関連施設の見学と、日本三大渓谷美で有名な寒霞渓(かんかけい)への観光を予定している。

小豆島の観光地図

 小豆島は香川県高松市の沖合に浮かぶ島で、瀬戸内海では2番目、日本の島でも19番目の大きさである。 

 小豆島は、上記地図のように、横に向いた牛が西を見ているような特徴的な形状で、海岸線は変化に富み、多数の半島や入江がある。

 気候は温暖でオリーブやミカン、スモモなどの栽培がおこなわれている。

オリーブ栽培や生産工程のパネル写真

地中海の太陽と風、温暖な気候が育てたオリーブ、良く似た気候の小豆島。

オリーブは数千年も前から 「生命の木」 として地中海沿岸地域の人たちから珍重されていました。

世界に知らされているオリーブの起源

 

オリーブの実をそのまま搾って作られるのがオリーブオイルです。

また、オリーブオイルは古代ギリシャ時代から、食用だけでなく、医薬品、化粧品、灯火油など生活全般で使われる必需品であった。

オリーブオイルの栽培は、現在では世界的な広がりをみせ、多くの国で栽培されている。

多くの観光客が訪れる小豆島オリーブ園

 香川県の県花、県木に指定されているオリーブ、 今から100年ほど前、海の幸である魚の漁獲量が増え、加工保存する方法を検討する。 その結果、オリーブオイル漬けの缶詰にする方法がとられた。 当時のオリーブオイルは輸入品で、しかも高価なために、日本国内での栽培方法が検討されていた。 1908年(明治41年) 試験的に香川県(小豆島)、三重県、鹿児島県で栽培することになった。

 三重県や鹿児島県では、台風や害虫などの発生によって栽培が出来なかったが、小豆島では栽培者や関係する方々のたゆまぬ努力により成功を収め、3年後には74kgの果実が収穫される。

 私たちは、朝食を済ました午前9時ごろに車中泊をしていた駐車場を出発して、すぐ近くにある小豆島オリーブ園の駐車場に愛車をとめる。 この駐車場の一角に愛車をとめると、写真中央にある階段を上り、商業施設などを見学して、オリーブの原木のある方面に坂道を登って行った。

日本のオリーブ発祥の地の碑

「オリーブ発祥の地」の横にある 説明の碑

日本で最も古い民間のオリーブ園の原木

明治41年(1908年)小豆島で試験的に栽培、果実が収穫されたオリーブの原木が、当時を偲ばせながら堂々と威風を放っている。

植樹されて100年以上経過したオリーブの原木、根元の幹回りや太い枝ぶりが、オリーブの苦難の歴史を語りかけているように感じる。

オリーブ園の中央にある石段と並行的に植えられているオリーブの樹木

オリーブの原木のあるオリーブ園から見た小豆島美しい景観。 複雑な形状をした海岸線や入江が美しさを醸し出している。

 

香川県の花に指定されているオリーブと花(5月~6月にかけて花を咲かせる)

成熟したオリーブの果実

            一般的にオリーブは下記の表のように分類されている。

オリーブオイルの種類

オリーブの用途

オリーブオイルできれいになろう

オリーブオイルと健康

栽培した生の実をそのまま搾って出来るオリーブオイルには、色素、芳香性物質、各種ビタミン、天然酸化防止剤などの

微調整分がたくさん含まれています。

なかでも特徴的なのは、主成分のオレイン酸が、コレストロール値を下げる働きと、

身体に害を及ぼす悪玉コレストロール(LDL)値を下げ、善玉コレストロール(HDL)値を下げない、

私たちの健康にとって理想的な働きをしてくれます。

他の植物油はリノール酸が主成分となっており、悪玉コレストロール(LDL)と一緒に善玉コレストロール(HDL)まで

下げてしまう恐れがあります。 

今日の午前中の私たちは、オリーブに関する施設など見学し、オリーブに関して写真やパネルなどから勉強さしていただいた。

改めてオリーブの持つ特性とその素晴らしさに驚かされた。

これだけの素晴らしい特性を持ったオリーブを、これからの食生活に活用して健康管理に活かしていきたいと思った。

オリーブに関する見学を終えた後、小豆島一番の観光名所である寒霞渓(かんかけい)に向かって愛車を走らせて行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


突然日本にやってきた孫娘の思い出 その2(大阪・高知・香川)

2013-04-30 22:35:27 | 思い出

 2012年12月19日一人の孫娘が関西空港に降り立った。

 孫娘が来宅して、早いものでもう10日が過ぎ、年末の慌ただしい日々が続いている。 

 そんな中、数百枚の年賀状の投函も終え、年末の大掃除や、新年を大阪の自宅でむかえるため、おせち料理などの準備を整えている。

 愛らしい孫娘は、一人っ子で一人で過ごすことに慣れているのか、周りに友達がいなくても、好きな絵を描きながら歌を歌ったり、パソコンで楽しんだりして過ごしている。 

 日本で過ごす毎日が楽しくて仕方ないといった雰囲気で、私たち夫婦二人の静かな生活が、急に明るく賑やかな生活に変わってくる。  

 元日までは大阪で過ごし、近くの神社や観音様へ初詣をすまして、1月2日には私の郷里である高知へ行く予定である。 

高知県と徳島県を結んでいる国道32号・・大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)のV字谷峡谷に満足な表情の孫娘

 

私どもは子供や孫たちが日本にやってくると、必ずといっていいほど高知にも帰省している。

大阪から高知にマイカーで帰省する場合には、明石海峡大橋を経由し板野ICから一般道を3km程走行、

藍住ICから徳島自動車道に入り、1時間ほど走行、井川池田ICから国道32号に入って行く。 

国道32号は、風光明美な渓谷美を味合うことのできる、大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)渓谷沿いに造られた道路である。

孫娘が今まで暮らしていた、ブラジルやアメリカ、インドネシアのバリ島などと全く違ったV字渓谷の風景で、

孫娘は必ず満足すると確信していた。

国道からの渓谷美を味わった後は、高知自動車道大豊ICまで走行し帰宅する予定である。

 

身長174Cmの孫娘は、カメラを向けると自然と、色々なポーズ作ってくれる。

写真好きの私にとって、大変 写しやすい子で、愛らしいポーズを次から次へととってくれる。

 

元旦を迎える前に、話は少し戻って、犬鳴山(いぬなきさん)を訪れた折の話に触れておきたい。

犬鳴山は大阪府泉佐野市の犬鳴川渓谷を中心として、そこに流れ込む谷や山域等の、山全体の総称である。

 犬鳴山という名称の山があるわけではないが、地元では犬鳴山といえば 真言宗の犬鳴派の本山で七宝龍寺の伽藍が、風光明媚なV字渓谷の中に数多く建てられ、修験道の道場である霊山そのものを、さしていっている。 

渓谷沿いの山岳景観は、「大阪府緑の百選」にも選ばれている。

犬鳴山の歴史も古く、飛鳥時代の661年、役小角(えんのおずの)によって開基された行場である。

 葛城二十八宿修験道の根本道場で日本の霊山の一つでもある。

二度目に訪れた犬鳴山の案内絵図を前に立つ孫娘、孫娘も日本の神社仏閣の建物や山深い渓谷に興味を感じているようであった。

いかつく厳しい顔の不動明王であるが、願い事をかなえてくれるやさしい不動明王でもある。 

不動明王像から参道の石段を登って行くと本堂に出る。

さらに本堂を通り抜けると赤い伽藍のお堂があり、その奥には滝修業場である、行者の滝を清水が真っ白な泡を立てながら流下している。

静けさ中に霊験新たなる雰囲気が漂う赤い欄干の橋と行者の滝をバックにする孫娘。

滝修業は元旦を除く毎月1日に行われている。

滝壺近くは滝上部の渓谷からの流水とともに冷風がふいている行者の滝と孫娘

 

話は孫娘がやってくる前の12月1日 大阪の大学生勇士たちの滝修が行われていた。

 その状況も参考のためにお伝えします。

犬2012年12月1日、身を切るような冷たさや、寒さの中で大阪府下の大学生、数十人の男女による滝修行が行われていた。

師走の冷たい滝水を浴びる女子大生、僧侶が大きな声で念仏を唱える中で行われている。

身を切るような冷たい流水に打たれる男子大学生の滝修行と、お経を唱え、気合いを入れ、修行を指導する僧侶。

滝修行を終えた後の女子大学生、ほとんどの子が初めての体験である。

「最初は冷たかったが、修行を終えた後は、体が温かく解放されたような、清々しい気持ちである」 

とコメントしてくれた。

また、滝修行に参加した一人の男子学生は 

「自分は4年生で、毎年参加している。4年間の滝修行は、自分として大変価値のある修行で、

滝修業を終えた後の清々しい気持ちは何事にも代えがたい」 

と話をしていたのが印象的であった。

 

2013年1月元旦、私たちは孫娘とともに自宅近くにある、水間の観音様に初詣に出かける。

近くにある水間観音様へ生まれて初めて行った初詣、どのようにしてお参りすればいいのかも分からない様子であったが、

日本のお正月の風習に興味が湧いてきているようであった。

まだ16歳の高校生、やはりお参りのあとは、境内の所狭しと出店している露店に興味を持ち、

注文した料理が運ばれてくるのを楽しみに待っている孫娘。 

 

2013年1月2日(水)午前11時00分 高知へ帰省する準備を整え、大阪の自宅を3人で愛車エステイマで出発する。

南大阪の自宅から阪神高速湾岸線を走行し、明石海峡大橋を自宅から1時間ほどで通過して淡路SAに入って行く。

淡路SAから明石海峡大橋をバックに撮影するが、風が強く大変寒い撮影であった。

 

孫娘は生まれてから雪を見たことがなく、冬の寒い季節を体験するのも初めてである。 

日本に初めて来たときの服装も、冬のコートは着ているが、中のアンダーウエアーは夏物である。

そのために私は、風邪でもひかしたら大変だと思い、近くのスーパーに連れて行って、

冬用のアンダーウエアーや服装を数着買ってやった。

 

特に外出する時の冬の寒さを防ぎ、暖かい服装をどのようにするのか分からないようで、

この日も暖かい車内から15分程度、車外に出て、冷たい寒風にさらされていると、寒さで身体にふるえがきていた。

 

淡路SAからの美しい眺望をバックにした撮影も、そこそこにして切り上げ、愛車に戻るとすぐに徳島方面に走行して行く。

淡路鳴門自動車道を1時間ほど走行すると、高松自動車道に入り、板野ICより一般道を少し走行して、藍住ICから徳島自動車道に入って行く。

さらに1時間ほど走行して井川池田IC到着して国道32号に入って行く。

この一般国道は、四国三郎といわれ 暴れ川の評価のある吉野川沿いの曲がりくねった傾斜地に造られているが、

V字型の渓谷美など大変風光明美な道路でも有名である。

32号を走行中に孫娘が驚くのは、V字型の険しい山容の中腹辺りに、集落が何ケ所に分かれて存在している光景である。

徳島県内にある四国山脈の奥深い山稜には、こうした集落が多く点在している。 

これは八百年程前、源平合戦で敗れた平家の落人たちが、源氏の追跡から逃れるために険しい山の傾斜地に築いたと伝えられている。

渓谷の美しさの中を真っ白い泡を立てながら流れる吉野川の大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)渓谷にて

四国三郎といわれる暴れ川の吉野川の大歩危小歩危渓谷をバックにする孫娘

年末に降った雪が道路脇に残っているのを見つけて、初めて手に取り、取った雪を投げて大喜びする孫娘。

思いがけない雪を手にする体験ができた孫娘は、私たちに喜びの体験談を語った後、私たちは国道32号をしばらく走行し、

大豊ICから高知自動車道に入り、40分ほど走行すると伊野ICに到着する。

伊野ICから松山まで通じる国道33号に入り、郷里の佐川町に向かって行くと40分ほどで郷里の自宅に到着する。

 

1月3日(木)晴 四国の青い空が上空を覆い、晩秋のような良い天気である。 

日程の都合から、今日は広々とした太平洋が一望できる横波黒潮ライン方面に行くことに決める。

 愛車での走行中に孫娘も少しは疲れがあるのか、車中ではよく眠っていた。 

目覚めた時、この雄大な太平洋の景色に思わず見とれる程で、旅行の楽しさが少しずつ湧いてきているようであった。

 

この横波黒潮ラインは、須崎市から土佐市へと、細長く伸びた横波半島を尾根づたいにドライブが楽しめるシーサイドロードである。

ドライブロードからは、広々とした太平洋の大海原を望みながらの絶景が続いている。

ドライブロードは、左右に絶景を楽しむことができる。 南側には太平洋、北側には湖かと思いそうな内海の、北ノ内湾に面している。

このドライブコース一帯は横波県立自然公園に指定され、訪れた人たちを魅了してやまないコースで、

断崖絶壁の続く海岸線の尾根伝いに造られている。

青々とした四国の空の下、リアス式の入り組んだ海岸に、真っ白な泡を見せながら波が打ち寄せ、

青々と透き通った海がどこまでも広がっている。

また、両手方向には、はるかかなたまで海岸線の山容が続いている。

この場所から、広大な太平洋の水平線を眺めていると、自然の大きさや美しさに圧倒され、新たなる感動や勇気が湧いてくる。

横波黒潮ラインの中ほどにある駐車場、幕末に活躍した「武市半平太」の像前で、はにかむ孫娘。

 

土佐勤王党の党首、武市半平太は、尊皇攘夷を志し、命果てる瞬間まで自らの意志を貫き通した幕末の志士で、坂本竜馬とは遠戚に当たる。  ひたすらまっすぐに進んだ彼の生涯の中には、彼を支え続けた妻とのロマンスが語られている。

横波黒潮スカイラインの駐車場の上にある展望台、眼下にはリアス式の美しい湾が広がっている。

 

1月の4日~5日は、私の郷里や、高知市内への見学などをして過ごす。 

周囲を山で囲まれ、中央を川が流れ、その流域には、里山の田園風景が広がっている郷里の佐川町尾川

岩の上にある展望台から郷里、尾川の里山風景をバックにする孫娘。

私も60年ほど前に通っていた保育園で子供たちと楽しそうに戯れる孫娘。

保育園の先生も入って子供たちと一緒に撮影する孫娘

その後、郷里の尾川から30kmほどの距離にある高知市内に出かけて行く。

高知城をバックにする孫娘、下は追手門

 

高知城は高知市の中心にある典型的な平山城で、

初代土佐藩主山内一豊とその妻千代が礎を築いた土佐24万石の歴史ある城である。

 関ヶ原戦の功績により徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が,慶長6年(1601年)新城の築城工事を始め整備する。

 高知城は、三層六階の天守閣や追手門などからなり、城の建物は国の重要文化財となっている。

「板垣死すとも自由死せず」 で有名な板垣退助の像の前で、同じボーズをとる孫娘。

 板垣退助は、天保8(1837)年に土佐藩士300石の家に生まれる。

旧姓は乾。板垣退助は自由民権運動の父とされ、

特に 「板垣死すとも自由は死せず」 の名言は明治時代の一大流行語となった。

高知城の石垣の間に築かれた石段を天主閣に向かって登って行く。

山之内一豊の妻の像の前で

山内一豊の妻(千代)は、一豊を内助の功で支え、その内助の功によって、一豊は出世できたと言われている。

賢妻として有名な女性である。

高知城をバックにする妻と孫娘

高知市内で 美味しそうにラーメンを食べる孫娘。

「 土佐の高知の はりまや橋で 坊さんかんざし 買うを見た よさこい よさこい 」 のはりまや橋で。 

東西と南北で路面電車(土佐電鉄)が交差するはりまや橋交差点。高知市内で最も交通量の多い交差点である。

高知市内を走る路面電車(地元の人には土電(とでん)の名で親しまれている。 路面電車に乗るのは孫娘にとっても初めてである。

 

故郷高知で3泊した後の1月5日の夕方、私たちは愛車に乗って高松方面に向かった。

妻の仕事の関係で1月6日中には、大阪の自宅に帰らなければならなかった。

明日は讃岐の金比羅さんにお参りし、午後の高松港からのフェリーで神戸に帰る予定である。

高速道路は九州や広島方面からの帰省客で大渋滞が予測されていた。

孫娘は、大型のフェリーにも乗船したことがなく、船旅の楽しさや体験をさしてやりたいと思いフェリーを予約していた。

私たちの気ままな旅は、妻と二人での車中泊が原則である。 

孫娘との3人での車中泊は初めてで、孫娘の反応が心配であったが、

何の抵抗感もない様子で、逆に初体験の車中泊に興味を示し楽しそうであった。

3人で車中泊した愛車エステイマ、車内外のガラスには特製の防寒シートを張っている。

プライバシーもあるが、真冬でもエンジンは停止する。 エンジンを駆けた状態では振動で眠れない。 

ガラス面への防寒シートがなければ寒くて眠れないが、お陰さまでぐっすり眠ることができる。

8人乗り3列シートの愛車、2列目の座席を平行にして、その上に特性に加工した木板でベットを造っている。

車の座席にそのまま寝るのは、デコボコがあって眠れない。 そのために板を加工して平らなベットを造っている。

ベットの上には通常のベットと同じようにマットや敷物をひいて眠るのである。

車幅も3人掛けでゆったりしていて、窮屈感はあまり感じなかった。

日程の都合上高速道路のサービスエリア(高松道豊浜SA) で車中泊をした時の朝食を前に微笑む孫娘

 

1月6日(日) 豊浜サービスエリアで朝食を済ました後、琴平町にあるこんぴらさんに向かって行った。

こんぴらさんまでは30分ほどの走行距離である。

JR琴平駅近くにある駐車場に愛車をとめ、3人でこんぴらさんに向かって行く。

 

こんぴら船々

こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ

まわれば四国は 讃州(さんしゅう) 那珂の郡(なかのごおり)

像頭山(ぞうずさん) 金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)

一度まわれば

 

こんぴらさんは、古くから 「さぬきのこんぴらさん」 親しまれている海の神様である。

こんぴらさんの参道は長い石段で有名である。 本宮まで785段、奥社までの合計は1368段にも及んでいる。

参道から本宮までの石段沿いには大門があり、門をくぐると 五人百姓が、古くから伝わる名物のこんぴら飴を販売している。

さらに参道を進んでいくと国の重要文化財の「書院」や、広い境内には重要文化財 「旭社」 など由緒ある御社や御堂がなどが点在する。

参道の両脇には土産物店やうどんの店などが並び、訪れた多くの参拝客でにぎわっている。

参道沿いにある資料館、大きな酒びんから升に注がれる展示物をバックに記念撮影する孫娘。

長く続く参道の石段を大門まで登ってくる。 奥には五人百勝が名物の飴を販売している。

本宮まで続く長い石段をを登って行くと、幅広い石段があり、その上には重要文化財の旭社の建物が威風を放っている。

孫娘も日本の神様へ、参拝の風習が身に付いてきたのか、手や口を自然と清めて自然と参拝が出来るようになっていた。

すごい迫力の丸山応挙が描いたといわれる虎の襖絵をバックにする孫娘

最後のきつい785段の石段を登るとこんぴらさん本宮に到着する。 二人共、疲れも見せずに元気そうである。

こんぴらさん本宮の建物は桧皮で葺いた大社関棟造りで、大物主神と崇徳天皇を祭神としている。

 本宮の向かって左側には御神馬の銅像があって、身代わり地蔵のごとく自分の体の中で悪いと思う所をさすると良くなるという言われている。

785段の石段を登りきると広い境内があり、目の前にこんぴらさんの本宮が、多くの参拝客で賑わっている。 

こんぴらさんへの参拝を終え本宮の前に立つ妻と孫娘

こんぴらさん本宮の標高は約230m近辺で、周囲には視界を遮るものがないため、眼下の琴平町の街並みや、

さぬき富士を中心とする山容と讃岐平野が見事な光景を醸し出している。

本堂横の高台にある展望台から、讃岐富士を中心に3人で撮影してもらった。

ひときわ目立つ富士山のような山は、標高422mの飯野山で、讃岐富士の別名で親しまれている。

 

こんぴらさんの参拝を終え、展望台からの眺望や、本宮横のおみくじなどをひいたりして過ごした後、元来た785段の石段を下って行った。

参拝道のふもとに到着する頃には12時をまわり、孫娘が 「お腹がすいた。 何かおいしものを食べたい!」 といいだす。

やはり 「讃岐に来れば、本場の讃岐うどんに限る!」 と思っていた私は、地元の方に、「どこの店がおいしいの!」 と尋ねてみると 

「てんてこ舞」 という店を紹介してくれた。

「てんてこ舞い」 の店には10人位の人たちが、並び、店頭では 若い職人が手打ちうどんを打っている。

こんな状況から、直感的に 「この店のうどんは 美味しい」 と思った。

店内はセールスシステムで、価格も驚くほど安かった。

注文した讃岐うどんを前に微笑む孫娘、 この後、最後まで美味しそうに食べる姿が印象的であった。

 

食事を終えた後、私たちはこんぴらさんの琴平町を後にし、高松港フェリーターミナルに向かって行った。 所用予定時間は1時間である。

高松港フェリーターミナルから乗船した神戸行きジャンボフェリー、定刻の15:00に出航する。

出航して間もないフェリー船内から高松市をを望む。

フェリー船内はお正月を故郷で過ごし多くの帰省客でごったがえしていた。 船内で瀬戸内海を望みながら談笑する妻と孫娘。

高松港を出港して間もなく、源平合戦で有名な屋島の東側にある光景をバックに、長い髪で右側の目を隠しボーズをつくる孫娘。

高松~神戸を結ぶジャンボフェリー、私たちが乗船しているフェリーと同船である。

最近のジャンボフェリーは小豆島にも寄港するようになっている。 小豆島の港に寄港して、船上からの風景を楽しんでいると、

近くにいた若い男性から、「撮ってあげましょうか!」 と声をかけられて写してもらった。

瀬戸内海を航行するジャンボフェリー。 点在する島の間を通り過ぎて行く小舟が、一そう 瀬戸内海の美しい風景に花を添えている。

 カメラを向けると相変わらずいい表情をしてくれる孫娘。

高松港を出港して2時間近く経過している。 フェリーの船上には多くの人たちがデッキに出て、太陽がまだ高い

時から太陽が沈む情況を、今か今かと楽しみながら待っている。

さえぎるものが何もない船上からの夕日は美しい。

西の彼方に沈む夕日、西空を紅の色に染めながら見る、フェリーからの夕陽に、孫娘も感動するような表情をしている。

夕日も西の彼方に完全に姿を消した後、乗船したフェリーは明石海峡大橋を通過して行く。

 

ライトアップされた明石海峡大橋や、明石市や神戸の淡い船上からの美しい夜景が見えている。

乗船したフェリーは、定刻の19時30分に神戸港に入港する。 

愛車で下船すると阪神高速を走行し、途中のスーパーに立ち寄った後、21時前に南大阪にある自宅に帰宅する。

今回の高知への帰省は、色々なスケジュールの制約があって慌ただしいものであったが、

外国で育った孫娘は、つかの間の高知への帰省を喜び、楽しそうに過ごす姿があった。

次に来る時は夏にきて、赤い鯉が泳ぐ清水の川で、一緒に泳ぎたいようであった。